社畜俺超有能夫得幸福天天① 魏無羨は、外から見たらそこだけ明るいオフィスの電気を消して、ようやく外の空気を吸うことができた。
時刻は既に日付を超えている。明日(もう「今日」であるが)は一か月ぶりに得た何もしなくていい日で、週末を迎えた彼は意気揚々とコンビニでアルコール度数の高い酎ハイを数本とつまみを買った。支払いのためにアプリを起動しようとスマホを見ると、先輩から助けてほしいというメッセージがきていた。明日客先で行われるプレゼンが二件被ってしまい、一件を魏無羨に押し付けたいらしい。
『資料は全部あるから送っておく。十五時からだから半日休んで酒臭さだけ消して行ってくれ』
たった今魏無羨の全休は潰れたが、それでも彼は「分かりました。資料確認するので社内ネットワーク経由で下さい」と返事を打った。
魏無羨は会社が好きという訳ではなかったが、仕事になると何もかも忘れて集中できることが気に入っていた。もちろん、自分が提案したプランが客先で良い評価を受けたり、世間からもてはやされるのも悪くなかった。けれども、彼にとっての仕事は、成果を出したいとか貢献したいとかよりも、とにかく心に巣食う何かと、それによる焦燥感を忘れるための道具だった。
心に巣食う何かは、よく分からない。ずっと大切な誰かを思い出せないでいるような、そんな感覚だ。幼いころから何でもでき、顔も悪くない魏無羨は、ずっと異性の興味を引いてきたが、デートをしても付き合う気分にはならなかった。なぜなら、その心にぽっかりと空いた穴が、「この人ではない」と拒絶反応を起こすのだ。歴代の彼女候補は皆顔もスタイルも性格も、悪くなかったように思う。けれども、何かが決定的に違う。それで上の空になっていると、勘のいい彼女たちは彼に不信感を抱き、交際には至らないのだ。
「今日は公園でしこたま飲めると思ったのにな」
魏無羨は独り言を言いながら、公園にある大きな山型の滑り台の頂上に登った。山のほとんどは斜面だが、裏側に子どもがすれ違えるくらいの幅の階段が付いていて、魏無羨はそこを登る。もう三、四日同じ一日を過ごしている魏無羨には、子どものように斜面を駆け上がる元気は当然ない。
この人工的な小さな山の上から、都会の小さな夜空やビルの明かりを見て酒を飲むのが魏無羨は好きだった。よくそのまま寝てしまうのだが、始発が出ている時間に起きれば家に帰ってシャワーを浴びてまた出社できる。
(あれ、あんなところに車が停まってる。珍しいな?)
魏無羨は、公園の前の道に車が一台停まっているのを見つけた。公園の横に付けて良いような車ではない高級車だが、彼は次第に興味を失って、いつものように酎ハイの缶を開けた。魏無羨はふざけるのが好きで、外回りの無い日に着ている草臥れたジャケットに掛からない程度にふざけて酒を飲む。今日も目いっぱい仰け反ると、缶を口から離して酒を流し込んだ。缶に入っていた九パーセントのアルコールが、炭酸のぴりっとした感覚と一緒にそのまま喉を焼き、胃の中に入っていく。この熱が、例の焦燥感を忘れさせてくれるのだ。彼は缶を空にしたところで、ようやく唐揚げの包みを開けて食べ始めた。今日の晩御飯は、辛い味の唐揚げと辛い漬物。それから明日の朝のために、彼はちょっといい栄養ドリンクを買っていた。
暫くして、魏無羨は全ての缶を開けてしまった。鞄を枕にして、星空の下でひと眠りしようと目を閉じる。明日は昼から出社して、先輩のプレゼン資料を直して客先に出ればいいだろう。まだ夜は少し肌寒かったが、目を閉じるとどうでもよくなった。少しして、魏無羨は滑り台から滑り落ちたのかと思うくらいの揺れを感じたが、その後すぐに暖かくて柔らかな感覚と不思議な安心感を覚えて、そのまま不思議な感覚に身を委ねることにした。
「……らんじゃん…………」
夢の中で、魏無羨はなぜか親し気に知らない人の名前を呼んだ。
「ここにいる」
その声がすると、急に嬉しさと寂しさが込み上げてきて、温かなもので心が満たされた。
その一日前に遡る。
「藍さん、本日はお忙しい中お越しくださりありがとうございます」
「いえ、大事な仕事ですので」
