忘記星霜② 魏嬰が藍湛と暮らし始めて数日が経った。村人たちははじめこそ新たな住人におっかなびっくり接していたが、そのうちすっかり馴染んでいた。いつも魏嬰が着るとぶかぶかに見える服をちょうどいい大きさで着ている藍湛は、何を着せても見栄えがするのでとても目立つ。
「こんな男前がいるような村じゃないんだけどねえ」
「おいおい奥さん。ちょっと、俺も男前だろ?」
「魏さんは藍さんとはちょっと違うのよ。ねえあなた?」
「わしに聞くか? ――まあ分からなくもないが」
「ちぇっ」
魏嬰は口を動かしてばかりいるが、この日二人は近所の村人の家に来て、この村人の生活の足であるバイクの修理に励んでいた。軍手どころか腕まで油まみれにし、顔もところどころ黒くしながら、二人はバイクの部品を外して一つずつ検分した。
「とりあえずドライブチェーンとスプロケットを交換して、エアフィルターの掃除をするよ。ブレーキパッドはこないだ替えたばっかりだから大丈夫だ」
「ああ、頼む」
魏嬰は手際よく消耗して劣化した部品を新品に交換し、藍湛は魏嬰が取り外したエアフィルターの汚れを落とし、クリーナーをつけて綺麗にした。
「おじさん、これが乾くのは明日だから、すぐに乗ったらだめだよ」
魏嬰が藍湛の掃除したエアフィルターを確認して言った。村人は頷く。
「オイルを塗って元通りにするくらいはわしでもできる。藍さん、ありがとう」
「礼には及びません」
「藍湛は礼儀正しいな。なあおじさん、お代は何くれるんだ?」
「家内が昼飯と晩飯を持っていくよ」
「おお! ありがとう。楽しみにしてる。それじゃあ、また何かあったら呼んでくれよ」
ところどころに黒い油汚れを付けた二人は、村人からの昼ご飯の出前を楽しみにしつつ家に戻ることにした。
「魏嬰、あの部品は高価なものなのでは?」
「安くはないよ」
魏嬰が村人のバイクを直すのに使った部品は新品だ。藍湛はそれを気にしたのだろうと魏嬰は思ったが、彼の発言を待った。
「商売にならないように思う」
藍湛が疑問を示すと、魏嬰は笑った。
「ハハハ、お前は俺の生活を心配しているのか?」
「気に障ったら済まない」
「藍湛はやさしいな。今は休みみたいなもんだからいいんだよ。俺は村の人たちの便利な生活を守り、美味い飯を食べてのんびり暮らせれば十分だ」
藍湛は魏嬰から「やさしい」と言われて、少しだけ体のどこかが熱を持った気がした。
「魏嬰」
「どうした?」
「家に戻ったら点検してほしいところがある」
家に戻った二人は、油まみれの身体を洗って着替えた。それからすぐに、先ほどの村人が昼食を届けてくれたのでそれを食べることにした。
「やっぱり楊さんの奥さんの飯は絶品だな」
魏嬰は向かいに座る藍湛が眉を顰めるほど山椒の香りがする麺を喜んで啜った。数日前に判明したことだが、藍湛は香辛料の効いたこの土地の料理にはあまり慣れていないらしい。楊さんの奥さんは魏嬰の分とは別に藍湛の食事を作ってくれたので、藍湛の麺は白いスープに野菜がたくさん入っている。藍湛はそれを気に入ったようで、いつもより箸の進みがいくらか早いと魏嬰は思った。
「魏嬰、楊さんの奥方にこのスープの作り方を教えてもらいたい」
皿を空にした藍湛が言った。
「お、気に入ったのか? 珍しいな」
藍湛は魏嬰と暮らし始めてから何回かは魏嬰の作った粥を何とか食べていたが、その辛さが普通ではないことはすぐに理解した。小さな話し合いの結果、この共同生活における食事担当は藍湛となり、魏嬰は藍湛の作った料理を自分好みの味付けにすることで解決していた。
「君が教えてくれた料理で問題なく食べられるのは、蓮根腓骨湯だけだ」
「ハハハハハ、仕方ないよ。お前は無理しなくていい。お前の作る蓮根腓骨湯は美味しいからさ。藍湛、お前が作る飯は俺のより何でも美味しいよ。俺は味覚がおかしいから何でも辛くしちゃうけど、本当にお前が作るものは絶品なんだから。その麺のスープの作り方は楊さんに聞いとくよ」
魏嬰がひとしきり喋り終わると、藍湛は魏嬰の方をじっと見つめた。
「どうした? そんなに俺を見て」
「……不具合の件だ」
「そうだ、どうした? どこか悪いのか?」
藍湛の向かい側に座っていた魏嬰はぱっと立ち上がり、藍湛に近付いた。
「不具合を感じるのだが、どこが悪いのかは分からない」
その時、藍湛の額に魏嬰の掌が伸びてきた。思わずぎゅっと目を瞑った藍湛に、魏嬰が声を掛ける。
「ああ、急にごめん。――熱はないみたいだ」
