寤寐至福 魏無羨はある日、出版社で働いている友人からのメールを受け取った。彼は多忙極まりない律師(※弁護士のこと)であるが、多くの友人にも親切にしている。メールを無視せず、その場で返事をしようとメールを開けた。件名には『お願いです!』とだけ記されている。
「ええと……ふうん、小説の取材ね。聶兄、今小説家の担当やってるって言ってたっけ」
魏無羨は、ひと月ほど前に飲んだ大学時代の友人が、「小説家の担当をしているので、取材のときは頼りにしますね!」と言っていたことを思い出した。魏無羨は、面白いことは基本的に両手を挙げて大歓迎するので、なるべく面白いことであればあるほど良かったが、小説の取材は面白いと思ったので、色よい返事をすることにした。
『聶兄、この間飲みながら話していたやつだな? 誰が来ても大歓迎だけど、美人ならもっと嬉しいよ。』
魏無羨が送ったメールの返事は一時間もしないうちに返ってきた。彼は今日珍しく人と会う仕事がない日であったが、大量のメールや雑務を捌く日に当てていたため、すぐにそれを確認することができた。
『はい! それはそれはとびきりの美人ですよ。来週のお休みの時にでも打ち合わせしませんか。日程は合わせますから。』
魏無羨はメールの主である聶懐桑の審美眼には一目置いていた。彼が「とびきりの美人」というのであれば、間違いなくそこいらにはあまりいない美人なのだろう。魏無羨は、さっそく一番近い休みの日を指定した。
「魏さん! 急なお願いにも関わらずありがとうございます!」
「いいよいいよ。それより、小説家っていうのは?」
「これから僕の車で家に向かいましょう。ちょっと事情があって、外に出たがらない人なんです……」
魏無羨は聶懐桑に指定された駅で彼と落ち合った。聶懐桑曰く、肝心の小説家は家から中々出ない引きこもり作家で、今回もガソリン代と菓子を出すから魏無羨を家まで連れてきてほしいと言われたのだという。
「とびきりの美人で引きこもりって、なんだか小説みたいだな」
「でしょう。全然働かなくても暮らしていけるような人なんですけど、偶々趣味で書いていた小説をお兄さんが出版社に送ったら、いきなり賞を取っちゃって」
「へえ。家柄も才能もあるなんて。俺も律師になって暫く経つけど、同業者でも珍しいぞ」
魏無羨は聶懐桑の車に乗り、暫く景色を楽しんだ。噂の小説家は、この大都会でも由緒正しい高級住宅街に住んでいるらしい。
「ここです」
「へえ、良いお屋敷だな。一人で住んでいるのか?」
「ええ」
魏無羨の見上げたホテルのような高層マンションの一室に、小説家は住んでいるのだという。
(不労所得付きベストセラー作家の方が、律師より小説の題材になるよな……?)
魏無羨はそんな軽口を内心で思いつつ、聶懐桑の後ろを歩いた。
「含光君! 私ですよ。聶懐桑です」
インターホンを鳴らした聶懐桑が言うと、「君か、入りなさい」と一言低い声が機械越しに聞こえた。低い声で、魏無羨はすぐにそれが想像する「美人」ではないことに気付いた。
「おい、聶兄」
魏無羨が抗議をしようとしたとき、ドアが開いた。
「おはようございます。こちらが今日の取材を承諾してくれた魏無羨さんですよ」
「藍忘機です。入ってください」
機械越しではない声は、低くて柔らかく、聞いていて心地の良い美声だった。魏無羨は背が低いわけではないが、彼が少し目線を上げたところに噂の小説家の顔があった。
「あ、魏無羨です。今日はよろしくお願いします……」
思わず魏無羨は自分が赤面したのではないかと疑った。
(確かにこれはものすごい美人だな……! 小説家って本当か? 実は俳優か何かだろ?!)
