汚泥を振り切る 繁殖用の養豚場と心中で蔑んでいた見合いの席に参加するよう、命令が下った。
普段から家畜以下の扱いを受けている甚爾が呼ばれたのは、そこに集う少年少女たちにひたすら蔑まれるという役割を与えられた為である。
呪力のない天与呪縛として生まれた禪院甚爾の矜持をまた一つ削るだけの会場に何故顔を出さなければならないのか。バックれたいのは山々だが、そんなことをすれば後でどのような目に合されるか想像に難くない。甚爾は幼く無力な手を力のあらん限り握りしめる。
予定されていた集合時間から五分ほど遅れて到着したのは、甚爾の中にじりじりと募る反骨心からだった。
日課の雑巾掛けに手間取った振りをして養豚場に向かう甚爾は首を傾げる。初めての顔合わせで騒がしくなっている筈の空間からは物音一つ聞こえない。まさか引き立て役が一匹いないだけでこのような空気に変貌しているわけもないだろうが、妙な胸騒ぎがして駆け足になる。そして、その先に広がっている光景に目を見開いた。
「……え?」
甚爾が養豚場と呼んでいる中庭。この日の為にと彩られた数々の飾りは原型の想像がつかないほどぐしゃぐしゃに潰れ、地上には多くの死体が転がっている。いや 死んではいないだろうが、死んでいるかのようにぴくりとも動いていない。
静まり返った中庭で唯一、その場に立っている少女がいた。
甚爾と同年代であろう少女は振り返り、黄金色の瞳を三日月のように細めて、真っ直ぐに見つめる。
「まだ他に子供がいたのか」
嬉しそうに笑みを浮かべる少女を見て、甚爾の動作が止まった。鮮やかな青色の着物は鮮やかな赤色の液体でべたべたに汚れ、血管の浮き出た白く小さい手は何かを力強く締め上げている。泡を吹いて白目を剥いているようだ。記憶が正しければあれは禪院で一番の有望株だと持て囃されている嫡男だった筈。
見目で伺える年齢からして少女も見合いの為に屋敷までやってきた人物だろう。なのに、いったい何をしでかしているのか。思考が追い付かず、ただ楽しそうに笑う少女を見つめることしか出来ない。
「じゃ、宴の再開といこう」
壊れた玩具をゴミ箱に捨てるように嫡男を庭の池に放り投げ、少女は踏み出した。直後、顎から脳へと伝った衝撃。一歩二歩とぐらついた足は体重を支えきれなくなった。薄れていく意識の中で痛みと動揺が混ざり合う。
なにも理解できないまま甚爾は地に伏せた。ハッキリしていることがあるとすれば、獲物を前にした肉食獣のような獰猛さを見せ狙いを定めてきたあの少女は、正しくイカれている。誰に聞いても同意を得られるであろう疑いなき真実である。
だが、甚爾にとっては……。
「邪魔だ! 道を妨げるな、塵が!」
「う、……すみません」
数時間後目を覚ました甚爾は、通りがかった禪院家の人間におざなりに謝罪を述べてから両目を擦った。大人たちの喧騒など気にならず、些事に成り果てている。ちかちかする。まるで太陽を目の当たりにしたように目が眩んでいるのだ。
「……まぶしい」
瞼を上げても下げても、あの時見た少女の笑顔は消えなかった。
*
「やあ、お前がトージ?」
「……え?」
「私、圓利! この前会ったよね? 久し振りー!!」
「な、なんで、ここがわか、」
「そっちの家の人にトージの居場所聞いたら教えてくれたよ!」
「……あのれんちゅうが? ……」
「じゃあレッツゴー!」
「え」
流れ星のように突如として現れた、少し前に出会った少女。説明もなく、ただあの時と同じような笑みを携え、甚爾の手を引っ張った。
「どうして、おれなんだ? くんれん、なら、ほかのやつで……」
「一番強いのがトージだから!」
「……おれがつよい?」
「うん。殴って数秒立ってたじゃん? 皆簡単に倒れるから訓練にならないんだよねー」
「なんでじゅつしきのくんれんじゃないんだ」
「最後に信じられるのは筋肉だから! 武器も術式も自分の身体で扱うものでしょ、ならまず鍛えるのは筋肉! 体術!! 組手!!! 今まで見てきた人の中でトージが一番強かった! 強い人と訓練すればもっと強くなれる! さあ、私と訓練だー!」
こちらの都合などお構いなしで。
/ 家にいるよりマシだから公園で暇を潰していただけだけど。
付き合ってくれると信じ切った顔で手を伸ばして。
/ 伸ばした手を叩かれ踏み躙られたことはないのか。
塵の己を一番強いと宣った。
