キミとじゃなければ どうしよう。
何度もそう思いながら、シキはキーボードの上で両手を開いたり閉じたりしていた。額には冷や汗が浮かび、唇がかすかに震える。
深夜のミカグラ島の公安オフィス内。パソコンに向き合うのはただ一人、シキだけだった。零時を過ぎるまで残業するのが日課のようになっていたが、今はいつもの業務が全く手に付かない。
ピッ、と通知を知らせる音が、薄暗い空間に響く。
飛びつくようにタブレットの応答のボタンを押した。
「チェズ……」
「こんばんは。時間がありませんので単刀直入に言います」
呼びかけはあっさりと遮られる。どうやら向こうも焦っているらしい。
「状況は把握していますね?」
シキはその一言で、通話の相手が自身と同じ立場に立っていることを把握する。
「……うん」
通話中のタブレットには目もくれず、シキはモニターを凝視していた。
「けっこうです、ハッカー殿。まずは、あなたの指を止めている理由を消してさしあげましょう」
「え?」
全てを見透かされているような口ぶりに、シキの肩が跳ねる。
「あなたが動けば、助かる命がある」
言い聞かせるような、力強く低い声音だった。
「それだけで十分でしょう」
声だけの通信だったが、その相手、チェズレイの表情がありありと頭に浮かんだ。これは脅迫などではない。
ただの、お願いだ。
シキは静かに目を閉じて、一度だけ深呼吸する。
『裏口を押さえてくれ! 僕は犯人を追い詰める!』
モニターから、傍受している彼の声が聞こえた。
『もうこれ以上、誰も傷つけさせない!』
迷いのないヒーローの声と同時に、シキは目を開けた。すっとキーボードに手を置く。
「チェズレイ、どうすればいい?」
ふふ、と妖しく笑う声が、タブレットから聞こえる。
「いいですねェ。話が早い」
そんなチェズレイの声を聞きながら、シキは指を動かし始める。モニターには複数のウィンドウが開き、その中の一つは地図が表示された。
「おわかりかと思いますが、警察はアレの存在を把握していません」
「うん。犯人も匂わせてないからね」
『こちらB地点現着』
タブレットの会話、通信の傍受、パソコンの操作を同時に行いながら、シキは冷静な表情を崩さない。地図の上に通信からの情報を記していく。
「恐らくは、捕まったときのための最終手段でしょう」
犯人が用意した最終手段。それが万が一の保険だったとしても、今回は必ず使われるだろう。
「でも、犯人は必ず捕まるよ」
追っているのが、ルーク・ウィリアムズなのだから。
「ですから必要なのです。あなたが、ね」
チェズレイの声は一定の緊張感を含みながら、笑みを崩さない余裕も感じられる。手のひらで転がされている気もするが、今は言及する暇はない。
「ボクは……爆弾の種類までは把握してないよ」
「そこはおまかせを」
ルークを犯人逮捕に専念させ、同時に現場にいる誰も傷つけない。そのためなら、己にできることはなんでもする。きっとチェズレイも同じ気持ちなのだろう。それは互いの顔を見るまでもなくわかることだった。
「うん、頼んだよ。チェズレイ」
そうしてしばらく、オフィス内には高速でキーボードを叩く音と、チェズレイの声が響いた。
時間にして十数分、シキのモニターに表示されていたカウントダウンの数字が、エンターキーを押すと同時に停止した。やるべきことを終えたと悟り、シキは息を大きく吐いて椅子にもたれかかる。ルークも無事に犯人を捕まえたことを確認して、シキは傍受していた通信を切った。繋がっているのは、チェズレイとの通話だけになる。
「お疲れさまです、ハッカー殿。さすがの手際ですねェ」
シキの息が整ったころ、チェズレイが声をかけてきた。
「ううん。まさか爆弾が複数あるとは思ってなかったから、チェズレイがいなかったら危なかったよ」