そう返答した低く穏やかな声は、極めて冷静で緊張感を場にもたらすが、決して嫌な感じはせず、同席していた誰もが彼をじっと見た。声だけでなく、上背があり、姿勢だけでなく左右対称でバランスの整った顔貌は非常に美しい。しかし、いつもどこか物憂げで、雰囲気はどちらかというと人を寄せ付けない感じだ。
藍忘機は、不動産・都市開発から建設までを手広く手掛ける通称「藍財閥」の次男で、宣伝部の社員に連れられて新しく販売する富裕層向けマンションの広告の最終打ち合わせに来ていた。藍忘機が良いと言わなければ、このマンションの広告は新聞への折り込み、テレビCM、動画サイト、SNS、駅や電車内の広告まですべてやり直しである。広告を作った広告代理店の社員たちはもちろん、今まで途中経過を藍忘機に報告していた藍不動産の敏腕社員たちも戦々恐々としていた。尤も、藍忘機はよく働いてくれた広告代理店の面々に直接お礼を伝え、広告を打つスケジュールの話をしにきただけである。けれども、彼にはどこか周りに緊張感をもたらす雰囲気があった。
藍忘機に対して改めて広告のコンセプトや全体像、掲出する場所を説明した社員は、背中に大量の冷や汗を流しながらも懸命に説明した。途中、藍不動産の社員も補足を入れつつ、彼らを援護する。藍忘機は熱を上げ始めた自分の部下に「簡潔に」と一言言った以外は、穏やかに「分かりました」「構いません」と告げた。
打ち合わせは藍忘機に必要以上の説明を皆が頑張ってしまい、随分長くなってしまった。途中で休憩が入ると、藍忘機は部下を連れて下の階のカフェでコーヒーを買うことにした。
「思追、景儀。これで好きなものを買いなさい。私にはコーヒーを」
「分かりました。ありがとうございます」
「含光君! ありがとうございます!」
その時、エントランスの方が少し賑やかになった。藍忘機が少し目をやると、昼食から帰ってきたと思われる広告代理店の社員の一団が歩いている。
「魏さん、もう何日オフィス暮らしなんですか?」
「んあ? えーと、十日くらいじゃないか? 家に帰ってもシャワーくらいしかすることないだろ?」
「死んじゃいますよ!」
自社ビルとはいえ吹き抜けの階ではもう少し静かに歩くべきだと藍忘機は思っていたが、彼は同時にこの会社の社員は随分過酷な労働環境の下で働かされているようだと感じた。
藍不動産は有給消化率百パーセント、賞与七か月(夏二か月半、冬三か月半、期末一か月)、月当たり平均残業時間十時間の超優良企業で、社員は二十二時には寝るよう奨励されており、社員食堂では栄養バランスの良い朝食も提供される。こうした福利厚生の整備と充実は藍忘機が社長になる前から当たり前のように存在するので、彼からするとこの広告代理店は(恐らく給料は藍不動産より高いのだろうが)地獄であった。
藍忘機は、過労で病院送り寸前の彼らがエレベーターホールに向かって歩いていくのを見送ろうとした。ところが、その輪の中にいた一人の男から不思議と目を離すことができなかった。ちくりと傷むこめかみに目を閉じると、おぼろげだった記憶が少しだけ鮮明に蘇る。
『藍湛!』
高い位置で赤い髪紐と共に揺れる長髪、いつも上機嫌な瞳、それから自分を呼ぶ声。――藍忘機は、それが今までぼやけていたいつかの記憶の欠片であると悟った。
「……含光君、お疲れですか?」
頭痛が止んで顔を上げると、部下である藍思追と藍景儀が心配そうに藍忘機を見ていた。
「……いや、大丈夫だ」
「コーヒーを買ってきました。よかったらクッキーもあるので召し上がってください」
「うん」
藍忘機は彼がこの世でも「魏さん」と呼ばれていたことを心の中でゆっくり噛みしめると、すっと立ち上がった。
「含光君?」
「少し用事を思い出したので外す。上で合流しよう」
「……分かりました」
藍忘機は会議室に戻ると、先ほど熱心にプレゼンテーションをしてくれた若い社員を捕まえて、「魏さん」なる人物がどこで何をしているかを尋ねることにした。
「魏という名字の人は何人かいますが、藍さんのお話の限りだと魏無羨ですね。いつも朝から晩までいますから、有名人です」
「ありがとうございます」
「何か御用ですか?」
「いえ、……」
それから程なくして休憩を取っていた面々が戻ってきた。午後の会議も日が傾く頃には円満に終わった。藍忘機と彼の部下たちは、そこまで離れていない自社へと帰社した。
