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    Tatsukotatsuri

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    Tatsukotatsuri

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    薄明を待つ一、

     八敷が見つかったのは、彼が失踪してからおよそ一年後のことだった。

     その時、八敷は廃墟となった工場の地下室の片隅で、痩せこけてうずくまり、空虚な目をしていた。まるで時間に取り残された残骸のようだった。服はボロボロで、皮膚には無数の細かな傷が刻まれており、何か言い表せない苦痛を経験したことを物語っていた。両手は鉄の鎖でしっかりと縛られ、手首には深い痕が残っており、かつて何度も逃れようと必死にもがいた痕跡があったが、今はもう抵抗する力さえ残っていないかのようだった。

     真下たちが扉を開ける時、かすかな光がその後ろから差し込み、八敷の生気のない顔を照らした。空気には廃工場特有の湿気と腐敗臭が漂い、その臭いは彼の体から発せられるものとも混じり合っていた。この静寂と死のような空間で、真下と大門たちは八敷を見つけた──まるでこの世にもう属さない、完全に手の届かない深淵に沈んでしまった一人の人間を。

     真下は一歩前に進み、ゆっくりとしゃがみ込んで、そっと目の前の人を呼んだ。「八敷……?」口から出る声には微かに震えが混じり、八敷は今にも消えてしまうのではないかという不安が滲んでいた。

     しかし、八敷は何の反応も示さなかった。その目は焦点が定まらず、まるで真下を通り越し、存在しない遠くの何かを見つめているかのようだった。壊れた人形のように、ただ静かにそこに座っているだけで、この世界のすべてがもう彼にとって無意味なものになってしまった。

     真下は今でも後悔している。八敷が失踪する前日、なぜ自分は一緒に出かけなかったのか、と。

     おそらく、真下はあらゆる面で油断していたのだろう。あの厄介な人形はもう解決したことで、少し安心してしまったのかもしれないし、その日に出かけた八敷は、何かの案件ではなく、単純にその夜、真下と一緒に食べる飯の食材を買いに行くためだけだったからだ。

     まさか、今のあいつがこんなにも簡単に消えてしまうとは、真下は信じたくなかった。

     最初、真下は八敷が関わっていた案件を調べ始め、彼が怪異に接触したことで神隠しにあったのではないかと考えた。八敷は九条家の宿業を解決した後も、世の中の苦しみに悩む人々や怪異を放っておけず、救いたいという強い意志で怪医家としての道を歩み続けていた。そんな八敷だからこそ、常世のものと接触し続け、突然彼岸へ引き込まれることも不思議ではなかった。

     しかし、どこを探しても、そうした方面に繋がる手がかりは一つも見つからなかった。というのも、今の八敷が関わる案件は、すべて真下の同行のもとで解決されていたからだ。

     メリイの件が解決した後、八敷は真下を安心させるため、重要な約束をしていた。それは、怪異と対峙する時は決して一人で軽率に行動しないということだ。その頃の八敷は、危険を独りで抱え込むことがどれだけ周囲の人を心配させるか、すでに理解していた。真下もまた、怪異に関わる案件には必ず八敷に付き添うと決めていた。だからこそ、もし怪異が原因で八敷が失踪したのなら、真下がそれを知らないはずがなく、むしろ自分も一緒に消えてしまうのもおかしくない。

     そして、八敷が消えたその日は、二人がしばらく怪異に関わる案件を受けていなかった時期だった。これにより、真下は今回の事件が怪異とは無関係であることを確信したのだった。

     真下は、すべてのことを狂気じみたように調べ始めた。八敷の失踪が無意味なものだとはどうしても受け入れられず、たとえわずかな手がかりでも決して見逃そうとはしなかった。八敷が関わったすべての案件、その共事者たち、真下は自ら一人ひとり訪ね歩き、少しでも可能性があると思えばどんな手がかりでも追いかけた。彼は、八敷が最近接触した人物を徹底的に調べ、さらには自分自身の人間関係さえも調べ上げた。

     八敷が関わってきたすべての人々、一見関係がなさそうな人物でさえ、真下は質問を繰り返し、徹底的に調べた。過去の案件記録を確認し、電話の通話履歴を漁り、八敷の周りにいたすべての人々に疑いの目を向け始めた。もう少しで、信頼していた印人たちさえも疑い、一緒に調査を始めかねないところだった。

     調査が進むにつれ、真下の心には疑念がだんだんと膨らんでいった。この事件が怪異とは無関係だとは言えない、ただ最初に思っていたような単純な答えではないことに気づき始めたのだ。怪異の事件を関連しているけど、八敷を消した元凶は怪異ではない。
     
     元凶は怪異を生み出す存在──人だった。人間の悪意だったのだ。

     それを気付いたきっかけは、非常に微細な手がかりだった。真下が徹底的に調査し、これまでのすべての経験を検証したおかげで、案件に関連する人々や物事、そして八敷と自分が接触してきた人々、そうした詳細な調査の中で、真下は次第にいくつかの微妙な端緒を見出していった。

     過去の案件において、加害者や加害者に関連する人々が、事件解決後、しばらくしてから不審な死を遂げることがあった。それらの死亡はすぐに起こるわけではなく、八敷と真下が案件を解決した後、かなりの時間が経ってから突如として現れるものだった。さらに奇妙なのは、これらの死因は謎に包まれており、一見すると事故に見えるが、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。真下が徹底的に調べ上げなければ、これらの死亡事件が八敷や自分に関係しているとは、誰も気づかなかっただろう。

     しかし、これらの奇怪な死亡は、ある時期を境にピタリと止んだ。その時期はちょうど、メリイの救済と一致していた。

     これはあくまで真下の推論に過ぎないが、彼はこう考えずにはいられなかった──これらの不可解な死を遂げた者たちは、全員、八敷に対して報復しようとしたか、彼に害を及ぼそうとした人間ではなかったか、と。厄介な怨念を抱えた人形、メリイは八敷一男という男を、たとえば歪んだ形でも、大事に思っている。だから彼女の八敷に対する強烈な執着と、歪んだ独占欲こそが、無形の呪いを作り出し、八敷に害を加えようとした無名の者たちに次々と祟りをもたらし、彼らを闇に葬り去っていたのではないか、と。

     皮肉なことに、その病的な愛と執着は、八敷を人間の悪意から守る一種の防壁となっていた。メリイの存在は厄介で恐ろしいものであったが、その一方で、八敷の周囲に隠された保護の壁を作り上げ、彼に危害を加えようとする者たちを次々と排除していたのだ。

     だが、メリイが救済されると同時に、その呪いもまた消えていった。彼女の怨念が浄化された時、歪んだ保護もまた跡形もなく消え去ったのだった。

     この推論が形成されると、やるべきことは単純になった。真下は捜索範囲を縮小し、メリイが救済された後の案件に集中し始めた。彼はこれらの案件に関わる人々を慎重に見直し、特に八敷が事件を解決したことで恨みを抱き、彼に害を加えようと企んでいるかもしれない人物に焦点を当てた。真下は何度も、何度も、手に持ったペンで無数の紙に重々しく線を引き、怪しい人物に印を付けていった、昼夜問わず資料を読み漁った。

     生憎だが、真下は自分の八敷への執着が、メリイのあの歪んだ感情にも劣らないことを知っていた。自分は次第に冷静さを失い、執念と怒りに駆られるようになったこと。どんな手段を使ってでも八敷の行方を突き止めるため、自身の信念を曲げることも厭わなかったことも。

     調査が行き詰まるたび、真下は容赦なく、時には暴力を振るい、時には非人道的な手段に手を染めてでも、僅かな情報を絞り出した。八敷を取り戻すこと、それ以外は何もかもが二の次だった。他の印人たちからの警告や道徳的な境界など、真下の中では既に意味を失っていた。

     そして、ようやく──ついに、彼は手がかりを掴んだ。情報の断片をつなぎ合わせ、そこから八敷が囚われている場所を突き止めたのだ。

     八敷が何者かによってこんな酷い目に遭わされていたのか、また、その理由が何であるのかは、もうどうでもいいことだった。なぜなら、八敷を傷つけた連中は、真下が八敷を発見する以前に、すでに真下の手によって闇に葬り去られていたからだ。犯人たちを追い詰める過程で、真下は一人一人に、手をかけ、奴らの息の根を、しっかりと、自分の手で止めていった。誰一人として許すつもりはなかった。

     仮にその中に漏れた者がいるならば、奴らは遅かれ早かれ、これも真下の手によって必ず裁かれることだろう。しかし、今の真下にとっては、それすらも大した問題ではなかった。

     八敷を、ようやく見つけた。そしてまだ生きてた、それだけが最も重要な事実であった。

     真下は八敷を引き寄せ、優しく抱きしめた。できれば、この抱擁で、八敷を苦痛と絶望から引き戻そうとしたいと思ってた。「もう大丈夫だ、八敷……もうは大丈夫だ……俺がここにいる……」真下はできるだけ穏やかな声を心がけたが、そのせいで自分の声にはかすかに嗚咽が混じっていたことを気付いた。しかし、八敷の体は何の反応も示さず、相変わらず壊れた人形のように硬直していた。返事も動きもない。

     真下の腕の中にいる八敷の体は、記憶の中よりもさらに軽く、細く、まるで少し力を入れただけで折れてしまいそうなほど、やせ細っていた。この現実に、真下は胸を締めつけられるような痛みを感じ、さらに強く八敷を抱きしめた。

     「ひっ…ひぃっ!」

     だが、無形のスイッチが押されたかのように、強く抱きしめたら八敷の体が突然激しく震え始めた。次の瞬間、狂ったようにもがき出し、腕を振り回して真下の抱擁から逃れようとした。その動きは乱雑で無秩序であり、まるで深い傷を負った獣のように、絶望的な恐怖に駆られ、何もかもを拒絶するかのようだった。

     「やぁ…ああっ…ああああああああ!!」

     「八敷!落ち着け!俺だ、真下だ!」真下は必死に八敷をなだめようとするが、その声は全然届いていなかった。完全に恐怖に飲み込まれた八敷は、何も聞こえていないようだった。瞳は虚ろで何も見ていないが、その奥には抑えきれない恐怖が渦巻いていた。今の八敷には、目の前の人間が真下だと認識することさえできず、誰であれ近づく者すべてに同じように怯えていた。

     「うあ…やぁ…ああっ…!ひっ…あぁ…!!」

     八敷の喉から漏れるその声は、言葉とは到底思えないほど断片的で、崩れた悲鳴だった。それは痛みを伴った呻きであり、その中には底知れぬ絶望と恐怖が込められていた。真下は、八敷が一体どれほどの暴行を味わい、どれほど深く傷つけられたのかを想像することすらできなかった。

