岸吉 中央分離帯の縁石のそばに、ひとかたまりの塵が落ちている。
光沢の失せた黒。目を凝らすと、何かを隠し持つ両手のような形で折り畳まれた形状と、奇妙な位置から突き出した硬質な尖りが見えた。翼と、嘴。
カラスだ。カラスが死んでいる。吉田ヒロフミがそう認識した頃には、その死骸ははるか後方に消えていた。
バックミラーを覗いてみたが、当然ながら運転手である岸辺が見やすい角度に調整されているその中には、目当ての物は見つけられなかった。諦めて、浮かせかけた腰を助手席のシートに落ち着ける。
昼間の高速道路はひどく空いていた。
「カラスの死骸って初めて見ました」
そう言って、自分で可笑しくなる。それは嘘ではないが、嘘ではないだけの言葉だった。
吉田はデビルハンターであるので、悪魔や魔人の死体はもちろん、人間の死体もたくさん見てきた。つい数日前にも、超人的な能力によって、枝でも手折るように殺された死体がごろごろと目の前に転がされていたというのに。そう考えると、自分の発言は妙に牧歌的で、間が抜けたものに思えた。
岸辺もそのことに思い至ったのか、はたまた単に口を開くのが億劫だったのか、ちらりと吉田を一瞥しただけで、何も言わなかった。正直なところ、その反応は吉田にとって少しも意外ではなかったが、拗ねた表情に見えるように、わざと唇を尖らせる。
「せっかく、運転手さんが眠くならないように話しかけてるのに」
恩着せがましさのあるその言葉は、ある意味本音でもあった。高速道路の景色というのは変わり映えがない。単調で、退屈。起こる変化といえば、運の悪い虫が時折フロントガラスで命を散らすくらいだ。道理で、毎日のように高速道路での事故死が報道されるわけだ。もちろん、悪魔による死者の方がずっと多いが。
前を走っているトラックが、車線変更の際に示したウインカーを作動させたままにしている。すぐに気づくだろうと眺めていたが、いつまでもその規則的な明滅は止まらない。車内で鳴る音で気づきそうなものだが、と吉田は首を捻る。トラックの運転席に座ったことはないが、普通車にはない騒音があるのだろうか。
「カラスは」
突然、岸辺が常の温度のない声で呟いた。その目は前を見たままだ。
助手席からは、岸辺の、裂けて縫われた側の頬だけが見える。引き攣れて、動かしづらくはないのだろうか。岸辺は大口を開けて喋らないので、発声に苦があるのかどうかは吉田にはわからなかった。
「森ん中に巣がある。敵に襲われたら、知ってる場所に逃げ帰る。回復するやつもいるだろうが、死ぬときはそこで弱って死ぬんだろう。結果的に、人間には死骸は見えなくなる」
「なるほど」
頬の縫い跡を視線でなぞりながら、納得の相槌を打つ。なんとなく都会の鳥というイメージのあるカラスだが、餌を探すにも安全に繁殖するにも、森に暮らせるならばそれに越したことはないのだろう。
「あとは、共食いもするらしい」
「へえ。悪魔みたい」
はは、という吉田一人分の笑い声が、暑くも寒くもない車内の空気を少し揺らした。
今日の岸辺は、随分と口数が多い。
元々の気質なのか、息継ぎのように呷るアルコールがそうさせていたのかは知らないが、岸辺という男は淡々とした口調の割によく喋る人間だった。それが、先日のデパートの一件があってから、なぜかは知らないが随分と落ち込んで、何かを考え込むように押し黙ることが多くなった。だからと言って、任務上必要があることにも口を噤むような人間ではないため、業務に支障を来すようなことはない。そのため、吉田にとってはさして大きな問題ではなかったが、なんとなく喉元の小骨程度には気にかかっていた。
吉田は、助手席の窓から外を見る。知らない地名を書いた、緑色の看板が通り過ぎた。添えられたローマ字で知った読み仮名を、舌の上でゆるく転がしてみる。外国の地名のような舌触りがした。今後の人生で、あそこに足を踏み入れることはないだろう、と思う。悪魔の駆除依頼でも来たら、話は別だが。
「俺は」
おや、と思う。吉田は、視線の先を岸辺に戻した。
