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    2021/10/20 完成

    ・幼少レノが引きこもりフィに出会って色々衝撃を受ける話

    ・レノ幼少期、家族の年齢や故郷について捏造しており、彼らがモブとして出てきます

    ・モブ悪霊が出てきます

    ・フィガロがモブ魔法使いを石にします

    神様のわがまま(過去編)

     五歳の四月。レノックスは自分に弟か妹が出来ることを知った。冬の厚着の下で母親のお腹はぽっこりと膨らんでいて、動ける今のうちにお産の準備のために女手がある故郷に帰らなければいけないのだという。母親の故郷は隣村ダルリアダ――一日がかりで山を越える向こうにある。家族が離れて暮らすなんて初めてのことだし、そんなことがあるなんて考えもしなくて寂しかったが、三つ上の兄が〈おまえが生まれたときも同じだったよ〉と言い、大丈夫だと励ましてくれたのでレノックスは笑顔で母親を見送った。
     村の男みんなが働きに行く鉱山には、八つになるまで入れない。父と兄が居ない昼の間は、他の子供と一緒になって畑仕事や羊の世話を手伝ったし、村の女衆が代わる代わる家の取り回しや煮炊きを手伝ってくれ、レノックスには出来ることがぐんぐん増えた。
     そのようにして春と夏が過ぎ、年に一度の楽しみである秋の祝祭日を明日に控えた朝に、隣の村から知らせがあった。赤ん坊は無事に生まれ、元気な男の子だったという。レノックスと父と兄とは喜び勇んで山を越えた。母の故郷――つまり、レノックスの祖父とおじとおばといとこたちが暮らす焦げ茶色の家は、温かくて忙しい雰囲気に満ちていた。母と弟の眠る姿を静かに眺めたあとに、レノックスはいとこたちと秋の祭りに参加して、夜はみんなでご馳走を食べた。 
     夜も深まった頃、暖炉の前の気に入りの椅子に祖父は戻り、周りに集まったいとこたちは、遊び疲れて敷物の上でぐっすり眠りこけてしまった。父と兄は離れたテーブルでおじとおばと喋っている。
     レノックスと一対一になった間隙に祖父は突然、昔話を始めた。
    「レノ。儂は一度、強い魔法使いに会ったことがあるよ。おまえ、魔法使いが怖いか」
     レノックスの心臓は、どきりと跳ねた。
     レノックスは、他の人には聞こえない精霊の声を聞き、見えない精霊の働きを見ることができる。それは〈魔法使い〉だからだと両親は言い、このことは家族だけの秘密にしておこうと言った。
    『この村のみんなにとって、魔法使いは悪霊とおんなじなんだ。魔法使いは不思議な力が使えて、人間のようには年をとらない。ずっと同じ姿のままで長生きするそうだ。だからレノ。おまえに魔法の力があることは黙っておきなさい。みんなや、じいちゃんやおじさんたちを心配させるといけないからね』
     レノックスは悲しさと共に頷いた。山谷のあちこちには、ひとや動物を損ねる悪霊が住み着いている。自分がそれらと同じであることは辛かった。
     それにもうひとつ――どうしても消えない不安があった。兄弟がちょっとした喧嘩をしたり、夕飯前に騒いだりする度に、母親は一つの話を繰り返して諫めた。
    『山の精霊は嘘を嫌う。彼らの住処に人間が穴をあけて分け前をもらっているのだから、失礼があってはいけない。おまえたちも父さんと同じく山で働くのだから、本当のことだけを話すようにしなさい』
     兄が初めて鉱山に入る前の晩、それは子供向けのおとぎ話だと父は言い、〈大人の言葉で話すとしたらな〉と笑った。
    『鉱山の真っ暗闇ではひとつの嘘が死に繋がる。みんなが信頼しあってはじめて、深い山の奥底から全員無事で家に帰れるようになるんだ。だからおまえたち、山の中ではどんなときでも真っ正直でいろよ』
