忘記星霜③ 藍湛はどういう訳か毎日規則正しい時間に眠るため、魏嬰は彼が寝たのを確認すると、部屋に置いていたあのデータの入ったノートパソコンを開いた。
よく考えると人の記憶の再生なんてものすごく時間がかかるのではないかと思ったが、どうやら人間の記憶に基づいておおよその年代ごとにファイルが整理されているらしい。あまりにも幼い頃のものはそもそも存在しないため、直近十年ほどと推定されているものを見ることにした。
魏嬰がアイコンをクリックすると、それは映画の回想シーンのように再生された。これを発明した人は、すごい才能がある人だと魏嬰は素直に思ったが、人の記憶を電子媒体に記録することは現在では研究も含め禁止されている。藍湛がどのような過去を持っているのか、魏嬰は再生が始まった映像を見つめた。
「なあ、忘機さんよ。お前は合コンも行かずに毎日研究ばっかりで楽しいのか?」
「うん。君も毎日ここに来るが」
「あーあー、俺はここが家みたいなもんだからな? でもお前は別に来なくたって研究できるのに。実家の方が良い設備もあるだろう?」
「実家にいるとできないこともある」
忘機と呼ばれたのが藍湛のことだろうと魏嬰は思った。二人は異なる分野を研究する大学院生らしいが、同じ建物で研究しているのでよく話すようだ。話している間、常に藍湛……藍忘機の視界の中には彼がいた。
「お前の研究、人の記憶についてだったよな? 確か認知症の予防的措置で、記憶を保存しておくみたいなのをやってるんだっけ」
「そうだが」
(はあ、なるほど。藍湛の研究分野が人の記憶だったわけか)
魏嬰が映像を見ながら思っていると、藍忘機が「君の研究は?」と尋ねた。視線の先にいる青年は、いきなりゲラゲラ笑いだした。
「俺たち、学部の時からずっとここで勉強して、もう八年は経つんだぞ! それなのにお前は俺の研究内容も知らないなんて!」
藍忘機の記憶の中でよく笑う人物を、魏嬰はよく知っているような気がした。しかし、彼の顔はあまり鮮明に見えない。彼のほうが藍忘機の倍くらいお喋りらしかった。
「――コールドスリープ研究と言えば物理学研究科の魏無羨様って決まってるだろ!」
「君があの研究を。……失礼、君とは確かにこの談話室でよく話をしているが、よその研究科のことは良く知らなくて」
「ハハ、いいよいいよ。それより俺、お前にちょっと聞きたいことがあるんだ」
「私に答えられるかどうか」
「いや、俺は確信した。お前なら答えられる」
魏無羨は、そう言うと研究データと人間ではない生き物のMRIの写真を何枚か広げた。
「最近去年寝かせた実験動物が起き始めてて、ついに細胞の老化を止めて、一年は死なないで寝られるコールドスリープマシンが出来たんだ。でも、みんな海馬がやられてて」
「……人間に応用したら記憶障害になる」
「だからさ、何とかできないかと思うんだよ。アルツハイマー病の予防薬とか投与してみたんだけど、全然ダメ。もう人工で記憶野みたいな装置つくるしかないのかな」
魏無羨は、大学の研究室棟らしき場所のソファにどっかり座り、自販機で買ったコーヒーを飲みはじめた。
「それは……私がやっている分野に近い」
「だろ! 俺たち、組んだらいい感じの研究できるんじゃないか? 幸い俺の研究室もお前の研究室もやかましいボスじゃないし。ちょっとどうにかできそうだったら教えてくれ」
「うん」
若き日の魏無羨と藍忘機は、揃ってかなり高度な分野の研究をしていたらしい。魏嬰は、その日を境に二人が仲を深めていく様子を早送りしながら見たが、研究の進みよりも恋の進展の方がいくらか早かったようである。とはいえ、研究の方も、完成形にはできていないが十分な成果を収め、二年後には二人揃って博士号を取得し、大学に研究員として残っていた。
「私は、君と……君の研究とも、一生共にいたい」
「お前……っ! そういうことは、夜なべしてデータを待ってるときにカップラーメン食いながらする話じゃないだろ! ああもう! お前のことが大好きだよ! おい、……待て、は、初めてのキスがジャンクフード味でもいいのか……?」
