get high 深夜。スティーブンは目的のバーの前を車で通り過ぎ、ワンブロック先に停めて様子をうかがった。
間口は小さく店名のネオンサインも控えめ、これといった特徴もない目立たぬ店だ。しかしだからこそなのか、ここはドラッグ流通拠点のひとつとなっているのだった。
扱われているはパーティードラッグの一種だ。それ自体はグレーの薬物だが、問題は流通量にあった。効力が軽く価格も手頃なため若者を中心に広く蔓延しているのだ。危険性は低いとはいえ過度に使用すれば重大な事態にも陥る。実際このドラッグによるオーバードースの報告は増えていた。
さらに問題は、その莫大な売り上げがどこに流れ着いているのかだった。プールされロンダリングされ、如何ような用途の資金となるのか。よもや慈善事業に使われるとは誰も思うまい。
そんな思惑など関心もないバイヤーたちは、ドラッグを直接買い付けているのではなく仲介屋を通じて入手している。このバーではそれら仲介屋への割り当てを決めているという情報が入った。こういった拠点は他に複数あると思われ、流通ルートは複雑に枝分かれしている。地道な作業だが順に辿って行くのがゴールへの近道だろう。
さて、どのスタッフを仲介屋として送り込むか。
そう思案しながら店の出入口を眺めているスティーブンの視界に、ヒューマーが一人出てくる姿が映り込んだ。
白人男性、年は二十代後半あたり。ニット帽からはみ出す髪は黒、グレーのパーカーにジーンズにスニーカー。実にラフな服装を見るに仕事帰りの一杯ではなさそうだ。しかし夜の街へ繰り出したにしてはどこか“小綺麗”だとスティーブンは違和感を覚えた。
そうして見咎めなければ目で追った男の独特な歩き方に気付かなかったろう。前のめりに大きく脚を繰り出すのは、身体より気持ちの方が急いている所為なのか。いつものスーツにコートではないから見過ごすところだった。
彼は前を見据えたまま反対車線に停まるスティーブンの車に気付くこともなく通り過ぎた。だがその歩調がふいに緩み、ふらりと身体を揺らしたかと思うと倒れるように脇道へと消えたのだった。
そのただならぬ様子にスティーブンは店の偵察など忘れて車を飛び出していた。
ビルの谷間の薄暗い路地で、その人は座り込んでいた。壁に背を預け、首がもげるのではないかと思うほどに頭を垂れていて顔は見えない。それでもスティーブンは迷うことなくその名を呼んだ。
「ロウ警部補」
「────、おう」
数秒遅れの返答は、もしかしたら本人は即答したつもりだったかもしれない。
明らかに正常ではない状態を見て取ったスティーブンは膝をついてしゃがみ、ダニエルの頭を両手で挟んで上げさせた。真正面に向き合ったその眼は小刻みに揺れてスティーブンを捉えることができなかった。
これはイッちゃってるな──
スティーブンはダニエルの袖を捲くりながら「注射たれたんですか」とその痕跡を探した。
「──いや、飲んだ。ウイスキーダブルを、」
オン・ザ・“タブレット”で。
そんな返答を受けてスティーブンはダニエルのまっさらな肌の上で指を止め、苦笑いを禁じ得なかった。まったく無茶をする、薬への耐性など無いだろうに。
あのバーをダニエルが訪れたのは勿論気まぐれなどではない。おそらく我々と同じタイミングでリークがあったのだとスティーブンは推測した。そして得た情報の裏を取るべくダニエルは部下も連れず単独で乗り込んだのだ。
だがその大胆さは無謀といえた。聞き込みの流れの中で勧められたドラッグ入り“オリジナルドリンク”を断りきれなかったのだろう。
「警部補、立てますか」
まるで催眠術にでも掛かっているかのようにダニエルは虚ろな眼差しのまま腰を浮かせた。しかしうまく力が入らないのか身体をふらふらと揺らすばかりでなかなか立ち上がれない。
スティーブンはダニエルの脇に腕を差し入れ持ち上げ、その身体をくるりと回して背後から抱きかかえる体勢を取った。そしてダニエルの鳩尾あたりで手を組み、「失礼」と後ろへ引くように押し上げたのだった。
「ぐぅッ──!」
ふいに胃を圧迫され、ダニエルは吐いた。路上にぶちまけられた吐瀉物の臭気が狭い路地にたちまち充満する。それでもスティーブンは意に介さず二度、三度と同じ動作を繰り返しダニエルに吐かせ続けた。