藍忘機はその後、この日の業務を終えると車を走らせて自宅へと戻らず、先ほど打ち合わせで訪れた広告代理店の向かいにあるホテルのラウンジで、同じく藍財閥のグループ会社を経営する兄の藍曦臣と近況を話し合った。
「忘機、例のマンションの件は順調かい? 大規模開発で地元からも期待は大きいから、慎重に進めていくように」
「はい、兄上」
「ところで、今日はどうしてこの場所に? いつもは家だが……」
兄に尋ねられた藍忘機は、何も気の利くことが言えずに黙った。兄である藍曦臣は朗らかに微笑むと、藍忘機に言った。
「たまには良い気分転換になるね。こんなところにうちのホテルがあるとは」
「最近できたようです」
藍忘機の家は何人かの親戚がそれぞれ事業をやっているので、藍忘機も藍曦臣もその全ては把握できていない。しかし、ホテルに入ると、受付の何人かはすぐに気づいて、ラウンジの奥のプライベートスペースを案内してくれた。窓も大きく、通りの様子がよく見える。藍忘機は窓から広告代理店のビルの方を見た。
「何か気になることでもあるのかい?」
「いえ……」
「お前が珍しく嬉しそうだから聞いたんだ。――きっと良いことがあったんだね」
藍忘機は兄とそのままホテルのレストランで食事をした後で別れ、再び車に乗った。
彼は車を動かして近くの駐車場に待機し続けたが、二十三時を回っても魏無羨が出てこない。藍忘機は日頃二十二時には寝ているので、この広告代理店が十九時を過ぎても煌々と電気を点けていることに少なからず困惑したが、二十三時を過ぎるとさすがにまばらになり、日付が変わったあたりで最後の一つの電気も消えた。裏口から出てきた魏無羨は、疲れている様子だったがコンビニに入り、ほどなくしてビニール袋を提げて一本通りを進んだ先にある公園に向かうと、一人で晩酌を始めた。
藍忘機は、魏無羨の姿を見れば見るほど心が満たされるような気持になり、ぼんやりとしか分からなかったことが前世の記憶として形と色を持ち始めたような気がした。今は公園の遊具の上だが、昔は家の門の屋根の上でああやって酒を飲んで、文字通り酒を浴びていた。月の下で上機嫌に仰け反り酎ハイを呷る魏無羨は、ヨレヨレのジャケット姿で洒脱さとは程遠いけれど、昔の面影のままである。もちろん、今は他人同士であり、魏無羨が自分のことを全く覚えていない可能性も考えていないわけではない。けれども、藍忘機は酔いつぶれて寝ている魏無羨を放っておくことができなかった。彼は車を降りると、遊具の山型の滑り台の斜面を駆け上がり、魏無羨を抱えて階段を降りた。
公園はまだ肌寒く、魏無羨は短時間の間に非常に冷たくなっていた。藍忘機は車から持ってきたブランケットを掛けてやり、魏無羨を軽々と横抱きにしている。少しむずむずしていた魏無羨は、起きるかと思いきやそのまま横抱きにしている藍忘機に身を委ねた。そして、藍忘機の服の端を掴んで寝心地の良さを探そうと動いたあと、何か呟いた。
「……らんじゃん…………」
「ここにいる」
寝言に返事をすることはあまり良いことではないらしいが、藍忘機は躊躇せず魏無羨に返事をした。彼は魏無羨を車に乗せると、そのまま自宅への帰路を急いだ。
それから数時間後、魏無羨はいつもよりかなり長い時間眠っていたような気がして起き上がった。彼が寝ていたベッドは非常に寝心地が良く清潔で、しかもとても広々としてどんなに酷い寝相でも床に落ちなさそうな大きさをしていた。そして、部屋には控えめに品の良いルームフレグランスの香りが漂い、そこにほんの少し朝食の匂いもしている。
「??? うそだろ……? ホテル……? いや、人の家か…………?」
その時、ちょうど部屋のドアが開いた。
「――起きたか」
「あ、ええと、…………誰? 俺の荷物と服は?」
魏無羨はベッドサイドにある時計を確認した。意外なことに、デジタル時計の大きな数字は、見間違いではなくまだ朝の十時であることを示している。
「荷物はそちらに全て置いている。ごみは処分した。それから、服は全てクリーニングに出した。昼には届く。申し訳ないが、私の使っていない寝巻を着せた。下着と靴下は、新しいのをそこに置いているから使って構わない」
魏無羨は着心地の良いスウェット地の上下を着せられていたが、まだ髪から酒の匂いがするのを感じて顔を僅かに歪ませた。
