半宵 兄弟二人が入ると満員の、まあるい琺瑯製浴槽の岸辺には、満ち潮が寄せている。もう間もなく冬至の日の半宵の刻を迎えるという頃合いの水面には、雲間の星の如く、大小さまざまな形の柚子が囁くような香りを浮かべている。
【半宵】
雪の綿布団が、繰り返す夏の陽射しで灼けた煉瓦に早々と積もる様になる季節を迎えた。
少し前の、蜜柑の香りが昂る高い空をとうに忘れ、降り始めた雪の下に、寒さを溜め込む。そんな底冷えのこの村での冬は、等しく厳めしい態度で各戸に身を隠す人間を探して回っている――一挙に冷えが進む、この時期を苦手とする彼も含めて。
百之助は目頭に張り付いた相変わらず長い睫毛と、一日の内に積もった小さなカスを除くように目元を湯で流した。仕事の妨げにならぬ様、神経質に整えられた丸い爪が、ゆるゆると頬を撫で降り、両の顎にかけて薄い影が描いた縫合痕――にも、留まりも、沁み込むでもない湯を含ませた。
すると、隅々まで凍った神経が動き出したとわかる引き攣った痛みが、電流の如く走った。好ましくない、極めて不快な感覚に、百之助は思わず眉間の皺を増やした。この季節になると、見事に左右対称的な顎の古傷が痛む。
どうやら、この地方特有の、気紛れに移り変わる気候が影響するようだった。
「……っち。やれやれだ。」
「えっ、いかがされました。」
百之助の口からぼろり、と落ちた愚痴には、苛立ちやなんやらが詰まっているようである。百之助の全身を背後からすっぽり抱き込み、半ば自らを溶け込ませる――いつなん時であっても逃さない、と暗に語る勇作が問うた。
「……大したことじゃありませんから。独り言です。」
「いえ、杞憂なら申し訳ありませんが、今のお声は『何かあった時』のお声だったかと。」
「……」
―何言ってんだ。お前が『何か』の正体を知ったところでどうしようもないだろう。
百之助は、勢い余ってしな垂れかかった厚みのある思いやりに背を向けた儘、すうっと声帯迄言葉を仕舞い込む。こんなときだけは、いつも寝惚けてるこいつの第六感がやけに仕事する。
これは、若い頃客と芸妓のいざこざに巻き込まれてついた傷の縫合痕だ。所詮俺本人には何も感ずることのない傷跡と痛みであり、ご立派なこの弟の医者の肩書などなんの手当にもならない。そういう極まって己の中だけの類に過ぎないのだし、稀に漏れ出す痛みなど誰にでもひとつやふたつくらい、あるものではなかろうか。殊に、もうそれなりの年数を生きているならば。
が、わざわざこの場でそういうことを彼にご納得頂くまで説明するのも、逆に彼の中でやたらと大きく育った心配を持ちかけられることも、御免蒙りたかった。
(めんどくせえこと言っちまった)
百之助は、そそくさと下唇の曲線付近まで湯の中へと逃げようと、浴槽の縁ぎりぎりまで鼻先を近づけるように首を延ばした…ところで、勇作の両手で沈みかけた輪郭を掬い上げられた。厚く、きめの整った勇作の掌に、数日間手入れを怠った自分の顎髭が当たると、より致し方ない心境となる。
「そんなに急に御首を延ばされますと、傷めてしまいます。」
ですから、どうか大切になさって。と、頸椎の隙間隙間から、緊張をぴんと張り巡らしたままの神経を溶かす口づけが降る。
「っふ……なぁに、傷んだところで日にち薬でどうにかなっ…ぁ………」
「そうして、またお独りでどうにかされようとして……いけませんよ。兄様の痛いの、どうか飛んでください……」
慈愛から沁み出でた声色が、頭上からぽたり、ぽたりと降る。同時に、温かい両掌が水中に隠した百之助の下顎から頬のあたりまでをすっぽり包み隠した。じわり、じわり。勇作の指の中をめぐる血のぬくもりが、降ってくる慈愛が、いつか損なって、影を得た儘の傷跡までを埋める。
―不本意で、どうにも気恥ずかしい。ただ、傷跡と共に瞼まで溶け落ちそうだ、と百之助は目を瞑った。