四度目にもはや吐く物が呼気だけとなったのを見てスティーブンは動きを止めた。完全に立つ力を失ったダニエルの身体が崩れ落ちてしまわぬよう今度はしっかりと抱き寄せる。
「すみません」
腕の中で咳き込み続けるダニエルの耳元で粗雑な行為を詫びた。どれだけの量を飲み、どれだけの時間が経ったかはわからないがすべてが吸収される前に出してしまった方がいいのは明らかだった。
「送ります。すぐそこに車を停めてあるので、歩けますか?」
荒く息を継ぎながらもダニエルは漸う頷いて歩き出した。
ライブラのデータベースからダニエルのプロファイルを探し、スティーブンはその自宅まで車を走らせた。
アパートメントのすぐ前に駐車して後部座席を振り返ると、ダニエルは横になり腕で顔を覆って浅い呼吸に胸を上下させていた。
「警部補、着きましたよ」
返事はない。眠ってはいないようだが、意識はここには無いのかもしれない。
スティーブンは仕方なく車を降りて後部座席からダニエルを引っ張り出し、ほとんど引き摺るようにして部屋へと連れて行ったのだった。
ダニエルの手をかざしてエントランスを抜け、ズボンにリールで繋がっていた鍵を拝借して部屋に入る。と、ダニエルは自室であることに気付いたのか、身体を支えていたスティーブンの腕を振り解くと迷わずバスルームへ転がり入っていった。
しばらく嘔吐く音が続き、そのうち水の流れる音がした。さらには盛大にうがいをする音が響いてきたからスティーブンはどうやら落ち着いたようだと判断し中を覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
「────スターフェイズ?」
どうしてここにいる。
大きく見開かれた目がそう語っていることにスティーブンは今夜二度目の苦笑いを禁じ得なかった。
「ははっ、なにも覚えてないみたいですね」
「あ、いや、違う、覚えてる。そうか、あぁ、すまん」
ダニエルはしどろもどろと言いよどみ、一瞬見せたバツの悪そうな表情を慌てて顔を洗うことでごまかした。おそらく介抱されたことは覚えているが“相手”を勘違いしていたのだ。
いつも連れてる部下とでも思っていたのだろうか。そう思うとスティーブンは途端に何故だか苛立って腹立ち紛れにずかずかと部屋の奥へと踏み込んで行った。
男の一人暮らし。
そこで目にしたその光景にスティーブンはありきたりな感想を持った。脱ぎっぱなしの服に使ったまま放置されたコップ、積み重ねられて崩れる新聞。帰って寝るだけの生活で片付ける余裕など無いのだろう。だがそれは自分とて同じ、誰かに家事を任せなければあの部屋もすぐに同じ状態になるはずだ。
「汚ェ、って言いたいんだろ」
「えぇ」
「正直か。誰か来るってわかってりゃ俺だって掃除くらいする」
ダニエルは煙草に火をつけ、吸い殻で一杯になっていた灰皿の中身をゴミ箱へ逆さにぶちまけた。そしてそれを手にベッドに腰掛け、長いため息と共に紫煙を吐き出したのだった。
「もう大丈夫そうですね、では僕は帰ります」
「なんだ? 礼くらいさせろよ」
思わぬ呼び止めに今度はスティーブンの方が大きく目を見開いた。とっとと帰れと言われるならまだしも、礼をさせろときた。
なるほど今夜の“失態”を一刻も早くチャラにしたいのと、それから口止めか。グレーのドラッグとはいえ使用が知られれば処分の対象になる。不可抗力だったと弁解しても危機管理能力を問われる。
こんな事態を利用する気などまったくないが、ここは素直に受け入れた方がいいだろう。それに礼として提供するのはおそらく先の店で得た情報だ。ダニエルも今夜の出会いに驚きはしたものの偶然とは思っていない、目的を同じくしてあの場に居たことに気付いている。
スティーブンは玄関に向いていた足を戻して自ら椅子に腰掛けて同意の意思を示した。
「セックスしようぜ」
「────は?」
とんでもない聞き間違いをしたものだと、スティーブンは自らの耳を疑った。
「だから、セックスしようぜ、俺と」
「え、ちょっと、なんの話です」
「なんのって、礼だよ」
