寤寐至福③ 数時間後、魏無羨は藍忘機に連絡した通り、たくさん手土産を持って藍忘機の家にやってきた。藍忘機は魏無羨が来ると聞いて、普段の食事を二人分用意するだけでは味気ないだろうと考えていたのだが、「家に押し掛けるのだから自分が買ってくるよ」と言った魏無羨は、宣言通りに色々な店の袋を抱えていた。
「藍湛、久しぶりだな」
「毎日話している」
「そうだけどさ、生身のお前に会うのは久しぶりだよ!」
藍忘機は魏無羨から色々な店の袋を預かろうとした。魏無羨はどれが何かをいちいち説明してくれる。
「これはピザ、温め直せるけど熱いうちに食べよう。サラダも出来合いのやつがある」
「久しぶりに食べる」
「もしかして洋食は苦手?」
「ではない」
「ハハ、そうか、そりゃあ良かったよ」
藍忘機が準備していたテーブルには、味の違う二枚のピザの箱と、プラスチック製のケースに入った出来合いのサラダ、それから温めるだけのスープのパウチに、ピザ屋で買ったのであろう揚げ物の類の入った紙箱とワインが一本並んだ。
「このワインは安くてうまい」
「酒は飲まない」
「嘘だろ? でも飲めない訳じゃないんだよな?」
藍忘機は返事に迷った。彼は「飲まない」と言ったが、実家の家規では飲酒が禁止されているため、そもそも酒を「飲んだことがない」というのが正解だった。
「まあ一口味見するくらいなら大丈夫だろ? あとで飲もう」
それからすぐにコートを脱いで手を洗いに行った魏無羨を放っておいて、藍忘機はキッチンでスープを温め始めた。出来合いのコーンポタージュとはいえ、魏無羨は少しいいものを選んできたらしく、藍忘機も温まったスープの匂いに空腹を意識させられた。その間に戻ってきた魏無羨は、藍忘機が出していた皿に買ってきたものを移してくれた。
「お前はこういうのいちいち皿にあけるんだな」
「違うのか?」
「俺はいちいちそんなことしないよ。そんなことしてる時間があったら早く食べたいしな」
「家では誰もしない」
藍忘機に言われて、魏無羨は苦笑した。ちょうどよく温まったスープを盛り付け、魏無羨が座っているダイニングに持っていく。彼は既に自分のグラスにワインを注いでいて、藍忘機のグラスにはミネラルウォーターを注いだ。
「とりあえず水にしておいたぞ」
「うん」
「それじゃあ、魏無羨と藍忘機に乾杯」
魏無羨の陽気な声に、藍忘機は黙ってグラスを持ち上げた。無理やりグラスを合わせた魏無羨が、藍忘機が水を飲むのの倍くらいの勢いでワインを流し込む。
「ああ、やっぱり美味いや」
「君は、普段から酒を飲むのか?」
「ん? そりゃあまあ。でも失くしたらやばい書類とかを持ってるときは外で飲めないから、休みの日が多いかな」
「ほどほどに」
「うん」
魏無羨は二種類のピザを一ピースずつ取って、その上に自分で持ってきたタバスコをかけまくった。
「藍湛もタバスコいる?」
「いらない」
「そうか。俺は内陸の方だからこっちの味付けには唐辛子が欠かせなくて」
魏無羨は、真っ赤になったマルゲリータとマッシュルームとベーコンとポテトのピザを一ピースずつ食べてすっかり上機嫌になり、他の料理にも箸を進めた。藍忘機はナイフとフォークを使って食べていたが、魏無羨は早々に藍忘機に箸がないか尋ね、使い慣れたそれでぱくぱく色んなものを食べては、合間合間でワインを飲んだ。藍忘機も決して小食ではないのだが、今まで食べ物を誰かに取られるという経験もなければ、急かされて食事をする経験もなかった。彼は、早送りのように繰り広げられる魏無羨の食事に内心で驚きながらも、自分が食べる分はきちんと残されているので遠慮なく自分のペースで食べた。
「藍湛」
「食べる時は話さない」
魏無羨はそう言われて、藍忘機がひと段落つくのを待った。
「藍湛」
「うん」
「そろそろ一杯どうだ? 少し試してみろよ。一緒に酒を飲んでくれる人がいれば嬉しいよ」
そう言われて、藍忘機は遠慮がちに自分のワイングラスを差し出した。魏無羨は、そのグラスの底に少し溜まるくらいのワインを注いだ。藍忘機はそれをそのまま口元に持っていき、魏無羨のように一気に呷ったあと、少しむせた。
(さてさて、藍湛はどんな反応をするかな。このワインは飲みやすいし、気に入ってくれるかもしれない)
魏無羨が無邪気にそう思っていたのもつかの間。藍忘機はうう、と微かに低く唸った。
「藍湛?」
魏無羨が心配そうに見ている中、彼は眉間を軽く揉んだあと、ダイニングテーブルに突っ伏してしまった。
(ああ! 嘘だろ……? 藍湛、まさかほんの少しの酒で潰れちゃうなんて!)
