白夜月(壮年勇尾、髭に欲情する兄の話続き。) 一通りうどんを食べ終わる頃には、青白く冷めていた勇作の頬に薄紅が差した。しと、と潤いをも得た様に、上気している。
(…そうそうない光景、だな)
弟の髭は然程濃くない。というよりも、ほぼ見たことがない。顎髭を調えている自分よりも、ずっと薄いはずだ。
…長年連れ添ってきた百之助は確かに知っている筈なのだが……振り返ってみても、どうにも記憶にないのだった。
見ている様で見ていない。みっちり日々を暮らし、この歳を迎える今尚そんな事があるとは、まったく不思議なものである。
冷やした番茶を喉を鳴らして飲み干す太い首筋も、喉仏も、薄銀の顎髭の並びに連なると精悍である。その雄然たる気配を上品な嫋やかさが薄く覆っているのだから、いっそう天から降りてきた何者かに見えてくる。
その軸の中心から逸れた脇を、つうっと、一筋の汗が伝った。
(………)
近くに控えているだけでもこんなに光景から目を逸らせないのに、当の御本人様は色々疎くて気づいて居ない様だ。
「…勇作さん、お着替え出しましょうか?…寝汗もかかれたんじゃないですか。」
百之助は枕元から立ち上がると、背後の箪笥の金具に手を掛ける。勇作の寝巻き用の浴衣をもう一着出して、床に身を起こして待つ横においてやった。
「ああ、そうですね。お手数をお掛けして申し訳御座いません……助かります。有難う御座います。」
勇作は普段、兄の手を煩わせぬ様言外に世話を焼く。
第一印象は危うさが勝り、異質を感じるところが大きかった。だが徐々に別個の生き方で培われた境界は融け、二つに分かれたものが引き合い、時として薄皮を挟んで馴染み合う。そういう阿吽を感じることがある。
そんな弟の優しさが兄としてはいつだって心地よいらしく、無意識に甘やかされる。無論弟から兄への方向のものだけでなく、真逆も大いにあるようではあるが。
今日の、今湧き起るこの感情の起点に在るのは、甘えの類ではない。
永らく培われてきた、唯一を独占して噛み締める多幸への希求だ。
「じゃあ、お座りになった姿勢でいいですから。お手伝いしますよ。」
引っ越してきた当初から二枚目の誂え足しを結局しない儘、幾度となく打ち直しに出してきた敷布団に膝をつく。ちょうどこの間なおしたばかりなので、いつも通り二人乗ってもふっくらして心地が良い。
―夏が来る前に手配していて大正解だった。
百之助は、ふ、とかさついた唇を薄く開けて得心を漏らした。汗を吸ってしんなりへたってしまった勇作の浴衣の襟元にそのまま手をやると、ぽかぽか温もった唇と、ごく細い顎鬚に短く口づけた。
「……あら、俺の着替えを手伝ってくださるんでしょう?」
髭が気になって仕方ないのだろうと思えてならない、二度の口づけがただ愛おしい。勇作はなだらかに骨ばっている拳を口元に当てて、くすくす笑ってしまった。
百之助は年齢不詳で必要以上に年若く見られることを気にして、若い頃から綺麗に整えた顎鬚を欠かさない。勇作が長年みていても、こじんまり、ひっそりと整っている魅力にはまるで自覚がわかないらしい。その魅力を挙げていくならば、生来の大きな漆黒の瞳と、青みがかった暮雪の肌に与るところが大きく、奥迄見透かせぬ彼の本質の不明瞭さが、整った髭の瀟洒な風情と相俟ってより注目を集めるのだろうとつくづく実感する。
―そして、それは銀鼠色が差す歳になった今、対比でより鮮明に魅惑的に浮かぶのだ。
そんな本人には一切見向きもされない気の毒な素晴らしさにもお返しをするといった風に、勇作からも二度口づけを落とした。
「うん、やはり兄様はお美しいのですよねえ。」
「先生ェ……次の眼鏡は度を変えた方が良いんじゃねえですかい。……帯を解きますよ。」
「はいはい。度は有っていますから御心配には及びませんよ。」
身体正面の下丹田あたりに、きちんと結ばれた浴衣生地のやわらかい帯に手をかける。触れてみれば、これも浴衣本体と同様にしっとりと一夜分の湿度を含んでいた。軽く束ねて、一旦邪魔にならない脇に置く。
寛いだ前襟に指先をかけ、するりと肩から浴衣を滑らせて落とす。次は少し胸を合わせて抱きかかえるようにして、尻の下敷きになった部分を引き抜いてやればいい。
「…勇作さん、ちょっと尻を上げて……ああ、そうです。布地を引きますよ……」
「はい」
日夜生真面目に畑仕事にも勤しんでいる甲斐あって、歳を重ねた今でもいい塩梅に―堅実についた筋肉が、恵まれた長身の体躯を編み上げている。全体を包む肌は、さながら陶器の器面ほど抜けのない滑らかさだ。
―何度見たって、実に密度が高い身体だと思う。
「有難う御座います。」
「いいえ。じゃ、今日のところは身体を拭いときましょう。汗疹になったら痛えですから。」
