蒼天に風花舞いて「忘機の友人はやはり君だったか……」
「お久しぶりです」
藍曦臣の姿を目にしたのは随分と久しぶりだった。射日の征戦が終わり、妖の骸を社に封じた時以来である。親しいとは言えるほどの関係ではなかったが、魏無羨を気にかけてくれていたように思う。
藍曦臣は他に方法はないか、最後まで他の宗主たちに掛け合ってくれた。屍を操る魏無羨は修士たちに忌避され、うろんな目で見られることの方が多いというのに。
藍曦臣は最後に目にした時と何ら変わっておらず、纏う春風のような雰囲気も同じであった。その面差しは歳の差はあれど、兄弟故か藍忘機とよく似ている。藍忘機が成長すれば恐らく藍曦臣と瓜二つになるに違いない。
もっとも、藍曦臣が春風ならば藍忘機は寒風だ。よく似ているのに纏う気配と雰囲気は余りにも異なっている。
「忘機は叔父上が?」
「はい。つい先ほど」
答える自分は酷い顔をしているのだろう。頬は涙で濡れていて、瞼を腫らした姿は藍曦臣にどう映っているのか。
「何故、叔父上に知らせた?忘機は君を慕っていただろう?」
「だからこそ、です。沢蕪君もご存知でしょう。封じがあるとは言え、ここには瘴気と温氏の怨念が渦巻いている。幼い阿湛には毒です。それに俺は笛の音で屍を操る狐ですよ。関わるべきじゃない。藍先生もそう思っているはずです」
藍曦臣の表情は硬く、その声音もまるで詰問するかのようだ。魏無羨の選択は正しかったはずなのに、言いようのない後悔が押し寄せてくる。意識して笑っていなければ涙がまた込み上げて来そうだった。
時を経て瘴気は弱まってはいるものの、幼い藍忘機の体には良くない。僅かとは言え穢れが漏れ出しているのだ。
一時ならば問題はない。だが、藍忘機はここ最近、社に通っていた。僅かとは言え、蓄積された瘴気は小さな体を内側から蝕む。どんな影響を及ぼすか分からないのだ。言い訳じみた言い分だと理解している。
それでも、他にどうすれば良かっただろう。藍啓仁とて生者より死者に近い己を甥を近付けたいと思うはずがない。魏無羨が知らせずともいずれは知られていたはず。魏無羨はかつて数多くの温氏を屠り、修士たちからも恐れられた。
復讐を遂げるにはどうしても邪道とされる術が必要だったのだ。正道こそ至上とされる修真界で魏無羨の力は異端だった。
「……そうだとしても何も君が知らせる必要はなかっただろう。私たちは近い内に姑蘇に戻る。君が叔父上に知らせずとも別れは近かっただろう?あの子は私たちに我が儘すら言わない。悲しいほどに。そうさせてしまったのは私と叔父上だが、君に対しては違ったはずだ」
「じゃあ俺は、どうするべきだったんでしょうか……!本当は離れ難かった。俺を慕ってくれる阿湛が可愛かった。でも、あの子の輝かしい未来に俺は不要です。……だとしても、こんな形で別れる必要はなかった。分かっていても、俺が耐えられなかったんです。あの子の未来に俺はいない」
握り締めた手が震える。藍曦臣の言葉は正論だ。だからこそ、魏無羨の心を刺した。何もこんな形で、未練を残す形で終わらせる必要はなかったと言いたいのだろう。
江澄と話す魏無羨を見て泣いていた小さな龍。花を贈ってくれた幼子がいじらしくて、可愛らしかった。出来るならその成長を見守っていたかった。江澄や江厭離の時のようにかたわらで。それが許されないのは魏無羨が一番よく理解していた。
魏無羨はこの社で朽ちていく。肉体は滅びずとも、精神の死がやがて訪れる。未来もない己が願うのは藍忘機の幸福だけ。
「魏公子、私たちが君にした仕打ちは……」
「沢蕪君が気になさることはありません。あなたは最後まで俺を気に掛けてくれた。全て承知の上で要石となったんです。そうしなければ俺は遠からず討伐されていたでしょう。人が団結するには大きな脅威が必要になる。温氏という脅威がなくなれば、次は俺です」
藍曦臣は沈痛な面持ちで魏無羨の呟きを聞いていた。過去の行動を悔いているのだろう。魏無羨は感謝こそすれ責めるつもりなど毛頭ない。
屍を意のままに操り、温氏を殺し尽くした魏無羨の姿を多くの修士たちが目にした。正道を好む彼らが己を遠巻きに見ていたのは知っていた。温氏という脅威の前では見逃されても、それが無くなれば魏無羨という存在は邪魔でしかない。
藍忘機の前では口にしなかったが、あの頃は本当に酷かった。憎しみが目を曇らせ、どんな残虐なことでさえ平気でやった。
屍は疲れることがなければ肉体の損傷を気にする必要もない。己が戦わずとも笛の音だけで無数の屍を操る魏無羨はさぞ恐ろしく見えただろう。
「阿湛にとっても俺にとってもこれでいいんです……」
「……あの子は納得しないだろう」
「大人になれば忘れます、俺のことなんて」
そう自分に言い聞かせる。元々、交わることのない二人だったのだ。今は辛くとも子供の成長は早い。幼い頃に出会った狐なんて忘れてしまう。苦笑する魏無羨に対し、藍曦臣の表情は晴れない。
思う所があるようだが、彼は結局口をつぐんだまま、拱手をして去って行った。一人残された魏無羨は随分広くなった境内を見回す。
人気のない社は寒々しく、寒さなど感じない魏無羨でさえ身震いを禁じ得ない。魏無羨は藍忘機がくれた野花を取り出して眺める。慎ましやかに咲く花は、龍の気を受けたからか数日経った今でも瑞々しい。
「……阿湛、お前のお陰で世界が輝いて見えたんだ。ありがとう、俺に世界を思い出させてくれて」
あの日以来、魏無羨の世界には江澄と江厭離しかいなかった。二人だけを支えに生きて来た。
夷陵の社で封じを守る日々。心は摩耗して、笑うことすらしなくなっていた。そんな日々を変えたのは小さな龍。彼と出会わなければ、今もまだ世界は色褪せて見えただろう。
見上げた青い空から風花が舞い落ちる。藍忘機と出会ったあの日と同じように。
差し出した手に落ちた白い花弁は溶けることはない。