魏嬰が再生したある日の記憶では、二人はそんな微笑ましいやり取りをしていた。魏嬰はこの記憶を通して、藍湛がもともと表情に乏しく感情をあまり表に出さない人なのだと知ったが、それでも藍忘機は今の藍湛よりもはるかに喜怒哀楽があり、特に彼が魏無羨の前では本当に感情豊かな人だったのだと感じた。
「ちょっと寝たいのに寝付けないや。藍湛、俺に子守歌でも歌ってくれよ」
「分かった」
「藍湛、お前歌なんて歌えるのか……?」
「休んで」
ある時、談話室で魏無羨が横になっていると、藍忘機が歌を歌ってくれるようなことがあった。その歌は聞いたことのない歌だったが、二人の仲睦まじく幸せな様子に、魏嬰も心が和んだ。
(藍忘機の奴、かわいいところもあるじゃないか……)
魏嬰はその後のいくつかのエピソードはさすがに見るのを遠慮して、少し先の日のものを見た。藍忘機の記憶の研究は、記憶をどのような基準で取捨選択して圧縮し、データに変換するかという段階まで進んでいた。あとは身体に埋め込んでも問題ない機器に搭載できるかというところだ。そして、魏無羨のコールドスリープマシンは、ついに人体用の機械の試作品ができそうだというところにきていた。まだ記憶野の保存の問題は解決していなかったが、魏無羨はとりあえず試作品を作って、自分が一日、一週間、二週間、一か月……と長くマシンの中で寝ることで、どうして記憶野の損傷が起こるのか考えようとしているらしかった。そして、藍忘機は魏無羨の向こう見ずな実験を阻止すべく、一層研究に励んでいたらしい。
「明日朝から試作機の納品なんだ。お前はもうちょっと残るだろ?」
「うん。雨が降っている。道も暗いから気をつけて」
「分かった。もうこの時間は車も通らないし、大丈夫だよ。お前もあんまり根を詰めたら駄目だぞ。おやすみ」
彼らの研究室での抱擁とキスは、記憶を見ている魏嬰にとっては恥ずかしくも心温まる光景だった。
今は存在しない技術と研究の完成にわくわくしていた魏嬰であったが、次の記憶のファイルを開いたとき、彼は瞠目した。藍忘機が病院の一室にいて、目の前にはたくさんの医療機器のチューブに繋がれた魏無羨が眠っている。
「すまない……私があの日……君と一緒にいれば」
ベッドに縋り泣き崩れる藍忘機に、声を掛けてきたのは魏無羨の家族と思しき男だった。その男は藍忘機の背後で至極冷静に言葉を発したが、拳は強く握られ、震えていた。
「藍忘機、こればかりは仕方なかった。誰だってあの道に飲酒運転の車が突っ込んでくるなんて思わない。――目は覚まさないが、身体は無事だった。お前のことは気に食わなかったが、あいつは家でもずっとお前のことを話していたし、幸せだったよ」
しかし藍忘機にとって、その言葉は慰めにならなかったらしい。彼は、魏無羨の家族ではなかったため、魏無羨の運命を決めることができなかった。
「金は出す……頼む。江晩吟、延命措置を主治医に願い出てほしい」
普段の冷静さからは程遠い姿の藍忘機に、江晩吟と呼ばれた男は震える手で魏無羨の延命措置を行うサインをした。
その後、藍忘機は魏無羨の研究室に納品されたコールドスリープマシンを引き取り、自宅の一室と思われる薄暗い場所に置いた。魏嬰はその時の藍忘機の記憶から、その機械が藍湛の入っていたあの冷凍庫だと気付いた。
魏嬰はほんの数分前まで、この世で一番幸せだった二人にこんなことが起こるとは予想しておらず、このまま藍忘機の記憶を見続けることに不安を覚えた。
それから、藍忘機は何かに憑りつかれたように研究を続けていたが、どういう訳か彼の研究はこれまでとは少し違う方向に進んでいた。なぜか、アンドロイドの研究に関する論文の記憶が多くなってきたのである。
魏嬰にとってはこの大量の論文の記憶が退屈なものでしかなかったため、それが終わる頃まで記憶を早送りした。次に再生ボタンを押した時、ついに藍忘機はある論文を書き終えていた。
(……『電子化した記憶のアンドロイドへの移植』)
魏嬰は画面に向かってそう呟くと、スマートフォンから論文名を検索した。しかしそれは、魏嬰が藍湛の記憶から見た論文の出来に反して全く検索に引っかからなかった。
理由はすぐに分かった。魏嬰が諦めて藍忘機の記憶に戻ると、彼が数人の学会の重鎮に呼び出されていた。
