忘記星霜④ 魏嬰が次に目を覚ました時、藍湛がじっと魏嬰を見ていた。
「……ああ、おはよう藍湛」
「魏嬰、昨日いつ眠った?」
「何時だったっけな……ハハ、昨日じゃなかったのは確かだ」
「朝食を温める」
藍湛は台所の方に行くと、コンロに火をつけた。魏嬰は台所の蛇口をひねって、そこで洗面と歯磨きをした。
「お前は何時に起きたんだ?」
「五時だ」
魏嬰が机の上に置いている時計を見ると、既に時刻は十時を過ぎていた。魏嬰は、長い時間自分が眠ったままでも藍湛は大丈夫だったのだろうかと思った。
「……俺が寝ている間、大丈夫だったか?」
魏嬰は、自分が藍湛の記憶を知っているとばれない方法で、藍湛にそれとなく尋ねた。もし藍湛が魏嬰の前世を覚えていたら、魏嬰がいつまで経っても起きないことは、藍湛に潜在的な恐怖を駆り立てるだろうと思ったのである。
「特に何もなかった。洗濯を済ませておいた」
この一言で、魏嬰はやはり藍湛の記憶に関する自分の仮説が正しいのだろうと思った。彼は、記憶装置を埋め込む前の記憶を自発的に思い出すことが出来ないのだ。
「あ、……ああ。ありがとう」
「私は君の同居人だ。同居人は普通家事をすべきでは?」
魏嬰は、家事分担に対する藍湛の至極真っ当な見解に、笑いながら返答を考えた。
「ハハハ、お前のそういう真面目なところも好きだよ」
好きだよ、と魏嬰が言うと、藍湛は明らかに少し動揺したように思われた。けれども、藍湛が少し眉間に皺を寄せた以上のことは何もなく、魏嬰が朝食を食べ始めて少しすると温寧が家にやって来た。
「魏さん、今いいですか?」
「ん? いいぜ。どうした?」
「貸出用の車いすの整備をお願いしたいのですが」
「分かった。着替えたらすぐ行くよ」
魏嬰は粥をかき込んで身だしなみを簡単に整えると、適当にその辺にかためて置いていた服を掴んで着た。とりあえずいつも持って歩く工具類一式と、空気入れを持っていくことにする。
「藍湛も行こう?」
「うん」
家を出て少し歩き、温情の診療所が見えてきたところで、魏嬰は何もないところで躓いた。
「おっと」
「っ、魏嬰!」
藍湛は咄嗟に彼の身体を支え、転ばないようにした。その時、支えてもらった魏嬰は、藍湛の美しい顔が近くにあることに気がつき、しかも二人は自然と手を取り合っていたのでドキドキしてしまった。
(ああ! ……こんなはずじゃなかったのに!)