小説家の藍忘機、本名を藍湛という彼は、数々の人々を誑し込んできた魏無羨が驚くほどの美人だったのだ。
(この人……Neutralか? いや、ひょっとしたらDomかもしれないな)
魏無羨は内心で、自分の取材相手のダイナミクスを予想した。
この世界には、男女の他に第二性を持つ人がある程度いる。
魏無羨のような「Dom」と呼ばれる第二性の人々は、「Sub」と呼ばれる第二性の人々から信頼を受け取り、庇護あるいは支配したいという欲求を生来抱えている。一方Subの人々は、Domからの庇護あるいは支配を信頼のもとに得たいという欲求を生来抱えている。とはいえ、ダイナミクスは男女に関係なくばらばらに付与されるものであるから、必ずしもDomとSubの関係が、肉体関係の男女あるいは上下と一致するわけではない。また、聶懐桑のようにNeutralの人も多いし、DomとSubの両方の性質を持つSwitchの人もいる。第二性は初対面では尋ねにくいが、Domの人は社会的に成功しやすい傾向があり、立ち振る舞いから何となく察することができる場合が多い。魏無羨は誰がどう見てもDomだと思われることが多く、実際そうなので、特に第二性について気にしたことはなかった。
魏無羨は藍忘機の家の客間のソファに座った。品の良い家具は調和が取れていて、魏無羨が察するに、自分と同じくらいの藍忘機の年を考えると少し渋い趣味のようにも思われた。
「含光君、改めて紹介するよ。弁護士の魏無羨さんだ。同い年だから仲良くできると思うよ」
「藍忘機です」
「藍さん、俺は魏無羨。聞いたことあるかどうかは知らないけど、弁護士をしてるよ。よろしく」
魏無羨が言うと、藍忘機は座ったまま軽くお辞儀をした。
「――それじゃあ私は会社に呼び出されているから、これで」
一通り挨拶が済んだところで、聶懐桑が席を立った。
「えっ、聶兄、俺帰りはどうすればいいの?」
「ああそれは……含光君、タクシーでも呼んで差し上げてください。魏さん、交通費先に渡しておきますね」
そう言った聶懐桑は数枚の紙幣を渡し、いそいそと藍忘機の家から出ていってしまった。
(どうすればいいんだ! 取材という割に、話が進まないかもしれないぞ! まったく表情が変わらないし、今までこんなにとっつきにくいクライアントがいなかったのは幸運だな……)
魏無羨は思っていたのとまったく違う展開に頭を抱えたが、気を取り直して藍忘機に話を聞くことにした。
「な、なあ、藍忘機先生……」
魏無羨が恐る恐る話しかけると、藍忘機は失礼な人ではないようで、彼の言葉を拾ってくれた。
「二人の時は、藍湛で構わない。本名だ」
「ああ、藍忘機はペンネームなんだ」
「うん」
藍忘機は本名を藍湛というらしい。魏無羨はそのことを軽くタブレット端末にメモした。
「藍湛、今書いている小説は、どんなテーマなんだ?」
「――遺恨による殺人事件とその裁判を書くつもりだ。主人公が殺人犯で、結論から言うと、第一審の死刑を上告して第二審で十年の徒刑(※懲役刑)に減刑されるまでを描く」
藍忘機はあらすじと簡単な展開の書かれた紙を魏無羨に渡した。主人公は幼い頃誘拐され、人身売買の末にある夫婦のもとで暮らしたが、誘拐される前はある企業の跡取り息子であった。親の経営する会社の番頭が自分の誘拐を企てていたことを知り、その復讐をするものの、彼が殺人犯として逮捕されるところから話が始まるらしい。
「……なるほどな。それで、俺だったわけか」
ぱっと紙に目を通した魏無羨に、藍忘機が頷いた。
魏無羨は刑事事件を専門にしている弁護士で、基本的に情状酌量によって示談や減刑を求める仕事をしている。そして、彼が受ける案件は、犯人の殺意に(殺人はいけないという大前提ではあるが)同情すべき事情が含まれるものが多かった。
「今やってる裁判は傍聴できるならしに来てくれればいいけど、三年くらい前に扱った事件でSubの被告がDomの無責任な支配で心を病んで、怨恨の末に殺した事件があったな」
「それは」
「Domが社会的に地位の高い奴で、執行猶予が付いた死刑になった。執行猶予中大人しくしていたから無期徒刑になったけど、弁護人が俺じゃなかったら即日死刑執行だったかもしれない」