     兄は頷いたが、レノックスは頷けなかった。そのままでは泣き出しそうだったから、わあ、と叫んで自分の寝床に頭からすっぽり潜り込んだ。
     嘘を吐いてはいけないと話すのと同じ口で、父も母も兄もレノックスに〈魔法の力があることをよそに話すな〉という。
     魔法使いであることを黙っているのは嘘を吐くのと同じだ。世界は本当に精霊たちの働きで成り立っているのだから、嘘つきの自分が山に入れば、彼らを怒らせるかもしれない。そうしたら、年に一度、空から滑り落ちて地上に寄りついてくる大いなる厄災も彼らに味方して鉱山を押し潰し、みんなを殺してしまうかも知れない。
    〈罰を与えるのなら、嘘をついて人間のふりをしていた俺だけにしてください。父さんや兄さんや、村のみんなは無事に山から返してください〉
     レノックスは未来に不安をいっぱい抱えている。
     だがそんな風に、レノックスが毎晩寝る前に祈っていることを離れて暮らす祖父が知っているはずがないのに、どうして魔法使いの話なんか始めるのだろう。
     訳がわからなくて恐ろしかったけれど、自分以外の魔法使いの話を聞きたい気持ちが抑えきれず、レノックスは答えた。
    「――ううん。魔法使いなんか怖くないよ。じいちゃんはいつ魔法使いに会ったの? 魔法使いって、どんな生き物なの?」
     暖炉の薪がはぜる音に紛れて、祖父は低い声で話し出した。
    「儂がおまえの父さんぐらいの年の頃だから……もう五十年は前だな。魔法使いの見かけは儂ら人間と同じだよ。胴体に頭がくっついてて、手足がある。その魔法使いは三十歳かそこらに見えた。すらっと背が高く、痩せて肌が白くて、良い暮らしをしている男の身なりをしていた。目玉の真ん中が緑色をしているのが、ちょっとぞっとする所だったが、後は人好きのする顔をしてたな」
    「その魔法使いは、何て名前?」
    「さあな。名乗らなかったが何でもオズの相棒だとかで――ある日空からこの村に降ってくると、挽いた小麦粉に羊のつがい、ヤギのつがい、鵞鳥の群れや蜜蜂の巣箱なんかの宝の山を、ぽんと渡してくれたんだ。なんでこんなことをするのかってみんなが遠巻きに見守ってると、そいつは〈つぐないだよ〉と言った。誰も訊ねてないのに、なんで儂らの知りたいことがわかったのかも不思議だったが、とにかく魔法使いが人間に謝ったことに儂らは本当にびっくりした。なんでも、オズに納める税の上前を、麓に住む地主一族がはねていたらしくてね。それを知らずに放っておいたお詫びだって言うんだ。そいつはにこにこ笑っていたが、ふと恐ろしい顔つきに変わると、右手で不思議な光の塊を取り出し、左手で地主の首根っこを掴んでいた。今の今まで、ここにいなかった地主が突然現れても声は出せなかった。その魔法使いが見せしめを行うつもりだってわかったし、現にそいつは儂らの目の前で地主を鞭打って散々に痛めつけた。言うことが、またふるってたな。〈オズの名で脅せばどうにでもなると思ったんだろう? 俺は細かい性分でね。この鉱山がそこまで利益を出さないのをわかってて、こんな重税を課すわけがないんだ〉――あんな調子で、いい魔法使いが上の連中の悪さを見逃さずにいてくれるなら、オズの世も悪くないと思ったが……上手くいかないもんだ」
     レノックスの胸は熱いもので満たされた。話の内容は難しくてわからなかったが、空からやってきた男の魔法使いが悪い地主をこらしめて、祖父を喜ばせたことは汲み取れた。嬉しくて堪らなかった。
    「この話、気に入ったか」
    「うん。山の外にはオズっていう魔法使いと、じいちゃんが会った魔法使いの、いい魔法使いが二人いるんだね」
     祖父は濁った目を丸くした。
    「おまえ、オズがどんなやつかを知らんのか?」
    「知らない。初めて聞いた」