もちろん、魏嬰は何もないところで躓くほどおっちょこちょいではない。わざと躓いてみて、藍湛がどんな行動をするか、何か記憶を思い出すきっかけにならないかと思ったのだった。
「魏嬰、大丈夫か?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。ハハ、俺たち、道端で見つめあっちゃったな……」
「そういう言い方は誤解を招く」
藍湛は冷静にそう言うと、魏嬰の服が汚れていないか簡単に確認して、さっと歩き出した。もうその時には一瞬繋いだ手も離れていたので、魏嬰の方がなぜか少し残念な気持ちになってしまった。
(……藍湛を試すようなことをするからこうなるんだ)
その時ふと、魏嬰の脳裏に小さな疑問が浮かんだ。この数時間だけでこんなにあからさまに藍湛に色々なことをしているのに、彼の反応は芳しくないどころか、眉間に皺を寄せて少し苛立っているようにすら思える。藍湛自身は忘れてしまっているが、彼が愛していたのは魏無羨だ。彼が会いたいと言っていた生まれ変わりは間違いなく魏嬰なのだが、彼が愛しているのは自分ではないという事実が突然魏嬰の胸にぽっかり穴を開けた。魏嬰は急に、二歩くらい前を歩く藍湛を遠く感じた。
「――魏嬰、足を痛めたのか?」
「いや、大丈夫だ。何もないところで躓くなんて間抜けだったよ。ハハハハハ、早く温情のところに行かなきゃな」
訝しむ藍湛に魏嬰はその場を取り繕って、温情の診療所への道を急いだ。
「随分遅かったじゃない」
案の定、温情は診療所の前で一台の車いすと仁王立ちしていた。腕を胸の前で組んでいて、それはもう圧巻だと魏嬰は内心で苦笑した。
「それは気のせいだ。温情。さ、そいつを見せてくれ」
温情が言うには、今のところ使う予定は無いらしい。しかし、魏嬰は高齢化が進む村でいつこの車いすの出番が来るか分からないので、半年に一度必ず点検と整備をしている。
「半年前の整備から誰か使ったか?」
「確か張さんの息子が骨折した時じゃないかしら」
「ああ……もう結構経つよな」
張さんの息子は三か月ほど前に、運悪く牛に蹴られて腰の骨を折ってしまった。張さんの家は農業に加えて小規模であったが酪農もこなしていたので、一家の手伝いを村の比較的若い者たちでどうにかしたことを魏嬰は思い出した。魏嬰は元々都会で生まれ育っているのでほとんど役に立たなかったが、それでも農具を直してやったりしてできることはやったつもりである。その時はまだ、藍湛はこの村にいなかった。
「張さんの息子が元気になって良かったわよ。あの時の張さんといったら本当に悲壮だったもの」
「大事な働き手が腰を折ったんだ。そりゃあこの村じゃ大騒ぎになるよ」
温情と魏嬰がそんな世間話をしている間、藍湛は黙々と車いすのタイヤに空気を入れ、ブレーキのきき具合を確認した。温寧はその間に診療所に出入りする村人の話し相手になっている。
「姉さん、黄さんが来たよ」
「はいはい、今行くわ」
魏嬰と藍湛も一時間しないうちに一通り整備を終えたので、温寧に言って家に戻ることにした。
「お代はいくらですか」
「温寧、どうせ何かあったらお前の姉さんの世話になるしかないんだ。部品も交換してないし、大丈夫だよ」
いつものようにそう言うと、魏嬰は藍湛ともと来た道を戻った。
「魏嬰」
「どうした?」
家に戻って帰り道で買った饅頭を昼食に食べた後、ふと藍湛が魏嬰に声を掛けた。
「元気がない」
「俺が?」
「うん」
「ハハハ、どうしてそんな心配をしちゃうんだ?」
魏嬰は何でもないように尋ねると、藍湛は黙って目を逸らした。
「――あれ。何かうんとかすんとか言ってよ」
「うん。……私の気のせいかもしれない」
藍湛はそう言って引き下がったが、やはり魏嬰の様子がいつもと違うのではないかと疑っているように見えた。
「ああ、そうだ。饅頭だけじゃやっぱりちょっと物足りないな! カップラーメンがある。藍湛も食べよう」
「試してみよう」
