下校時刻のチャイムが鳴り、ゆっくり廊下を歩く。校庭を囲む木々の桜の花びらは散り、新緑の色に変わっていた。グラウンドを眺めると部活動の準備をしている後輩たちを数人見つける。
ほんの数週間前までは一緒に活動していたのに、なんだかすごく遠い昔のように感じる。
「大門山」
立ち止まって外を見ていた俺に、担任の先生が声を掛けてきた。
「なんすか?」
「お前の進路調査表、空欄だったぞ」
先生は目の前に白紙の進路調査表を差し出した。
そんなの知ってる。
黙っている俺に何か察したらしく、先生は話を続けた。
「お前の家、自営だったよな?」
「はい」
「兄貴はどうしてる?」
「家を継いでます」
「まぁ色々思うところがあるとは思うが、あまり思い詰めるなよ」
もう少し期限延ばしてやるから、と先生は俺に進路調査表を返してきた。
先生は兄も受け持った事があるから、家の事情をよく知っている。
そして、きっと俺の気持ちも。
先生から返却された白紙の進路調査表をぐちゃぐちゃに丸めて、ズボンのポケットに詰め込んだ。
「ただいま」
家のリビングに入っても誰からも返事は無い。
この時間はみんな現場に出てしまって静かだ。
笑顔の父親の遺影だけが俺を見ている。
仏壇の前で腰を下ろす。ポケットの中の紙がくしゃり、と音を立てた。
蝋燭に火を付け線香を上げる。
「ただいま」
父親に声をかける。
声をかけても返事が返ってくることはない。それでも毎日声をかける。
俺が物心ついた時には、その行為が当たり前だったので何の疑問も持たずに育った。
父親の事をよく知らないくせに。
写真や動画を見せられた事は山ほどある。
だけど、懐かしむ家族の中で俺は「こんな人だったのか」と思うだけ。
みんなの脳裏には父親の記憶が焼き付いているが、俺にはそれが無かった。俺の頭の中には、父親の思い出を再生するデータなんて一つも入っていない。
でも、そんなに寂しくは無かった。
俺の周りには沢山の人がいたから。
社長として働く母親は多忙だが、毎日俺に好物たっぷりのお弁当を作ってくれる。
姉は母親代わりとして、俺が小さい頃は身支度の世話をよくしてくれた。今でも「準備したの?」って口煩いけど。そんな煩い女だと、彼氏に逃げられるぞ。
そして、兄がたくさん甘やかしてくれた。
公園に行きたいと言ったら、手を繋いで連れて行ってくれた。
歩くのが疲れたと駄々をこねたら、おんぶしてくれた。
特に肩車が大好きだった。兄より高い目線になって、周りの景色を見るのが好きだった。
父親の温もりは知らないけど、兄の温もりはよく知ってる。
遺影の近くに飾られている兄と青の機体が一緒に写っている写真を見る。
兄はシンカリオンの運転士として活躍していた。
でも、運転士になるの悩んでた、と母親が言ってた。
「父ちゃんが死んでから初めて自分のやりたい事言ったねぇ」
じゃあ、運転士の道を選ばなければ、ずっと家の手伝いしていたのか。俺が小五の時なんて、何不自由なく好き勝手にさせてもらった。
何かを犠牲にしてまで大門山建設を守ろうとする兄と俺との違い。
そう。
俺は父親の働く姿を見たことがない。
だから、土木にも地形にも建設業にも憧れも関心を持つことがなかった。
兄はずっと父親の背中を見て育ってきたのだ。
父親への憧れと長男として家業を守るという責任。
それを貫いてきたのだ。
俺と兄は出発駅が違うし、導かれたレールの行き先が違うのだ。
名前の通り貫く兄はかっこいい。
それに比べて俺はちっぽけな男だ。中身は空っぽで、高校進路だって勇気が出なくて、一歩も足を踏み出せないままだ。
そんな事を考えていたら、外から人の声が聞こえてきた。リビングの窓から様子を伺うと、現場から従業員たちが戻ってきたようだ。
従業員達に混じって兄の後ろ姿を見つけた。
「と……っっ」
まただ。
無意識に口に出そうとした言葉に焦って、慌てて手で口を塞いだ。
兄はリビングにいる俺に気が付き手を振ったが、思わず目を逸らしてしまった。
そうだ。
本当は答えなんて出ている。
何か言い訳ばかり探していただけだ。
もうそれも終わりにしなくてはいけない。
行き先の違うレールの先に何があるのか。
俺にはもう見えてるのだ。
「ケンロク、おかえり」
「ただいま」
休憩を取るため、兄はリビングに入ってきた。
俺がリビングに居るときは、必ず休憩時間はここに来る。
兄が線香を上げると、線香の香りが再びリビング中に広がる。一人の時は纏わりつくのが少し怖いこの煙も、兄と一緒だと平気だ。
これから兄の前で意思表明を示すかのように、ズボンのポケットから丸めてある進路調査表を取り出し、皺を広げて伸ばした。
「進路調査表、まだ出してなかったのか?」
「……今書くところだったんだよ」
ひと呼吸置いてから、進路調査表に勢いよく書き込んで、まるで印籠のように兄に突きつけた。
「俺はあんちゃんと同じ高校に行こうかな、と思う」
勢い良く突き付けた割に、口に出す言葉は弱々しい。答えは分かっているくせに、もう一歩先に踏み出せない自分に少し苛立つ。
「俺さ、父ちゃんの記憶ないからこの仕事の憧れとか無かったんだ」
苛立ちがきっかけで俺の中のスイッチが押されたようで、次々と言葉が溢れ出してきた。
「でも、あんちゃんがこの会社で働きだしてから、その気持ちが少しずつ変わっていった。建設とか興味でてきたし」
流暢に話し出した俺に兄は少々驚いている。
それもそうだ。
周りの人達に言わせれば、俺は口数が少なくぶっきら棒だ。
兄と正反対だ、と。
ただ、家族も従業員も担任も口を揃えて言う言葉がある。
『その目、兄そっくりだな』
兄の目を見つめる。そして、リビングでいつも俺たちを見守っている色褪せた父親の遺影の目を見つめる。
「最近、あんちゃんの後ろ姿見ると父ちゃんって言いそうになるんだよ」
さっきもそうだ。
思わず言いそうになってしまった。
「きっと父ちゃんもあんちゃんみたいに働いていたんだろうな」
俺は無意識に兄に父親の姿を重ねていたんだ。
どんな風に大門山建設で働いていたのか、自分の目で見たかった。
自分自身で父親を感じたかった。
でも、それはもう叶わない。
それなら……
「俺はあんちゃんの背中を追いかけたい」
俺は兄の目を見て言った。
そんな俺を見て兄は柔らかく微笑んだ。
「その目、父ちゃんにそっくりだな」
兄からそう言われて驚いた。
俺の目は父親にも似ているのか。
俺も父親と通じるものがあったんだ。
兄にそう言われて、今までの負の感情が払拭された気がした。
胸の奥底からからジワジワと何かが湧き出てくるものを感じる。霧が消え去り、明るく眩しい光が差し込んでくる。
俺も父親が大好きだ。
それだけは誰にも負けない。
「あんちゃんを追い越して、俺が金沢の土木王になる」
「お前に追い越せるのか?」
兄が嬉しそうに言ってきたから、こう言い返してやるよ。
「俺にだって、父ちゃんの血が流れてるんだからな」