「ふふ、隠していた起爆装置を押したときの犯人の顔、見ましたか?」
「そ、そこまでの余裕はなかった、かな」
不気味に笑うチェズレイに、若干の寒気を覚えながらも、シキは改めて、今回の通話に至った理由に思考を巡らせる。
「チェズレイ。ボクに連絡してきたのは、爆弾の種類が、ハッキングで停止できる種類だったから?」
「ええ、もちろんです」
迷いのない即答だった。
「……そう」
なぜか、返す言葉に少し詰まってしまう。その理由に思い至らないまま、シキはきゅっと拳を握る。
「こっそりボスの通信を傍受しているなら、事件の説明の手間も省けますからねェ」
「耳が痛い……」
つまりは、ルークの前にある障害を排除するうえで、シキが一番都合のいいピースだったということだろう。そう勝手に納得した。
とにかくチェズレイはルークを助けるという目的を達成したはずだ。自分にはもう用はないだろう。
シキはそう思いながらタブレットに手をかざした。
「正直、ハッカー殿が協力してくださるかどうか、自信はありませんでした」
「えっ?」
その静かな声音に、シキは思わずタブレットの画面を見つめて指を止めた。今の言葉からは、いつもの覇気を感じ取れない。
ここまでの流れは全て、チェズレイの思惑通り、というわけではないのだろうか。
「あなたは、ご自身が贖罪中であることに、誰よりも重い責任を感じていますから」
シキは息を飲んだ。ルークたちの状況を把握して、それでも指を動かせなかった理由を、完全に見抜かれている。
けれど、彼はそこまで見抜いていてなお、シキに協力を求めてきた。
すがるような思い、だったのだろうか。
「協力、とても感謝しています」
その言葉には、計算も妖しさも含まれていない。安堵からくる素直な気持ちである、そんな気がした。
「あの状況で、一番迅速に、確実にボスを救えるのは、あなたしかいませんでしたよ」
もう一度大きく息を吐くと、肩に入っていた力が抜けていく感覚があった。
チェズレイが相手だからと、変な気を張っていたのだろう。
しかし、それはもう必要ないのだと思い知った。シキはふっと微笑んで、画面の向こうの相手に語りかける。
「ルークを助けられたのは、アナタがいたからだよ、チェズレイ」
「では、我々の功績ということで受け止めましょう」
チェズレイは謙遜せずにシキの賞賛を受ける。
「ボクたち、いいバディだったんじゃない?」
「おや、まるでボスのようなことを仰いますねェ」
いつもの笑いを含みながらも、チェズレイは軽く返してきた。
「いったいどんなバディだと言うんです?」
「うーん……ルークの監視バディ」
あまり考えることなくそう口にすると、通話の相手は嘆きの声をあげる。
「ああ、センスの欠片もない! ボスへの思いやりに溢れるバディ、と表現していただきたいですね」
「それ自分で言っちゃうんだ」
それは、つい先ほどまでの緊迫した空気とは打って変わった、穏やかな時間だった。それから二人は、なんでもない会話を重ねていく。チェズレイがさて、と手を打ったところで、シキは時計を見た。いつのまにか日付が変わってしまっている。
「これ以上の活動は体に毒です。このバディも解散としましょう」
「うん。またね、チェズレイ」
「ええ」
通話の終了ボタンをタップしてから、シキは自分の言葉を反芻する。
「またね、か」
自然と零れた言葉を胸に、シキはオフィスを後にして自室に戻る。ベッドに倒れ込むようにして沈み、すぐに眠りについた。
静かになったその部屋で、ぱっとタブレットから光が零れる。
『もしもし、シキ。もう寝てるかな? 伝えたいことがあったんだけど。さすがにもう寝ちゃったか。どうしてもお礼が言いたかったんだ。今回のこと、君だろう? 助けてくれて、ありがとう。あ、チェズレイにもちゃんと連絡しておくよ! じゃあ、おやすみシキ。良い夢を』