     「…ちっ!くそ!!八敷!頼む!落ち着け!……おい長嶋!手を貸してくれ!……八敷!俺だ、真下だ!八敷!!」真下は叫ぶことしかできなかった。彼は必死になって、目の前で狂気に支配されている男を何とか救おうと自分の声を伝え続いた。しかし、叫び出した言葉は届くことはなく、八敷は狂ったように暴れ続けた。

     そんな八敷を、翔が後ろから羽交い締めにした。

    「だん…旦那!!どうする?!」二人の腕の中で狂ったように暴れていた男の動きを封じ込めながら、翔は焦って真下に叫んだ。
     
     「おい大門!救急車は……?!」真下は後ろにいる大門の顔を振り返った。
     
     「もうさっき呼んだ!……もうすぐ来るはず!!」大門の返答には不安が滲んでいた。
     
     「クソ、長嶋!そのまま押さえててくれ!!……救急車が来るまで抑え込み続けてるんだ!!」真下は小さく舌打ちをして、再び八敷へと向き直った。「おい、八敷……頼む……大人しくしてくれ……」

     「……ひっ…いぁ…ああっ…や…ああっああああ……」木の枝のように細い八敷の手足はバタバタと激しく振り回され、そのたびに鎖が鈍い音を立てながら揺れた。長くなった爪は時々真下の顔すれすれを掠めて、皮膚に痛みを残して去っていく。ボタボタっと血が真下の頬を流れて床に垂れていくが、真下はそんなことなど構っていられないといった様子だった。

     「もう…!おっさん!!」翔が必死に羽交い締めにしている間にも、八敷に何度も体当たりを喰らって呼吸が乱れてくる。「いっ…てぇ!?」

     やがて救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえ始め、辺りは騒がしくなって行った。大門は救急隊員たちと連絡を取り合いながら駆け寄って来て、救急隊員は真下たちが必死に押さえつけている八敷を注射で鎮静化させはじめた。

     そして、しばらくして。
     ようやく、その動きを止めてくれた──

     救急隊員によって鎮静剤を打たれた後、八敷の体は次第に力を失い、四肢は無力に垂れ下がった。やがて静かに目を閉じたが、それは決して穏やかな眠りではなく、鎮静剤の効果で強制的に意識を沈められただけだった。
     
     真下たちは大門と八敷を見送った後、すぐに病院の近くにあるコインシャワー施設へと向かい、そこでシャワーを浴びた。シャワーの水が真下の疲れた体を流れ落ちる。温かい水が皮膚に触れるたびに、自分の体に蓄積された疲労が少しずつ溶け出していくような気がした。しかし、心の中の重い石のような不安と恐怖は、どれだけ洗い流そうとしても消えることはなかった。

     鏡に映る自分の姿を見つめると、そこには疲労と焦りに満ちた男がいた。頬には八敷の爪で引っ掻かれた傷跡が残っており、血がまだじんわりと滲んでいる。手で軽く触れると、鈍い痛みが広がったが、真下はそれすらも気に留めることができなかった。
     
     担架に乗せられて病院へ向かう間、八敷はもう暴れることはなかったが、それは安定しているわけではなく、ただ無理やり休眠状態にさせられただけのことは、真下は知っている。

     「くそっ……」

     小さく舌打ちをし、真下は壁に拳を振り下ろした。鈍い音が響き、壁には拳から滲み出た赤い血がわずかに染みついた。けれど、その衝動的な行動にも、何の救いもなかった。ただただ拳を握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くした。真下は深く息を吸い込んだ後、シャワーを止め、タオルで体を拭き始めた。

     次に自分がすべきことを思い描いた。病院に向かうこと――それが唯一、今の自分にできることだ。しかし、準備を整えていざ外に出ようとしたその瞬間、伸ばした手がドアの前で止まった。

     手は、止まるどころか細かく震え始め、まるで命令を拒むかのように自分の意志に従おうとしなかった。昔、八敷と一緒に向き合ってきた怪異たちにも、ここまで真下の心を揺さぶられることはなかった。それでも今、病院に行くというたったそれだけの行為が、真下の胸を重く締め付けられるように苦しくなり、冷たい汗が額にじわりと滲んだ。

     何が待ち受けているのかはわかっていた。それは怪異でもない、霊でもない。それでも息が詰まるような感覚に襲われ、喉元に硬い塊がせり上がってくる。八敷が今どの状態になったのか、その現実を直視することの方が、これまでのどんな不可解な存在よりもはるかに恐ろしい。

     それでも。

     「病院……行かなきゃ……」低く自分に言い聞かせたが、声は震え、まるで自分を納得させようとしているかのようだった。足が地に根付くかのように、前へ進むことさえ困難に感じた。しかし、進まなければならない。

     真下は震える手を無理やり動かし、ようやくドアノブに触れた。 


    二、

     八敷が入院したばかりの頃は、一番辛くなかったかもしれない、と大門は思った。なぜなら、あの頃はまだ皆が希望を持っていたからだ。八敷が壊れてしまった心を、治療と静養でいつか必ず修復できると、真下も、自分も、他の印人たちも信じて疑わなかった。たとえ八敷がどれほど深く狂気に囚われていても、まだ戻ってこられるはずだと。

     八敷が発狂するたび、鎮静剤を使って強制的に眠らせる度に、皆は痛みを感じながらも、それが一時的な措置に過ぎないと信じていた。破れかけた魂を繋ぎ止めるように、八敷が元の姿を取り戻す日が必ず来ると、誰もがそう思っていたから、何度でも耐えられたのだ。どれだけ繰り返されても、その背後には必ず回復の光が見えていた。希望があったから、印人たち全員は沈黙の中でそれに縋り続けたのだ。

     だって、八敷も自分たちも、いつもこうやって苦難を乗り越えて歩き続けてきただろう、と。だから誰も信じたくなかったし、信じきれなかった。まさかある日、全員の中で最も強靭で、運命に最も抵抗してきた八敷が、ただの人間の悪意によって徹底的に壊れてしまうなんて。もう二度と、八敷が以前のように困った顔で優しく笑ってくれることがないなんて、信じたくないから。

     あまりにも理不尽だった。数々の重荷からやっと解放されたはずの八敷が、それでも人も怪異も分け隔てなく救おうとしたあの八敷が、こんな悲惨な目に遭うなんて。彼こそが、最も幸せになるべき人間だったのに、どうしてこんな残酷な運命に見舞われなければならなかったのかを、友人として、いや、一人の人間として、大門は理解できなかった。

     でも、現実は非情だった。どれだけ希望を持っても、祈っても、八敷は元に戻らなかった。日を追うごとに、その瞳の奥から生気が失われていたまま、あの温かく優しい八敷の面影は戻ってこなかった。自分と印人たちの期待も、希望も、日々少しずつ削られていった。次第に、大門はある現実を受け入れ始めた。もう八敷が、かつての彼に戻る日は来ないかもしれない、と。

    それでも、八敷が完全に壊れてしまっても、できることはまだあるはずだ、と大門は思っていた。

    かつてのように笑い合えることはもうないとしても、八敷に、そして壊れてしまった八敷を必死に支え続けている真下に、少しでも安らげる時間を与えられるのなら、それでいい。彼らが少しでも穏やかに過ごせるように──それが、医者として、友人としての大門にできる唯一のことだった。
     
     外から病院へと戻ると、八敷はすでに鎮静剤の効果で静かに眠っていた。だが、その眠りは無理やり動きを止められただけのようなものだったことは大門は誰よりも分かっている。八敷の隣に、真下は八敷の寝顔を見つめながらそっと八敷の手を握りしめた。その手は冷たく固くなっていて、生気を感じさせない。大門はその様子を少し離れたところから静かに見守りながら、胸の奥に重いものが沈み込んでいくのを感じた。

     病院で、鎮静剤を使われていない時の八敷は、二つの状態で過ごしていた。目を覚ましている半分の時間は、発狂したかのように暴れ、恐怖と苦痛に満ちた泣き声を上げながら、誰にも触れさせようとしない。病院では、八敷ができる限り鎮静剤に頼らずに過ごせるように配慮されていた。しかし、それでも八敷が目を覚ましている半分の時は、激しい暴れっぷりに苦しんでいた。暴れ始めると、自分自身を傷つけないように、仕方なく、時折八敷を病床に拘束し、抑え込む必要があった。八敷の体は、あれだけ痩せ細っているにもかかわらず、見えない恐怖のせいで、暴れる時の動きは想像以上の力を持っていた。拘束されると、逃れようと必死に抵抗し、叫び声を上げ、手足をもがき続けた。周囲の人々にとって、それは見るに堪えない光景だったが、それでも八敷の安全を守るためにはやむを得ない措置だった。

    もう半分の時間は、まるで生命が抜け落ちたかのように人形みたいに静かに座っていた。静かに息を潜めて、無表情で、虚ろな目で何も見ておらず、ただそこにあるだけの存在、まるで周囲の世界から完全に切り離されたかのように反応がなかった。その沈黙の姿を見るたび、印人たちは一瞬だけ安堵する。しかし、それと同時に、その静けさは生気を失った八敷を象徴するものであり、もはや自分たちの知っていた八敷は戻ってこないのではないかという恐怖を抱かせた。

     そんな恐怖を抱いている印人たちとは対照的に、真下は無言のまま、ただ執拗に八敷のそばに寄り添い続けていた。普段以上に口数が少なく、何を考えているのかは誰にもわからなかった。ただ、八敷の手を握りしめ、彼の側から離れようとしないその姿が、何かに強く取り憑かれたように見えた。

     真下はもう病院に住んでいると同然だった。自宅に帰ることは稀で、ほとんどの時間を八敷の傍で過ごしていた。八敷の世話も、ほぼ全て真下が担っていた。最初は何もかもが不慣れで、ぎこちなく、介護の仕方を一から覚えていった。毎日が試行錯誤の連続だったが、次第に慣れていき、今では手際よく八敷の世話ができるようになっていた。それでも、八敷が時折暴れ出すこともあり、そのたびに真下は体中に傷を負うことがあった。それでも、傷だらけになりながらも、真下は一度も八敷のそばを離れることはなかった。

     そんな真下を見て、大門は複雑な思いに駆られた。八敷の回復が見込めない今、それでも真下は何も変わらない。大門は、医者として、友人として、八敷にできる限り安らぎを与えるため、できることを尽くしていたが、それが果たしてどれだけ意味を持つのかは分からなかった。真下の肩にそっと手を置き、無言で励ますことしかできない自分が、時に無力に感じられた。

