Mojito o Gimlet 複雑に入り組んだ薄暗い路地を抜けると、ぽっかりと空いた明るい場所に出る。建物と建物に挟まれた、何にもならないがゆえに放置されている、まさに猫の額ほどの土地だ。赤いレンガ壁は蔦に覆われ、いたるところに実のなる木や便利な合法ハーブが咲いている。白いベンチとテーブルまで置かれており、パラソルまで用意されているが、今は閉じられていた。硝煙と魔リファナの匂いしかしないこの街の中では、ファンタジックなほどの異世界感がある。
ベンチの影、ライムの木の前で、随分と大柄な男が頭を抱えてうずくまっていた。
強い風でも吹いたのだろう。小さな白い花が、限界まで丸まった背中に散っている。白銀の髪を掴む指は震え、太い腕で顔は隠れているが、うめき声まで聞こえた。
「先生」
カルエゴがいつもの通りに呼んだが、反応はない。
どうやら、今回は相当重症なようだ。
カルエゴが、ドン・イルマから連絡を受けたのは数刻前のことだ。
『大変なんです! バラム先生が! 先生を、先生を止めてください!!』
イルマたちは朝から、「今日はバラム先生が薬や機材を調達する日だから、いつもお世話になっているし、荷物運びのお手伝いに行く」と出かけていた。なぜマフィアのドンが、お手伝いに行くのか。そんなことを疑問に思うことすら辞め、金庫番たるカルエゴはいつもの通り事務所で札束を数えていた。
電話口から聞こえてくるクララの悲鳴と、何かが壊れるけたたましい音。パニックの中に広がる単語を拾い集めると、薬品類を運んでいたら小さな男の子たちを虐待している大人たちを見つけ、咎めに入ったところ、彼らは人身売買の一味で、彼らの隠れ家まで乗り込んでいった先の状態があまりに悲惨で、それが闇であっても医者であるシチロウの逆鱗に触れたのだ。
クララは檻に入っていた子どもたちを抱きしめるのに手一杯で、アリス一人では力不足、護衛でつけていたオペラに至っては、シチロウを止める気はないとのことだった。
それぞれのトラウマや抱えているモノがあるのだろう。
気がつけば、カルエゴは走り出していた。手にしていた札束を放り投げて。
『なにやってんだ……お前ッ』
ドスの効いた声が聞こえてきた瞬間、彼は全てが遅いことを悟っていた。
そして、その通り、辿り着いた現場には、泣くこともできずに震える子どもたちと、それらを抱きしめ泣きじゃくるクララ、傷だらけで気を失っているアリス、その彼の名を呼び続けているイルマ、シレっとした顔で灯油をまきだしたオペラ、それから大量の死体。いや、中にはまだ生きているのもいたようだ。最短距離で真っすぐ歩くために踏んだら、グエリと蛙がつぶれるような声が聞こえた。
「カルエゴ」
そう呼ぶ男の目には未だ狂気がくすぶっており、カルエゴは慎重に声をかけた。
「アリスを病院に連れていけ」
いつものように、心がけるまでもなく偉そうな態度でお願いをすれば、シチロウは視線をさまよわせた。ピンク色の頭を捉えたのだろう。彼の目がどんどん丸く開き、深淵の底から這いあがってきていた感情が霧散していったのがわかった。
「ぼ、僕……」
もう大丈夫だろう。そう、荒い口調の彼を知る男は判断した。
普段温厚なシチロウが暴れたのは、今回が初めてではない。
最初は、医学生だった時だ。優しく理解のある両親の元で生まれ育ち、優秀で、生物に興味があったシチロウは医師の道を目指し医学部へ進み、順風満帆な生活を送っていた。だが、ある日事件に巻き込まれてしまったのだ。それも、事の発端はカルエゴだった。法の番人たる家系に育った彼もまた優秀で、多少ヒトよりお金に興味を持っていたので、ビジネスロイヤーになるために法学部へ進学していた。
カルエゴが小さな子どもが誘拐されるところを目撃し、それをシチロウのバイクで追走してもらい、2人してアジトを突き止めたのだ。警察もしくはカルエゴの実家に連絡しようとしたところ、シチロウが動いた。そいつらは、子どもの臓器を売買していたのだ。生きた子どもの、新鮮な臓器を、だ。狂った連中を撲殺していく彼もまた、狂っているように見えた。
