とっぷり日が暮れて、しかし夜更けと呼ぶにはまだ早い時間。
「……まだ帰ってくるには早いか…」
時計をチラッと見て、エーリッヒは溜息をつく。
同室で幼なじみで親友、そしてエーリッヒが密かに想いを寄せているシュミットは今夜、ブレットに誘われてディナーに出掛けていた。
ふたりきりで、だ。
「行かせて良かったの?」「なんで許したんだよ」なんて、何人かの外野にイライラと訊かれたが、「他の男とふたりきりのディナーなんて行かないで欲しい」だとか言えるくらいなら、とっくにシュミットにこの思いを告白している。
そうしないのは、シュミットがブレットに惹かれていると感じているからだ。彼がブレットを選ぶのならば、自分はせめて一番近しい友人でありたい。
シュミットはブレットをライバルとして認めているが、それ以上に好意を持っていることは、彼らがふたりで過ごすことが増えるにつれエーリッヒにも察せられた。
今までずっとエーリッヒと一緒だったランチを、ブレットと。シュミットがエーリッヒと過ごす休日は減っていき、ブレットと出掛けたりブレットの部屋で過ごすことが増えて。
シュミットは幸せそうに嬉しそうに、その日ブレットとどのように過ごしたかをエーリッヒに語るのだが、エーリッヒはそれを聞くのが辛かった。
はぁ、とまた溜息を吐いて、気分転換にコーヒーでも、と思ったその時。
カチャッと部屋の扉が開き、シュミットが帰ってきた。
「シュミット!お帰りなさい」
飼い主の帰宅を喜ぶ犬のように、思わず弾んだ声を掛けるエーリッヒ。尻尾があればぶんぶん振っているかもしれない。
「…ただいま」
対して、シュミットは不機嫌だった。
「早かったですね!コーヒー飲みます?それとも、ホットミルク?」
「どっちもいらない。それよりちょっと聞いてくれ、ブレットのやつ!」
ドサッとソファに座ったシュミットは、エーリッヒに隣に座れと目線で示す。
「ブレットと喧嘩でも?」
内心ふたりが上手くいかなかった様子をこっそりと喜びながらも、エーリッヒは心配そうな顔を作ってシュミットの隣に座った。
「ディナーだぞ?ふたりきりだぞ?なのに、こんな早い時間に帰されて!」
ぷんぷんとシュミットはエーリッヒに詰め寄って、頬を紅潮させてブレットの文句を言う。
「ディナーの後、当然なにかあるとこっちは期待するじゃないか?セックスは無理でも、せめてキスくらい、って!」
「セ…………だ、ダメですよ!そんなの!」
「なんで!そういう雰囲気になるなら、してもいいと私は思っていたのに!」
「ダメです!」
エーリッヒがわたわたとしているのを見て、シュミットは乗り出していた身を少し引いた。
「……………お前は私の味方をしてくれると思っていたのに」
シュミットは唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向く。
「味方って。あなたがブレットとセックスするのを喜べと?」
「そうだよ!アイツは私と一線を越えたくはないのか?アイツの理性を突き崩すだけの魅力が私にはないのか?」
「シュミット、あなた、自分の年齢と立場を考えて──」
言いかけて、エーリッヒはハッとした。
あのいつも凛としている、気の強いシュミットの瞳がうるうると濡れている。
「……ブレットと、恋人になりたい?」
そんなこと訊くな、訊いたらこの秘めた恋もお終いだ、そう思いながらもエーリッヒはつい訊ねた。
シュミットはこくりと頷いた。
「アイツのことが好きなんだ」
シュミットはそう言うと、隣に座るエーリッヒの肩にこてんと頭を預けて凭れかかった。
「もう疲れた。どんなに誘惑しても、アイツは絶対に私に手を出さない。クールな顔をして『そういう態度は誤解を招くぞ』って……」
「………ブレットには、他に好きな人が居るんじゃないですか?」
エーリッヒはポツリと、心の内の悪魔に唆されるがままに呟いた。嫉妬でまともな思考が働かない。
「………そうかもな」
シュミットの声が少しだけ震えた。
エーリッヒはシュミットの肩を抱く。そして、甘い声で
「あなたに魅力が足りないなんて、そんなハズないですよ。僕はこんなにも、今すぐ齧りつきたいくらい、あなたに夢中なのに」
と言うと抱き寄せる手に力を込めた。
「エーリッヒ?」
シュミットは弾かれたようにエーリッヒの顔を見る。
一瞬離れかけた身体をエーリッヒは両腕で思い切り抱き締めた。
「ブレットのことは、諦めた方がいいんじゃないですか」
「諦める……?」
「彼は男には興味がないのかもしれませんよ。じゃなければ、あなたに誘惑されて冷静でなんていられません」
「………やっぱり、男同士じゃ上手くいかないのか」
「ブレットとはね。でも僕は違いますよ」