尚、時刻は間も無く半宵を迎えようというところである。今日は冬至に因み、医薬にまつわる神事のある氏神社で柚子を拝受する行事に参加した都合で、こんな時間の入浴となっている。昨日迄吹き荒れていたボタ雪を含んだ潮風も今夜は収まり、しんしんとよく知っている脈だけが掌から染み込んでは、時が過ぎていく。
そういえば、この傷の手当を自ら買って出たひとは居たのだったか――いいや、大概怪我をすれば独りで適当に処置をして済ませ、出来そうになければ医者へ自らかかった。勿論、この顎の傷もそうだった。確かちょうど冬至直後の晩だったか、割れた下顎骨の隙間から灼熱を迸らせながら、神経を捻じ切ろうとする夜半の冷気を無理矢理押しのけて馴染みの医院まで歩いた。道中の石畳だって、砂利道だって、俯くたびに落ちる血液を迷いもなく凍らせる温度だった。
そうだ、あの日は確実に寒かった。
(……こういう、もんなのかなァ。わかんねえな。)
乾いた唇から、安堵が漏れ出した。
◇◇◇◇◇◇
「……さて…すこしお楽になられましたか?」
右の頬への、ふくよかな口づけの感触。はっとして瞳を開けると溶け落ちそうな意識の中から、ふわ、と湯気が立ち込める中へと戻ってきた。浸かり続けている湯が冷めきっている感じはしないことから、どうやら数分間ばかり、湯に蕩けるように左を下に沈みかかっていたらしい。
すうっと引き攣りが引いた事実を渋々認める様に、
「…傷なんて、ないに越した事ねえですなぁ。」
などとぼやいて、目の前に流れ着いた、黒い点々と傷が逞しく走るひと玉をつまみ上げた。傷はともかく、黒い点々は消えるのか――定かではないからこそごしごし擦ってみたものの、湯気と共に更にくっきり見えただけであった。そうして、微かにのこった柑橘の透き通った冬の香さえをも吹き消そうと、観念のため息をついた。
「この傷をね、お持ちにならない兄様を俺は存じませんが……貴方はこうして此処におられるではありませんか。なら、何度だって俺が手当致します。それも俺の願いで、貴方にお返し出来るかもしれない、可能性を含んだことですから。」
「……」
「もっと、手当てさせて頂いてもよろしいですね?」
「したところで、すっかり治りゃしねえんですぜ。ははっ」
―本当にあんたは酔狂だ。と百之助は目を合わせることもなく、縫合痕をぐい、と持ち上げた。
◇◇◇◇◇
「消えるほど、綺麗に処置するとか。或いは、きっちり治すですとか。医学だって永劫途上に在る学問なのですし、俺はその門下にすぎません。そんな大それたことは申し上げません。ただ、手当をさせて頂きたいのですよ。」
貴方にこうして触れられる――手を当てられることが、何よりも幸せなのだ。親愛を包み、しん、と静まっていた感情を、いとおしさで綻ばせる。綻んだ序に、薄紅に色づいた兄の耳輪から熟れ具合を確かめた。
「……っふん。」
勝手にしろ、と知らんぷりを決め込んだ兄の背中に、別個に分かれた果実の房を戻すように張り合わせる。二つの身体を其々に編んだ管の内の脈は、互いの拍を読み取り、緩やかに交錯し始めた様だった。
水中に沈め切った筈の尻の、狭間の真ん中に割って入ろうとする大きな欲求を避けようと、無意識に尾骶骨が浮き上がっているのに気が付いた。
いつだって、今日だって、こうして隠し通そうとしたら絆されて、抗いの余地すら残さずすっかり丸めこまれてしまう。
ささくれだった言葉で、湧きおこる思い遣りを持て余し続けている弟を牽制してみるものの、結果は意図も容易く覆されるのも毎度のことだ。
――本当に、こういう時、どう受け答えすべきなのであろうか。
ひたむきに、愚直とも言える感情を自分に向けてくれる彼に対して。
何せ、いつだって迷うことなく丸く包み込もうする。時間が積もり、慣れたつもりになったとて、毎度己が不器用さや、思慕の伝え方の少なさをひいては、自身の中での感情の保ち方が不得手であることを、思い知らされる心地になるのだ。