藍湛は額から下げようとした魏嬰の手を取った。
「魏嬰」
「いっ、ちょっと力が強いぞ。緩めてくれ」
「す、すまない……」
藍湛は言われた通りに掴んでいた魏嬰の手首にかかる力を緩めて、それを自分の胸へと導いた。鼓動が手から伝わり、魏嬰はそこに集中した。
「私は感情を持たないはず。では……この動悸は不具合ではないのか? 君に話しかけられ、笑顔を向けられるたびに……私の不具合は酷くなる」
アンドロイドは、従順でプログラムされた感情しか持たない。本来、魏嬰がどんなに藍湛に同居人として親しみを持って接しようが、鼓動は一定のはずである。
「もう少し、聴いてもいいか?」
「うん」
魏嬰は藍湛に立つよう言うと、耳を直接藍湛の胸に当てた。
「私の鼓動が、聴こえるか?」
「うん……」
魏嬰が耳を澄ますと、確かに藍湛の鼓動はちょうど人間がドキドキしているときのような音がした。
「俺の声を聞くとこうなるのか?」
「うん」
「……どうしたのかな」
藍湛から頭を離した魏嬰は、腕を組んで考えてみた。アンドロイドは通常の人間と同じく痛覚があるため、開頭して機器の不具合を見るとすれば外科手術同様麻酔が必要となる。
「……私が捨てられていたのは、感情制御装置の不具合が原因なのではないかと思う」
例の動悸に対しては恐れているような様子を見せたのにもかかわらず、自分が捨てられていたことに対しては、藍湛は一切の動揺を見せず魏嬰に考察を示した。
「なるほど、一理あるな。――心配するな。不具合があるからってお前を手放すつもりはないよ」
「ありがとう」
「ハハ、そんなに畏まるなよ。アンドロイドの頭を開いたことは無いけど、俺だって外科医の端くれだから、開頭手術を手伝った経験くらいある。ただ、麻酔をする必要があるな。温情に頼んでくるから、今日すぐには診れないと思うけど大丈夫か?」
「大丈夫だと思う」
最新型のアンドロイドの電池の寿命は百年とされており、通常、彼らが壊れるまでに電池の充電あるいは交換が必要とされることはない。そのため、電源を落とすという概念はなく、普通の人体同様「眠らせる」ことが修理の際に必要となる。魏嬰は、大都市に行けばアンドロイド専門の病院があることを知っていたが、身元の定かではない藍湛を連れて行って診てもらうことは躊躇われた。
「よし、ちょっと温情のところに行ってくるよ。その間に晩ご飯の準備をしていてくれ」
「楊さんの奥方が食事を持って来るのでは?」
「ああ、そうだった。音楽を聴いていても良いし、本を読んでいても良い。ゆっくりしていてくれ」
「分かった」
魏嬰が温情の家に行くと、彼女は午後の診療を終えてひと段落しているところだった。玄関の扉を叩いたときに出迎えてくれた温寧が、温情のところに魏嬰を連れて行ってくれた。
「温情! ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ」
温寧が姉の在室を確認するなり、魏嬰は開口一番言った。
「魏嬰。何よ、どうせ面倒事ね」
「ハハ、よく分かってるじゃないか。藍湛の頭を開きたいんだよ。手伝ってくれるか?」
「ハア? ……知ってのとおりアンドロイドは専門外よ」
「人間と大差ない。麻酔で寝かせてちょっと見るだけだ。俺がやるから、場所と麻酔だけ! 頼むよ」
魏嬰が言うと、温情はため息をついて魏嬰を見た。
「……仕方ないわね。早い方が良いんでしょ? 明日は休診日だから、朝一番で連れてらっしゃい」
「ああ、ありがとう。俺は大したことないと思っているんだけど、藍湛が心配しててさ」
「そう。まあアンドロイドが自分のことを不具合があるって言うんだから、きっと何かあるんでしょうね。でも機械は分からないからあんたが面倒をみなさいよ」
温情は繰り返し魏嬰に念を押した。
「分かってる、分かってる。とりあえず場所とお前の手伝いがあればよかったんだ」
「じゃあさっさと帰ってあんたのアンドロイドに伝えなさい。今晩から絶食。明日は何も飲んじゃだめ」
「分かった! ありがとうな」
魏嬰は駆けだすように忙しなく帰った。温情はその背中を弟と見送り、ため息をついた。
魏嬰が自宅に帰ると、ちょうど楊夫人から藍湛がスープの作り方を聞いているところだった。
「これはね、辛くしても美味しいから、魏さんも好きなの」
「そうですか。ご親切に、ありがとうございます」
「いいえ。あなたみたいな子が気に入ってくれると、私の料理も浮かばれるわ」
