「ただいま」
仕事を終えて家に帰る。玄関から声をかけるが、誰の声も聞こえない。
変だな、と思った。人間四人と、悪魔であるパボメスとライラを含めた六人が暮らしているこの家で、誰もいないことは結構稀だ。女子二人はまだ出かけているとしても、リネンは今日お休みだったはずで。彼や悪魔の二人がいれば確実に出迎えはあるはずなのに。足元を見ると、ちゃんとリネンの靴が揃えて置いてある。
「…………?」
不思議に思いながらも、ひとまず荷物を置こうと靴を脱ぐ。手を洗ってから廊下の扉を開くと、リビングのソファ越しに黒い跳ねっ毛が見えた。
やっぱり出かけてなかったみたい。でも、何で迎えに来てくれなかったんだろう?
「…………ただいま?」
「わっ」
近づいて声をかけると、リネンはびくりと肩を跳ねさせてから、驚いた顔で振り返った。
「お、おかえりー……え、いつ帰ってたの?」
「今」
ソファに鞄を置き、床にぺたんと座っているリネンの隣に座る。どうやら何かの作業中だったみたいで、迎えに来なかったのはたぶん集中してたんだろう。
「……何してるの」
「え、あ……」
リネンの手元を覗き込むと、すぐに何をしていたのか分かった。いつも黒く塗られているはずの爪が、どういうわけか赤い。テーブルにはマニキュアがいくつかと、それ関連の道具らしきものが置かれていた。
「………………」
リネンの手を取ってじっと眺めていると、彼はちょっと気まずそうに視線を彷徨わせ、しどろもどろになりながらも口を開く。
「こ、これはー……あのね、えっと……」
「………………」
続きを促す意味を込めてリネンの目を見る。そうするとだんだん顔まで赤くなり出してちょっと面白い。付き合って結構経つのに、彼は未だにこういうところがある。
「あの……買い物に行ったの、今日」
「うん」
やがて、ぽつぽつと話し始めた。
「仕事お休みだし、ネイルとか煙草とか色々切らしそうだったから……」
その言葉に僕は思わず驚く。いつも僕らへのおやつとか小物とか、自分以外の人の何かを買ってきがちなリネンが、自分のためにお買い物するなんて珍しい。
でも別に悪いことじゃない。リネンの自分を後回しにするところは、本人には言わないだけでみんな心配してるし。それがこうして時々でも自分を優先してくれるなら安心だ。
「それで、お店に行ったらちょうど新しい色が出てて……それで、綺麗だなって思ったらつい手が出ちゃって」
そう言って、僕が握ってない方の手でマニキュアの瓶を取って見せてくる。血の色みたいな暗い赤色の液体が入っていて、ちょっと量が減っている。今のリネンの爪に塗られているのと同じ色だ。
「気分転換っていうか……こういう明るすぎない赤色だったら、手も出しやすいし……」
それに、と彼は僕の目を見た。
「君の色だな、って思ったから……」
「………………」
赤い顔で告げられた言葉がかわいくて思わず息を呑む。普段は僕がちょっと迫っただけでもたじたじになってしまうような恥ずかしがり屋さんなのに、こうしてたまに爆弾を落としてくるのは何なんだろう?これがわざとじゃないのだから困る。こっちはか弱い彼を傷つけないよう毎日必死なのに。
なんて言えばいいか分からなくて黙っていると、リネンは何か勘違いしたのか慌てた様子で言い募る。
「な、なんて、やっぱり俺が赤いネイルなんて変だよね似合わないよね!」
「………………」
「……あの、その、ほんとに出来心で……別に可愛いって思ってもらいたかったわけじゃ……ていうかそもそも可愛くないし……俺なんて……」
だんだんリネンが落ち込みだすのを見て、とりあえず体を抱き寄せてみる。僕よりも幾分細い、でも引き締まった体。
「! ヒョウガ……?」
「……嬉しい」
「えっ」
抱きしめたままリネンの目を見る。
「僕の色、染まってくれるの……かわいい。爪も……」
ほっぺたに手をやると、リネンの体がぴくりと震えるのを感じる。
「顔も」
「…………あう、えっと、」
これ以上ないってぐらい赤くなっているリネンを見て、思わず口元がにやけてしまうのが分かる。……後は、口で言うより体に教えればいいかな。結局それが一番効果的みたいだし。
「もっと染まる……?」
「ええっ」
リネンの体を倒し、その上に覆い被さる。シャツに手をかけると、彼は慌てた様子で僕の胸を押してくる。多分それなりに力を入れてるつもりなんだろうけど……僕にしてみれば無抵抗も同然だ。下手するとザイカの方が強いんじゃないかな……?でも、力は弱くても呼びかけてくる顔と声は必死だ。
「だ、だめだよここリビング……!」
「誰もいない」
「でも、帰ってくるかも……さっきまでパボちゃんたちもいたし!」
ねえ、お願い。
僕の手を掴んで必死にお願いしてくるリネンの目は、今にも泣きそうな感じで輪郭がぶれている。そんな状態でこれ以上無理強いするのも可哀想だな、と思ったので仕方なくどいてあげることにした。
「分かった?」
その代わり、ちゃんと僕の言いたいことを分かってくれたかどうか確認する。リネンは何回か瞬きをした後、ちょっと下を向いて頷いた。口元を隠すように当てた手の先で、僕の色がつやつやと存在を主張している。耳やほっぺたも、ほんのり僕の色。……かわいい。
やっぱり襲っちゃおうかな、という思いと必死に戦っていると、リネンの指が僕の服の裾を引っ張る。
「あの、それならさ。……今度、一緒に服とか見てくれる?」
もっと君好みの人になりたいから、と言って微笑む彼にまたきゅんとしつつも、もしかしたらちゅうするぐらいは許してくれないかな、って下心が膨らんでくる。
ひとまずそれに抵抗せずに顔を寄せると、リネンはびくっとしながらも少しした後きゅっと目を閉じてくれた。赤いほっぺたを撫でて、唇を重ねる。一回離すと、とろっとした目をしながらまた服を引っ張ってくるので、また顔を近づける。
何回かそうした後、彼と顔を近づけたまま囁く。
「やっぱりシよ……?」
リネンの目が見開かれ、真っ赤な顔で首を振る。
「だ、だめだよ……」
「今じゃない、みんな寝た後……だめ?」
「うう……」
顔を背けて不明瞭に呻くリネンの髪の毛をくるくる弄る。
「やっぱりもっと、染めたいから」
見た目が僕色になるのももちろんいい。赤を身に着けてそわそわしてるリネンはかわいい。でも、外側だけじゃ足りない。お腹の中、心の奥深くまでもっと僕のものにしたい。
「……ね」
「…………うん」
緑色の瞳を見つめながら念を押すと、リネンはやっと小さく頷いた。