魏無羨は少しの間一人で藍忘機の行く末を見守らなくてはならなかった。彼は念のため勝手に食器棚から出した新しいグラスに水を注いでやり、不躾であるがいくつかある部屋の扉を開けて、寝室とトイレの場所を確認した。
そうこうしているうちに藍忘機が目を覚ました。
「ああ……その、お前、めちゃくちゃ酒弱いんだな。悪かったよ、飲ませるようなことをして」
「――君が言った」
「そうだ。そう、俺が言ったよ。藍湛と酒が飲めたらもっと楽しいって思ったのは俺だ。お前は言うとおりに飲んでくれたんだ。『えらいよ』」
藍忘機は「君は」と小さく呟きながら、焦点の合っているのか合っていないのか分からない目で魏無羨を見つめた。
「ああ、お前はえらい。俺も舌を巻く飲みっぷりだった。今日は無理言って押しかけたのに、テーブルの準備もしてくれてたし、スープも温めてくれた」
「うん」
藍忘機はそう言いながら、座っているダイニングチェアから立ち上がった。
「――待て、藍湛、ちょっと座って。水を飲んで」
「うん」
魏無羨が言うと、藍忘機は素直にダイニングチェアに座り直して両手でグラスを持ち、入れてあった水を飲んだ。
「――飲んだ」
「うん。『いい子だ』。藍湛、どうしたんだ、そんなにボーっと俺を見ちゃってさ!」
魏無羨は、自分もそれなりの量のワインを飲んでいたので、酔っぱらった藍湛の様子が幼い子供のようにかわいらしく見え、面白く思えてきてしまった。再びダイニングチェアから立ち上がった藍忘機を、魏無羨は呼んだ。
「藍湛、おいで」
いそいそと魏無羨の座る椅子の横にやってきた藍忘機が、物欲しそうな視線で魏無羨を見た。魏無羨はそれに気付くと、椅子の座面に対して横向きに座り直して藍忘機と向かい合う。さっきよりは焦点の合っているような藍忘機の視線に、魏無羨は少し安心した。しかし、藍忘機はまだ酔っぱらっているらしく、魏無羨の前に立ったままだった。
「なあ藍湛、どうしてそこで突っ立ってるんだ。もしかして、俺に何か言ってほしいのか?」
藍忘機は立ったまま少し目を見開いて、一歩下がった。しかし、相変わらず魏無羨をじっと見つめていた。
「なあ、待てよ藍湛。どうして一歩下がっちゃうんだ」
魏無羨が残念そうに言うと、藍忘機は再び魏無羨に向かって一歩前に進んだ。
「おいおい、『いい子ちゃん』。――もしかして、俺が『跪いて』って言ったら、お前はそこに跪いちゃうのか?」
その瞬間、藍忘機は椅子に座っている魏無羨の前に跪いて彼の手を取ると、恭しくその甲に口づけた。
「なっ、……ら、藍湛……ハハ、お前がそんなに熱烈だったなんて。嬉しいよ。ああ、お前、もしかしてさ、俺に我慢していることがあったりするのか?」
魏無羨は自分がよもや藍忘機とプレイをしているとは思っていなかったが、藍忘機が自分の命令に従っていることに気付かないまま喜びと達成感を感じていた。
「……ある」
逡巡した後、藍忘機が僅かに頬を染めてそう答えた時、魏無羨は自分の中で全く思考という思考をしないまま、とんでもないことを口走ってしまった。
「藍湛、良い機会だ。折角酔っぱらってることだしさ、お前が我慢していることを俺にやってみてよ。酔ってることを理由にしていい」
その時、椅子に座っていた魏無羨は立ち上がった藍忘機に腕を思いっきり引かれ、痛いと思ったのもつかの間、横抱きに抱えられてしまった。
「な、なあ、――おい、どうしちゃったんだ……?!」
「君は、私が君に対して我慢していることをしなさいと命じた」
藍忘機の言った言葉で、魏無羨は一気に酔いが醒めた。しかし、そうこうしているうちに寝室に運ばれた魏無羨は、そこに転がされてしまった。藍忘機がそこに覆いかぶさるようになり、魏無羨は慌てふためいた。
「ら、藍湛っ?! いい子だから、あのさ、こういうのは酔った勢いでするものじゃない。こ、今度にしよう……?」