楊夫人は礼儀正しい藍湛が気に入った様子で、和やかな雰囲気だったことは帰ってきたばかりの魏嬰にもすぐに知れた。
「楊さん、ありがとう」
「いいえ。旦那のバイクを直してくれたんだもの。お礼を言うのはこっちよ。それに、藍さんが私のスープを気に入ってくれたって。ふふ、あんたもこれが好きだってちゃんと教えておいたからね」
「ハハハハハ! 何だか俺が藍湛に世話されてるみたいな言い方!」
「それは確かにしっくりこないわね。でも二人はずっと前から一緒にいるみたいにお似合いね。ふふ、それじゃあ仲良くね」
楊夫人は魏嬰と藍湛をまとめて揶揄うと気が済んだのか、魏嬰の家を出ていった。台所には美味しそうな食事があり、温めれば食べられるようになっていた。
「藍湛、耳が赤いけど……、これも感情制御装置の不具合なのか?」
「分からないが、そうなのかもしれない」
見るからに表情を曇らせた藍湛の肩を、魏嬰がそっと叩いた。
「大丈夫だ。温情が明日診るのを手伝ってくれるから」
「うん」
「――という訳で、お前はこれから絶食。明日は飲み物もだめ」
「……仕方ない」
二人は明日藍湛の不具合の確認が終わってから楊夫人の作ってくれた食事を食べることにして、魏嬰は自分一人用にいつもの激辛粥を作って適当に空腹を満たした。
翌朝。
今、魏嬰の目の前には藍湛が寝ている。
「アンドロイドって言うけど本当に人間みたいね」
「都会のことは良く知らないけど、アンドロイドって言われなきゃ分からないよな。気管挿管までは問題ないから、このままやる」
魏嬰は真剣なまなざしで藍湛に向き合った。温情の小さな診療所は手術まではなんとかなるものの当然高度な機器はなく、藍湛の頭の中がどうなっているのかについては開けるまで見当がつかない。彼は慎重にメスを運び、脳を守る種々の膜や骨を注意深く切り、その箇所を見た。
「……おい、どういうことだよ」
魏嬰はそこを見て、思わずそう言わずにはいられなかった。
「何か変な部品でも見つかったの? 機械は専門外……!? やだ、機械じゃなくて、もしかして……」
魏嬰はそれに頷くしかなかった。
「……。藍湛はアンドロイドじゃない。――人間だ。でも、ずいぶん昔の記憶装置みたいなのがついてる」
「人間の記憶の電子機器への記録は三十年以上前に禁止されたはずよ」
「だよな……? とりあえずデータをコピーして戻しておこう」
魏嬰は、人間の頭から出てきた装置のデータをまさか手術中にパソコンに移す羽目になるとは全く考えていなかった。きちんと人工の被膜で覆われたそれは、接続すると全く問題なく動作し、人の記憶がここまで圧縮できるのかというくらいに瞬時にデータをコピーすることができた。
動揺して汗が顔中から噴き出したが、魏嬰は再びその謎の装置を元に戻すと、開いた頭を元通りに閉じた。
「アンドロイドの容態は安定してるわ。じきに目を覚ますはずよ」
「ハハ、温情。もうこいつはアンドロイドじゃない。機械の確認をしたけど、そもそも不具合が起きるような部品が無いんだ。人間だから、感情があるのは……初期設定だ」
温情は難しい表情をして魏嬰に言った。
「じゃあ彼が目覚めたらそう言うのね。魏嬰、私は何も見なかったことにするけど、彼がおかしくなったらあんたがなんとかするのよ」
「大丈夫だ。こいつがおかしくなったら、俺は人間の病院に診せる」
魏嬰が笑うと、温情ははっとした表情になって魏嬰に怒鳴った。
「ちょっと! ……もう。お代は倍出してもらうわよ」
藍湛はその後特に後遺症もなく安定した容態で目を覚まし、様子見で一晩温情の診療所で寝ることになっていたが、楊夫人の作ってくれた食事を持ってきた魏嬰と食べるなど、特に問題はないように思われた。
「特に異常はなかった」
「そうか」
「俺をヤブ医者だと思っても良いけど」
「君が何もないと言うなら問題ないのだろう。慣れるよう心掛ける」
「うん」
魏嬰は藍湛に記憶装置のことを聞こうと思ったが、それは躊躇われた。藍湛は人間であるにも関わらず自分のことをアンドロイドだと認識している上、村の裏山に不法投棄されて魏嬰に起こされる前のことを何一つ覚えていない。
その上魏嬰は、人間の記憶をデータとして保存し、記録することがかつて技術的に可能であったことを知ってしまった。そして、なぜ藍湛が禁止された技術を施されていたのかも考えなければならなくなってしまった。その両方の答えを得るために、魏嬰は藍湛が寝たあとでデータを確認する決意をした。