「…ぁ………っははは、治らねえ俺にまでお気持ちを向けて下さるんです。あんたのご立派なお姿に、御成育に携わられたご関係者様はさぞご満足になっているのでしょうな……っ」
などと、無意味な皮肉を投げる。
「――……」
勇作は兄の皮肉入りのボヤキを耳にして、思わず眉を下げた。このひとは、こうして不器用に甘える(と思っている)。
それはそれは、よく理解している。
一方で、自衛のための皮肉が、時折卑屈に聞こえることがある。おまえに彼よりもずっと不器用で、無力な筈の勇作をこうして不思議なほど『彼から遠い存在』として見做す癖がある。先程の言葉はまさにそれで、びり、と苦い笑みを思わず浮べてしまった。
――自分だって、あくまで一人の人間なのだ。貴方のことを愛おしく思うばかりの、無力であると理解している分を補うべく、必死に最愛の貴方に尽くすことを考えてしまう。そういう、不器用な存在だ。
「俺のことを間近で見て、手当下さっていたのは女中さん達になるのでしょうかね。泣いたり、笑ったり…素朴な感情を受け止めて下さった記憶がありますね。母も俺を同年代の子どもがたくさん住んでいる寄宿舎に入れたくらいですから、俺の本質を見抜いた上で接してくれていた気もしますし、実際によき友人にもたくさん巡り合えましたが……一方で…」
父は、と口に含んで飲み込む。ドロリ、せり上がった粘膜が勇作の喉を伝い、身体の中心の昏い部分へとひとりでに降りていく。社会人として立派な人だったのは間違いない。だが、私人としての彼は、我が子らの人間性に強い影響を及ぼすことはなく――煙に撒かれて姿が霞んでいる。言ってみれば、残念ながらあやふやな存在だ。奇しくも兄と自分、双方にとって。
「…父に至っては、きちんと言葉で感情を交わせるようになった筈の俺とは会っていません。よって、父の理想を一方的に伝え聞けど、直接的には何も。この通り、誰がどう接して、育ててくれたと思い返しても…俺の奥深い部分に触れて、気持ちを分かち合ってくださったのは、兄様、あなただけなのです。」
「……」
友達よりも、恋人よりも。ひいては、親や配偶者よりも。この手が小さな頃でも、大きくなってからでも、兄弟は、素の感情で触れ合える存在なのだろう。そんなふうに、兄に出会う前にも友人らのやり取りをみては、淡いイメージを描いていた。
実際そのイメージは凡そ合っていて、人生の途中での邂逅幼い頃ならば持ち得なかったであろう、言葉にはし尽くせなかった感情も含めて大切に育んでこれた。そうして長い時間を経てきた無二の繋がりが、こうして二人の手に在る――ならば幾らでも愛でていきたいと思うばかりだ。
ボヤキをも逃さぬと兄の輪郭を大切に包み込み、一旦は離した手で、風呂の底で独り膨らみを育てつつあった花芯に触れる。此処には、いとおしい果実が実るのだ。その姿を想って隅々までこの兄を愛おしむこの手は、我が身のなかでも一等果報な器官だと思えた。
「ゃっ……」
「聡い兄様でいらっしゃいますから。よくよく、おわかりですね。」
「ん、何が………」
「何度でも申し上げますが、俺は、何だって貴方と二人で丁寧に触れ合って、分かち合いたいのです。此方を向いてくださいますか?」
勿論、まばたきひとつだってそのうちですからーーと、ささやかな願いを口にする。湯に蜜を溶かし出したであろう鈴口を労わる仕草―しかし焦燥を齎す指遣いで、緩く撫でる。ふる、と兄の肩が甘やかに震えるのが、抱き触れた自分の肩から鎖骨の稜線に伝わってくる。
指先で描いた想いが伝わっていることにほっと安堵する。反面、ならば、より大きくて冷めやらぬものに代えて、触れ合いながら手渡したくなる。
「……」