一旦浴衣を払った剥き出しの身体を直視しない様に、ふいっと目を逸らす。本人曰く休めば治るとのことだが、一応は人生を変えてしまった病が居残っているのだ。この上、端麗な皮膚に新た何かが出来てしまうのは、たとえ一過性のモノであってもどうかと思った。
(とはいえ、御本人様は例によってあまり気にしていないのであるが。)
そんな取り留めのないことは勇作本人に決して言わない。
兎に角、固く絞った手拭いで上半身を中心に拭ってやる。広い背中に、厚い胸板にと手を動かしていく。臥せっている間に僅かに積もったくすみが、みるみる掃かれていく。
「……お手数をおかけして恐縮ですが、疲れが取れる気がします。有難う御座います。」
残すは、首筋と顔だ。
「さて、顔は自分でどうぞ」
「はい。」
濡れ手拭いを受け取ると、勇作は丸眼鏡をくいっと癖っ毛の上に押し上げた。
そのまま目元を起点として、額、頬…やがて渦中の顎と首筋までごしごし吹き上げた。目尻に入った松葉の笑い皺が、濡れ手拭いで瑞々しく磨かれて艶めいている。
耳の裏付近まで勇作の手が進んだ時、ようやっと一通りの垢を拭い去った感じがしたのだろう。手を止め、ふう、と心地よさそうに笑った。するとまあ、笑い皺も、無精髭もひときわきらきらしているのだから、まったく神様ってのは平等で不平等なもんだ。百之助は頭を抱える如く俯いて、自分の髪をかき上げては後ろに流す――まったく、いつどこを切り取ったって、全部を持っていくのだから手に負えない。否、結果的に抗えないやつなのだ。
―取り敢えず、なんでもいいから早く着せておこう。
どこぞの天女だって、衣を隠されてしまった折には帰れなくなって困ったらしい。百之助はそんな土地の昔話を、ついこの間店に来た老婆から聞いたところであった。
無論、今回の養生の原因となった症状が致命的なことを招くことには繋がらないとわかっている。それに天女は衣を再び得たうえであの世へ帰った訳で、目の前のこいつは此岸の人間であって、衣を得たところで何処にもいかないのだと重々理解はしている。が、まあ、無精髭一つ、飾らぬ身ひとつで、ありとあらゆる方向に何度も何度も思考と欲を向けさせてくるのだから、いろいろ歳を重ねてきた心臓には悪いというやつだ。
なら今はせめて、その心臓に悪い要因に――特に悪化するほうに舵を切ったら…といった不安には、蓋の一つや二つくらいはすることにしておこう。
こういう風にペースを握られて押し流される風に生きて養ってきた自分の勘というやつは、侮れないのだし。
(俺は間違ってないよな、うん……)
と、あらぬことまみれのボヤキを散々脳裏に浮かべて、ようやく結論づいた。
その熱を逃がそうとしたのだろうか、密かに耳元が色づき始めた。
「…折角飯も入って、起き上がれるようになったんです。悪化しねえうちにとっとと新しい寝間着を羽織って下さい。」
「……?そうですね。はい。」
勇作の脇に膝立ちになって新しく出した浴衣を大きく広げると、ふわりと肩から背を覆った。そのまま袖を通させて、さあ帯を……というところで、相も変らぬ大きな瞳の光が下から覗き込んで兄を捉えた。
「…兄様、有難う御座います。でも……お腹が空いておられたのではなかったですか?」
ぽつりと、百之助の核心に慈愛を落とす。いわば下卑た匂いなどない、開いたばかりの花の香りのような温かな類のものだ。
百之助は少々乾いて固まった年嵩の思惑を、瑞々しい想いにこそばかされた心地になって言葉に窮した。
「……いや、あの……んん。」
「ん……なんです?」
手短に舌を絡め、改めて百之助の渇きをみた。
―苦い。
階下で持て余した独りの味が、先の口づけで感じた糖衣の中からじゅわじゅわ溶け、漏れ出している気がした。一箱くらい、ぽんっと開けてしまったのではないだろうか。あれほど本数を減らすように懇々と話しているのに。
「………うー…ん……俺より余程、ですよ。これは。」
「別に。最近食も細くなってきましたからこんなもんじゃねえですか。」
「いいえ、いけません。」
勇作はやさしく、ぴしゃりと言い切った。
前言撤回だ。肝心な時に、こいつは器用さを落とし込んでくることがある―しかも、こうしてやさしさの隙間から、ひと思いに。まったく、手に負えない大物になっちまった。
「心なしか、お腹のあたりだって凹んでいますよ。ちゃんと、召し上がって下さらないと。おちおち寝てもいられません。」
「…なら、兄の食事の番ということにしておきます。あんたの分はもう終わりましたからね。だからそのままで居るんです……せいぜい、真っ赤な嘘の申し開きでも考え解いてください。」
百之助は少々語気を強めて言って、勇作の口にかぶりついた。
「―――兄がきちんと食べられるかどうか、御目にかけましょうか。」