     「八敷くん今日はどうだ?」大門はいつものように、静かに真下に問いかけた。八敷の状態を知るための質問というよりも、むしろ真下に寄り添い、少しでも彼の心を軽くするための言葉だった。

     真下はふと視線を大門に向けたが、すぐに八敷の方へ目を戻した。「変わらない。ずっと同じだ。」短い返答は、どこか冷静すぎて感情を押し殺しているようにも聞こえた。大門は真下の横顔を見つめ、言葉を探したが、結局何も言えずに立ち尽くすだけだった。

    「朝、柏木が来た。」真下は淡々と続けた。「来た時は、ちょうど八敷が暴れていたのが静かになって、大人しくしていたから、柏木は乱れた髪を整えてくれた。」

     大門はその言葉に耳を傾けながら、真下の落ち着いた声の裏に潜む疲労を感じた。ただの報告のように聞こえるが、その声には微かな苦しみが滲んでいた。

     「あいつ、普段から髪はボサボサだ。」真下は、感情を一切見せることなく、ただただ、事実を述べるように言った。「だから、今日みたいに柏木に整えてもらって、髪が滑らかで整っているのは、なかなか珍しい光景だ。」

     「そうか。」

     「だが、しばらくしてから……たぶん、隣の病室でドアが大きく閉まる音を聞こえたんだろう。あの音で八敷が反応して、また暴れ始めた。完全に暴走する前に、すぐに押さえ込んで鎮静剤を打ったんだけど。」真下は一息ついて、さらに続けた。「柏木はその場面を見てしまってな……あいつ、帰るまでずっと泣いてた。」

     「……そうか。」大門は小さ頷いた。「柏木くんは普段忙しくて、なかなか八敷に会いに来られないから……まだ慣れていないんだろうな。」

     「仕方ないことだ。今のこいつを見て、感情が揺さぶられない方が難しい。」真下はふと視線を落とし、八敷の顔をじっと見つめた。八敷の寝顔は、穏やかでありながらもどこか生気を失ったように見える。真下は軽くため息をついた。

     萌も、最初の頃は八敷の現状を見るたびに、どうしても涙をこらえきれず、そっと隅に行って泣いていた。萌だけではない。翔もまた、目に涙こそ見せないものの、彼が目を赤くしているのを大門は何度も見かけた。しかし、二人とも頻繁に八敷を見舞ううちに、完全に慣れたわけではないが、次第に感情を抑え、今の八敷に向き合えるようになっていた。

     「人を泣かせたり、悲しませたりする存在になるなんて、こいつが望んでいたことじゃないはずだ。もしあいつが自分の状況を知ったら、きっと納得できないだろうな。」

     「そうだな……八敷くんは優しいから、自分が誰かをこんなにも悲しませているなんて、絶対に受け入れられないだろう。」大門はしみじみとした口調で答えた。

     真下はしばらくの間、無言で八敷の顔を見つめ続けていた。八敷の手を優しく握りしめるその手に、わずかに力が込められているのが大門にもわかった。

     「真下くん、今日は帰って少しだけ休んだらどうだ?」大門は提案した後、少し間を置いてから問いかけた。「最近……いや、最後に自宅に帰ったのはいつだ?」

    「……」真下はわずかに眉を寄せ、考える素振りを見せたが、すぐに小さく首を振り、即座に拒否した。
    「……いや、大丈夫だ。ここにいるのが、一番落ち着くんだ。」

     大門は、彼を説得する言葉を見つけられないまま、静かにため息をつき、八敷の眠っている顔を一緒に見つめた。真下を説得するのは難しいと、大門も十分に理解していた。真下をここに縛り付け、八敷のそばにいることが、今の彼にとって唯一の支えであり、心の安らぎなのだ。

     「……だが、俺はこれから出かけなきゃならない。戻るまで、八敷を頼む。」真下の表情に一瞬、陰りが見えた。「どうしても片付けなきゃならないことがあってな。」

    「……わかった。」その言葉に裏に潜む意味を理解しても、大門はただ静かに呟くように一言返すしかなかった。

     しばらくして、真下は無言で立ち上がり、八敷の顔を最後に一瞥すると、ゆっくりと病室のドアに向かった。ドアを静かに閉め、真下が大門の視界から完全に消えると、病室には静寂が戻った。

     大門は一人、眠る八敷の顔をじっと見つめていた。そしてそっと手元に目をやり、八敷のために準備していたものを取り出した。それは八敷が目覚めた時、自分自身を傷つけないための防護具だった。大門は軽く八敷のてを取って、その手袋を八敷の両手に再度しっかりと装着した。柔らかな素材で作られたその手袋は、八敷が不意に暴れても危険を避けるために特別に用意されたものだった。

     真下がやろうとしていることについて、大門は何も言えず、止めることもできなかった。以前、彼に「そんなことをしても、八敷が知ったら悲しむだけだ」と忠告したことがあったが、その時の真下は冷たく、「八敷のためじゃない。これは俺自身がやらないと気が済まないんだ。」と、冷たく返したのだ。

    「君が真下を諭せたらよかったのに。」大門は静かに呟きながら、彼の手をそっと包んだ。軽く握りしめながら、少しだけ八敷の手に温もりが戻ることを期待するかのように。

    「君がどれだけ大事な存在か、わかってるかい?みんな、君の回復を祈っているんだ。特に真下くんは……本当に八敷くん、君がいないとダメなんだ。」大門は八敷の顔をじっと見つめたが、答えが返ってくるはずもないことに気づき、ふっと力が抜けるように肩を落とした。自分の言葉が虚空に溶けるように病室は再び静寂に包まれた。大門は一息つき、椅子に腰を下ろした。
     
    「八敷くん、君は今、どんな夢を見ているんだろうか。」せめて、夢の中では苦しんでいないといいんだ。

     どうか、安らかな夢を私の友人に。
     
     
    三、

    「おじさん、真下さん。お邪魔しますね!」萌が明るく声をかけながら、八敷がかつて使っていた事務室のドアをそっと開けた。

     室内には、いつものように真下が仕事に没頭している姿があった。デスクに山積みされた書類と、複雑そうな調査データを確認する彼は、頭を上げることなく「……ああ」と淡く返事をするだけだった。萌はその様子を見て、ほっと息をつきながら静かに部屋に入った。

     真下のすぐ傍には、車椅子に座った八敷の姿があった。無言で、何の反応も示さず、ただじっと座っている。かつての八敷よりも明らかに痩せ細ってしまったままが、それでも顔色は以前より明るくなり、少しずつ健康を取り戻しているのがわかる。

     「おじさん……今日は少し外に出られそうかな?」と、萌は八敷に声をかけながらも、彼からの反応を期待しているわけではなかった。萌はただ、八敷の細くなった腕に軽く触れ、温かさを感じることで安心感を得るかのように手を添えた。八敷が動かないのはもう慣れていた。真下も同じように、この無言の時間が日常と化していたのだ。

     真下は書類を手に取り、無言のまま次のページをめくる。その仕草は以前と変わらず、熟練した動きで無駄がない。だが、その背中にはどこか疲れが見え隠れしているようで、萌は少し眉をひそめた。八敷を気にかけつつも、やるべき仕事から目を離せない真下の姿は、この事務室におけるいつもの風景になっていた。萌はそんな二人を見守りながら、ゆっくりと八敷の車椅子を押して、少し部屋の窓際に寄せた。光が柔らかく彼の顔に当たると、八敷の無表情な顔に、ほんのわずかだけ温かさが映し出されたように感じた。

     萌は、ここ最近の自分の日課が、ほぼ毎日九条館に通うことになっていることを知っていた。時間があれば、この空間に足を運び、八敷の世話を手伝ったり、ここで雑誌の特集を書くことが自然になっていた。何か特別な理由があるわけではなく、ただ、そこにこの二人がいるというだけだ。

     今日も、八敷と真下のそばで、自分の手元にある資料をまとめたり、八敷が過去に残した調査報告を読みながら、静かに時間を過ごしていた。八敷の傍らにいると、彼がかつてどれほど真剣に怪異事件を解決していたか、その記憶が強く蘇ってくる。今は、そんな八敷の姿を見ることはできなくなったが、それでも萌は、彼がこの空間に残したものを感じ続けている。

     八敷の報告を読んで、ネタになりそうな物の整理がひと段落した頃、真下が軽く息をつくのが聞こえた。相変わらずデスクに向かっている彼の後姿を見て、萌は立ち上がる。「真下さん、コーヒーを淹れてこうよか?」と軽く声をかけるが、真下はそれに反応せず、ただ淡々と仕事を続けている。萌はそれに慣れていた。

     そのまま部屋を出て、外に出た萌は、少しの間、八敷を連れて九条館の庭に出ることにした。車椅子を押しながら、心地よい風が八敷の頬に当たるのを感じる。もちろん八敷から反応はないが、こうして外の空気を吸わせることで、少しでも彼が安らげるならそれでいいと思っていた。静かな時間が流れる中、萌は一人で微笑みながら、空に浮かぶ雲を眺めた。

     萌は、八敷を庭で少しの間外の空気に触れさせた後、部屋へ戻ると、コーヒーを淹れる準備に取り掛かった。過去、八敷はさまざまな豆や淹れ方にこだわりを持っていて、いつも自分で丁寧にコーヒーを淹れていた姿が記憶に残っている。

     今日はいつも使っている八敷が好んだ豆を手に取り、丁寧に挽き始める。部屋には徐々にコーヒーの香ばしい香りが漂い始め、萌はその香りが少しでも八敷の記憶を呼び起こしてくれないかと期待を込めて、彼のそばにカップを置いた。コーヒーの香りが広がると、萌はそっと八敷の顔を覗き込んだ。しかし、いつものように八敷は何の反応も示さない。彼の目は虚ろで、まるでここにいないかのようだった。

     それでも萌はあきらめることなく、毎回こうして八敷にコーヒーの香りを届け続けている。彼が過去にどれほどこの香りを楽しんでいたか、そしてそのコーヒーを淹れる時間がどれだけ彼にとって大切だったかを知っているからだ。

     「いい香りね……おじさん」萌はそう呟きながら、カップにそっと手を添えた。「五つの砂糖も入れなきゃ……」

     萌は丁寧に淹れた三杯のコーヒーをトレイに乗せて再び事務室に戻ると、真下は変わらず書類に没頭している。部屋の中には言葉がなく、ただ淡々とした時間が流れていた。それでも、萌も真下も何も言わなくても、この空間にいることが自然で、言葉を交わす必要がないほどの安堵感がそこにはあった。