勇作は、ぎゅう、ともうひとたび百之助を腕いっぱいに抱きしめた。背面に沿って寝かせた指先をそろりと引き立てると、ダンスのパートナーを胸元に誘う手つきで、ぐるりと百之助を自らの方へと向かい合わせた。小さな浴槽の入江で凪いでいた潮が一挙に波打ち、水面にゆるやかに立ち込めていた柚子の香りは、またたく間に流れの中心の二人の輪郭を包み込んだ。
「ね?」
「………っ」
あっという間に向かい合い、勇作の太腿に馬乗りになった姿勢となった。甘やかに動いた指先だけですっかり膨らんでしまった花芯が、臍の真正面に据えられる。どうしたものか、と自らの中で悶々と思い悩んでいたものの、いざ向き合って勇作のまっすぐにいきり立ったものの先端に擦れると、絆される諦めを通り越した熱が、じゅん、と花芯の内側を貫いていく。
「……なら、勇作さんがご納得いくまで……。」
「お望み頂けるならば、兄様のお求め以上に。……ああ、此処ももう膨らんでますね。お可愛らしいです……」
蕩けた表情に薄く張った膜のような、百之助特有の笑み。触れれば一瞬で崩れ、勇作の神経に混じり込んですっかり麻痺させるのだから、敵わない。貴方にはまったくお手上げなのだ、と、昂りを堪え切れず、まっさらな白旗の微笑みを零す。その歓喜冷めやらぬうちに、目の前に差し出される格好となった乳暈に、ぺろ、と舌の正中溝を添わせた。刹那、花芯への刺激を遠く聞いて膨らみかけた其処に、忽ちびりりと電流が疾る。左右とも次の刺激を待ち望み、先端を敏感に尖らせ始めた。
冷え冷えとした暮雪の肌に溶け馴染む心地よさに伏せていた目線を、そろり兄の面へと向ける。こぢんまりと整った身の内に溜め込んでいたのであろう温かな吐息が、秘められた薄紅を頬から耳へと滲ませ始めているのが伺えた。
――大袈裟に見せないからこそ、判り易く語られないからこそ、隅々にまで触れていたい。
薄紅の原石をかすめ取る仕草で、先に唇を寄せていた反対側の中心に爪先を立てる。一欠けらごとを検分するかのように、背に掌を張り付かせた儘、口元と爪先でいとおしんだ。
「……ッあ……」
ざぷっ……ばしゃっ…百之助の空になった手が、溺れそうになりながら水面を叩く。隙間に入り込もうとした小粒の柚子ですら浴槽の淵へと押し除け、漸く勇作の首元へと漕ぎついた。
懇ろな愛撫で百之助の内部で渦巻くもどかしさを誘うと、爪先で勇作の肩にしがみ付いて応えた。既に花芯は既に爆ぜそうに昂り、未だ入口にも触れられてもいない最奥部が疼く。
――どうにか、なりそうだ。
「もっと……此処、も……」
いつもとは少々異なる雰囲気に誘われる儘では、済まなくなってきた。
「うん……まだ、此処に及ぶには足らないかと…俺も、兄様も。」
「……」
ご納得頂く迄、と仰るならば――と、雲間から射す陽そのままの眼差しで百之助を諭すように射止める。
事実最も敏感な部分だけに触れるだけでは、溶かしきれない部分がある。
土壇場での機転の利いた判断が出来る兄だけれど、時折独り焦って失敗しては、遠くを見つめていることがある。その背恰好だって、勇作だけが知っている兄らしい姿に間違いはない。ただ、二人でまぐあう時も先を急く兄に任せた結果、という事も儘あるものだから。少なくとも、多少なりと丁寧に解かせればとも思う。
おまけにあんな形でぼやかせてしまった――長い時間を共にしてきたからこそ、かえって忘れてしまっている、お揃いの部分を確かめた今夜位は。心惜しみなく兄のそこかしこを満たしたかったし、なるべくならばそうすることが、自らにとっても今夜の至福だと思った。
――焦らして申し訳ございませんが、と、乾いた兄の唇を急ぎ潤す。すう、と肺の奥底から目尻にまで深呼吸を行き渡らせた後に、
「…では、此処はこう致しましょうね。」
と以後の手筈を、自らの先端で指し示す。
―ずっ……
花芯の先端がもどかしく触れ合っていたところから、一瞬腰を引いた。そうして、そのまま百之助の会陰から亀頭の括れまでの筋を硬い先端で彫り込む。貫かれる欲求が未だ満たされない動揺が、百之助の羞恥を煽る。