すると、藍忘機は自分の布団の上で魏無羨を押し倒していることにようやく気付いたらしく、驚愕の表情で魏無羨を見たのち、そのまま彼を潰さないような体勢で横に倒れ込んでしまった。倒れ込んだ藍忘機が起きないので、魏無羨は恐る恐る起き上がって彼が無事か確認した。
「ね、寝たのか……? 藍湛、いい子だから朝までぐっすり休んでくれ。――ハハ、良かった……いや、何もよくない。俺は――どうしてこんな最低最悪なことをしちゃったんだろう……」
魏無羨は藍忘機の体勢をどうにか整えてやって布団を掛けると、ダイニングに戻って食べ散らかした跡を綺麗に片付けた。魏無羨がひとしきり片付けた後も、藍忘機がそのまま起きてこないので、起こさずに黙って帰ることにした。
(今日あったことを、全部忘れてくれるといいけど……。俺がやったことは藍湛に対してなんの尊重もない。あいつがSubだってことを知らなくたって、人として最低最悪だ)
魏無羨は藍忘機と意図しないままプレイのようなことをしてしまったこと、そして、藍忘機がSubであることを知ってしまったことは伏せて、ひとまず酒を飲ませたことを詫びるメモをダイニングテーブルの上に置いた。
「お願いだ……今日のことは全部忘れてくれ」
魏無羨は藍湛の家に来た時のわくわくしていた自分をぶん殴りたい気持ちのまま、流しのタクシーを拾って家に帰った。
翌朝、ゆっくり目を覚ました藍忘機は、綺麗に片付いたダイニングテーブルに残されたメモを見てため息をついた。魏無羨に勧められたまま酒を飲んだところまでは覚えているが、そこから何が起こったかは分からない。しかし、ダイニングテーブルの上だけでなく台所まで片付けてくれたところを見ると、大それたことにはなっていなかったように思われた。
洗面を済ませ、シャワーを浴びて朝食を済ませると、藍忘機は書斎にある机に向かった。彼の執筆の相棒であるパソコンはいつものように起動し、藍忘機はいつものように前回まで書き進めたところを読み直す。聶懐桑が赤を入れてくれるが、できるだけくだらない間違いは減らしたいし、話の流れが分かっていないまま書くことに不安があった。藍忘機はいつものように自分の書いた文章を読み直しながら、今日は少し変だなということに気付いた。昨日まで彼を随分悩ませていたスマートフォンが、一度も通知を鳴らさないまま昼になろうとしている。今日はあの人も忙しいのだろうか、そう思ったとき、急に不安に襲われた。きっと気になったのは視界にスマートフォンがあるせいだと思った藍忘機は、やけに物静かなそれを寝室に置いてきた。
藍忘機は、昼の休憩の時に寝室に無造作に置いたスマートフォンを確認したが、メッセージアプリの通知は何も入っていなかった。少し残念な気持ちが不安に上塗りされた状態ではあったが、不思議と執筆だけは進んだ。このまま書ければ、このところ遅れ気味だったペースを取り戻せるかもしれないと思い、休憩を手短に済ませると書斎に引きこもった。
聶懐桑との打ち合わせまでに送信しなければいけないのは三章までで、藍忘機は二章の四分の三あたりを書いている。打ち合わせの日を確認すると、打ち合わせは今週の金曜日に迫っていた。あと四日間で書かなければ〆切を守ることができないことに気付くと、藍忘機はあらすじを書いたメモや登場人物の時系列ごとの動きと矛盾しないように休みなくキーボードを叩いて話を進めた。
二章と三章は主人公が逮捕されるまでに至った経緯が回想で進んでいくので、作っておいた年表を確認しながら、主人公が犯罪に至るまでの出来事を説得的に書き進める必要があった。藍忘機は過去の作品でもしばしば回想を挟む話を書いているので、この点については全く問題なく書くことが出来た。
