別れを切り出したのは、シュミットからだった。
「私はお前に相応しくない」
そう告げた時のエーリッヒの、驚き傷ついた顔は今でも夢に見る。
「お前には、幸せになって欲しい」
自分が極度に我儘なことも、優しい彼を振り回していることも、自覚していた。
だから、身を引くことにした。
「本気で言ってるんですか?あなたなしに僕の幸せなんて…」
「エーリッヒには、もっと淑やかな、可愛らしい女の子の方が似合う」
「何言って…」
「今までありがとう。……もう幼なじみに戻ろう」
「シュミット!嫌です、どうして急にそんなことを?」
「幼なじみにも戻れないなら、さよならだエーリッヒ」
「……どうしても、僕はあなたの隣に居られないんですか」
「ああ。私はもう、お前の隣には居られないよ」
「……分かりました」
そうして別れて、程なくシュミットは居を移した。
ちょうど進学のタイミングだったこともある。
そうしてエーリッヒと離れ、空虚な数年の学生生活を経て、シュミットは今、経営者として日々を忙しく過ごしている。
今日は接待されての帰りだった。家の近くまで来て、車は渋滞に嵌った。
「申し訳ございません、シューマッハ様…ルート選択がまずかったようです」
お抱え運転手は、幼い頃からシュミット付きだった者ではなく、この街に引っ越して来てから雇った者だ。だから、シュミットのことを「シュミット坊ちゃん」とは呼ばない。
「いい、気にするな。……明日は休みだし、多少帰るのが遅くなっても構わない」
そう告げてシュミットはぼうっと窓の外を眺めた。
行き交う人々を暫く見ているうち、銀の髪と褐色の肌を見た気がして、ハッとした。
「……エーリッヒ?」
「はい?なにか仰いましたか?」
「……………降りる」
「え!?シューマッハ様!??」
「歩いて帰る。お前も帰っていい」
シュミットは車を飛び出すようにして降りた。
運転手の困惑した声など、耳に届かなかった。
他人の空似に決まっている。
その可能性の方がどう考えたって高い。
なのに、シュミットはさっき目に映った人物がエーリッヒだと確信していた。
エーリッヒを、シュミットが見間違えるはずがなかった。
何年ぶりかに走る。
エーリッヒらしき男が歩いていった方へ。
程なく、シュミットはその男を見つけた。
はぁ、はぁ、と息を切らしながら見つめた貌は、幾分大人っぽくなってはいるが、エーリッヒに違いなかった。
「エーリッヒ……」
シュミットは声を掛けようとした。しかし、声は小さく掠れてエーリッヒには届かなかった。
あんな別れ方をして、どんな顔をしてエーリッヒに声を掛けられるというのか。
一方的に別れを告げて、逃げるように離れた街へ来て。
シュミットがぎゅっと握った拳を胸に当てて立ちすくんでいると。
ふと、本当に偶然のように、たまたま。
エーリッヒの視線がこちらに向いた。
「!」
「………え。シュミッ…ト………?」
エーリッヒは驚いて、確かにシュミットの名前を呼んだ。
駆け出して、その胸に飛びついてしまいたかった。
だが、シュミットの足は動かなかった。
エーリッヒに、恨まれているかもしれない、と。
そう思ってしまって、動けなくなったのだ。
「………エーリッヒ、」
なんとか絞り出した声は情けなく震えていた。
しかしエーリッヒはそれを聞き取ったのか、それともそんなこと関係ないのか、駆け寄って来て、シュミットの目の前で大きく腕を拡げ抱きついてくる。
「シュミット!…ああ、シュミット。お久しぶりです。会いたかった。シュミット……」
「エーリッヒ……エーリッヒ、エーリッヒ」
シュミットはそっとエーリッヒを抱き返す。
エーリッヒは記憶にあるよりも、背が伸びて逞しくなっていた。
