視線の先で、見覚えのある巫女姿の女性が、大きな荷物を抱えて歩いていた。
また、夜蛾先生に頼まれごとでもしたのかもしれない。華奢な体の半分が、段ボール箱いっぱいの道具で隠れてしまっている。足取りはしっかりしているものの、見ていて少し危なっかしい。
しかし、これはチャンスだ。
精一杯の勇気を振り絞り、声を上げる。
「い──」
「う・た・ひ・めっ♪」
「うぎゃ!」
──ようとしたのだが、その前に、彼女の後方から突如現れた長身の男に水を差された。潰れた悲鳴の大きさに驚いて、声も足も止まる。
馴れ馴れしく細い肩に腕を回し、上から伸し掛かるようにして彼女を羽交い締めにしているのは呪術師をしていれば知らぬものはいないほどの有名人だ。五条悟。御三家の一角にして、自他共に最強を謳う特級呪術師。身勝手で傲慢、巫山戯た言動が目立つものの、その実力は本物である。加えて、頭も良ければ顔もいい。性格以外は難点のつけようのない傑物である。
そんな男が、気になる彼女とやけに親密そうにしている。圧倒的な造形美と人間離れした能力値、おまけに家柄も良いなんて、女でなくても飛びつきたくなるような好物件を前に一旦は敗北を覚悟した。到底敵わない。すごすごと引き退がるしかないと思ったものの、よく見れば彼女は嫌がっている。
愉しげに笑みを披露する美丈夫を前に不機嫌そのもので舌打ちをくれる刺々しさに、一縷の希望を持った。どうやら彼女は、あの五条悟を前に何ら心揺らぐものはないらしい。何なら毛嫌いでもしていそうな調子だ。荷物を抱えていて抵抗出来ないようだが、必死に身を捩って腕の中から逃れようとしている。
もしかしたら、と思ってしまった。
一度は立ち止まった足を、もう一度、前に踏み込む。
今度こそ、と声を上げようと大きく息を吸い込んだ、その時だ。
「──────────ッひ」
ふと、五条悟がこちらへ一瞥をくれた。段ボールの荷物を抱えて身動きの取れない彼女の旋毛に顎の先を押し付けて、丸いサングラス越しに、確かに此方を見た。少しずれた黒い硝子の向こうで、開いた瞳孔が、敵を捉える目付きで睨む。
おれのだから。
薄く形の良い唇が、空回りで威嚇する。
鋭い視線に震え上がった。あっという間に喉が渇いて張り付いて、声も出ない。ぶるぶると震えながら身動き一つ取れないままで立ち尽くす。
その様子に、五条悟は満足そうに目を細めた。今の今まで続いた緊張感など無かったかのように、からからに乾いて軽い笑い声を立てながら細い腕に不釣り合いの大荷物を取り上げる。
「ほらほら、さっさと片付けて行くよ歌姫ー? 最近できたカフェ行くんでしょ? 硝子、待ち草臥れてるよ?」
「う。それは……っていうかあんた関係なくない⁉︎」
「あるある、だって、たった今俺も行くことになったし。腹減ったし。甘いの食いたいし」
「一人で行きなさいよ!」
「やーだ。寂しーこと言わないでよ」
ぎゃんぎゃんと喚く彼女は、長いコンパスを利用してスタスタ前を行く男を追いかける。何も、気付いていないようだ。大きな声で怒鳴ったかと思えばおずおずと礼を述べる彼女に、一瞬だが五条は柔らかく笑った。そして、荷物を抱えたままさっさと先に行ってしまう。走るように早足で進み始めた男を、廊下を走るなと彼女は注意しながらも後を追う。
後には、たった一人取り残された自分の、粗い呼吸だけが廊下に響いた。
「……は。根性ねーの」
「え? 何。何か言った?」
「んーん。こっちの話」
ほら行くよ、と彼女を急かす。
「早くしねーと限定スイーツ売り切れる」
「てめえの都合じゃねえか」
「まーまー。いちいちヒスんなって、シワ増えるよ?」
「あんたねえ!」
と、声を荒げた後で歌姫はぴたりと動きを止めた。
何かと思って振り返れば、彼女は少し、バツが悪そうに頰を掻く。
「……ありがと」
「……」
「重くはないから大丈夫かな、と思ったんだけど、正直あんた来て助かった。から、ありがと」
「…………。歌姫、さあ」
「な、何よ」
「……はあ。やっぱ、いいや」
そういうところだぞ、と思う。言わないが。絶対教えてやらないが。
深々溜息をついた後で、荷物を抱え直す。物申したそうな顔付きの彼女を置き去りに、大股で歩き出した。
「! ちょ、ちょっと五条!」
「これ、倉庫に持ってくんでしょ? さっさとしてよね」
「そうだけど……まちなさいよ! 私も持つから!」
「いらねーっ。足手まといだから。ほら、早く。ドアくらい開けてよ」
限定スイーツ売り切れてたらお仕置きだから、と最後に付け加えると、ふざけるなと叫んだ歌姫が慌てた様子で俺に追い縋った。
十年の隔たりは大きい。
三歳の歳の差ですら恨めしかったものを、互いに大人になって、別々の時間を過ごすことが増えて、縮まるどころかますます広がっていく距離感にちりちりと臓腑を炙られるような焦燥を覚える。
集る虫を追い払うにも、限度があった。
「もういっそ、適当な理由つけて繋いじゃおうかな……」
通話を終えたばかりのスマートフォンを手の中に弄びつつ、ふむ、と唸る。
戦う彼女が好きだ。弱くても、折れず立ち向かう姿はもどかしくも愛おしい。生徒に慕われているのも知っている。教師は彼女の天職だろう。辞めさせるのはとても簡単だが、納得させるとなると骨が折れそうだ。
第一、まだ、付き合ってもないし。
「どうしよっかなあ、鈍いんだよなあ歌姫」
普通に告白しても、うんと頷くイメージが湧かない。冗談と笑い飛ばされるか揶揄うなと怒り散らかされるかの二択だ。無理矢理モノにするのも悪くないと思うものの、それではきっと、彼女の心までは手に入らない。
それは、嫌だ。
どうせなら、全部、欲しい。
「んー……じゃ、まあ、取っ掛かり作るところから始めよっか」
何にしろ、まずは男として意識して貰うところからだ。せめて、クソ生意気で強い後輩、の枠からは抜け出したい。その為には、お馬鹿で鈍感なあの女にもはっきりわかるくらい、明確な肩書きを示してやったほうがいいだろうと算段する。
「……あ。もしもし? さっきの見合いの話だけど、やっぱ潰すのはナシで。……、……そう、うん。あ、でも相手の男は差し替えね? ただそのこと、向こうには直前まで秘密にしておいて。相手は僕が用意するから。じゃ、そゆことで」
先刻終えたばかりの通話を再び繋いで、言いたいことだけ言うとまた電話を切った。慌てた様子だったが知ったことではない。上手くいかなければいかなかったで、見合い現場に乱入してやろう。お姫様のように彼女を攫うのは、三文芝居の昼ドラのようでちょっと面白そうだし。
さて、どう転ぶか。
どうなるにしてもきっと彼女は驚くに違いない。吊り上がってばかりのあの瞳がまんまるに見開かれるところを想像して、思わず喉の奥を鳴らした。