主語が岸辺だ。俺は最強である、などの軽口は別として、岸辺が自身の話をすることは、かなり珍しい。岸辺の耳朶を噛んでいるピアスが、ちらちらと光っている。そのか細い悲鳴のようなきらめきを眺めながら、吉田は黙って言葉の続きを待つ。
「カラスの葬式を見たことがある」
「葬式、ですか」
人間以外にも、死んだ仲間を悼む行動をする生き物がいることは知識として知っていた。
カラスがそうなのかは知らなかったが、あの生き物は、小さな頭蓋骨の割に、時折感心してしまうほどの賢さを見せる。葬式に類する習性があったとしても、さほど不思議ではないように思えた。岸辺の口から出る言葉としては、想定よりも多少感傷の色が強くはあったが。
「空き地でカラスが死んでいた。その死骸を、何羽かのカラスが取り囲んでいて、ふと上を見たら、電線にびっしりカラスが留まっていた。十や二十じゃきかない数だった」
想像してみる。地面に転がる、カラスの死骸。仲間のカラスが、黒ぐろとした瞳でそれを見ている。頭上に縦横に走る電線、それを埋め尽くすカラスの群れ。岸辺が立っている。脳味噌が、いつか見た映画か何かの映像と勝手に重ねているのか、空は夕焼けの頃だ。置いて行ったカラスも、置いて行かれたカラスも、岸辺も、あらゆるものが、橙色に沈んでいる。
吉田は瞬きをした。途端、黄昏時のカラスの葬式は掻き消えて、真昼の車内が戻ってくる。長距離を走っているうちに、どこの周波数にも合わなくなったカーラジオが、何の意味も持たない雑音をこぼした。
岸辺がどんな気持ちでカラスの葬式を眺めたのか、吉田は岸辺ではないので、分かりようがないことだった。
葬式という言葉は、悪魔が当たり前に存在する世の中になってから、あらゆる人間にとって随分と身近なものになった。加えて、吉田は一般人よりも幾分かは危険な生き方を選んだため、今日までの日々で何度か死を覚悟したが、結果的には今もこうして五体満足で生きている。
それこそ、数日前のデパートでの一戦は今までのハンター人生の中でも有数の死線と言えた。それも命からがら逃げおおせたというよりも、建物が丸ごと呪われる直前に建物から放り出されていたので、最悪の事態に巻き込まれずに済んだだけだった。あれはただただ運が良かった。結果的に、中国からの刺客に救われたようなものだ。まあ、彼女はと言えば、吉田が礼を伝える前に、首と胴が離れて死んでしまっていたが。
最後に聞いた、命乞いの言葉を思い出す。得体の知れない能力の前に、きっと蟻よりもたやすく死んだ、葬式などされないだろう女と、彼女に愛された魔人たちのことを考える。吉田は目隠しをしていたので、その瞬間に何が行われていたのかを知る由もないし、知ったところで幸福は待ち受けていないだろうとわかっていた。
そういえば、と吉田は考える。形だけとは言え、あの日はチェンソーの悪魔に変身する彼の護衛という立場で同行したが、吉田の傷が数える程度の打撲傷だけだった一方、護衛対象の彼はと言えば、地獄で何度か死んだらしい。つまるところ吉田は護衛の役割などひとつも果たせていないが、翌日に銀行口座を確認したところ、公安からの依頼金は満額振り込まれていた。
深く考えることはやめて、吉田は欠伸をひとつする。
タイヤが静かにアスファルトを擦る。岸辺がわずかにブレーキを踏んだことを、運転席の足元を見ていなければ吉田は気がつかなかっただろう。今のようにアルコールが抜けきった岸辺は、笑ってしまうくらいに理想的な運転者だった。吉田はまだ免許を持っていなかったが、今以上に仕事が忙しくなる前に取りたいと思っていた。岸辺の真似をすれば教習中に文句をつけられることはないだろうな、と考える。岸辺の長い中指がウインカーレバーを撫でるように操作するのを見たかったが、残念ながらこの運転手は、やたらと追い越しをする人間ではない。
前を走るトラックは、未だに左折の意思を示し続けたまま直進している。こんなにも気づかないものだろうか。
「前のトラック、悪魔が運転してるかもしれませんね」
吉田の軽口を聞いた岸辺は、「そうかもな」と言った。
岸辺の瞳は前を見ている。その光沢の失せた黒は、息をしないカラスに似ていた。