     カップを一つずつそっと机の上に置き、まずは真下の前に一杯、そして自分の席にも一杯、最後に八敷の前にも同じようにカップを置いた。真下は一瞬だけ視線を上げて、その光景を見て小さく溜息をついた。

     「八敷はどうせ飲めないのに、なんでいつも淹れるんだ?」真下はぼそっと、少し苛立ったように呟いた。しかし、その声には少しだけ諦めが混じっているのも聞こえた。

     萌はその言葉に特に反応せず、ただニコッと笑って「いいじゃないですか、こうして香りを感じるだけでも。」とだけ言って、八敷の前のカップを少し彼の手元に寄せた。

     「それに、こうしているとなんだか、おじさんがここにいて、昔みたいに一緒にコーヒーを飲んでる気がするんだから。」

     真下はもう何も言わずに、カップを手に取り、一口コーヒーをすすった。仕事に戻りながらも、その香ばしい香りにわずかに眉を緩める。萌の言葉にどう答えるかもわからず、ただ静かにその場を受け入れるしかなかった。

     萌は自分の席に戻り、自分のカップを手に取って、八敷の方を見つめた。いつも通り無表情でじっと座っているかと思ったが、今日は目を閉じて静かに眠っているようだった。その寝顔は穏やかで、どこか安心しているようにも見える。萌は一瞬だけ寂しそうに目を伏せたが、すぐに笑顔を取り戻した。

     たまに、萌は帰る前に真下に食事を買ってきたりもしたが、真下がそれに対して何かを言うことはほとんどない。それでも、真下がその食事を静かに受け取り、少しの間手を止めて食べる姿を見て、萌は小さな安心を感じていた。

     日常がこうして静かに流れていく。真下と萌の間に、特別な言葉は必要なく、ただこの空間で過ごすことが、彼らの新しい日常になっていた。そして、それを受け入れることで、少しずつでも、八敷を囲むこの空間が再び生きている証を見せてくれるような気がしていた。

     「あっもうこんな時間!今日は帰らないと……」と、萌は言いながら八敷の前のカップに視線を移した。そして、そのままそのカップを手に取って、ゆっくりと飲み始めた。濃厚で、信じられないほど甘い味が口の中に広がる。最初はこの味に慣れず、何度も甘すぎて顔をしかめたものだが、今ではこの甘さがどこか心地よく、安心感を与えてくれる。

     「やっぱり、これぐらい甘い方もいいかもね。」萌は小さく微笑んで、八敷のカップを飲み干した。そして、カップを元の位置にそっと戻し、「また明日も淹れてあげるね、おじさん」と、静かに呟いた。

     「また明日ね、真下さん。おじさん。」真下は書類に視線を落としながらも、そっと横目で萌の様子を見ていた。何も言わず、何も聞かず、ただそのままいつも通りに仕事を続けた。萌はそれにも慣れている。静かにドアを閉め、九条館を後にした。

     夕方の風が心地よく、萌は深呼吸をしながら少し肩の力を抜いた。今日もまた、あの二人と同じ時間を過ごせたことに、ほっとした気持ちが胸を満たしていた。それでも、心のどこかに引っかかる小さな棘が残っている。そんな思いを抱えながら、いつもの帰り道を歩いていると、ふと最初に九条館に戻ったときのことが蘇ってきた。

     八敷が九条館に戻ってきた最初の頃、今のような穏やかな日々は遠く感じられた。確かに病院を出てから、少しは落ち着きを見せるようになっていたが、それでも時折八敷は激しく暴れることがあった。特に、何か鋭利なものが目に入った瞬間、まるでそれに引き寄せられるように凄まじい力でそれを手にしようとするのだ。

     最初のうちは、それが何の兆候なのか分からなかった。大門が注意深く八敷の反応を観察し、やがて、「長期の監禁や虐待の後遺症かもしれない」と言った時、萌は背筋が凍る思いだった。「長い間虐待を受け、監禁されていた影響で、おそらく、八敷くんは『死』を唯一の解放と捉えているんだろう。」と、大門は慎重に言葉を選びながら話していた。「だから、鋭利なものを見ると、自分を傷つけることで解放されようとしているんだ。」

     まるで本能に突き動かされるかのように、鋭利なものを手に取ろうとし、自分を傷つけようとする八敷の様子を目の当たりにしたとき、萌は恐怖と悲しさに胸が締め付けられた。かつて、どんな怪異に出会っても、どんな絶望的な状況に立たされても、決してあきらめることなく必死に対処し続けたあの八敷が、今やこんなにも壊れてしまっている。

     それからしばらくして、萌は他の印人たちと連携し、九条館の中を徹底的に見回ることを提案した。どんな小さな危険物でも、八敷が手にする可能性がある限り、全て取り除くべきだと考えたからだ。その日、印人たちは誰もが言葉少なに九条館の部屋をくまなく探し、カッターやハサミ、ノミ、ナイフなど、鋭利なものは全てまとめて倉庫に鍵をかけた。とても地道で、果てしなく思える作業だったが、誰もが八敷のためにそれを惜しまなかった。誰一人として「面倒だ」などと言う者はいなかった。

     真下が倉庫の鍵をかけた瞬間、萌は少しだけ肩の荷が下りたような気がしたが、すぐにその気持ちが軽いものであると悟った。何をしても、八敷が完全に穏やかに過ごせる保証はない。それでも、少しでも彼の心が落ち着けるように、萌たちはできる限りの手を尽くした。 

     あの日から、少しずつだが八敷の状態は安定していった。しかし、それでも完全に安心できるわけではない。突然、何かの拍子に過去の記憶が蘇り、再び彼が暴れ出すこともあった。だからこそ、今のような静かで穏やかな時間が少しでも長く続いてくれるように、萌は毎日あの二人のそばに足を運んでいた。

    「結局、少しずつしか変えられないんだよね……」萌は呟きながら、空を見上げた。茜色に染まった雲がゆっくりと流れていく。そこには、過去の激しい日々の残滓が残っているようで、けれども確実にその痛みを和らげるものも存在しているように感じられた。

     明日もまた九条館に行ってあの二人のためコーヒーを淹れろ、そして八敷のそばにいる時間をほんの少しでも穏やかに過ごさせてあげたい。そう思うと、不思議と歩く足取りが軽くなった。

     九条館で過ごす穏やかな日常を、少しずつ、少しずつ取り戻していく。きっと八敷にも、それが伝わっていると信じて。


    幕間、夜

     深夜、静寂に包まれ、まるで眠らぬ獣のように微かな灯りを九条館は抱え続けていた。闇を拒むかのように灯されたその光は、夜がどれほど深くなろうとも、温もりを帯びて部屋を照らし出す。八敷の部屋も例外ではなく、淡い照明が彼の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、穏やかな息遣いがその光の中に静かに溶け込んでいた。

     真下はそっと八敷の傍らに立ち、彼の静かな呼吸に耳を傾けながら、疲れた身体を慎重に抱き上げ、ベッドへと運んだ。真下は八敷の身体を抱き上げた瞬間、その軽さに息を詰まらせる。かつての面影が消え、今は痩せ細ったその重みが、まるで心臓に鉛を注ぎ込まれたように胸の奥へと沈み込む感覚が広がった。真下はふと目を伏せ、わずかに揺らいだ自分の手元に視線を落とす。その指先には八敷の冷えた体温がじわりと伝わってきて、その冷たさがゆっくりと真下の心に染み込むかのようだった。それでも、安らかに眠る八敷の顔を見つめると、真下の胸の重さは少し和らぎ、彼は静かにベッドへとその体を降ろした。

     静かに八敷を寝かせた後、真下は照明を消さず、部屋の片隅にあるソファへと向かい、体を沈めるように横たわった。深い眠りに落ちることはせず、浅いまどろみの中で瞼を閉じる。元々浅い眠りしかとれない人間だったが、この微かな灯りの中ではさらに眠りが浅くなり、安らぎなど得られないような状態にある。それでも、真下はこの不安定な浅い眠りをむしろ望んでいるかのように、瞼を閉じたままわずかに身を丸める。八敷が何かあればすぐに動ける、そう思えば、この安定しない眠りもかえって心地よかった。

     灯りに照らされる八敷の姿は、真下の脳裏にいつも浮かび続ける。

     病院にいて、何週間もの間、拘束しても八敷の発狂が鎮まらない時には、鎮静剤を打って彼を落ち着かせ、大人しくなったところで拘束を解き、再び鎮静剤の効果が切れる前に拘束し直して自傷を防ぐという繰り返しだった。その苦しい日々の末に、八敷はついに暴れなくなったが、それと引き換えに、八敷からは一切の反応が消え、まるで人形のように無表情で動かなくなってしまった。

     その様子を見て、大門は、「これなら退院して九条館で静養すればいいだろう」と判断し、真下に八敷を九条館へ連れて帰るように勧めた。

     印人たちと九条館に戻ったのは昼間だった。八敷は部屋に入るなり、まるで長い間の戦いに疲れ果てたかのように眠りについてしまった。印人が帰った後、真下も、退院手続きで疲れ果てた体を休めるため、八敷をベッドに寝かせた後、真下も隣のソファに腰を下ろし、自然と瞼が重くなっていった。八敷の安らかな寝顔にわずかな安堵を感じつつ、そのまま浅い眠りに引き込まれていった。

     しかし、夜の静寂を破るように、真下の耳に突き刺さったのは八敷の悲鳴と泣き声だった。苦しげな声に飛び起き、すぐに八敷の元へ駆け寄ると、ベッドの上で恐怖におののき、暴れ出している八敷の姿があった。その目には強い怯えが宿り、まるで何か恐ろしい影に取り憑かれたように周囲を見回している。

     真下はその様子に息を呑み、必死に八敷の肩を支えようとしたが、彼の視線は真下を通り越し、ただ暗がりを見つめて怯えていた。そこでようやく真下は八敷が暗闇に恐怖を抱くようになっていることに気づいた。監禁の影響で、暗闇が八敷の心に深く刻み込まれてしまったのだ。長い間、光の届かない場所に閉じ込められ、絶望の中で過ごしてきたため、わずかな暗がりさえも彼にとっては恐怖の象徴となってしまったのだろう。八敷が入院していた間、病院では常に安全のために最低限の照明が保たれていた。深夜でも完全な暗闇になることはなく、薄明かりが絶えず室内を照らしていたため、八敷が暗闇を恐れていることに気づかれることはなかった。たとえ偶然だとしても、病院の環境が、八敷の恐怖心を和らげる役割を果たしていた。