「忘機。お前がしている研究は、倫理規定に違反するという結論になった」
「――叔父上、なぜですか」
「例えば、死の淵にある者の記憶を保存し、それをアンドロイドに移植すると考えてみよ。――AIを搭載したアンドロイドは、死んだ者の記憶に基づき思考を作り出す。死んだ者にそっくりの死なない機械と生活することが、愛する者を失った人間の行動として正しいと言えるか?」
「……」
藍忘機は、まさに自分がやろうとしていたことの倫理的な罪を問われ、何も言い返すことが出来なかった。この記憶を見ていた魏嬰は、魏無羨の肉体の限界がいつ来てもおかしくはないと考えていた。つまり、まさに叔父が言ったことを、藍忘機は実行しようとしていたのだろう。
もし、不慮の事故で死の淵にある魏無羨が、自分の思考を人工的に学習したアンドロイドに研究を託せるとすれば、彼は望んだかだろうか……と考えた時、魏嬰はすぐに答えを出すことが出来なかった。藍忘機は間違いなく、研究を遂行させる以外の目的でつくりものの魏無羨と暮らすことになるのだ。その時、もしあの世から魏無羨が藍忘機を見たとして、彼はどう思うだろう。自分の恋人が自分の死から立ち直れず心を病んでいく姿を見たら、死んでも死にきれない。
「――忘機。お前は暫くの間謹慎とし、己の行いと科学のあるべき未来を考えなさい」
藍忘機の叔父が会長を務めていた学会はかなりの影響力をもっていたらしく、学会は人間の記憶の電子化に関する研究の全面禁止を国際的に取り決め、藍忘機の名前が二度とこの世界に現れる可能性もなくしてしまった。
藍忘機の記憶は、続いてその二年後を映し出した。魏嬰が二十代後半から見始めた藍忘機の記憶も、もう三十歳になる。藍忘機は、江晩吟が藍家と交渉してくれたお蔭で魏無羨の葬儀への参列を許されていた。さめざめと遺族が泣く中、もうそこにいた藍忘機に心はなかった。ただぼんやりと遺影を見つめ、一言も話さず、まるで機械のように儀式を終えていた。
藍忘機はその後も変わらず、巨大な研究施設のような自宅でほとんど軟禁のような生活を送っていたが、魏嬰はまだ彼が研究を続けていることに気付いた。どちらかというと大学院時代の研究の延長線上で、人間の記憶を電子媒体に記録するというものである。しかしながら、既にこの研究は国際的に禁止の取り決めがなされていたはずである。
(もう世に出ることがないなら、止める必要もないということか)
記憶の中の藍忘機が再び大量の論文を読み始めるのを見ながら、魏嬰はため息交じりに思った。彼もたまに医者として仕事をしているので、何者でもなくなるということの恐怖はしばしば感じている。藍忘機は魏無羨が亡くなるまで、学会でも期待の若手として大事にされていた。研究に執着する思いも、魏無羨への悔いも、全部ごちゃごちゃになってすっかり迷子のようになってしまった藍忘機の姿に、魏無羨はいつの間にか涙を零していた。
次の記憶が始まったとき、魏無羨の死から五年が経過していた。その何年か前から、藍忘機の家は彼のために医者を雇っていた。随分若い外科医であったが腕は良く、藍忘機の心身の状態もひと頃より良くなっているように感じた。
「あの、今日はどのようなご用件でしょうか。お身体がすぐれないとのことですが……」
「――頼みがある」
藍忘機は、主治医に小さな装置を手渡した。
「これは?」
「私の記憶を焼いた装置だ。――これを私の頭に埋めてほしい」
「なっ!! それは、それは……禁止されている研究でしょう?」
主治医は魏嬰の思った通りの反応を示した。藍忘機はそれに反応を示さないまま続けた。
「私は、彼の研究を終わらせる。そこにある機械で五十年眠ることにした。装置に入っている記憶には、私がアンドロイドであると書き加えた。アンドロイドでれば、五十年後に私が生きていても困る者はいない」
「――死ぬかもしれないんですよ?! 第一、コールドスリープ研究はもうだれもなさっていません。もし成功したとして、五十年先なんてどうなってるかも分からないのに!」
藍忘機は聞いたことのない穏やかな声色で主治医を諭した。