さらにはダニエルが服を脱ぎ始め、我が目をも疑うような事態になってさすがにスティーブンは怪しむべきは自分の耳ではないことに気付いたのだった。
どうやらここへきてイイ具合にドラッグの効き目が顕れているらしい。上半身裸になって近付くダニエルにスティーブンは口角歪めて笑いかけた。
「だいぶ気分がよさそうですね」
「あぁ、ヤバイくらいにイイぜ。これがハイってやつなんだな」
ダニエルはくつくつと含み笑いをしながらスティーブンの首筋に手を伸ばし、指先で耳の裏を撫でた。ドラッグで興奮状態にあるとはいえその仕草に躊躇いはなく慣れた様子すらうかがえて、同性に誘いかけるのが初めてでは無いということを教えた。
「知ってんだぜ、おまえがウチの女性職員を食いものにしてる事くらい」
座るスティーブンの脚の間にダニエルは片脚を割り込ませ、座面に乗せた膝でその股をぐっと押し上げた。そしてぐいぐいと刺激をしながら抑えきれない劣情に声を震わせる。
「何人泣かせたんだ。ご自慢のコイツを俺にもくれよ」
「──随分と煽ってくれますね。これが謝礼ってことですか」
「コイツが女専門じゃないならな」
ダニエルはついにはスティーブンの股間に手を伸ばし、きつめに握りこんだのだった。
痛みにまぎれ、悪寒のような快感が下腹を震わせるのにスティーブンは抗えず喉を鳴らす。薬の影響下にしてもダニエルの奔放さは意外だった。思想的に保守で私生活においてもストイックであろうと思っていた。同性と関係を持つなどというイメージは露程もなかったのだ。
正直この状況に戸惑いを隠せてはいない。とはいえここまで煽り立てられて引き下がれば“いくじなし”の嘲弄も免れない。
スティーブンはダニエルの裸の脇腹を両手で鷲掴み、自分の方へと引き寄せた。
「そういうことなら遠慮なくいただきます」
「おまえの好きなようにしろよ。乱暴にしてもいいんだぜ、今はきっと痛いくらいが丁度いい」
夜が明けきらぬうちにスティーブンは目を覚ました。まだ薄暗い中で浮かび上がる見知らぬ天井と、途端に鼻についた煙草の匂いに改めて昨夜の顛末を思い返す。
ため息を大きくひとつ。身体を起こして静かにベッドを抜け出した。
「──早いな」
「起こしてすみません。帰って着替えもしたいので」
声に背を向けたまま答えてスティーブンは手早く服を着てゆく。すぐ後ろで裸のダニエルが横になっているかと思うと今更のように振り返る勇気が出なかったのだ。
我ながら恐れ知らずなことをした。互いに割り切ってのことではあったが今後の交渉に影響が及ぶのは間違いない。有り体に言えば、今後どんな顔をして会えばいいのかわからないということだ。
あぁ、それより当面の問題は。このあとクラウスに合わせる顔がない──
スティーブンが二度目のため息を吐いたそのとき、ふいに名を呼ばれた。
「スターフェイズ」
「はい?」
「いいか、昨夜おまえは何も見なかった」
改まった口調で何を言うのかと思えば。ここに至って今度こそ口止めかとスティーブンは多少落胆した。弱みを利用するのではないかと、駄目押しをしておくほど疑いを持たれたのは心外だった。
「えぇ、僕は何も見ていません」
スティーブンは半身に振り返り目の端にダニエルを捉えた。裸の上半身を起こし、安心したようにサイドテーブルの煙草に手を伸ばす様子に苦々しく切り返す。
「ただあの店で得た情報はいただきますよ」
「わかってる。それから──」
「まだ何か」
「今後ウチの女たちを誑かすのはやめろ」
思わずスティーブンは鼻で嘲笑っていた。情報漏洩への懸念か、それとも女性たちへの同情か。
「申し訳ありませんが、それはお約束でき兼ねます。我々にとって情報もまた重要な武器なので」
「だからだ。それならもっと詳細で確実な情報源をあたれよ」
ダニエルがふうと勢いよく吐き出した煙がスティーブンの顔を直撃した。その煙たさに目を瞑り、遅れて届いた意味に目を見開く。
「──まさか、えっ!?」
「こんなことになったのも何かの縁だってなら、有効活用しないとな」
「ちょっと、本気ですか」
「もちろん一方的に搾取はされねぇぞ。おまえらの誠意次第だ」
それからおまえの手腕──“テクニック”次第な。
ダニエルは悠々と煙草を吹かしながら、さも可笑しげに口角を上げて笑ってみせたのだった。