     「八敷、ここは安全だ。何も怖がらなくていいんだ……」と、優しく囁きながら、真下は八敷の傍らに小さなランプを点けた。灯りが彼の顔に柔らかく当たると、八敷の表情は次第に落ち着きを取り戻し、乱れていた息も少しずつ静まっていった。疲れ果てたように目を閉じた八敷の体をそっと抱きしめ、まるで悪夢を見ていた子供を宥めるように、真下は彼の背中を優しく叩いた。その温もりを確かめるように、わずかに肩を落とし、静かに息をつく。八敷の重みが自分の腕の中に収まると、不思議と体から少しだけ力が抜け、長い緊張が少しだけほどけるのを感じた。
      
     人間は完全な暗闇の中で生きるべきではない。と、真下は昔どこかで読んだ。

     光を失うと、絶え間ない感覚入力に慣れた脳は、やがて自ら影を生み出し始める。最初はかすかに動く形、目を閉じた先にぼんやり浮かぶ色の閃き程度かもしれない。しかし暗闇が続くにつれ、脳は何かを捉えようと焦り始める。形は進化し、馴染みのある輪郭になり、顔となる──歪んで、半分だけ形作られたまま闇の中に浮かぶ顔。静寂の中で囁き声が聞こえ、かすかに響く声が不気味なコーラスのように織りなされ、すぐにまた消えていく。この虚無の中で、現実は滑り落ち始め、想像と感覚の境界が曖昧になっていく。そんな光と音の閃きはもはや幻覚ではなく、何かが生きているように、意識を持ってこちらに迫ってくるように感じられるのだ。 

     そうして、やがて幻覚は単なる錯覚を超え、人間の脳は何かがこちらに意識を持って迫ってくるような、恐ろしい存在感を帯び始める。そんな、あの目を覆うような暗闇の中で、八敷が何を見て、何を感じていたのか──どれほど怯えていたのか。

     真下は知っている。

     以前、大門は八敷が長い間の虐待と苦痛に耐えきれず、「死」を唯一の解放と捉えるようになり、常に自分を傷つける行為に走っているのだと推測していた。しかし、八敷はどれほど長く過酷な虐待を受けようと、肉体的な苦痛だけであれば、そう簡単に崩れるような人間ではないのだと、真下は信じている。たとえ心に深い傷を負い、完全には回復し得ない状態に陥っても、もしそれがただの肉体的な虐待と苦痛であるならば、戻ってきた八敷はまだ対話や意思疎通ができる状態であったはずだ。しかし今の八敷は、まるで壊れ果てた人形のよう。それは、肉体的な苦痛や恐怖といった表面的なものではなく、もっと別のものが八敷の心を蝕んでいて、徹底的に心も精神も壊したとしか思えなかった。

     おそらく、長い闇の中で、八敷が抱えてきた後悔や遺憾、そして自責の念が、やがて幻影となって彼を蝕んでいたのだろう。もともと自分を責めやすい八敷にとって、過去に救えなかった人々や、手が届きながらも引き戻せなかった人々──それらが暗闇の中で幻影となり、彼を責め立てていたのかもしれない。それが、それこそが八敷の心を壊してしまったの原因、と真下は思った。

     その夜以降、九条館ではどの部屋も最低限の照明を保つようになった。八敷が完全な暗闇に戻されることがないように。

     部屋の淡い照明の下、真下はそっと八敷の額に垂れ下がった長い前髪を撫でながら、それを撥ねのけた。八敷の髪は入院以来放置されたまま伸びきっている。未だに鋭利な物に強い反応を示すことがあり、ハサミやバリカンを近づけるのも難しいため、そのままにせざるを得ないのだ。

     「……こんなはずじゃなかったよな、八敷。」真下は微かに呟く。触れた八敷の髪は、過去の思い起こさせるようで、それがかえって胸を締め付ける。かつて九条家の重荷から解放された時、八敷には本来の穏やかな生活が訪れるべきだった。しかし現実は、苦しみの連鎖から抜け出すどころか、さらに深い闇へと引き込まれていった。

     痩せ細った頬を優しく撫でると、その肌の冷たさが彼の指先に伝わり、真下はまた一つ深い溜息をついた。そして、八敷の額にそっと唇を押し当てた。八敷の手を優しく握りしめたまま、自分もそっと身を横たえる。心地よい眠りに落ちることはできなかったが、八敷が失踪していた一年間のことを思えば、こうして彼の傍らで目を閉じられるだけで、真下にとってはもう十分だった。握りしめた八敷の手に、かすかに自分の温もりを伝えようとするかのように力を込めながら、真下は静かに息をつく。

     窓の外では、柔らかな月明かりが九条館をそっと包み込んでいる。その光は、闇に囚われた二人をどこまでも静かに見守っているようだった。


    四、

     春の訪れと共に、九条館の庭先には柔らかな桜の花びらが舞い落ち始めた。季節が巡り、暖かな風がようやく冬の冷たさを押し流す中、印人たちは毎年恒例の花見をすることを決めた。どんな状態であれ、八敷と共に桜の下で過ごす時間を共有することが、何よりも大切だと誰もが思っていた。

     愛は、今日をとても楽しみにしていた。近頃は仕事が忙しすぎて、九条館を訪れる機会もめっきり減っていたから、忙しいスケジュールの合間を縫い、ようやく作れた時間を愛はとても大事にしている。
     
     準備は例年通り賑やかだった。広尾は買い出しのリストを抱えて駆け回り、安岡は手際よく弁当を詰めていく。クリスティも、愛と同じように久々に顔を出しており、互いに微笑みを交わしながら準備を手伝った。

     愛が見守る中、満開の桜が風に揺れ、花びらが柔らかな絨毯のように地面を覆い尽くしていく。その光景の中、真下がゆっくりと八敷の車椅子を押して庭の中央へ向かう姿が見えた。桜の木の下に着くと、真下は慎重に八敷を抱き上げ、その痩せ細った体を木の幹に優しく預けた。八敷は相変わらず反応を見せることはなかったが、真下は慣れた手つきで彼を楽な姿勢に整え、その隣に腰を下ろした。

     愛は少し離れた場所に座り、皆の様子を眺めていた。萌は弾むような声で会話を盛り上げており、翔がわざと大袈裟な調子で話を続けるたびに、周囲から笑い声がこぼれる。大人たちは静かにその光景を見守っていた。誰も声を出すことはなく、それでも桜の木の下で交わされる言葉や笑い声に、静かに酒を飲んでいた。愛はその様子を見て、まるで八敷が以前のようにその場に溶け込んでいるかのように感じた。

     桜の花びらが風に乗り、静かに舞い降りる。八敷は依然として何の反応も見せなかったが、その静かな佇まいは、不思議と場の空気を満たしていた 
     
     愛がふと八敷のそばに近づき、しゃがみ込むようにしてその顔を見つめた。「八敷さん、今年一緒にお花見できてよかったです」と、優しい声で語りかける。どこかで拾った桜の枝を八敷の膝元にそっと置いた。しかし、愛は一瞬微笑みを浮かべたかと思うと、ふと曇り、自分の目尻に涙が浮かんでいるのを感じた。次の瞬間、思わず顔を手で覆い、愛は言葉を詰まらせてしまう。「ごめんなさい……少し失礼します」と震える声で言い残し、その場を離れた。

     愛は自分の目元を覆いながら、静かに桜の木々の間を歩き出した。胸に押し寄せる感情をどうすることもできず、ただ深く息を吸い込む。瞳の端に浮かんだ涙が零れ落ちそうになるのを必死に抑えながら、愛は少しだけ桜から離れた場所で立ち止まり、そっと顔を手で拭った。

     「いまだに……慣れないね。」愛は自嘲するように小さく呟いた。久々に会えた八敷と会えて、最初は嬉しさで胸がいっぱいだった。けれど、静かに遠くを見つめるだけで何の反応もしない彼に話しかけるたび、押し込んでいた感情が溢れ出しそうになるのを止められなかった。

     「よし!もう大丈夫のはず!」と思って振り返る時、視界の端に真下の動きが映った。彼が静かに立ち上がり、こちらに向かおうとしているのが見えた。愛は一瞬驚いたが、それよりも先に安岡の声が耳に入る。「大丈夫、少し一人にさせてあげて」。その声に真下は足を止め、再び八敷の隣に戻っていく。その背中を見つめながら、愛は安岡の気遣いが胸に沁みた。

     少しして、愛はようやく目元を軽く拭うと、深く息を吸い直した。その時、榮太がおどおどと近づき、手にした清潔なハンカチを静かに差し出した。「これ、使ってください……」と、小さな声で言いながら、視線を少し下に向けている。その不器用ながらも思いやりのある仕草に、愛は微笑みを浮かべながら「ありがとう」と受け取った。

     手渡されたハンカチで涙の痕を拭い、もう一度息を整える。そして、できる限りの笑顔を作りながら栄太と一緒に皆のもとへ戻っていった。「すみません、ちょっと花粉が……」と冗談めかして軽く笑うが、自分の声はまだ少しだけ震えていたことを気づいた。それでも、萌も翔も何事もなかったかのように自然に笑顔を返してくれる。
     
     「さぁ……召し上がれ!」と安岡は愛に一個のおにぎりを渡した。花見の席には、彩り豊かな料理が並べられていた。広尾が朝早くから買い出しに走り、安岡が丹精込めて詰めたお弁当、そしてすずや司が手伝った手作りの菓子や果物。

     バンシーは、目の前に置かれた食事を遠慮することなくかき込むように食べ始めた。その食べっぷりは豪快そのもので、周りの視線を気にも留めない。器用に口元を汚しながら次々と料理を平らげていく姿は、どこか野生動物のような迫力さえ感じさせた。その瞬間、広尾が目を見開き、眉間にしわを寄せながらバンシーに向かって強い態度を見せた。指を振りながら何やら厳しく叱っている様子だが、バンシーは一切耳を貸さず、さらに食事を続ける。広尾の手が忙しなく動き、叱責がさらに強くなっていく中、バンシーは全く気にする様子もなく、ひたすら目の前の料理に集中していた。

     ちらっと愛は桜の木の下を覗いた。真下は、そのやり取りを淡々と見つめていた。特に口を挟むこともなく、視線を八敷の方へ移すこともせず、ただ静かにその光景を眺めている。その横顔には冷静さと無関心が漂っているようにも見えたが、愛の目には、ほんのわずかに口元が緩んでいるのが分かった。気づかないふりをしているのかもしれないが、真下もこの賑やかな空気に心の中で反応しているようだった。広尾とバンシーのやり取りは相変わらず続いており、次第にその様子を見ていた人々が堪えきれずに笑い始める。
     