納得の可否はともかく、こう煽られてしまった以上、早く欲しくてたまらなくなった。
花芯に浮かび上がる血管一本一本に至る迄確かめ合う懇ろな行為の齎す快感が、速やかに指先の末端にまで染み渡る。
「っく……ゆ、さく、それ…………」
「うん…兄様、腰が……」
「な…ん……?何言って……あっ」
「……『いつも』でしたら、『もう、』です。けれど、こうして『お互いに』納得いくまで…ゆっくり当て合える…ことは、あまり御座いませんでしょう?」
――今日はこうする方が、宜しいかもしれない、と思いましてね。
と、百之助の腰を捉えた勇作の、切れ長の目尻が先の鮮烈な光線の眼差しは、少しふやけた様にとろとろしている。
いつもなら酒に酔う獣然とした、鋭い雄々しさを醸す雰囲気なのだが。納得いくまでと伝えてしまったが為なのだろう。勇作自身の欲求に忠実に、性感帯を隈なく撫でながら怒張する雄と、まどろっこしいほど懇ろな愛撫をしたがる癖を「ご納得いくまで」と許容されて安堵したような、妙に寛いだ表情が混ざったように見え、なけなしの百之助の余裕をあっさり奪う。
(……いかん………)
ぐらり、意識が湯の波間に再び揺れ、その合間に例の愛撫を受けては独り融け消えそうになる。
「やっぱり、ここだってお可愛らしい……」
「……ひゃ、………!そればっか、や………めろ……」
水面は大きく時化続けた。すると二人の身体に押され、果皮同士が擦れ合った柚子の香がじゅん、と深い香りを立てた。
◇◇◇◇◇◇
亀頭は銛の鋭さで百之助の内側の入口すれすれまで迫る。そうして、内側より込み上げ、滾る欲求の証を百之助の全身諸所に見出しては、抉り攫う。そうして微かに漏らす喘ぎをも幾度も掬い続けて、暫く――
重みのある百之助の牙が、勇作の僧帽筋に鈍く刺さる。
「っ……にさま⁉」
同時に湯の中を掻き泳いでいた指先で、ひとたびの絶頂へと百之助を拐う途中の勇作を捉えた。
「……あっ、一度、とまれって……!」
勇作の意識が反応した時には、先程迄真白のまま独り凍てていた百之助の肌は血色を取り戻していた。ただ、これは徐々に秘所へと入り込んでいく行為の筈なのに。こうして薄皮一枚挟んだような、もどかしさばかりが積もることに、納得がいかなかった。
「ふぁ……っ、その、無心になってしまって………申し訳ございません。」
「………」
――お前が納得いくまで、と確かに言ったのは俺だ。
ただ、独りにしてくれるな。と、ぽろぽろ漏れ出しそうな涙腺まで一緒に、きゅうっと結びきった面で睨む。
ごく僅かに、風呂場の隙間から入り込んだ冷気に触れた百之助の肩がぴくりと動いた。
ああもう。『自身をどう手当てすべきか』なんて方法論なぞ。とうにひとつはもっているのだし、やっぱりお前が手を出さなくてもどうにでもなった筈だ。と、百之助は小さなため息を落とした。
ただ、お前が『その答え以外』を、わざわざ新たに手渡してくれよう、と言うならば。そうしてぽろりと何か重要なものを落とした儘、お前「も」独りで駆けだしそうになるならば。
「…手、寄越せ。」
「えっ、は、はい……」
百之助は結びきった口元をさっと解き、一切の表情をくしゃくしゃに丸めて飲み込んだ。喉元までぎっしり感情と思慮を詰め込んだ我が身ごと投げつける強さで、おずおずと差し出された勇作の手を握りしめる。
先程の陽の眼差しを散々受け、熱を溜め込んでいた重い黒曜石の瞳を向けた。言葉を詰まらせている儘の唇を押し開けて、思い切りかぶりついた。
「ん………ッ」
勇作の整った扁桃の瞳が、丸く見開かれる。伏目の下に並べた反省と戸惑いの影が払われ、一気に晴れ上がる。
ただただ、兄を想う気持ちが、分かち合いたくて注いだ一心が、想像を大きく超えた熱を含んで戻ってきたことに驚いた。
「ッは…兄様、」
「………も、いい………」
「……申し訳ございませんでし……」
「ん、とに、手がかかりますなあ……。」
