大型バイクで会社員3年目の兄を攫う院生の弟/ダイジェスト版 「手で掴むのは俺の腰の辺りです。それとカーブなんかで遠心力が掛かりますから、しっかりニーグリップで俺の太腿をホールドしていて下さいね。」
…そう、そんな感じです!
都内、新宿四谷の裏路地。
午後4時を回る頃、尾形はバイクのリアシートに乗せられて、タンデム同乗者の心得の実践実習をしていた。
即席講座の教官兼運転手は異母弟の花沢勇作である。
その弟に背後から抱き付く姿勢をとり、それを上司と後輩の目前で褒められている、のである。
車両はといえば、白バイにも採用されているネイキッドモデルで、改造などを施していないノーマルタイプでも総重量は250kg以上ある大きな車両である。それに加えて、29Lパニアケースがリアタイヤ上のタンデムシートを囲む様に装着されている。
事前に中身は確認していない。だが一連の勇作の気合いの入り様からすると、みっちり荷物が詰まっているに違いない。
…ああ、午後の休憩時間に俺は一体何を……尾形はビルの隙間から広がる青空に虚無の眼を放った。
一方の勇作は兄とのタンデムツーリングが棚ぼた式に実現することになり、ひと足早い春を感じさせる様な、実に晴れやかな喜色を浮かべている。
「嬉しいです!修論発表前に兄様の連絡が途絶えた時、避けられてる気がして。でも今はこうしてリアシートにお乗り頂けているんですから、勇作は果報者です。」
「はあ……」
…だからといって、何も所属先の教授先生のお使いを自ら買って出て、わざわざ弊社までご足労頂いて、しかも金曜日の終業1時間前に兄の早上がりをその上司の菊田に直談判するなんて想像を遥かに越えているではないか。
「尾形、なに、浮かない顔してさあ!タンデム初めてなのぉ?」
「うるせえぞ2年目ぇ…お前はたまりに溜まった接合作業がまだだろうが。来週俺が来るまでにやっとけよ。」
「うるせえわ!お前がいねえ方が集中するっての!」
「ははぁ、言ったなぁぁ?覚えとくからな、もし週明けに出来てなかったら永倉のじいさんのところに一人で説教受けに行くんだぜ。」
「けっ、クソ尾形め!今に見てろよ。」
しかも菊田はともかく、後輩の杉元もいる目の前でレクチャーするなどどういうことであろうか。気がつくとすぐにこうしてぶつかり合いをしてしまう、尾形にとってはやり難い相手だというのに。
自分に出来ない事がある、弱みなどわざわざ披露する趣味などないというのに。
(あーめんどくせえ。)
今日この場から独りで立ち去るのは不可能そうである事と、勇作の、こういう堂々たる面倒くささに辟易しながらも、同乗の心得を聞かずに乗るのは心もとなかった。
何せ尾形は50ccAT原付以外のバイクに乗ったことはなく、まして他者の運転するバイクでのタンデム自体が初めてなのだ。
おまけに今回のツーリングのスタート地点は、田舎の見通しがきく一本道ではなく、複雑に入り組み、それ故に急な進路変更などの危険度が高い運転が目立つ四谷の大通りから一本入った裏路地にある弊社前なのだから、致し方ない。
だがまるでおとぎ話の姫君よろしく、夕暮れ時に、しかも自分よりひと回り大柄で、尚且つ眉目秀麗の弟に手取り足取りレクチャーされた上で「攫われていく」とは。
勇作に抗うのを諦めたから、の予定ではあるが、それにしたってだ。
月曜日から、一体どんな顔で出社しろというのだ。
「まあまあ、早上がりつけとくから。年末から土曜日出勤しっぱなしだったし、せっかく勇作くんが迎えに来てくれようなもんだからさぁ、兄弟水入らずで楽しんできてよ。何より尾形、お前今週入ってから顔色悪いぜ。だからちょっと休んでこい。な?いい子だから。」