     「真下さん……これ、八敷さんの分」と、愛はは桜の木の幹に寄りかかる真下と八敷にそっと声をかけた。

     「ああ。」愛から渡された料理の中から食べやすそうな柔らかいものを選び取った。小さなスプーンに、少し崩した煮物を乗せ、真下は慎重に八敷の口元へと運んだ。

     「ほら、ゆっくりでいいから」と囁くように言いながら、真下は優しく八敷の唇にスプーンを当てる。しばらくして、八敷はゆっくりと口を開き、食べ物を受け入れた。その動きはぎこちなく、まるで反射的なもののようだったが、それでも真下は少しだけ安堵の表情を浮かべた。

     「おじさん、今日は特別にたくさんおいしいものがあるよ」と愛の隣に来た萌は話しかけたが、八敷は視線を動かすこともなく、ただ淡々とスプーンを受け入れるだけだった。

     クリスティがその様子をそっと見守りながら、小さな声で「食べられるだけでも、すごい進歩だと思うわ」と言った。真下はそれに軽く頷きながら、「そうだな」と一言だけ返す。そして、また静かにスプーンを動かし続けた。

     これは、忙しくて頻繁に訪れることができない愛が、他の印人たちの口から聞いた話だった。 

     最初の頃の八敷は、食事を取るどころか、どんなに勧めても反応を示さなかった。その頃の八敷は、ただ横たわったまま、点滴で命を繋ぐしかなかった。どれほど真下が言葉を尽くしても、八敷の目は虚ろで、体は冷たく痩せ細っていくばかりだった。この光景を、愛も病院へ見舞いに訪れた際に目にしていたという。真下は医師から「このまま長くはもたないかもしれない」という言葉を何度も聞かされたそうだった。
     
     だが、静養を続けるうちに、八敷は少しずつ変化を見せ始めた。最初は、スプーンを口元に近づけても何の反応もなかった彼が、ある日、ほんの少しだけ唇を動かした。それから何度も根気強く食事を試みるうちに、八敷は少なくとも口を開け、スプーンを受け入れるようになった。

     「味がわかるかどうかは、わからないけどな……」愛の隣に、真下が呟いた。スプーンを運んで、八敷の口元がわずかに動くたびに、真下はその変化を静かに見守り続けていた。目の前の八敷は、当時と比べれば遥かに安定した状態である。それでも、真下の中には、あの頃の不安と痛みが消えることなく残っていると、愛は知っている。きっとみんなも「ここまで来た」と思う一方で、八敷が元の姿を取り戻す日はまだ遠いようにも感じていた。

     真下は八敷の食事がひと段落したのを確認すると、そっとスプーンを置き、その髪に触れた桜の花びらを取り除いた。その髪は以前のように長くはなく、最近ようやく適切な長さに整えられていた。かつては鋭利な物に激しく反応して暴れた八敷だったが、数十か月が過ぎ、彼はもう全く発狂しなくなり、そうした記憶を蘇らせるものにも今では何の反応も示さなくなった、愛は大門から聞いていた。

     八敷は以前にも増して静かだった。何も見ていないかのように遠くをぼんやりと見つめ、その姿はまるで人形のようだった。そんな安定した状態の八敷に対し、真下は車椅子を押してあちこちに連れ出すようになった。庭先の桜の下だけでなく、穏やかな風が吹く公園や木漏れ日が心地よい林、小川のせせらぎが聞こえる静かな場所などへ。八敷が周囲の状況に気づいているかはわからない。それでも、真下は八敷を外に連れ出し、風に当たらせたり、美しい景色を見せたりすることを欠かさなかったと、印人たちからも話を聞いていた。

     八敷が何も返さなくても、真下は話し続けた。風の匂いや青空の広がり、遠くから聞こえる鳥の囀り。日々の何気ない話題を穏やかに語りかける。まるで、かつて普通に交わしていた会話のように話し続ける。その一方通行の語りかけを真下が気にすることはなかった。それが、八敷にとって少しでも良い影響を与えるのだと信じているように。時々、印人たちが時間に余裕を見つけて付き添い、一緒に散歩をしたり八敷に話しかけたりもしていた。八敷の返事がなくても、ただ静かに寄り添うようなひとときを過ごしていた。それは、今日の花見にも似た光景だった。

     自分も、もっと時間を作って八敷と向き合いたい──愛はそんな思いを胸に抱きながら、思わずため息をついた。忙しくてなかなか九条館を訪れることができず、こうして八敷と向き合える機会は本当に限られていると愛は痛感していた。

     夕方になり、桜の木々の間に夕陽が差し込むようになってきた。柔らかなオレンジ色の光が、散り始めた花びらと共に地面を染め上げる。風が少しひんやりしてきたのを感じた大門が、腕時計をちらりと見ながら口を開いた。

     「そろそろ片付けないとな。」大門は少し離れたところで一息ついていた広尾に声をかけ、手伝いを求めるような視線を送った。広尾もそれを察してゆっくりと立ち上がり、シートの上に並べられた食器や弁当箱を一つずつ片付け始めた。

     翔は手早くバンシーの食べ散らかした皿をまとめ、広尾の元に運んだ。「バンシーの爺さん、もう少しきれいに食べろよ……」とぼやきながらも、その表情はどこか満足げだった。すずとつかさは八敷のそばに座り、彼の姿を最後にもう一度確認するように静かに見つめていた。

     「八敷さん、また一緒に桜を見ましょうね」と安岡が優しく八敷の髪を撫で、目を伏せながら静かに語りかけた。「次は花火大会にも連れて行きたいな。きっと、空一面に広がる光が綺麗ですよ。」

     安岡はどこか微笑むように目を細め、八敷の肩をそっと撫でた。まるで、自分の言葉が少しでも届くことを信じているかのように。

     夕陽が沈むにつれ、九条館の庭には次第に夜の気配が近づいてきた。冷たくなり始めた風が木々の間を通り抜け、散り残った桜の花びらを揺らしている。荷物をまとめ終えた皆は、それぞれ自分の役目を終えた安堵の表情を浮かべながら帰り支度を始めた。

     広尾が最後に確認するように周囲を見回し、「忘れ物はないね?」と一言つぶやくと、全員が小さく頷いた。

     真下は、まるで壊れやすい器物を扱うように慎重に、痩せ細った八敷の体を優しく抱き上げ、再び車椅子に戻す。そこで愛はそっと八敷の車椅子の取っ手に手を添えた。

     「あたしが押します!」と愛は申し出たが、真下は首を横に振り、「いい、俺がやる」と静かに答えた。でも愛のあつい視線に気づき、少しだけ躊躇した後で静かに一歩下がった。「……頼む。」そう短く言い、真下は車椅子から手を離した。

     やった!と愛は心の底から思いながら、わずかに頷き、八敷の車椅子を丁寧に押し始めた。真下はその後ろ姿を見つめながら、ほんの少し眉を寄せたが、それ以上何も言わずに愛の後を歩き始めた。

     車椅子の揺れる音が、印人たちの間にかすかに響く。桜の木々を照らしていた夕暮れの光が徐々に消えていく頃、一行は名残を惜しむように庭を後にした。そして印人たちは疲れと共に、お互いに別れを告げ、少しの充足感を胸に抱きながらそれぞれ帰路についた。

     しかし、愛だけは九条館に残っていた。普段忙しく、なかなか八敷や真下に会う機会が少ない分、この時間をもう少しだけ味わいたいという気持ちからだった。静かに庭九条館の前に立ち、愛は夕方の空を仰ぐ、目はどこか遠くを見つめていた。

     「真下さん……?」ふと振り返った愛の視線の先に、門の前で車椅子を押しながら外へと向かう真下の姿があった。彼は八敷を連れて、さらに散歩を続けようとしているようだった。

     「今天天気がいいし、もう少し八敷を外に連れ出そうと思う。」真下は振り返ることなく、淡々とした声で言った。その背中には、彼のいつもの冷静さに加えて、どこか言葉にできない寂しさが漂っているように聞こえた。

     肌をかすめるひんやりとした風が吹き抜ける中、真下は車椅子を押しながら八敷にそっと話しかけていた。二人が向かう道の先には何もないかもしれない。それでも、真下は歩みを止めることなく、ゆっくりと進み続けていた。

     愛はその場で立ち尽くし、二人の姿が夜の闇に溶け込むように消えるまで、じっと見つめ続けていた。そして、一度深く息を吸い込むと携帯を取り出し、マネージャーに短くメッセージを送った。「少し遅くなります」とだけ書き込み、送信を終える。携帯をしまった後、愛は足元で舞い散る薄紅の残像を見つめた。自分だけが残されたような感覚を抱えながらも、静かに歩き出した。

     桜の季節が終わり、木々が鮮やかな緑に染まる頃も、真下と八敷の静かな散歩はきっと続いているのだろう。愛から見るその光景は、まるで時が止まり、静寂がすべてを包み込んでいるかのようだった。しかし同時に、それは二人だけが触れることを許された閉ざされた世界にも見えた。真下が押す車椅子の揺れる音さえ、どこか重く響き、他の何も寄せ付けないような隔絶感が漂っている。

     その重さに何かを語りかけたくなりながらも、愛は言葉を飲み込み、足元に落ちる影を見つめる。木々の間を抜ける風を感じながら、愛はふと一人で歩きたくなった。


    幕間、罰

     真下はデスクの上に積まれた依頼書を一枚一枚手に取って確認していた。ここ最近、彼のもとに持ち込まれる案件は、浮気調査や迷子のペット探しといった日常的なものばかりだ。それらはどれも無害で、怪異とはまるで無縁だった。かつて八敷と共に解決してきた複雑で危険な案件は、もう遠い過去の話のように思えた。

     「婆さん、本当にいいのか?」真下は一度、安岡に尋ねたことがある。特に何か不満があるわけではなかったが、どうしても心のどこかで引っかかるものがあった。怪異案件を遠ざけられているのは、安岡の配慮なのだろうかと。

     しかし安岡は、特に気にする様子もなく微笑みながらこう答えた。

     「大丈夫。前に八敷さんを通じて紹介したあの二人組が、怪異系の案件をちゃんと引き受けてくれてるから心配ないわよ。それに、真下さんには今は八敷さんとしっかり向き合ってもらいたいんだ。」

