サンドリヨン タイムリミットまであと数分。スティーブンは走った。
『今日のうちに俺の部屋へ来られたら祝ってやるよ』
事務所あげての誕生日パーティー直前に届いたダニエルからのメッセージ。
毎年恒例の事だから当日に会えないのは仕方がないと互いに納得して、だから二人での祝杯は後日挙げるのがまた恒例になっていた。
それが今年はどうしたことか、これまで当日に拘ったことなどないのに。
変則的な事態には期待もあれば一抹の不安も覚えて、気が急いていたスティーブンは最上階からゆるりと降りてくるエレベーターを待ちきれず猛然と階段を駆け上がるのだった。
タイムリミットまであと数分。ダニエルの耳は廊下を叩く靴音を捉えた。
靴底に金属をしこんだ特徴的な音は誰のものかを如実に語る。しかし常ならば足音どころか気配も消して忍ぶ男が、しかも歩調は奇妙に乱れてこれはまったくどうしたことか。
そんな異常事態にチャイムが鳴ると同時に開けてやったドアのそこに、ダニエルは肩で息するスティーブンの姿を見いだした。
「来た、よ、」
「来たな。っていうかおまえ」
それ、とダニエルはスティーブンが手にするものを凝視した。指先に引っ掛けるように持っていたのは、なにしろ彼の大事な商売道具の片割れなのだ。
「うん、階段の途中で脱げちゃって」
情けなくはにかみながらスティーブンは靴を掲げてみせた。
なるほど足音の乱れはその所為だったのかとダニエルは得心した。したものの、武器として精密にあつらえた靴がそう簡単に脱げてしまっていいものだろうか。
「駄目だろそれ」
「ほんとにね、僕も驚いた。そろそろ新調しろってことかな」
それほど自分が取り乱していたことに気付いてスティーブンは苦笑、いや失笑するほかなかった。
いっとき笑うとスティーブンは大きく息を吐き、力の抜けた指先から靴を落としてダニエルに抱きついた。
「それで、僕は間に合ったのかな」
頬を寄せてそう囁く声にダニエルも誘われるまま抱き返す。と、腰に回したその腕のデバイスが微かに震えて何かを告げた。
「――もしかして電話?」
スティーブンは不安げに訊き返す。深夜にかかってくる電話など緊急招集に違いなく、ここに至って仕事に水を差されるなんてありえない。
だがそんな懸念は、耳元で大きく響いたキスの音が掻き消した。
「違う、タイマーだ」
「なんの」
ダニエルはスティーブンの腰の裏でタイマーの振動を止めた。
「6月9日の終わるカウントダウンの」
「え! あ、でもそれならギリギリ大丈夫だったってことだよね」
「ああ。そう、だな」
ダニエルはどこか曖昧に呟くと、何かを思いついたのかスティーブンから身体を押し戻した。そして屈み込むと横倒しになって佇んでいた靴を取り上げたのだった。
「おや、こんなところに氷の靴が。これは昨夜私を想い悩ませた彼の人が落としたものに違いない。なんとしても捜し出し、この胸の内を伝えよう」
片膝を立ててダニエルは靴をそっと持ち替えスティーブンの足元に恭しく置いた。
「さあ君、この靴を履いてみてはくれないだろうか」
「いや、ダニエル、ちょっと待ってくれ」
唐突に始まった小芝居にスティーブンは戸惑う。階段で靴が脱げたというハプニングから咄嗟に思いついたことなのだろう。ここは調子を合わせて演じ、最後は笑い飛ばすのが正解なのかもしれない。
しかし、ベースとなった物語の結末を思うとスティーブンの足は凍りついたように動かなくなるのだった。
「これは冗談なんだよな」
「どうだろう。正直、俺にもわからない」
屈んだまま俯くダニエルの表情は覗えず、訥々と語られるひとり言をスティーブンはただ聞くことになった。
「これはずっと考えていたことだ。告げるタイミングが欲しかった。誕生日なんてのは打ってつけだと思ったんだよ。だからあんなメッセージを送った」
それでも俺はおまえが間に合わない、来なければいいとも思ってた。そうすればまた先延ばしにできる――
「だがおまえは来た。それも大慌てで、大事な靴のことより俺に会うことを優先して」
ダニエルは決して核心に触れる言葉を口にはしなかったがそれは真摯な告白で、スティーブンの心を震わすには充分だった。
そう、そうなんだ。スティーブンは振り返る。
イレギュラーなメッセージには胸騒ぎがした。当日の祝いを素直に喜ぶこともできたが、最近ダニエルがふと見せる揺れる眼差しが気になっていた。もしかしてこれが最後になるから特別にしたのではないのか。そんな不安が確かにあった。
行かなければきっとそのまま有耶無耶にされる。杞憂ならそれでいい、どちらにせよはっきりさせるには間に合わせる必要をスティーブンは感じたのだ。
湧き上がる最悪のシナリオを抑え込み、強いて浮かれた気持ちを奮い立たせて階段を駆け上がった。その葛藤による乱れがが足元に表れた。
だから、急いだ理由はダニエルが思うような純粋な恋心ばかりではなかった。それでもそれによって起きた思わぬ出来事がダニエルの背中を押したのは皮肉というべきか。
「スティーブン、もう一度訊く。この靴を履いてくれるか」
顔を上げて心許なげに見上げてくるダニエルの表情に、スティーブンは凍りついた足が解けてゆくのを感じた。