「菊田さん、アンタ何言ってんだよ……ずっとやってるけど、それでも終わってねえんですよ。」
「ばーか、そんなのわかってるっての。その上で、だよ。勇作くん尾形を宜しくね。実のところ顔色悪くて心配してたんだわ。リフレッシュさせてやってくれ。」
菊田は気になるコンディションだった尾形を任せられる存在が現れた事への安堵感からか、美味そうにバニラの香りの紫煙を吸い込んだ。
「はい、承りました。」
「勇作くん行ってらっしゃ〜い!尾形、勇作くんを見習って、ちったあ心を洗ってこいよ〜」
「ちっ……」
抜けない疲労故か、憎まれ口ひとつつくのも錆び付きつつある頭にはそれなりの重労働である。菊田にせよ、勇作にせよ、そういう尾形の実態を「何となく」察知していたのであろう。一方的に休ませる事で一致した彼らへの苛立ちが募る一方ではあるが、その察し通り抗える調子でもなく、ただ感情の切れっ端を吐き出すだけであった。
(まったく、仕方ねえこったな……)
尾形は渋々例のポージングで勇作に密着して、ふーっと目を閉じた。春めく日差しを凝縮したような体温が、デスクワークで知らずのうちに冷えた身体を保温し始めた。
お陰様で眠気すら感じる始末で、どうにもこうにも調子が狂う一方だ。
そんな兄の調子の微細は知らないままではあるが、兎角発進する為に兄の両手が己の腰に回されたのを感じた。
「よし。じゃあそろそろ出ましょうか。」
自らのフルフェイスヘルメットのシールドを下ろし、メインキーをオンに合わせた。タコメーターが目覚めの呼吸を放つごとく一旦左右に進んでもとの位置へ戻り、ニュートラルの緑ランプが点るのを確認した。
カコン、旅路の幕開けを示す一速へのギア入れの音が響いた。
「…なんだかなァ。」
会社近くの道を、首都高の入り口へ向かって走っている最中、尾形は誰に聞かせるわけでもない独り言を、「自分だけ」の密閉空間の中に溢した……筈だった。
「兄様?何がですか?あ、俺の声聞こえますか?」
突然、弟の声が脳天から降ってきたのだ。
「え」
一体、どういう事だろうか。
ヘルメットの外は数多の車両が行き交う都心の大通りで、平日の帰社時間帯である。きっと、それなりの騒音の筈だ。今自分が背中をみている弟が何か話しかけたとて、上手く聞き取るのは至難の業だ。
にも関わらず、この声が聞こえてくるのは。
「兄様のヘルメットにも、インカムをつけておきました。こうして、お話ししながら参りましょうね。」
「いやこんなの要るんですか」
実際これだけ密着しているし、会話が遮断される時間なんて然程長くないのに。
「返信が途絶えてたところから、お仕事でお疲れなのかな、と思って。一緒に乗ってる、と言ってもバイクですから、途中でお眠りになると危ないですしね。」
「……」
「何より、先程迄賑やかでしたからね。それも楽しいですが、こうして『ふたり』でお話出来るのも特別で嬉しいです。」
と、信号待ちのアイドリング音を遮って後方の兄へ囁く。
バイクの性質上、乗員の身体そのものは外界に剥き出しである。ほぼ事故や外傷に対して丸腰で、乗車中というのは常に周囲に気を張っていなければならない。
だが一方でシールドの中というのは、実際の頭部の安全と共に余人の立ち入る隙のない「密のひととき」が、両者の安堵を伴って満ちている。
「…ははは。じゃあ、俺が寝ないように頑張って下さい。」
「ふふっ、はい、勿論です。」
愛おしさが籠った声色が、前後に並ぶ二つの空間にやわらかく満ちた。地を震わせる鼓動はそれを背に負いつつ、春月の光降る風景へと駆け出した。