「なあ、シャワー貸してくれない? ええと、――」
魏無羨は、先ほど尋ねたことへの返答に目の前の男の名前が含まれておらず、何て呼べばいいか分からなかった。
「藍忘機」
「藍さん。潰れてた俺を助けてくれたならさ、親切ついでに頼むよ。お願い!」
「構わないが」
「本当に!? 助かるよ。お礼は……俺金ならそこそこ持ってるけど、あんたも見たところ金に困ってなさそうだよな。どうしたらいい?」
藍忘機は呆れ半分にため息をついた後、魏無羨の方を見て渋々答えた。
「礼はいらないが、もし気が咎めるのなら、――私のことは、藍湛と呼びなさい」
「藍湛? いいよ! らんじゃん、藍湛……。ハハハハッ! なんか、こんなこと言うと変だけど…………懐かしい気持ちになるんだ。――ああそうだ、俺のことは魏嬰って呼んでよ。もう子どもじゃないけど、そう呼ぶ人が多いんだ。ハハハハハ……」
藍忘機はそれを聞くと、なぜか眉間に皺を寄せ、難しい表情になった。魏無羨は、調子に乗ったせいで藍忘機を怒らせてしまったのではないかと思った。
「おい、藍湛。……変なこと言って悪かったよ。アルコールで頭がおかしい奴を助けたと思ってる? ――シャワー借りたいんだけど、場所どこ?」
「部屋を出てすぐだから分かる。それから」
「それから?」
「変だとは言っていない」
「そっか」
魏無羨は、シャワーを浴びながら藍忘機が会社の情報を盗んだり、金を奪ったりするような悪い人間ではないことを確信しつつ、不思議な落ち着きと、非常に居心地のよさを覚えていた。まるで、ここにずっと昔からいるような。
魏無羨は、幼い頃に両親を亡くし、父親の旧知であった江楓眠と虞紫鳶夫妻に引き取られた。江家には江厭離と江晩吟の姉弟がいて、魏無羨は二人と本当の姉弟のように育ててもらったが、江姉弟とは違って公立の学校に通ったり、大学は自分で奨学金を得て進学したりして、それなりに気を遣った。江楓眠は江姉弟と区別なく育てようとしていたようだが、虞夫人は自身の生んだ子どもと他人の子どもを分け隔てなく育てることを快くは考えていなかったのである。それでも、魏無羨は夫妻が大学進学までは面倒をきちんと見てくれたので、十分すぎる恩を受けたと思っていた。そして彼は、使う暇がなく溜まっていく一方の毎月の給料のほとんどを、江夫妻に送金している。
藍忘機の家は、几帳面な暮らしをしている人の家であると一目でわかるほど手入れが行き届いているのに、窮屈な感じはせず、不思議と心が凪いだ。いつものあの空虚な、乾いた、何か足りないものを埋めようと必死にならなければならないような感覚が、ついに二十数年の時を経て落ち着いたようなのだ。
「俺……、やっぱりアルコールの過剰摂取で頭がおかしくなったのかな?」
魏無羨はそう独り言を言いつつ、非常に好ましい香りのする藍忘機の使っているボディーソープやシャンプーを、全く遠慮せず拝借した。
「魏嬰」
「シャワーありがとう!」
「……礼はいらない。それより、…………早く服を着なさい」
魏無羨は藍忘機に目を背けられて、ようやく自分が下着姿でリビングに繰り出してしまったことに気がついた。
「ああ、悪かった。すぐに着てくるよ。家でやってることを人の家でやっちゃいけないよな」
少しして魏無羨はきちんと服を着て戻ってきた。藍忘機は朝食を準備してくれていたらしく、品の良いテーブルの上で粥が湯気を立てている。
「藍湛、お前はいつもこうやって酔っ払いを救助してもてなしてるのか?」
「君が初めてだ」
「えっ、ああ……そうなの? なんで?」
「…………」
藍忘機が黙ると、魏無羨はもっと聞きたくなった。
「どうしてだよ。俺は公園で寝てたんだぞ」
「…………自分で考えなさい」
魏無羨はそう言われると、公園で寝ていたと思っていた時に藍忘機を襲ったか何かしていたのかもしれないと思った。藍忘機は見れば見るほど、この世の人とは思えないほど顔が整っていて、怜悧な雰囲気だ。とにかく、非常に美しい。今まで(それ以上何もなく終わったが)いい雰囲気になった人は全員女性だ。しかし、ここまで顔が良ければ酔った自分が絡んだ可能性は十分ある。
「ま、まさか……、酔った俺に言い寄られたか何かされたのか?」