    「……あれは厄災のうつし身だ。オズはこの世で一番力が強くて、一番恐ろしい魔法使いだ。姿を見た者は誰も居ないと言われている。儂が生まれる前からずっと、オズはこの世のすべてを手に入れようと暴れ回ってたんだ。オズの振るう雷が三日三晩止まないこともあったし、山の形が一夜で変わっちまったこともあったな」
     今度はレノックスが目を丸くする番だった。そんなすごい力を持った魔法使いがいるなんて、考えたこともなかった。自分が〈心の中にある、もやもやしたもの〉を用いて自然に働きかけて何かをしようとしても、ものを動かしたり、何かの形を少しだけ変えることしか出来ない。もしもオズみたいに凄い魔法が使えたら、山の外から鉱石を掘り出して、みんなは危険な穴の奥まで下りなくて良いようになるかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなかった。
    「ねえ、じいちゃん。どこに行けばオズに会えるかな」
     祖父はしわがれ声で笑った。
    「おまえ、オズが怖くないのか? 会えばきっと殺されてしまうぞ」
    「でもオズの仲間はいい魔法使いだったんだろ。なら、オズもそんなに悪い奴じゃないかもしれない」
    「会ってどうする」
    「どうしたらそんなに強い魔法が使えるようになったのか、ききたいんだ。鉱石を取り出したり、天気を落ち着かせたり、魔法でやりたいことはいっぱいあるもの」
    「残念だがオズはもう死んどるかもしれんよ。もう十年は経つか……突然、姿を消してそれっきりだ。オズは世界の半分を手に入れて、定めを決めないまま放り出した。おかげで前より何もかもがぐちゃぐちゃだ」
     深い溜息を吐いて、祖父は曲がったまま元に戻らなくなってしまった左の太い指をさする。レノックスには実感がないが、村の寄り合いに連れて行ってもらう度に〈暮らしが厳しい〉話を聞くから、ここでも同じなんだと考えて、祖父の手をそっとさすった。
    「オズに会えないなら、じいちゃんが会った魔法使いでもいいや。魔法使いは、うんと長生きなんだろう。オズは死んでも、そのひとは生きてるかも知れない。そのひとに頼めば、きっと沢山の魔法が使えるようになって、みんなを楽にできるだろ」
    「さあなあ。いつかは会えるかもしれんな。でもな、レノ。誰か一人だけが使える特別な力に頼る暮らしなんてろくなもんにはならんよ。共に暮らす全員それぞれ自分の力を出し合って、互いに支え合うのが一番だ」
     祖父は上着の隠しから、奇妙なものを取り出し、レノックスにそっと握らせた。教会の神父様が下げる首飾りに似ているが、それよりももっとずっと綺麗だった。鉄色の細い鎖に、春の若葉のような鮮やかな緑の四角い石がぶら下がっている。こんな美しいものを目にするのが初めてで、レノックスはうっとりと呟いた。
    「きれい……これ、何?」
     祖父は右手で、レノックスの首にそれを掛けてくれると服の下に押し込み、襟を整えて見えなくした。
    「さっき話した、名前を知らない魔法使いから貰ったものだ。地主がまた悪さをしたらわかるように遠見のまじないをかけてあると言っておったが、ただの人間の儂が持っていても効き目はないようじゃった。これは今日からおまえのものだ。これを大切に身につけていれば、いつかあの魔法使いに巡り会えるかも知れんぞ」
     どぎまぎしているレノックスを落ち着かせるように、祖父はレノックスの頭を大きな手で撫でた。
    「いいかレノ。無理はするな」
    「……?」
    「おまえの力の使い道は、おまえが決めていいんだ。儂たち兄弟だって、力仕事が得意な弟の儂が親父の後を継いで木樵になり、読み書きや計算がめっぽう得意だった兄貴は街へ下りて、猛勉強して公証人になったんだ。それと同じだ。村から出て、外の世界で自分の力を使いたいと感じる日が来たら、絶対に迷うなよ」