エーリッヒの言葉を、シュミットはじっと抱きしめられるままに聞いている。
「今まで、あなたの気持ちを尊重して、僕の気持ちは押し殺してきましたけど……あなたの想いが実らないのなら、僕も黙ってはいられません」
「エーリッヒ……それは、どういう…?」
戸惑いと、………微かに期待の滲んだシュミットの声音。
「僕と付き合いませんか、シュミット?キスだってセックスだって僕は喜んでしますよ」
シュミットは大きく目を見開き、そしてくしゃりと泣きそうに顔を歪めた。
「同情しているのか?」
「いいえ。僕はずっとあなたが好きでした。あなたを幸せにしたい。あなたが望むことはなんでも全てしてあげたい」
「……そうか。……それもいいかもな。もうブレット相手に頑張るのは疲れた。お前に甘やかされていた方が幸せかもしれないな」
シュミットは溜息をつくような調子でそう言った。
エーリッヒはそっとシュミットの唇に指で触れる。
シュミットは抵抗しなかった。
「キス、してもいいですか」
エーリッヒが訊ねると、返事の代わりにシュミットは自ら唇を重ねてきた。
触れ合った唇はすぐに離れた。
「ブレットに相手にして貰えない、哀れな私を慰めてくれるか?エーリッヒ?」
シュミットはエーリッヒの首に腕を搦めて、媚びるような上目遣いで甘ったるい声で言った。
「もちろん」
エーリッヒはそっとソファにシュミットを押し倒す。
もう一度キスをして、今度は舌を絡め合い、シュミットの服の裾から手を差し入れた。
触れた素肌は滑らかで、あたたかく、エーリッヒは残っていた最後の理性が崩れていくのを感じていた。
「抱いてくれ、エーリッヒ」
そうシュミットは言ったのか言わなかったのか。記憶にない程性急に、エーリッヒは興奮に任せてシュミットを貪った。
翌朝、先に目が覚めたエーリッヒはシュミットの寝顔を見て頭を抱えた。
このままではシュミットが遠くに行ってしまう、ブレットに取られてしまう、ずっと好きだったシュミットが、と、昨夜はカッとなってしまったが、冷静になるとどう考えたってやりすぎた。
まさかシュミットがあんなにも抵抗しないどころか、むしろ進んで脚を開くなんて。
後悔と、歓喜とが、エーリッヒの内でぐちゃぐちゃに混ざって暴れる。
これからの自分たちはどうなるのだろうか。
シュミットはエーリッヒのことをどう思う?
溜息をつきたいような、喚いてしまいたいような、そんな気持ちでいると、隣で眠るシュミットが身動ぎをした。
「ぅ………ん……、…エーリッヒ?…おはよう」
とろんとした、寝起きの無防備な顔をして、シュミットはエーリッヒの名を呼ぶ。
たったそれだけの事に、エーリッヒはきゅうんと酷く甘酸っぱい気持ちになった。
「おはようございます。……身体、大丈夫ですか?」
「……うん?ああ、大丈夫、気にするな。誘ったのは私だ」
「いいえ、僕が殆ど無理矢理………あなたが傷ついているところに付け込んで」
しゅんとするエーリッヒに、シュミットは
「そんなふうに思っていたのか?」
とふふっと笑った。
「どっちが悪いとか、そういうのはナシにしよう。たまたまそういう雰囲気になって、好奇心と性欲に負けてしてしまっただけ。な?」
「…………あなたはそれでいいんですか?ブレットのことが好きなんでしょう?」
エーリッヒはおずおずと訊ねる。
シュミットは少し寂しそうな顔つきになり、
「ああ。好きだよ」
とハッキリと肯定した。
「だが私だって追うばかりでは疲れる。たまには誰かに甘えたくなっても仕方ないだろう?」
「……そうですね」
「これからも、私が色々と溜め込んで爆発しそうになった時は、お前が発散させてくれるか?」
シュミットはじっとエーリッヒを試すように見詰めた。
「それは………これからも、ああいうことを僕としたい、という意味ですか?」
「ああ。…ダメか?」
「………好きでもない僕に抱かれるのは、嫌じゃないんですか」
「好きだよ、お前のことも。……いまはまだ、恋愛の好き、ではないがな」
シュミットは少し眉を下げ、エーリッヒに手を伸ばす。
「私はブレットが好きだが、お前の想いに応えたいとも思っているんだ。でも…この身体を差し出す以外に、お前の気持ちに報いる方法を思いつかない」
「僕は…………あなたの気持ちを手に入れることは出来ないのですか」
「さぁ?それは、これからいくらでも可能性はあるさ」
シュミットは起き上がり、エーリッヒに顔を寄せる。
「今は………ただ甘えさせてくれ。我儘で悪いが」
そうしてシュミットはエーリッヒの唇をちゅっと吸った。
「……あなたがそうしたいなら」
エーリッヒはシュミットの後頭部に手を添えて、朝にそぐわない深いキスを返した。