/ 価値を与えてくれた人。
ああ、まただ。
光るそれが眩しくて、思わず目を細めてしまう。
*
「やあ甚爾! 今日も陰気くさい顔してんね!」
目の前の少女は相手の気持ちも慮らず、からからと笑って甚爾の背中を叩く。こうして顔を合わせるまで、今日は会えるだろうかと不安と期待で心臓が早鐘を打っている此方の事情など知りもせず。ただあっけらかんと笑う少女に甚爾は視線を明後日の方向にズラし、口の中をまごつかせた。
「う、うっせーよ」
「イヒヒ、じゃあ行こうか!」
少女こと加茂圓利は加茂家当主の娘の一人である。元々その気性が激しい性格からとんだじゃじゃ馬姫だと噂されていたが、見合いの席に立った参加者たちを薙ぎ倒していた衝撃的なあの出来事以降、名実ともに加茂家の恥晒しと化した。呪術の世界から遠ざけられている甚爾の耳にも入るほどなのだからよっぽどだ。
「……おう」
甚爾も圓利に薙ぎ倒された被害者の一人。普通ならば強烈な初対面で嫌遠するだろうが、甚爾は圓利のことを憎からず思っていた。今だって圓利から差し出された手を握り、ギュンッと音を立てて幼子の身ではありえぬほどの速度で走る彼女についていっている。
「とーじー! 息でーきーてーるー?」
「で、……きー、てぇーるっ!」
ぱくぱくと金魚のように口を動かし、返事をする。本来なら宙に佇んでいるだけの無害な空気は時速40キロで爆走する圓利によって台風の向かい風のように甚爾へと立ちはだかった。
「もっとはやくすんねー!」
もっと上があんのかよ! そう突っ込みたいが、呼吸の維持に手一杯になり言葉にまで気力が回らなかった。結局甚爾が言語の自由を取り戻せたのは目的地に辿り着いてからになる。子供にあるまじき移動速度が行き来を可能にする、其々の実家から遠く離れた小高い山。それが二人だけの秘密の場所だ。
「ついたー!」
「ハァ、ハァ……」
「組手やろ!」
「ちょっと、まて、よ」
「え~~~早くやろーよー」
「この、体力ばかっ」
肩で息を整える甚爾とは反対に、圓利はあっけらかんとした態度を崩さない。禪院甚爾は生まれながらにして呪力を持ち得ないという天与呪縛によって身体能力の向上が約束されている。しかし加茂圓利からそのような噂が流れてきたことはない。
「……おまえって、ずるいよな」
御三家出身で同年齢、当主の子供として産まれた。同じ立場である筈の二人。しかし甚爾には呪力も術式もない。対して圓利は呪力も豊富で術式も発現している。相伝でこそなかったが人体機能の一部を操る能力は、本来のものから派生して生まれたのだろうと言われている。
「何が?」
「……べつになんも」
あの目も覚めるような出来事の前まで、同一の背景を持つ二人の待遇は雲泥の差だった。恵まれた方と、恵まれなかった方。性別だけでいえば甚爾が有利である筈なのに、甚爾に科せられた天からの贈り物はこうも簡単に状況を覆す。
「えー、今ずるいって言ってたよね。何がよ?」
「だから、なんでもねーよ」
言いたくなかった。唯一自分に価値を見出したこの少女の機嫌を損なってしまうようなことなんて。だから口を閉ざした。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよ。鬱陶しいな」
だというのにこの無神経極まりない圓利という少女は面倒臭そうに溜息を吐くというおまけ付きで穿り返してくるので、甚爾の心の柔らかな部分が逆撫でされた。
「俺、は、オマエのことが……」
「うん」
黄金色の瞳がきらきらと光を反射させ、甚爾を射抜く。ただじっと視線が送られているだけでどこかむず痒くなる。そう感じる自分がなんだか嫌で、でも嫌じゃないような、そんな感覚が止まらない。
「……きらいだ。むしんけーだから」
――違う。本当はそうじゃない。
いや、順位が高い本音を言わない為につい順位が低い本音を零してしまったのなら、これもまた言いたくなかった紛れもない言葉なのだが。圓利の夕焼けにも似た太陽のような瞳に見つめられると、禪院家で常用している世渡りの術が使えなくなってしまう。
***
オマエが連れ出してくれると言ってくれたから。だからこの毒沼に浸るようなクソッタレな環境下でも、前を向いてやっていける。
という場面までいきたかったが筆が止まった。
月歩を習って空を駆ける甚爾を見たい。