     レノックスは驚いた。自分はずっと、この村で暮らしていくのだと思っていたし、父と兄と同じ鉱山で働く未来しか思い描いていなかった。けれど祖父が言う〈外の世界〉と、自分の中にある魔法の力がしっかりと結びついてしまったような気がして、なんだか心細いような、かっかっと熱く火照るような、妙な気分になった。
     祖父は真っ白なひげに隠れた口でにやっと笑い、悪戯を共有するようにレノックスの右耳を軽く引っ張った。
    「ちっと、しゃべりすぎたかもしれん。レノ。儂が、おまえに魔法使いの話をしたってみんなには黙っててくれよ。特におまえの母さんに知られたら大目玉だからな」
     レノックスははっとした。いつのまにか自分が魔法使いだと打ち明けてしまっていたし、それよりもずっと前から祖父は自分が魔法使いだと気付いていて、二人きりの時間に、この話をしてくれたのだとわかった。もっと沢山の、色々なことをじいちゃんと話したい。そう思ったが、いとこたちが起き出してしまい、話はそれきりになった。




     一年が過ぎて、また秋の祝祭日が近付いて来た。首飾りは七つになったレノックスの大切なお守りになっていた。
    〈魔法使いは姿が変わらないまま、人間よりずっと長生きする〉
     聞いた時には何とも思わなかったことが、この頃は恐ろしくなってきていた。
     弟はこの一年で、すっかり大きくなった。
     初めて見たときはしわしわの顔でぐにゃぐにゃしていたのに、母と一緒に家に帰ってきてからこの半年で顔立ちがはっきりしてきたし、最初は寝てばっかりだったのに今ではぷくぷくの手足を動かして、何かに掴まっては、しょっちゅう立ち上がろうとする。
     羊やロバや鵞鳥の赤ん坊は生まれてすぐ自分で立ち、動けるようになるのに人間の赤ん坊は一年経ってもひ弱なままで、だけど守り切って貰ったら、その後は様々なものを作りだし、発見し、活躍をする。人間が生まれて、成長するって不思議なことだとじいんと心が痺れて、お乳をあげたばかりの母親に〈すごいね〉と話すと、母はなんだか泣き出しそうな顔をして、額にキスをしてくれた。
     そのキスで、レノックスは自分の運命を悟った。
     今はまだ子供として、弟として兄として、家族の中にいられるけれど、この中から自分だけが取り残されることになる。どこで見かけの時が止まるのか、それは誰にもわからない。魔法使いの自分だけが子供のまま姿が変わらず、赤ん坊の弟が追い越して先に大人になってしまい――やがて、家族の皆やじいちゃんやおばさんやおじさんやいとこたちも――全員自分より先に死んでいく。誰も居なくなった家に、自分一人だけが家族の思い出と一緒にぽつんと取り残されるのだ。
     そんな悪夢を初めて見た日、レノックスは首飾りを寝間着の上からぎゅっと握り締めた。
    〈助けてください。魔法使いの神様。俺をひとりぼっちにしないでください〉
     今は夢の中だけで済んでも、やがてそれは現実になる。
     レノックスは、祖父たちを助けてくれたという男を、会ったことも見たこともないうちに、教会にいる〈神様〉と重ねてみるようになっていた。首飾りからは勿論、男の気配は少しも感じないけれど、自分以外の魔法使いの存在をこうして感じられることが、日々の暮らしの中でとても励みになっていた。
     
     祝祭日が明後日に迫った朝、レノックスは両親と兄、そうしてもうすぐ一歳になる弟と共に朝早くに家を出た。
     このあたり一帯の山には、鉱山から荷を運ぶ新しい道と、昔々に塩を運ぶために人々が踏み固めて作った古い道がある。村から続く新しい道をしばらく行き、谷へ下りると古い道に出る。両親と、弟をおんぶした兄が先に行く。その三人の背中を見ながらレノックスは歩く。父親に頼んで背負わせて貰った水袋が重たいが、お昼までは頑張り通そうと決めている。服の下には、祖父から貰った首飾りが吊り下げてある。登り道にさしかかると三人との距離が開いて、カーブを曲がられると姿が見えなくなる。置いて行かれてひとりぼっちになった気分になって、きゅうっと胸の奥が痛くなる。早く行こうとして、足が縺れて転んだ。