「ここで五十年かけて殺されるのに比べれば、コールドスリープマシンに殺される方がよほど幸せだ。君を解雇することは藍家に告げたが、将来の心配はしなくてよい」
「……本当に、あの人のことが大好きだったんですね」
「君は小さい頃、近所に住んでいた魏嬰にべったりだったと聞いた。もし彼の生まれ変わりに会えたら……私は、ただ謝りたい」
その一言を聞いたとき、画面を見ていた魏嬰の心臓がドクンと鳴った。
「魏嬰……魏無羨さんのことですか」
「そうだ。幼い頃、そう呼ばれていたと」
「そうですか……。――あの、私はあなたの主治医になったことを後悔していません。きっと羨哥哥も、生まれ変わってあなたを待っていると思います」
「――引き受けてくれるのか?」
「謹んで、お引き受けいたします」
それから藍忘機は、記憶装置の接続についてこの主治医に綿密な指導を行った。記憶の中を覗いているため、魏嬰には藍忘機にとって当たり前と思われる情報が汲み取りにくいが、この時ようやく藍忘機の実家が研究機関を持つ総合病院であることが分かった。藍忘機自身は医学の道には進んでいなかったようだが、これで彼が内科医や精神科医ではなく外科医を主治医にした理由が分かった。
(藍忘機は、主治医が必要なほど心神耗弱ではなかったんだ。もともとコールドスリープをするために、わざわざ魏無羨と関わりのあった外科医を探し出したのか!)
魏嬰は全ての謎が解けた達成感よりも、藍湛が抱えてきた過去の重さに、頭を整理しきれないままだった。
この記憶のファイルは、藍忘機が麻酔で眠るその瞬間までを記録していた。
そして、記憶野の電子化手術から目を覚ました藍忘機は、藍湛と名乗った。
「藍湛さん、あなたはこれから旅に出ます。……長い旅です」
主治医がそう言うと、藍湛は頷いた。
「私は、五十年後この世にいるかわかりません。けれども、あなたの旅の無事を祈っています」
「私は、魏嬰に会いに行く。必ず見つける」
「ええ。必ず、見つけ出してください。今度こそ、幸せにしてください。彼も、あなた自身も」
主治医がコールドスリープ装置の蓋を締めた。真っ暗になったところで、記憶は途切れ、目を覚ましてからのものになっていた。
魏嬰は結局明け方近くになってようやく藍湛の眠るベッドの隣にもぐりこんだが、眠ることが出来ないまま朝日が昇ってくる時間を迎えていた。
魏嬰が見た藍忘機の記憶は少し鮮明さに欠ける部分もあったが、それでも藍湛が長い時をコールドスリープによって旅してきたこと、そして、彼が魏無羨の生まれ変わり……つまり魏嬰を探していることは明らかだった。もちろん、魏嬰自身は魏無羨の記憶などない。それに、魏嬰には一つ新たな疑問が生まれていた。
(藍湛は、一目見て、名前を聞いて……どうして俺だって分からなかったんだろう?)
魏嬰が改めて計算すると、予期せぬアクシデントによって藍湛の五十年の旅は三十三年に短縮されていたので、ひょっとすると藍湛の記憶装置に不具合が出ているのかもしれないと思った。この間見た時は何も問題なさそうだったが、インプットしたコールドスリープ以前の記憶を自発的に思い出せないのかもしれない。産業廃棄物として裏山に捨てられたときの衝撃などを考えると、可能性としては捨てきれないと魏嬰は思った。
ついでに気になって、魏嬰は藍湛の実家について調べた。どうやら昔存在した藍湛の実家の研究所は、病院の経営難により廃止・売却されてしまったらしい。病院も違う法人に買い取られており、藍家のその後についてはよく分からなくなっていた。ともあれ、研究所が処分された結果、よく分からない残置物の処理に困った業者が、藍湛の入ったコールドスリープマシンを他の廃棄物と共に裏山に捨ててしまったのだろう。
「お前……こんなに大変な目に遭ってまで、俺に会いに来てくれたんだな」
魏嬰は思わず独り言を呟いていた。
その時、眠ったままの藍湛の手が徐に魏嬰に伸びてきた。藍湛は魏嬰の手を掴むと、そのまま満足した様子で眠りの世界に戻っていった。
「もう大丈夫だよ。お前は、ずっとずっと会いたかった人に会えたんだから」
魏嬰は、藍湛の手を少し握ったままゆっくりと瞳を閉じた。