藍忘機はスマートフォンで事件を調べた。どうやら被害者は、気に入ったSubを囲って奴隷扱いし、彼らがSub Dropすることで快感を得る異常な性的嗜好を持つ者だったらしい。藍忘機は身の毛のよだつような嫌悪感を抱いたが、落ち着いて魏無羨の話を聞いた。
「本当に最低最悪だよな。判例集にも載ってるけど本当に胸糞悪い事件だった」
魏無羨は、藍忘機から事件の経過や裁判の細かいことを確認され、それに対して職務上話すことができないことを除いて丁寧に答えた。藍忘機は表情をあまり動かさなかったが、瞳だけは時折感情を映しているように思われることがあった。
「――取材したいことは以上だ。付き合わせて済まない」
「藍湛、結構細かいところまで聞くんだな。でも面白かったよ。そうだ、連絡先を教えてくれないか?」
その時、魏無羨は藍忘機に目を合わせた。藍忘機は、少し驚いたようだったがすぐにスマートフォンから自身のSNSのアカウントを示した。
「ありがとう。ハハ、まさか売れっ子小説家とお知り合いになれるなんてな。なあ、時々こうやって取材してくれてもいいんだけど、個人的に連絡してもいいか?」
「なぜ」
藍忘機が怪訝そうに魏無羨を見た。魏無羨は、こういうときいつも大体好意的な返事をされるので、俄然藍忘機のことを知りたくなった。
「なぜって、お前、俺のことよりも裁判の展開とか情状酌量に直接貢献した証拠のことばっかり詳しく聞いてきただろ? でも、俺は俺がどんな気持ちで裁判やってるのか知って欲しい」
「それは、小説の人物に影響したら君を困らせることになる」
「――うーん、そうだな。分かった。正直に言うよ……『お前のことが知りたい』だけなんだ。ハハ、今までは興味を持たれる側だったのに、どうしてかな……」
魏無羨が苦笑しているとき、藍忘機は激しく動揺していたのが、魏無羨は気付かなかった。
「構わない。好きにしなさい」
「ああ、よかった! 藍湛って無表情で冷たい奴だと思ったけど、仕事のことをきちんと書こうとしてくれるし、『やっぱり良い奴だな! ありがとう』」
「――うん」
藍忘機は、魏無羨が無意識で褒めてくれていることに自分の心が小さくくすぐられているのを感じた。既に連絡先を渡してしまったが、これはまずいと思った。
「じゃあさ、俺帰るけど、最寄り駅はどこ?」
「ここからなら姑蘇道駅が近い」
「そっか」
「送るか?」
「ああ、大丈夫だよ。俺もここらへんに住み始めて日が浅い人間じゃないんだ」
藍忘機は玄関先で魏無羨を見送った後、大きく深呼吸した。
魏無羨はまるで嵐のようだった。
藍忘機には、自分が一番隠したい大きな秘密がある。それは自分がSubであるということだ。
藍忘機の家は長くやっている家業があり、政界にもつながりを持っている。要するに殆どの家族はDomで、Subが生まれることはごく稀だった。
藍忘機の家族は、彼に第二性が発現し、それがSubであったことに戸惑いはしていたが、幸い家の中で彼の扱いを変えることはなかった。彼はDomだろうがSubだろうが、ただの藍湛でいることができた。しかし、家から一歩出れば、藍家の人間として当然のようにDomであるかのような扱いを受け、ある日自分もそれに安心していることに気がついた。藍忘機は次第に、自分がSubであってはいけないのかもしれないと考えるようになり、徐々に自分が嘘をついて生きているような事態に罪悪感を覚えるようになった。彼は嘘をつきたくないがゆえに、大学を卒業して以降、無意識のうちに世間との関係を断つようになっていった。
気がつくと家に引きこもって小説ばかり書き、物語の世界に安住の地を見つけたかのような錯覚に溺れながら、どうにか今日まで生きている。
魏無羨はそんな藍忘機に、無意識のうちに甘く苦しいSubの喜びを教えてしまっていた。そして、彼はそれに気付かないまま藍忘機の家を後にし、兄と担当編集以外に通信相手のいない彼のSNSに気の利いたメッセージを送っている。藍忘機は悩んだ結果、彼に返事をしないことにした。返事をしなければ、魏無羨の言葉を求める欲求をなかったことにできるし、魏無羨も時間が経てば藍忘機に興味を持たなくなるだろう。
その時は、そう考えて取材したメモを整理することで気分を紛らわせることができていた。