    「……」
     右の掌と膝を擦り剥いて痛いけれど、頑張って立ち上がる。まるで見えていたかのように母親が戻ってきた。その後から父と兄の顔も見える。三人は、少し驚いたような顔をするが、すぐに母が名を呼んだ。
    「レノ」
     その声で、レノックスは痛みが消えるのを感じた。
    「大丈夫。平気だよ」
    「でも膿むといけないよ。洗って、軟膏をつけときなさい」
     一家は立ち止まって道の端によった。いつも身につけている小さな肩掛け鞄から、母は貝殻に納めた薬を取り出し、水で洗った傷口に塗ってくれる。背中の弟をあやしながら手当を見ていた兄が、ふと背後を振り向いて、あっ、と小さな声を上げた。つられて見やると、西の峰と合流する脇の小道から、見たこともない集団が近付いてきていた。二十人ほどの老若男女の集まりで、いかめしい矛槍を構えた男二人が先に立ち、教会のお祈りの日に見るような、きらきらした旗を掲げた少年がその後に続いている。路傍の石に腰掛けていた父は慌てて帽子を脱ぐと深々と礼をした。家族の皆も黙って、それに従った。ざくざくと足音は近付いて来る。そのうち、吊り香炉を杖のように構えたひとりの老人が母の名を呼び、手を振った。
    「おじさん!」
     母が歓喜の声を上げて応じ、二人は抱き合って喜んだ。レノックスは初めて会ったが、この老人が祖父の兄――前に話を聞いた、街で公証人をやっているひとらしかった。
    「子供たちも大きくなったな。赤ん坊も元気そうだし……そいつがレノックスか。会うのは初めてだな」
    「こんにちは、はじめまして」
     挨拶を交わしたのち、ところで、と老人は母に言った。
    「見たところ、おまえさん方もダルリアダに行くんだろ。祭りの聖体行列のために司祭様がお越しくださったんだ。よかったら儂らと一緒に道案内をつとめてくれないか」
    「ええ! とても栄誉なことです」
     一行はまた歩き始めた。お祈りの時間はほとんど居眠りしている兄がひそひそ声で、レノックスに〈なんのこと?〉と訊いてきた。
    「俺にもよくわからないけど……街の司祭様が山の教会に何年かに一度やって来て、秋の祝祭日のお祈りをしてくれるんだって。そのことかも」
    「へえ。じゃあ、今年はじいちゃんの村がお祈りに当たったって訳か」
     兄は背中の弟をあやしつつ、年の近い旗持ちの少年に近付いて、あれこれ話しかけると、ついには旗を代わりに持たせて貰うことに成功した。父も母も、それぞれ顔なじみを見つけたようでおしゃべりに花を咲かせている。レノックスはなんとなく手持ち無沙汰になって、自然と一行の最後についた。みんなの背中を見ながら歩いていると、後ろから声が掛かった。
    「待ってくれ」
     振り向くと、さっき通り過ぎた木陰から身を乗り出して、金の髪をした若い男が手を振っている。前を行く人々と同じように、男はゆったりとした丈が長い服を着ており、教会の人だろうと思ったレノックスは立ち止まって待った。
     男は大股で近寄りながら、きいきいときしるような声を上げた。
    「ありがとうこんにちは」
     ざああっと、全身の毛が逆立った。
    〈違う! これは悪霊だ!〉
     身構えたがもう遅かった。人間に似て否なるものは目の下に青黒い隈を浮かせ、瞳は黄色く濁っていた。レノックスは踵を返して駈けだした。はははと悪霊は笑い、あっという間に追いついてレノックスの前に立ち塞がった。
    「待ってくれきみの名前はレノックスだろう」
    「……!」
     どうして、こいつは名前を知っているのか。