魏嬰は台所の棚からカップラーメンを出し、湯を沸かした。藍湛はその様子をじっと見ている。どうやら作り方を知りたいようだった。
「大丈夫、これは俺でも上手く作れるんだ」
「食べないのか?」
「お湯を入れたら何分か待つんだよ。これは三分だ」
魏嬰が言いながらタイマーをかけた。藍湛はタイマーの残り時間が減るのを少し見ると、再びカップラーメンの方を見た。
「ほら、ここに作り方が書いてあって」
「うん。小さいが分かる」
「だろ? でももっと高いやつだと作り方がややこしいやつもあるんだ」
タイマーが鳴って、魏嬰と藍湛は各々カップラーメンを食べ始めた。あまり代わり映えのしない味だが、たまに無性に食べたくなる。魏嬰は別に食べても食べなくても良かったのだが、藍湛の目を誤魔化すにはこの方法しかなかったのだ。そういえば、記憶の中でも、藍湛はこうやって上品にカップラーメンを食べていたな、と彼は思った。
食べ終わった空の容器を片付け、魏嬰は誰も客が来ない昼下がりにベッドに寝そべって読む本を選ぼうと、本棚やパソコンのある部屋に行こうとした。
「藍湛、今度はどうした?」
その時、手首を掴まれて振り返った魏嬰を急に藍湛が抱きしめた。
「……っ!」
藍湛は黙ったままものすごい力で魏嬰を抱えると、彼が何も言えないうちにベッドに運び、そこに転がした。
「藍湛、藍湛……?! おい、……待て、は、初めてのキスがジャンクフード味でもいいのか……?」
魏嬰が言ったことが聞こえていないのか、藍湛は魏嬰を押し倒して自分の唇を魏嬰のそこに重ねた。
「……ん、っ」
舌まで遠慮なく差し込まれて、魏嬰は何もできずに藍湛に身体を預けるしかなかった。腰に力が入らなくなってしまうのではないかという危機感を魏嬰が覚えたところで、急に藍湛が唇を離した。
「…………!」
藍湛はそこでようやく我に返ったらしく、慌てて体を魏嬰から離して、がたがたと震え出した。
「…………魏嬰、……すまない、私は……」
「待て待て、大丈夫だからさ、そんな怖い顔してすまないなんて言うなよ」
魏嬰は藍湛を宥めようと何でもないふうを装った。けれども、藍湛の目に映った魏嬰の腫れた唇に潤んだ瞳は、今彼が何を魏嬰にしたのかを如実に語っている。藍湛は一層顔色を青くした。
「感情機能が暴走しているのに、自壊装置が作動しない」
藍湛は本当に自分のことをアンドロイドだと思うように記憶装置に詳細な設定や関連法規を書き込んだのだろうと魏嬰は呆れそうになった。しかしふと見れば、ベッドの上に跪いた藍湛が自分の手で自分の首を絞めようとしている。魏嬰は慌てて起き上がって、藍湛の腕を思いきり掴んで止めた。
「ばか! なんで忘れちゃうんだよ! 藍湛、藍忘機! 俺だよ。俺が、魏無羨の生まれ変わりだ! お前は三十三年も旅をして、俺に会いに来てくれたんだろ? ――自分が機械だとか、自壊するなんて言うなよ。俺は、お前が好きなんだ。生まれ変わる前のことは何も覚えてないけど、お前のことを愛してるんだ!」
魏嬰はそう叫ぶと、力いっぱい藍湛を抱きしめた。
「君が……? 私は…………、っ」
藍湛は抱き締めてきた魏嬰を離すと、驚いた表情で彼を見つめた。
「お前の旅は、ちょっと色々あったけど、大成功だったんだぞ!」
魏嬰が言うと、藍湛は静かに目を伏せて、幻のようにひとすじ涙を零した。
「――藍湛、お前はアンドロイドなんかじゃない。俺の前世を愛してくれた、たったひとりの人間なんだ。だからもう、ひとりで苦しむんじゃない」
魏嬰は、藍湛がきっと何かを思い出したのではないかと思い、自分の思いをゆっくりに言葉にした。しかし、魏嬰がそう言った瞬間、藍湛は急に小さく呻いて頭を抱えると、どさりと音を立ててベッドの上に倒れてしまった。
「……!! 藍湛! おい、しっかりしろ!」
今度はがたがた震え、動揺したのは魏嬰の方だった。きっと、アンドロイドだと自分を認識するように改ざんした記憶を思い出したことによって、藍湛の装置が不具合を起こしたのだ。
魏嬰は自分よりも少し大きな藍湛を抱えると、温情の診療所に急いだ。