「シュミット、今から時間ありますか?あなたと話したい」
エーリッヒは涙声でそう言った。
シュミットも涙ぐんで、「うん。私もだ」と答える。
往来の真ん中で抱き合う男ふたり。
先に我に返ったのはエーリッヒだった。
「すみません……つい、衝動的に。抱きついたりして、ごめんなさい。嫌じゃなかったですか?」
「あ…ああ、大丈夫だ」
シュミットは急に恥ずかしくなり、視線を落とす。
「良かった。僕のマンション、この近くなんです。良かったら、一緒にお酒でも飲みませんか。…僕の家よりお店が良ければ、それでも」
「いや、お前の家がいい」
「じゃあ、行きましょう」
エーリッヒは、酷く嬉しそうに笑った。
シュミットはエーリッヒの後に着いて歩く。
「お前、この辺りに住んでいるのか」
「ええ、何ヶ月か前に、転勤になって。引っ越して来ました。シュミットは?」
「……私の家は、ここから車で5分、てところだ」
「そうですか。………ひとり暮らし、ですか?」
エーリッヒは何気なくを装って訊いたようだ。だが、声音に緊張が見て取れた。シュミットはそれに気づいてしまった。
「………ああ。寂しい独り身さ」
「………そうなんですね」
エーリッヒは歩調を早めた。
先を行かれて表情が読めなかった。
シュミットは大股に歩いて着いて行く。
程なく、エーリッヒの住んでいるというマンションに到着し、ふたりは部屋に入った。
「どうぞ。…何も無いですけど」
几帳面なエーリッヒらしく、きちんと片付けられて整ったリビングのソファに、促されるままシュミットは腰掛ける。
「ビールしかないんですが、良いですか?あなたはワインの方が好きそうですね」
エーリッヒが上着を脱ぎながら笑った。
笑顔が可愛くて、シュミットも釣られて笑った。
「いや、今夜はビールをいただこう」
「では、取ってきますね。ああ、ジャケット預かりますよ」
「ありがとう」
シュミットはジャケットを脱ぎ、エーリッヒに手渡す。ちょん、と指先が触れて、そこが火傷したかのようにびりりとした。
直ぐにシュミットは手を引っ込めたし、エーリッヒも何事も無かったかのようにジャケットをハンガーに掛ける。
意識しすぎなのか……?
シュミットは自問した。
しかし、勢いで着いてきたものの、部屋に女の気配がないことに、シュミットは心底ほっとしていた。
エーリッヒには、恋人は居るのだろうか。
気になって仕方がなかった。
「エーリッヒ?」
「はい、なんですかシュミット?」
呼びかければ直ぐにエーリッヒは返事をした。
それはまるであの頃のままのふたりのようで。
シュミットは胸が甘く痛むのを抑えて、「いや、なんでもない」と誤魔化した。
「ビール、これでいいですか?お気に入りの銘柄とかあります?」
エーリッヒがビールを手にシュミットの傍に戻って来た。
「いや、ビールには特にこだわりはないよ。それに、お前の好きなものなら、きっと私も好きだ」
手を伸ばし、よく冷えた缶を受け取る。
エーリッヒはにこりと微笑み、
「何か食べます?簡単なものしか作れませんが。それとも、デリバリーで何か……」
と続ける。
「いいから、座れエーリッヒ。そんなにもてなさなくていい」
シュミットは苦笑して、ぽんと自分の隣を叩いて示した。
「すみません。僕の家にあなたが居るのが嬉しくて、はしゃいでしまいました」
ふふ、とエーリッヒは赤い頬をして、隣に座った。
思ったより距離が近い。
肩が触れている。
シュミットはくらくらと、まだ飲んでもいないビールに酔った心地がした。
「……エーリッヒ、は、………いま…」
待て。訊いてはいけない。何を訊こうとしている?
頭のどこかで冷静な自分が止める。
いま、恋人はいるのか?