     レノックスは強く唇を噛んだ。両親から繰り返し言い聞かされてきたことだが、悪霊に名を掴まれてはもう逃げられない。後はお祓いのしるしを切って助かるように祈るだけだ。震える手で右肩に手を置いた途端、
    「やめろそんなものは効かない」
     悪霊が、はっきりした声で言った。
    「俺は地主のゴフおまえが持ってるフィガロの首飾りに用がある」
     すごい力で首根っこが掴まれたと思うと、レノックスの体は崖の上を飛び出して、虚空に宙吊りにされた。
     ゴフと名乗った悪霊は、レノックスを吊す両腕以外は人間の形を棄ててぶよぶよとした真っ黒な塊に変わった。足元に風が吹く。眼下には深い谷がぽっかりと口を開けている。落ちれば体がこなごなに砕けて死ぬだろう。
     死に接した途端、奇妙なことだがレノックスの中にこんなやつに負けてたまるかという闘志が生まれた。 
    「……離せ。俺はフィガロなんてやつ、知らない」
    「うそだおまえ服の下にそれを着けているだろう奴の守護をおまえみたいな弱っちい子供の魔法使いが持っていたって何の足しにもならないんだから俺に寄越せ」
    〈フィガロの首飾りって、じいちゃんのくれたお守りのこと?〉
     考えを読んだのか、ゴフはせせら笑った。
    「そうだフィガロのやつ俺を鞭で打って辱めやがった自分がやったことだってオズの尻にくっ付いて旨味を吸ってあとは無責任に放り出しただけのくせに」
    「……っ……!」
     ぎゅうぎゅうと首が締め付けられる。苦しい息の下、レノックスは確信した。〈フィガロ〉というのは、じいちゃんが語った良い魔法使いの名前で、この悪霊は彼にやっつけられた地主のなれの果てなのだ。
    「その首飾りで何するの」
    「したいことをするのさフィガロの魔力はオズには数段劣るが何だって出来るだけのものはあるここは俺の領地だ俺がまたもう一度この山脈一帯を治めてやるんだ」
     悪霊は嗤った。その歪な笑いに村々を襲う死の影を認めたレノックスは、覚悟を固めた。
    〈させるもんか〉
     ありったけの力を込めてレノックスは悪霊の腕を握った。「離せ!」
     一心を注いで、弾く。レノックスの体は宙に舞った。一瞬、ぴたりと時が堰き止められて破裂する。凄まじい勢いで風がごうごうと耳元を流れていく。うつ伏せになってしまい、あっという間に近付く地面が恐ろしいのに、風圧で瞼がびくびく痙攣して目を閉じることが出来ない。
    「あっ……!」
     レノックスは悲鳴を上げた。追いかけてきたゴフが黒いつむじ風になって、体を叩き付けてくる。より深い谷底へ運ばれていきながら、レノックスは気を失った。




     誰かが傍で見ている。冷たいようで、熱い眼差しが体中に突き刺さっている。ひやっとした指が、喉元に触れて、レノックスは思わず跳ね起きようとし――ごほごほと咳き込んだ。
    「起きたのか」
     乾いた響きが話しかけてくる。これまでに耳にしたことのない、大人の男の声だ。音は頭の中に木霊して、やがてはっきりとした意味をなしていく。レノックスは目を瞠った。自分は粉々に砕けて死んだはずなのに、なんだか様子が変だった。あちらこちらでひっきりなしに雫がしたたり落ちる音と、せせらぎの音がしている。なのに、体の下はごつごつとして痛いしびちゃびちゃ湿っているし、何よりあたりが真っ暗だ。
    「《ポッシデオ》」
     レノックスは訳がわからないまま、大きな叫びを上げた。凄まじい力を前にして、感情の整理が付く前にほとばしり出た悲鳴がわんわんとあたりに反響して降り注ぐ。頭の爪先から足の裏まで串刺しにされたような寒気がして、それからふいに全身の筋肉が解けた。満天の星明かりのように頭上に小さな光がきらめいた。レノックスは自分が、奇妙にねじくれた真っ白でぬめぬめする岩の間に寝かされているのを発見した。