ほんのわずかの間でいいから、ただ純粋に満たせればと願った。が、束の間に、独り歩きしかけてしまったらしい。
ちゅう、と、詫びを唇に重ねた時には、兄の精一杯が大きな瞳いっぱいに映っていた。
「……っふ、んぁ……何度も言わせんな。早く、しろ。」
「はい。お望みの通りに。」
連日連夜まぐわいを繰り返してきて、すっかり二人に馴染んでしまった双丘を自ら開き、亀頭先端を掌で包んで宛てがう。その下で少しばかり首を下げた勇作自身が何処かへとはぐれないように、左右からぎゅうぎゅう圧をかけて扱く。その真下―陰嚢から会陰をそろり辿った隙間の先に奥まった淫門に自らの指を差し込み、最奥へと連なる肉の疼きを慰めた。
「ふ……ふぁ………ッ」
焦らされ続け、危うく蕩け消える寸前だった百之助の欲求が、間近で再び硬く兆している陰茎を待ち構える。
誤魔化し序に勇作の口を塞いで、左眼ひとつで滾々と説いてやる。
いつだって器用で、不器用で。俺よりよっぽど大きな身体に一杯に詰まった気持ちが、指先から、眼差しから溢れて注ぐばかりで。ただでさえ受け取ることが不得手な自分なのに、受け取るのに必死なのだ。と。
「……此処、あんたの手を当てて下さい。」
「はい…!」
はっとしたきり、風呂の底板に沈み込んでいたもう片方の手を引っ掴み、自分の仙骨の曲線に添えさせた。
肺一杯に溜め込んでいた熱気を吐きながら、胎の中へと勇作自身を迎え入れた。
――今この瞬間に分かち合えるように、と、手をそっと当てて。
◇◇◇◇◇
「湯冷めしないように、此方を」
湯上がりの脱衣所ですぐに差し出された寝間着の浴衣を、百之助はじっとり重いまなざしで返品した。一瞬、その湿度に身じろいだ勇作だったが、「手の掛かる先生に兄は大変に疲れました――手当の一環で、寝間着を着せて下さってもよいですよ」とのこじつけを聞いて、ほっと表情を緩めた。
やれやれだ、と百之助も同時に表情を緩めた後、ぽつりとつぶやいた。
「手当なんてな。医者のやったこと以外は、記憶になんぞねえな。身体が動くようになるまで、取り敢えず寝てるだけだ。」
「左様ですか。俺は……先生の処置以外ですと、印象深いことがいくつかありますねえ。」
「はあ。ま、どうせお女中連中の甲斐甲斐しい世話の数々でしょう?」
「確かにそれも幼い頃には存分に……今思うと申し訳なくなるような甘え方もしてしまったと反省しております。ただ、そういった幼い時分のことだけでなくて……入院中に届く便りが、とても印象深く残っておりますね。」
「ほお?」
「一部の病床の友達にはご兄弟からの見舞いの便りが密かに届いておりまして。下はクレヨン、上は立派な万年筆の筆跡で……それを傍で見守っていますと、自分までとても温かな気持ちになったものです。」
「はあ。」
――手で綴られた便り、とは、そういう類のものなのか。
百之助は、ふん、と鼻を鳴らす。
手から手へ繋がるものとは、随分記憶に残るものだと、ほとほと感心するばかりだ。しかし今ひとつ病の手当とは結びつかず、ただぼんやり耳を傾けては、相槌を打った。
誰かの手で綴られたからと言っても、そのありがたみの意味が今一つ想像しきれないのだ。
「…そうなのか。」
「ええ。手紙を読み終える頃には、どなたも顔色がふわっと良くなるんですよ。これもまた、無上の手当なのだと思いましたね……」
それと何を話そうと思ったのだったかしら。と、目線を天井に向け、寝巻きの仕上げにとお揃いの赤い半纏の前紐を結ぶのを止めた勇作の、人一倍厚くて不器用な手をおもむろに包み拾う。
「兄様?」
(……なら、こうしとくか。)
じゅわりと潤いを帯びた熱が、両の手の彼方此方の関節に出来た白いひび割れから染みこんでくる。すうっと持ち上げて唇へと寄せると、勇作そっくりの、まん丸の柚子の香りがふわりと膨らんだ。
【半宵・了】※取り敢えず、加筆前提で……お粗末様で御座いますm(_ _)m