     安岡の言葉には一切の迷いがなく、真下はそれ以上何も言えなかった。

     今、八敷は部屋の一角で穏やかに寝ている。真下が書類を片付ける音に反応することもなく、ただ静かにそこにいて、痩せた体が微かに上下している。真下は時折視線を上げて八敷の方を見やり、そのたびにわずかに眉を寄せる。以前なら、八敷はこの書類の山に顔をしかめ、「俺はお前の助手じゃない」と言いながらも、率先して手伝ってくれたものだ。今はその姿がない静かな空間に、真下はわずかな物足りなさを感じていた。

     机の上に目を戻し、新たな書類を手に取る。「行方不明の犬捜索」と書かれた表紙に視線を落としながら、真下は小さく息を吐いた。

     危険な怪異案件にもう関わらず、こういった無害な案件ばかりを引き受けていると、当然ながら報酬も以前に比べて大幅に減っていた。さらに、ほとんどの時間は八敷の世話をしたり、彼に寄り添うことに費やしていたため、真下が本格的に仕事に取り組める時間も限られていた。

     だが、幸いなことに、金銭的な心配はまったくなかった。八敷が九条家から受け継いだ資産があまりにも膨大で、日々の生活費や医療費など、どんな出費にも十分すぎるほど余裕があった。九条家の資産があるからこそ、真下はこうして仕事の量を減らしても問題がなかったし、安岡もその状況を理解していたのだろう。怪異案件を避けるようにしているのも、単に八敷のそばに真下を留めておきたいからかもしれない。

     再び依頼内容に目を通す。次の表紙に書かれているのは「浮気調査」という文字。真下は小さく舌打ちをしながらその紙を裏返した。

     「またこれか……。」 声に出さずにそう呟き、少し苛立ちを覚え、手中のペンを面倒くさそうにデスクに投げ出して、真下はため息をした。

     「……まあ、これくらいがちょうどいいのかもな。」小さく独り言を呟き、手元の書類を脇に置いた真下は、ゆっくりと八敷の側に歩み寄った。そしてそっと八敷の髪に触れる。柔らかで、どこか儚げなその感触は、かつての八敷の面影を思い起こさせるようで、真下の指先を一瞬止めた。変わってしまった八敷――いや、それは「変わらざるを得なかった」と言うべきなのだろう。

     今の八敷は、真下がいなければどこへも行けない。どこにも行こうとしない。ただ静かに、そして安全に九条館にいるだけだ。この館の中にいれば、彼に危険が迫ることはない。怪異も、人間も、八敷を傷つけることはできない。真下自身も、もう彼を見失う恐怖に怯える必要はない。八敷が消えることを心配しなくていい。命を落とすような危険にさらされることもない。

     その事実に、真下は不意に胸の奥で奇妙な感情が湧き上がるのを感じた。それは安堵に似ている。けれど、それが純粋な安心感ではないことを真下自身が一番よく分かっていた。今の八敷の状態が、どれほど壊れたものかを知りながら、それでもなお「安全である」という現状に自分が安らぎを覚えてしまう。彼のそばにいられることで、八敷がもう何者にも連れ去られないことに、密かに安心している自分に気づいてしまう。

     その安心感は真下の胸をじくじくと苛む。こんな状況を「良い」と感じる自分自身が許せなかった。この感情を持つこと自体が、どれほど八敷を裏切ることになるのか。八敷の不自由さ、壊れた姿が、自分にとっての安らぎの象徴になってしまっていることが、耐えがたかった。

     八敷の痩せた頬を見つめながら、真下は指先をそっと離した。触れることすら自分の身勝手な感情を押し付けているように思えて、耐えられなくなったのだ。俯きながら一歩後ずさり、デスクの椅子に腰を下ろす。再び手に取った書類の文字がぼやけて、何も頭に入ってこなかった。

     これはきっと自分への罰だと、真下は思ってしまう。

     どこか心の奥底で、八敷が危険な怪異案件に関わるのを望まなかった自分。怪異に苦しむ人々を救おうとする彼の決意を、どこかで放棄させたかった自分。普通の生活に戻り、自分と共に穏やかな日々を選んでほしいという、そんな身勝手な願いを抱いていた自分。今目の前に広がるこの現実は、そんな自分への罰だ。

     現状は、真下が心のどこかで願った形の一部を叶えているように見える。しかし、それは決して真下が望んだ形ではなかった。これは破滅であり、不完全な願望の成就だった。八敷がそばにいる代わりに、彼の笑顔や声、生き生きとしたその存在そのものが失われてしまったのだから。

     かつて真下が心から愛した、困ったように照れ笑いを浮かべる八敷。何気ない日常の中で、ふと抱きしめ合い、温もりを確かめ合った瞬間。そんな八敷は、もうここにはいない。目の前にいるのは、その面影だけを残した壊れた人形のような姿だった。八敷は確かに真下のそばにいる。けれど、それは同時に八敷を完全に失ったことを意味していた。今の彼からは、もう笑い声も、困ったような仕草も、優しく抱きしめてくれる腕も戻ってくることはない。

     真下は拳を強く握りしめた。けれど、その手には何も掴めなかった。心の中で、何度も何度も「なぜこうなった?」と問いかける。八敷を安全にそばに置きたいという心の奥底の願望を叶えたのに、同時に八敷そのものを奪い去ることで、真下は天に裁かれたような気分だった。心に湧き上がる感情は、怒りや悲しみ、後悔といった単純な言葉では表せない。全てがぐちゃぐちゃに絡み合い、もはや自分でも整理がつかないほどに複雑だった。

     視線をもう一度八敷に戻す。柔らかな灯りの下で眠る彼の顔は穏やかに見える。だが、それは真下が作り上げた「守られた空間」の中でしか保たれない脆い安らぎだった。

     ゆっくりと息を吸い込み、再び書類に目を落とす。手は震えていたが、それをどうにか押し隠すようにペンを握り直した。八敷のために、自分の感情などどうでもいい。八敷がここに、自分の側にいる。それだけでいいのだと、真下は無理やり自分に言い聞かせた。

     書類戻りたいけど、真下はどうにも集中できず、苛立ちと疲労感が胸の中で重なり合う。深く息を吐きながら、目の前の山積みの仕事を見つめたが、それ以上手を伸ばす気にはなれなかった。真下は椅子を静かに引き、立ち上がった。書類は未整理のままデスクの上に残されているが、今はそれよりも八敷のそばにいたかった。小さな足音を立てながら、八敷が横たわるベッドのそばに歩み寄り、ふと彼の顔を覗き込む。

     「八敷……。」

     名前を呼ぶ声は、かすかな響きとして空気に溶けていった。返事など期待していない。その代わり、そっと手を伸ばして八敷の肩に触れ、その体を軽く引き寄せる。八敷を自分の胸に抱き寄せるようにして、真下はそっと目を閉じた。八敷の温もりが、かすかに真下の胸に伝わる。それはあまりにも微弱で、それゆえに切なかった。

     「少しだけ休ませてくれ。」

     そう呟いてから、真下は八敷の髪に軽く唇を押し当てた。ほんの一瞬だけでも、この時間が全てを忘れさせてくれるような気がした。八敷が何も言わず、何も返してこないことに痛みを感じながらも、真下は静かなこの空間に身を委ねた。腕の中の八敷の重さを感じながら、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。それは短い眠りであり、決して安らぎとは言えないかもしれない。しかし、この瞬間だけでも、真下にとっては十分だった。

     八敷を抱えたまま、真下はその場で目を閉じ、静かな息遣いと共に短い休息へと落ちていった。


    五、

     柔らかな風が吹く静かな公園。木漏れ日が差し込むベンチに、真下と翔は八敷を連れて並んで座っていた。周囲の木々が風に揺れ、ささやくような音を立てている。時折、木漏れ日が微妙に揺らめき、八敷の無表情な顔にちらつく影を落としていた。

     真下と八敷の傍らに立つ翔の姿には、かつての少年らしい稚気や未熟さはもう見られなかった。背筋を伸ばし、すらりとした高い身長が際立つ彼の佇まいには、どこか凛々しさすら漂っている。だが、その鋭い目つきや口元に残る僅かな強情さは、かつての不良少年だった彼の過去を感じさせる。暴れん坊だった頃の粗野な気配が完全に消えたわけではないものの、今の翔はそれを己の芯の強さとして抱え、しっかりと制御しているように見える。

     身に纏う制服そのものが新人警察官であることを証明しており、翔の存在はかつての無鉄砲さとは一線を画した「安心感」を漂わせていた。その逞しい肩幅とどこか落ち着いた仕草には、守るべきものを背負う者の覚悟が滲み出ている。翔の側に立っているだけで、どんなに厳しい状況でも頼れる味方がいるような心強さを感じさせるのだ。 

     翔はいつもの明るい口調で、最近巡査の仕事で出会った様々な出来事を楽しそうに語っている。翔の話には笑い話も混じっていたが、真下は特に反応を見せることなく、手にしたパンを黙々と細かくちぎり、ゆっくりと地面に落としていた。その細かくちぎれたパン屑に引き寄せられるように、灰色の鳩たちが次々と集まってくる。彼らは群れになって忙しなく動き回りながら、足元のパン屑を夢中でついばんでいた。真下の視線はその鳩たちに向けられていたが、そこに感情の色はほとんど見られない。ただ淡々とパンをちぎり続ける手だけが動いている。その無機質な様子に、翔は一瞬言葉を止めたが、すぐにまた話を続けた。

     その時、灰色の群れの中に一羽だけ、純白の鳩が混じっていることに翔が気づいた。「おっ、白い鳩だ!めずらしいなぁ……」と軽く声を上げたが、真下はそれにも特に反応を示さなかった。ただ目の端でその鳩を捉えながら、相変わらずパンをちぎり続けていた。

     白い鳩はパン屑をついばみながら、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと八敷の車椅子の前に近づいていった。その動きにはどこか落ち着きがあり、他の灰色の鳩たちとは違う静謐な雰囲気を漂わせていた。

     「まぁ、こんな奴、俺でも逮捕する気にならねえよ」と翔が言った瞬間、不意に動きがあった。

     翔がふと視線を横にずらし、いつも人形のように動かない八敷を見た。さっきまで無反応だった八敷が、まるで微かに動いたかのようだった。翔の眉が一瞬跳ね上がり、信じられないものを見るような表情を浮かべる。