    「きみ、悪いけどさ。しばらくは帰れないよ」
     レノックスにその声は届かなかった。目に見える光景に夢中だった。そのひとは、真っ白な玉座に座っていた。村の司祭よりも長いローブに、毛皮で縁取られた緑色の長いマントを重ね、頭には骨を磨き上げて作ったような純白の冠を被っている。そんな姿をしているひとを指し示す言葉を、レノックスは一つしか知らなかった。
    「かみさま?」
     訊くと、そのひとは小さく笑った。
    「違う。なり損ないではあるけどね」
     それから頬杖をといて、ここへおいでと招いた。
     レノックスは怖々起き上がった。不思議と、体のどこにも痛みはなかった。ただ、軟膏に覆われた怪我の痕だけがそのままになっている。勇気を出して辺りを見回す。どうやらここは巨大な洞窟のようで、吹き付ける氷雪に鎖された木々に似たでこぼこの白い柱が地上から天蓋へ幾柱も立ち並んでいる。地下水が染み込んでくるのか地面はてらてらと濡れ光り、あたり一面は透き通った浅い湖という有様で、ところどころに岩が顔を覗かせている。そのひとはすこし盛り上がった丘陵におり、見えている中では一番細い柱の根元にぼんやりと腰を下ろしていた。レノックスがそこにたどり着くためには、湖を渡らなければいけない。足を差し入れた水面はひやっとするほど冷たかったが、一歩、二歩とふくらはぎまで濡らして進むうちに慣れてきた。
     そのひとがいるところだけは真上から天光が差すようで、近付くにつれて顔と姿がはっきりと見えた。レノックスは迷いなく彼の隣に座った。そのひとは、少し驚いたように両眉を上げたが、すぐに微笑を向けてくれた。
    「災難だったね。どういう経緯があるのか知らないけど、きみは俺のまじないが籠もった何かを持ってるだろう? 作りっぱなしで放っておいても本当はもっと……何とかなる筈なんだけど、このところちょっと弱気になっててさ。だからあんな下賤な輩が手を出したんだろうな」
     目の前の子供に向けてと言うよりも、誰かへの言い訳のように、そのひとは唇を動かした。
     レノックスの心臓はばくばくと鳴った。
    〈すらっと背が高く、痩せて肌が白くて、良い暮らしをしている男の身なり――目玉の真ん中が緑色――〉
     元はとても立派な仕立てなのだろうが、近くで見ると彼の着ているものは、教会の壁に掛かる聖画みたいに古ぼけて痛み、色褪せていた。しかし、あとは祖父から聞いたとおりだった。
    「フィガロ……?」
     強張る舌を動かして、やっとその名を呼ぶ。男は、長い睫毛を瞬かせて、冷たい声で言った。
    「うん。でも、呼び捨てにされるのは好かないな。俺が神様だったら、きみは俺を何て呼ぶの」
    「……フィガロ様」
     よく出来ましたというように、彼はにっこりと頷く。途端、一瞬だけ覗いた殺気は消えてしまった。
    「それで? 君の名前を教えてよ。小さな魔法使いくん」
    「レノックスです。レノックス・ラムといいます。あなたは昔、俺のじいちゃんを助けてくれた魔法使いでしょう?」
     フィガロはいぶかしげに眉を顰めた。レノックスは服の下から首飾りを引っ張り出して、祖父から聞いた話を懸命に説明した。
    「これ、あなたが作った首飾りです。地主がまた悪さをしたらわかるようにって、あなたがこれをじいちゃんにくれて……じいちゃんは〈あなたみたいな良い魔法使いに巡り会えるようにお守りにしなさい〉って、俺にこれをくれたんです」
     フィガロはどこか、上の空のようだった。心配になって綺麗な横顔を眺めていると、やっと彼の目に光が戻った。