きりの良いところまで話を進めてふと時計を見ると、夜が来ていた。書斎には窓がないので、藍忘機はすっかりそのことに気付かないまま物語を書いていたらしい。寝室に置いたままのスマートフォンには、聶懐桑からのリマインドがきているだけだった。それに今度は自分でも自覚するくらいに落胆して、藍忘機は心の奥深くにしまっていた魏無羨の言葉への欲求が今にも溢れだしそうな気分になった。ダイニングテーブルに置かれていた件のメモに書かれた流麗な字を見て落ち着かせようとしたが、それも喉が渇くような感覚を増長させるだけだった。動悸がして、倦怠感を覚えた藍忘機は、何かを食べようとしたが食欲が湧かず、書斎には戻らないで寝室に向かった。横になって眠れば、いくらかましになると思っていた。
「あんた……それ、いつの話? 最ッ低じゃない。嘘でしょ? 律師でもなかったら絶対今まで十回くらいSubに刺されてたわね」
「なあ温情、いつから俺の話になっているんだ……」
翌日の夜。魏無羨は、温情と温寧に食事を奢る代わりに相談事を持ちかけていた。その相談事は、「友人のDomが親しくなりたい相手をSubだと知らないまま、コマンドを出してプレイまがいのことをしてしまった」というものであり、魏無羨は早々にその友人が架空の人物だと温情に指摘されて、しどろもどろになっていた。
「あんた以外にそんな馬鹿な奴がこの地球上にいるなら紹介してほしいわね」
「――私はNeutralですから、あまりDomの方やSubの方の人付き合いに関わることはないですけれど、魏さん、早く謝りに行った方がいいですよ。連絡先も知っているんでしょう?」
温寧にも正論を言われ、魏無羨はお金だけ温情に預けて帰りたい気分になった。しかし、元々話を持ち掛けたのは自分であり、そういうわけにもいかない。
「……でも、あんたが相談するなんて、ちょっとは成長したのね。もしかしてあんた、そのSubのことを好きとか?」
温情に指摘されて、魏無羨は思わず持っていた徳利をテーブルに置いた。
「俺が、藍湛を? ……好き?」
魏無羨は徳利をテーブルに置いた後、何も持っていない両の手を握ったり開いたりした。
「ちょっと待って、魏無羨。あんたどれだけ情緒が未発達だったら気が済むの? 人の気持ちを考えたことある? 律師のあんたはあんなにしっかりしてるのに、どうして私生活はポンコツなのよ」
「ポンコツだと?! この俺が? お前Domだからって調子に……いや、待て」
改めて考えてみると、今まで魏無羨の支配や庇護を望む人はそれなりにいたが、藍忘機のことは自分が初めて追いかけた相手だった。はじめ魏無羨は、自分に取材を申し込んできた美人小説家がどんな人なのか、純粋な興味を持っていたに過ぎなかったが、彼は新たな一面を知るたびに藍忘機に一層の興味を持った。藍忘機は、魏無羨が朝から晩までメッセージを送りまくっても(そっけないものではあったが)対応してくれたし、公開裁判の日程を伝えればその日の裁判の傍聴席には必ず座っていた。よくよく考えると、そういう細やかな藍忘機の優しさがすごく嬉しかったのだ。思い出しながら、スマートフォンのメッセージアプリの藍忘機とのトーク欄を埋め尽くしていた自分の姿が脳裏にふつふつと浮かんでは消え、魏無羨はまだ一杯も酒を飲んでいないのに顔から火が出そうな気分になった。
魏無羨は、そのまま藍忘機の家で食事をした日を思い出した。あの日も確かに自分から藍忘機と仲良くなりたいがために家に行った。そして、その後は思い出したくないが、藍忘機は魏無羨に対して我慢していることがあったのだ。それは自分をベッドの上でボコボコに殴ることだったのかもしれないが、少し前に跪いた藍忘機から手の甲にキスをされたことを考えるとその確率は低く、考えれば考えるほど余計に藍忘機の気持ちを踏みにじった自分が居た堪れなくなった。藍忘機がSubだと知っていればそんなことをしなかっただろうか? 否、相手がSubだろうが何だろうが、人の心を弄ぶような真似をしてはいけないのである。ましてや酒で正体を失くした相手に!