訊きたい、けれど訊いてはいけない。
そうシュミットが葛藤するのに、エーリッヒはあっけらかんと
「いまは僕は独りですよ。恋人はずっといません」
と答えた。
「お前………なんで、」
「シュミットが知りたいことなんて、お見通しですよ」
質問するより早く、答えを返されて驚くシュミットに、エーリッヒは笑った。
「だって僕も、知りたいことは同じですから。……ねぇ、シュミット?あなたは今、恋人がいますか?」
一転して、切なげな眼差しでエーリッヒはシュミットを見詰めた。
「私は………」
「独身って言ってましたよね」
「ああ。……恋人もいないよ」
「……そうですか。良かった」
コトン、とエーリッヒは手にしていたビールの缶を、ソファの前のローテーブルに置くと、シュミットに体ごと向き合って、シュミットの手を両手で握った。
「僕は今でもあなたが好きですよ、シュミット」
「…………!」
「あなたしか考えられない。あなた以外のひとなんて、誰も要らない」
「エーリッヒ、だめだ……」
「あなたに振られてからも、僕はずっとあなたが好きでした」
「エーリッヒ……」
「どうか、もう一度、僕にチャンスをください。あなたとやり直したい。あなたの傍に居たい…」
熱っぽく言われて、シュミットは泣いてしまった。
頬を転がり落ちる涙を、エーリッヒが拭う。
「ダメだ、エーリッヒ。私たちは、もう、恋人ごっこが許される年齢じゃない」
「ごっこのつもりはありません」
「私とお前は、幼なじみの友人だ。そうだろう?」
「でも、これから恋人になる可能性もありますよね?」
苦しそうなエーリッヒを見て、シュミットの我慢は決壊した。
自分のような我儘な男には、エーリッヒは勿体無い。今だって、心底そう思う。
なのに。
シュミットはエーリッヒの胸に飛び込んでしまった。
再会は運命だったのだ、抗えようはずも無い。
「エーリッヒ、私はお前に酷いことをした」
「酷いことなんて、なにもされてません」
「私は勝手にお前と別れるって決めて、勝手にお前から離れたのに」
「でも、こうして今、僕の腕の中に戻って来たじゃないですか」
「エーリッヒ、すまない。私ではお前を幸せに出来ないのに」
「あなたなしに僕の幸せは有り得ません」
「エーリッヒ……」
「愛しています、シュミット」
「エーリッヒ………私も、ずっと…お前のことが、好きだった。忘れられなかった……」
シュミットが泣き濡れた顔を上げると、エーリッヒも泣きそうな顔で笑っていた。
「馬鹿ですねぇ…あなたは」
「ああ、私は馬鹿なんだ。思い知ったよ。どんなに物理的距離を取っても、他の男に抱かれていても、いつでも心の奥底ではお前のことばかり考えてしまっていたんだ」
「会えなかった間、他の男に抱かれたんですか?悪いひとだ」
エーリッヒは苦々しい顔をして、シュミットの頬を両手で包み込んだ。
「でも、あの時あなたをみすみす手放してしまった僕にも落ち度はありますね。寂しい思いをさせてごめんなさい」
そう言うと、エーリッヒはそっとシュミットにキスをした。
シュミットは数年振りのエーリッヒのキスを、うっとりと受け止めた。
「もう二度と離しませんからね。…良いですよね」
エーリッヒのエゴイスティックな台詞も、シュミットには嬉しくて仕方がない。
「一生あなたの隣は誰にも譲りませんよ」
「ああ……エーリッヒ、私も…お前の隣に居たい」
シュミットは、何度も仕掛けられるキスの合間に小さく「好きだよ」と囁いた。
その囁きは、エーリッヒの舌に絡め取られて消えてしまった。
だがしかし、エーリッヒにはきちんと伝わったはずだと、シュミットは確信している。
その夜初めて、シュミットはビールを美味しいと思ったし、数年ぶりに色のついた世界を見た気がした。