藍忘機は一言も喋らずに粥を食べていたが、それを聞いて少しだけ噎せた。
「…………君は、公園の遊具の上で寝ていただけだ」
「ああ、そうか。ハハハハハハハっ…………」
魏無羨は空笑いをして誤魔化すと、その後は大人しく粥を食べた。粥は、素朴な見た目だがしっかりと海鮮の風味があり、非常に美味しい。ただ、魏無羨は出身地の味付けがどうにも恋しくて、テーブルの上に辛味の調味料が無いか探そうとした。藍忘機がこの地域で生まれ育ったとすれば不自然なほど、魏無羨の目の前には魏無羨の好みの調味料が並んでいる。
「藍湛、お前って湖南か湖北か、四川の人?」
「蘇州だ」
「……じゃあ、辛いものが好き…………?」
しかし、魏無羨が開けようとした調味料の瓶は、まだ未開封であることを示すプラスチックのフィルムが巻かれていた。
「藍湛、――お前、超能力者? 未来人? 俺をあの時プリン山から救助しないと地球が滅んでたとか?」
「プリン山?」
「ああ、あの山の滑り台の名前だよ。近所のガキ共からそう呼ばれてるんだ」
魏無羨は少しだけ瓶を開封しようと奮闘したが、結局見かねた藍忘機が開けてくれた。彼はすっかり嬉しくなって、テーブルに並んでいた五種類の辛味調味料を少しずつ粥に加え、絶品に舌つづみを打った。
「藍湛、今日はありがとう。それから親切にしてくれたのに何もお返しできなくてごめん。クリーニングが返ってくるのは昼って言ったよな? 着いたら会社に戻らなきゃ」
藍忘機は首を振った。
「私たちの間に、ありがとうやごめんなさいは必要ない」
「…………ハハ、お前は本当にいい奴だな。もう俺みたいな酔っ払いに情けを掛ける必要ないからな?」
粥を食べ終えて忙しなく立ちあがった魏無羨に、藍忘機は小さな紙を手渡した。
「この家の場所と私の連絡先だ」
「ああ、何か忘れ物したら連絡する。着てきた下着は回収したから大丈夫だぞ」
藍忘機は何か言いたそうにしていた様子だったが、僅かに頷いただけだった。それから程なくしてマンションのコンシェルジュがクリーニングした魏無羨の服を届けてくれて、彼はまともになったジャケット姿で出勤することができた。この格好なら、そのまま客先に出向くことができるだろう。藍忘機とは二、三言話をしたが、とうとう彼の素性を聞きそびれてしまった。魏無羨は、藍忘機をプリン山の妖精か何かだと思うことにして、再び社畜と呼ぶにふさわしい毎日に飛び込んでいった。
魏無羨がその日の昼過ぎに会社に着くころには、いつもの何かが足りないという感覚とそれを埋めようとする焦燥感が戻ってきており、彼の生活は会社のデスクの上で三食ゼリー飲料を食べ、その日の晩には会社の椅子を並べた上で寝るものに戻っていた。プリン山で寝れば、きっとまた例の妖精が助けてくれるのではないかと思った。けれども、藍忘機は見ず知らずの他人で、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。
魏無羨はそうやってひと月ほど耐えていたが、ついに人事から呼び出しを食らい、残業禁止令が出されてしまった。さすがに魏無羨の生活を人事部や管理職が問題視し、魏無羨の業務に何人か人が付いたのである。もちろん彼らは優秀で、魏無羨が少し指示をすれば、それなりの仕事をこなしてくれる。しかし魏無羨にとって、何もしない時間が増えることは例の焦燥感と闘わなければいけない時間が増えることを意味した。
「魏さん、仕事が減ったのにどうして顔色はずっと良くないんですか?」
「ん、そんなふうに見えるか?」
「鏡見てください! 二日酔いより酷い顔ですよ!」
実を言うと、ここ数日はほとんど眠ることができずにいた。何とか誤魔化していたのだが、ついにこの日、あらゆる同僚や部下から勧められて彼は昼で帰されることになってしまった。あれよあれよという間に鞄を持たされ、魏無羨は彼を慕う同僚や後輩たちによってタクシーに詰め込まれた。
「お客さん、どちらまで?」
気の毒そうな表情でタクシーの運転手が尋ねた。どういう訳か、家に帰ろうという気分にはなれなかった。魏無羨は咄嗟にジャケットの内ポケットで丸まっていた小さな紙を取り出すと、そこに書いてあった住所を伝えた。
(社畜俺超有能夫得幸福天天②へ続く)