     「なぁ、旦那……」翔は声を低くし、真下に話しかけた。「オッサン、今、笑ってなかった?」

     真下もパン屑を手にしたまま、黙って八敷を見つめる。よく見なければ気付かないほど微細な変化だが、確かに八敷の無表情だった顔が、今は違って見えた。いつもは何も見つめることなく、虚空に目を向けている八敷が、目の前の白い鳩に軽く視線を向けていた。瞳が微かに細まり、口元が僅かに上がっているように見える。笑顔と呼べるほどではないが、普段の無機質な表情とは明らかに違い、何か柔らかなものが滲み出ているようだった。

     「ほら!やっぱり、笑ってたな?」翔は興奮気味に声を上げ、もう一度確認するように言った。「なぁ、旦那。オッサン、笑ったよな?」

     翔の声には驚きと喜びが入り混じっていたが、真下はそれに応じず、静かに手に持っていたパンを置いた。そして、ゆっくりと八敷の前にしゃがみ込むと、彼の目をじっと見つめた。

     「……八敷。」真下は静かに名前を呼んだ。声のトーンは普段と変わらないが、その中にかすかな期待が込められていることは明らかだった。だが、八敷は真下の呼びかけに何の反応も示さなかった。それでも、白い鳩を見つめた時と同じ、かすかな微笑を浮かべたままだった。

     翔が「旦那、今の見たか?」と声を弾ませるが、真下は手を伸ばし、八敷の額の上に落ちた前髪をそっと撫で上げた。真下は言葉を失いながらも、かすかに八敷の頬に触れた。その冷たい感触に一瞬ためらったものの、次の瞬間、八敷がゆっくりと目を閉じた。

     真下がその手をそっと離そうとした時、まるで猫が撫でられている時のように、八敷が真下の手にわずかに頬を擦り寄せた。その動きは、意識的なものなのか、あるいは無意識の反射なのかもわからない。しかし、その小さな仕草に、真下の胸の奥に溜まっていた重苦しい何かが、一瞬だけ柔らかく溶けるような感覚が広がった。

     「旦那!オッサンが……!」と翔は声を上げた。 

     「……翔、うるさいから黙ってろ。」真下は静かに言うと、翔を制するように片手を挙げた。声のトーンは冷静だったが、その中に微かに揺れる感情が垣間見えた。「八敷は多分疲れてるんだ。今日はもう帰ろう。」

     翔は不満そうに「でも、旦那、オッサンが……」と言いかけたが、真下の真剣な表情にそれ以上の言葉を飲み込んだ。翔もまた、八敷の変化を喜びつつも、それ以上の無理をさせたくない真下の気持ちを察していた。

     翔は八敷に目を向けた。それと同時に柔らかな風が再び公園を吹き抜け、白い鳩が静かに空へ舞い上がっていく。その羽ばたきが静寂の中でわずかな音を残して消えていく様子を見送りながら、翔はふと不安に襲われた。先ほど八敷に見た微小な変化は、まるでその消えていった鳩のように儚いものだったのではないか、と。今こうして目を閉じて眠る八敷の顔には、もうそのわずかな違いさえ見つけられない。それがまるで、自分が見たものがただの錯覚だったかのような疑念を抱かせたのだ。

     その不安に突き動かされるように、翔はもう一度真下に話しかけようとした。しかし、真下は何も言わずに八敷の手をそっと取り、わずかに力を込めて握り返すと、その手を静かに八敷の膝の上に戻した。その後、ベンチに置かれていた外套と袋を取り上げ、整えると、八敷の車椅子の後ろに回り込んだ。そして、振り返ることなく車椅子を押し始めた。「行くぞ」と言わんばかりの動きで、肩越しに軽く翔を促すような視線を送るだけだった。

     翔は慌ててその後を追いながら、ふと真下の横顔を見上げた。その顔には、何とも言えない感情が交じり合っているように見えた。安らぎと痛み、そのどちらでもあるような、あるいはどちらでもないような微妙な表情だった。翔は思わず口を開こうとしたが、結局言葉を飲み込む。そして胸の中で確信する――さっきの八敷の微細な反応を、真下の旦那も見ていたはずだ、と。

     翔は自分の中で湧き上がる興奮を抑えきれなかった。しかし、真下が気づかないように後ろでそっと拳を握り締める。自分の唇の端が勝手に上がるのをどうにもできず、同時に目頭に熱いものが込み上げてくるのを感じた。焦ったように袖で目を擦りながら、翔はその気配を真下に悟られないよう努めた。

     歩き出す二人と一台の車椅子。その静かな足音が公園の木々の間を抜けていく中、翔は真下の背中を見つめながら、もう少しだけ希望を胸に抱くことを許した。



     「なーがーしーまー、貴様これどういうつもりだ?」真下は低い声で翔を睨んだ。その目には苛立ちが浮かんでいる。今朝、八敷が微細な反応を見せたという話が広まり、午後には萌や他の印人たちが九条館に駆けつけてきたことで、普段の静かな空間が急にざわついていた。

     しかし、八敷を会える前に真下は鬼の形相で部屋の扉を背にして立ちふさがった。翔は真下の視線に気圧され、一瞬言葉を飲み込んだが、居心地悪そうに頭を掻きながら控えめに言い訳を始めた。

     「いや、だって旦那……オッサン、今朝反応あったじゃねー?渡辺にも伝えなきゃと思ってつい……」

     真下は深くため息をつき、腕を組んだまま口を開けた。

     「貴様らもだよ。静かであるべき場所にこんなに押しかけてきて、わいわい騒いで……まるで縁日か何かのつもりか?」廊下にいる全員が黙り込み、それぞれ申し訳なさそうに視線を逸らす。

     「でも……おじさんが反応したのって……」萌は少し顔を俯けながら、小さな声で呟いた。

     真下は萌の言葉に一瞬眉を寄せたが、すぐに腕を解き、少し落ち着いた声で続けた。

     「小さな変化に一喜一憂するのはどうする?それで次に何もなかったら、どう感じる?勝手に期待して、叶わなかったとき、自分たちの気持ちをどこに向けるつもりだ?」静まり返った廊下の中で、真下の話は鋭かったけどどこか語尾が柔らかくにも聞こえる。

     「八敷に何か変化があるたびにこうやって騒ぎ立ててたら、いずれその期待が重荷になる。八敷にそれを押し付けるつもりか?」

     萌は下を向き、手のひらで無意識に膝を叩きながら、「そういうつもりじゃ……」と小さな声で反論しようとしたが、結局言葉を飲み込んだ。

     真下は一瞬言葉を切り、印人たちを静かに見渡した。そこに集まる印人たちは、誰もが気まずそうに視線を逸らしつつも、期待を隠しきれない顔をしている。その姿を見て、真下は微かに苦笑した。

     「まあ……気持ちは分かる。」真下はそう言いながら腕を解き、少しだけ肩をすくめた。声には冷静さが宿っていたが、その裏に潜む感情の揺れは隠しきれていなかった。真下自身、八敷の変化を目の当たりにしたとき、胸の中にどれほどの喜びが湧き上がったかを誰よりも理解している。しかし、その一瞬の喜びが失望に変わらないように、真下は気をつけている。「俺が言いたいのはな……八敷のことを思うなら、もっと慎重になれってことだ。」

     真下の言葉には、押しつけがましさや怒りは感じられない。ただ、静かで確かな思いが込められているようだった。翔が口を開きかけたが、結局黙ったまま視線を落とした。萌や他の印人たちも、少し申し訳なさそうな顔をして頷いた。

     「勝手に集まるのはいい。ただ、もう少し静かにしてくれると助かる、特に今…八敷はまだ寝ている。でもどうせもう来たからわざわざ帰らなくていい。」真下は少し柔らかな表情を浮かべた。

     周りの空気が少し和らいだ。安岡が「ほら、みんな聞いたでしょう?少し落ち着いて」と穏やかな声で促すと、萌も静かに「わかった」と頷いた。他の印人たちも、それぞれ申し訳なさそうに視線を交わしていた。

     翔は未だに居心地悪そうに立っていたが、ふと真下の隣に腰を下ろした。「……悪かったな、旦那。ちょっと舞い上がりすぎた。」真下はちらりと翔を見たが、何も言わなかった。ただ短く頷くと、部屋の方へ目を向けた。

     「……まあ、俺も八敷が反応してくれた時は、正直嬉しかった。」真下がぽつりと漏らした言葉に、廊下にいる全員が真下を見つめた。「だからこそ、こうして集まってくる気持ちもわかる。でもな、期待しすぎて負担をかけるのは、八敷にもお前ら自身にも良くない。それを覚えておいてくれ。」

     「今朝の八敷くんはどんな感じだった?」大門の言葉に、部屋の空気がわずかに揺れる。萌は顔を上げ、期待の目で真下の返事を待っていた。

     「特に変わりはない。ただ、公園で鳩を見たときに、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。目で追ったのかもしれない。」真下は振り返りながらドアノブに手をかけ、そっと回した。「……それと……たまたまかもしれないし、反射かもしれないけど、俺が触れたときにも、わずかに反応した。すぐに眠っちまったけどな。」

     真下の言葉は全員の胸に深く刺さるものだった。このような変化に期待を抱かないのは難しい。しかし、誰もが口を閉ざし、それぞれの思いを胸に秘めた表情で真下に視線を向けていた。その中で最も期待しているのは、おそらく真下自身だろう。だが、真下はまるで能面をつけたように、顔には何の感情も浮かべていない。それでも彼らにはわかる。真下が一見無関心なふりをしているその裏で、彼は感情を必死に抑え込んでいるのだ。目の前の現実に長期的に向き合うために、自らに一切の希望を許さないかのように。

     「また寝ているかもしれないから、部屋に入るときは静かにしてくれ。」真下はそう言いながらドアを開け、みんなを促して中に入った。しかし、一歩踏み入れた瞬間、真下は突然その場で立ち止まり、身後の翔と萌が勢い余って真下の背中に鼻をぶつけた。

     「うわっ、旦那?何だよ急に!」翔は痛そうに鼻を押さえながら、真下の背後から顔を覗かせた。

     窓辺で陽の光を浴びて座っている八敷。暖かな日差しに包まれ、ブランケットにくるまったその姿は、これまで幾度となく目にしてきたものだ。ただ静かで、まるで人形のように生命を感じさせない美しく切ない姿。

     だが、どこかが違う。

     翔は無意識のうちに違和感を覚え、その正体に気づいた瞬間、目を見開いて立ち尽くした。

     いつもは虚無に満ちた目で何も見ず、ただ俯いているだけだった八敷が、今は違った。八敷は微かに顔を上げ、窓の外をぼんやりと見つめていたのだ。

     「……!」

     誰も声を発しない静寂の中、窓の外から軽やかな鳥のさえずりが静けさを破るように響いてきた。


     To be continue.







      







     
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