おやすみなさい、それから 目の前の男が倒れた瞬間、咄嗟に動けたのはウルフウッドだけだった。重力に従って床に叩きつけられた身体。それを慌てて抱え起こす。布越しでも分かるほど体温が低く、呼吸も浅い。ぐったりとした身体からは生気が感じられず、今にも死にそうだ、というのが、正直な印象だった。
その後、ロベルトとメリルは医務室を探しに外へと出ていった。死体のように冷たい身体を抱きかかえたまま、ウルフウッドは小さく息を吐いた。無機質なプラントルームに、機械のモーター音と、呼吸の音が響いている。
――ここ数時間に起きたことを思い返すと、どうにかなりそうだった。
紙のように白くなってしまったヴァッシュの顔を見ながら、ウルフウッドは息を吐き、そして吸う。努めてゆっくりと呼吸を繰り返したが、殺気立つ自分を宥めようにも、思考がそれを許さなかった。目にした光景が頭の中を巡り続けている。
弟分から向けられた銃口。砂漠へ落ちて行く影。
大切な場所が破壊されようとする中での切迫感。
プラントに手をついた男の、顔に浮かび上がる光。
悪夢のようだな、とウルフウッドは思う。夢ならどれだけ良かったか。悪夢よりも現実の方が余程残酷で、苦しくて、つらい。正面から受け止めるには、一つ一つの出来事があまりにも重すぎる。
――終わりにしたい。
一瞬、強烈にそう思う。気の迷いだ。無視していれば消える邪念であることを、ウルフウッドは知っている。発作のようにして突然現れた死の誘惑を前に、ぐっ、と奥歯を噛み締めた。無駄だ。自分は逃げられない。逃げないと、自分で決めたのだ。
思わず手に力が入る。すると、腕の中の男が小さく身じろぎをした。
「おい……起きとるんか?」
自分の出した声が部屋に響き渡る。ふるり、と、淡い色のまつ毛が動いた。ゆっくりと瞼が開き、その下から澄んだ青色の瞳がのぞく。瞳は何かを探すようにゆるゆると動き、ぼんやりとしたままウルフウッドの方を見た。
「手……」
「は? 手?」
反射的に左手を差し出す。朧げな表情でそれを見つめたヴァッシュは、ゆっくりと手を伸ばし、ウルフウッドの指先に触れた。
「良かった……」
言われ、面食らう。一瞬何を言っているのか理解できなかった。一呼吸おいて、火傷が治癒している事を指しているのだ気がつく。倒れる直前、プラントから手を離して振り返ったあの一瞬で、ウルフウッドの手の爛れを認識したのだろう。薬の効果でもうすっかり消えてしまった火傷を労わるように、ヴァッシュは手を握ってきた。
その瞬間、ふ、と、自分の体が軽くなるのを感じた。
暗闇の中に沈んでいるようなあの感覚が、ほどけるように消えていく。
ヴァッシュはゆっくりと目を閉じて、そのまま動かなくなった。手だけが、縋るようにウルフウッドを捉えている。それを握り返しながら、縋っているのは自分の方ではないかと思う。何故か息苦しいような気がした。でもそれは、怒りや憎しみとは相反するような、不思議な胸の痛みだった。
いつだったか、悪夢を見ないんだ、と、男は笑って言っていた。その言葉に反して、閉じた瞼の隙間から一筋の涙が溢れ出る。ゆっくりと流れ落ちるそれを見ながら、嘘やんか、と、ウルフウッドは独りごち、いや、と思い直す。涙が伝う顔は妙に穏やかで、眠る子供のようであった。悪夢をみてる訳ではないのだろう。そうであって欲しいと、自然とそう思った。
再び目を瞑ってしまった男に声をかけ続けると、あろうことか、うるさい、と寝言で一蹴された。戻ってきたメリルには、病人を怒鳴りつけるなんて、と苦言を呈される。踏んだり蹴ったりだ。
「ほんま……おぼえとけよ……」
ヴァッシュを抱え上げ、メリルに案内されながら医務室へと向かう。起きた時に何と言ってやろうか――そう思うウルフウッドの中には、もう死を望む気持ちは消えていたのだった。