危ない商売は、危ない奴らの後ろ盾があってこそ成立する。悪徳政治家たちや報復に熱意を燃やすマフィアたちの手前、2人は死んだことになり、カルエゴの叔父が世話になっていた組織に、彼らもまた世話になることになったのだ。
あの事件以来、シチロウの、いや2人の“普通”の箍は壊れた。
カルエゴは誰よりも金に執着し、シチロウはか弱きモノを痛めつける奴に我を忘れるようになった。この世界に入ったからというよりは、元からそういう性質だったのだろう。
「とりあえず、アリスの治療をしろ。ここを片付けたら、俺も行く」
ウズウズとしているオペラからマッチを奪い、イルマを連れて事務所へ帰るように指示をする。イルマにはクララを支えて事務所へ戻れと言えば、彼は大きく頷いた。まだまだマフィアとしてはぬるいが、ドンとしてはしっかりしてきているようだ。それから事務所へ連絡をし、“ゴミ処理車”を手配した。
その他の処理を終わらせ、今に至る。
いまだに、自身の体から灯油と血の匂いがしている気がしてならない。
狂気から覚め、今は後悔の渦に飲み込まれているのだろう。
「シチロウ」
旧友であるカルエゴしか呼ばない名を呼べば、男はようやくノロノロと顔を上げた。
「カルエゴくん……また、やっちゃった」
「みたいだな」
彼の大きくて丸い目に、涙の膜が張っていく。
「僕、怖がられたよね。嫌われちゃったよね」
シチロウは、小さな子どもや小動物が好きだ。変な意味ではなく、純粋に。まだ見ぬ未来を抱えて生きる小さな命を支えることが、彼の希望なのだ。だから、イルマやアリス、クララといった若者に懐かれるのは、彼にとってはこの上ない幸福であり、彼らがかけがえのない存在であることは確かだろう。
それを失うことが、どれだけ恐ろしいか。
カルエゴには理解しがたい部分ではあるが、わからないわけではない。
「アリスは無事なんだろう?」
「うん。今は麻酔が効いていて、よく眠ってるよ」
ならば問題ない、とカルエゴは大きな肩をポンポンと叩いた。
「その辺のガキと違うんだ、こちとらマフィアだぞ」
最初に助けたガキどもは、拳ひとつでヒトを殺したシチロウを「化物」と呼んだ。悪質なブリーダーから助けてやった犬どもは、尻尾を丸め縮こまって震えた。助けるたびに、彼は助けた相手に怯えられ、拒絶される。
彼が頭を抱えてうずくまっていたのは、ヒトを殺した罪悪感からではない。大好きな、大切な若者たちに嫌われることを恐れてのことだ。
「緑が泣いていたのは、自分の昔を思い出したからだ。ピンクは妙に正義感が強いから、お前に喧嘩を教えてくれといってくるかもしれん。赤は、知らん!」
シチロウが大きな背中を伸ばし、ゆっくりと立ち上がった。
「僕……大丈夫かな」
「“怖さ”なら、俺で慣れているだろう」
「自分で言う、そういうこと」
シチロウが僅かに笑った。
「うちのドンは……あの年で何を見てきたんだか、真っすぐな澄んだ目をしているくせに、自己犠牲を当然と思い、恐怖や危険に慣れきって……まったく、血のつながりも何もない癖に、どうしてジジイにああも似てやがるのか」
カルエゴがタバコを取り出し、マッチで火をつけようとしたが、シチロウは彼の薄い唇からタバコを奪った。
「ダメ。まだ灯油の匂いがする。引火しちゃうよ」
「気のせいじゃなかったか」
「嗅覚は慣れやすいから、自分じゃわからないかもね」
スンスンとスーツの腕を匂ってみたが、もう鼻に匂いが染みついているようで、なにもわからなかった。
「お風呂貸すよ」
「ああ、そうしよう」
走ったせいで、汗も沢山かいたのだ。冷たいシャワーは、ちょうどいい。
「喉が渇いているんだ。風呂上りに、モヒートの一杯でも飲ませてくれ」
「モヒート? 君、そんなに好きじゃないでしょ」
「こんなにミントが生えているんだ。たまには、な」
そういいながら、カルエゴはシチロウの肩に乗ったままだったライムの花を摘まみ上げた。
「それに、ギムレットには早すぎる」
指先から放れた白い花は、風にのってどこかへ飛んで行った。