「魏さん、あなたを家に上げるくらいですから、相手の方も憎からずあなたを思っていたのではないのですか。その事件以降、連絡を取りましたか?」
温寧の優しい問いかけに、魏無羨は頭を抱えた。
「……相手がどこまで覚えているか分からないんだ。だから何を話したらいいかわからなくて、……この二日間何も連絡してない」
魏無羨が恐る恐る言うと、温情が怒りのあまりテーブルを叩いた。
「酔った勢いで一晩泊ってきてくれた方がマシだったわね」
「温情……お前はなんてこと言うんだ」
「魏さん、もし相手がSub Dropにでもなって病院送りになっていたらとんでもないことですよ。お相手の方、藍さんでしたっけ……。示談で済めばいいですが、私が研修先を変えなきゃいけなくなるのは困ります」
魏無羨は喉がひゅっと狭くなるのを感じた。
今まで得意げに法律を振りかざして生きてきたが、今日は自分が被告人になったような気分になってきた。藍忘機に取り返しのつかないことをしたのは事実で、弁解の余地はない。しかし、藍忘機に酔ったときの記憶があるかどうか分からず、下手をすれば二回三回彼を凌遅せねばならないような事態になっている。
今日はもう夜だから明日連絡を取って謝りに行ってこい、そういう雰囲気がテーブルに形成されていたまさにその時、魏無羨のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、どうも数分前からずっと鳴り続けていたらしい。魏無羨は席を立ちながら名前を確認した。
「どうしたの?」
「ちょっと友だちから電話だ。すぐ戻る」
「逃げるんじゃないわよ」
「分かってるよ!」
魏無羨は急いで店の外に出た。スマートフォンの画面に表示された『聶懐桑』の三文字に、背筋がぞっとした。
「聶兄、どうした?」
「魏さん、含光君と昨夜から連絡が取れないんです! 何かご存じないですか?」
「担当のお前が知らなきゃ、俺が知ってるわけないだろう?」
魏無羨は平静を装って返事をしていたが、心臓が早鐘のようにばくばくしていた。
「僕、実はもう一人担当している先生の原稿を取りに上海に来ていて、手がかかる人なので含光君の家に行ってる場合じゃないんです! お兄さんは確かご出張で北京だし、魏さん、ちょっと見てきてもらえませんか? 助けてください……!」
「ええっ?! おい、もっと早く言えよ! 聶兄、分かった。すぐ行くからさ、だから……とにかく任せろ」
「お、お願いしますね……!! もし含光君になんかあったら、私、私……」
「お前のところの含光君に何かあったらやばいのは俺も同じだ」
「ええっ?! それ、どういうことですか?! ちょっと、帰ったら……」
魏無羨は電話を切ると、そのまま店のあった通りに一番近い大通りに出て、走っていたタクシーに飛び乗った。車内で温情にメッセージを送って謝り倒したあと、彼女の決済アプリのアカウントに多すぎるくらいの金を振り込む。温情は性格こそきついが、魏無羨の事態を飲み込んだらしく、「先方とうちの事務所の無事を祈るわ」と一言返ってきた。
その時、魏無羨はメッセージアプリに一つ消えていない通知があることに気付いた。時間は今日の夕方。ちょうど仕事を早めに切り上げた魏無羨が、温情と温寧を飲み屋に引っ張ってきた頃だった。よく考えると、藍忘機が自分から話しかけてくることは今までなかった。たった一つ送られてきた、何の脈絡もない挨拶のスタンプ。それがもし、彼なりのSOSであったなら……。そう思うと魏無羨は車に大人しく乗っているのもじれったくなり、藍忘機に電話を掛けた。
「……出ない」
聶懐桑が言っていた通り、数回掛け直したが藍忘機は電話に出なかった。彼の住んでいるマンションが見えてきて、魏無羨は思わず運転手を急かすように威圧した。
「金なら余計に出す。急いでくれ」
運転手はNeutralだったのだろうが、魏無羨に睨まれてひっと声を上げた。彼は思いきり法定速度を外して少々無茶な運転をし、マンションの前に車を付けた。魏無羨は少し会計を弾んでやり、マンションの入り口にいたコンシェルジュに、藍忘機と連絡が取れないことを話して名刺を渡し、合鍵を出してもらった。
(Domであることも律師であることも、役立ってほしくないときにだけ役に立つなんて本当に最低だな)
魏無羨は自己嫌悪を覚えながら、エレベーターが一秒でも早く藍忘機の家の階に着くことを願った。