    「……思い出した。好みの顔してたから、暇が出来たら遊びに来ようかなって、目印にそれをあげたんだった。きみ、あの人間の孫なんだ。じゃあ、きみに取り憑こうとしてたのは、俺があのとき痛い眼に遭わせたやつのなれの果てかな。人間が使う古い道具に身を隠して、力あるものの傍に近づける日を待っていたんだろうね」
     出来事がかちりと繋がった。悪霊に襲われて死ぬしかなかった自分を、このひとが助けてくれたのだ。
     レノックスは息せき切って答えた。
    「そうです。あいつは、ゴフって名乗りました。この首飾りがあれば、したいことが出来るって」
     フィガロは難しい顔をして、口を覆った。
    「……しまったな」
    「あいつ、逃げましたか」
    「いや? 消したよ。木っ端霊の分際で俺のまじないを欲するなんて、甘く見られたもんだと腹が立ってさ。根源素から殲滅してやった。そんな図々しいこと言ってたなら、もっと苦しめてやればよかった」
     はあ、と彼はいかにも無念そうに溜息を吐く。
     レノックスは目眩に襲われた。聞き慣れない言葉が沢山出てきたが、あの悪霊がこの世のどこにもいないこと――存在の根本から消滅しつくされてしまったことはわかった。
    〈どういうこと? このひとは良い魔法使いじゃなかったの?〉
     色々な思いで頭がぐらぐらする。自分も家族も、育てた家畜や猟の獲物など多くの命を奪って生きている。だけれど、その〈殺し〉には敬意があった。感謝のお祈りをして、糧としてありがたくいただく。
     命を奪うとはそういうことだと思っていたのに、悪霊のゴフもこのひとも、命の維持とは全く無関係の――自分の思いや感情だけで動いて、相手の命を奪っている。
     今更ながら、レノックスはぞっとした。悪意や敵意は自分の生活にはないものだったのに、ゴフもこのひとも当たり前のように力を使って、殺害をやり遂げている。
    〈ひとごろし〉
     そんな恐ろしい言葉が頭に浮かんで離れなかった。
     ふいとフィガロが顔を上げた。
    「だからね、外に戻ると人間たちの記憶が書き換わってると思うよ。〈地主のゴフ〉なんて言っても、もう誰も覚えちゃいないからきみも黙っておいた方が良い。悪い魔法使いに幻覚を魅せられてるって、騒ぎになるだろうからね」
    「……あなたは、本当に良い魔法使いなんですか」
    「そんなの名乗ったこともないから知らないな。ただ、俺は優しいから俺を敬い慕ってくるやつは大事にしてあげるし、さっきみたいに偶然、弱い魔法使いの命を救うこともある」
    「俺が殺されかけていたから、助けてくれたんじゃなかったんですか」
    「ううん? 俺のまじないを相手取って雑魚が何かやってるなーって、そっちに気を引かれただけだよ。第一、何もかもが嫌になってここにいるんだから、たかが通りすがりの魔法使いに情熱を燃やせるわけないじゃないか」
     レノックスは首飾りを外すと、彼の手元に置いた。
    「助けてくれてありがとうございました。さようなら」
     丘を滑り降りて、また浅い湖を渡る。このひととはもう一緒に居たくなかった。彼の目を遮るべく岩の影に隠れる。もたれると力が抜けて、ずるずるとしゃがみ込んでしまった。
    「……っ!」
     熱い涙が次から次に零れてくる。突如いわれなき悪意をぶつけられ、殺されかけた恐怖と憧れの魔法使いへの幻滅、家族とはぐれた不安と、ここが一体どこなのかわからない絶望。一緒くたに様々な感情が襲いかかってきて、何が一番辛いのかもわからないまま、声を押し殺してむせび泣く。
    「あのさ」
    「ッ……な……んですか?」
     しゃくり上げを必死でこらえて、レノックスはぼろぼろの泣き顔を上げた。いつの間に水面を越えたのか、フィガロが少し離れたところに所在なげに立っていた。
    「さっきも言ったと思うけど、きみ、この洞窟からは出られないよ。俺が、俺自身を封じる魔法を掛けて閉じこもってた所に、きみが落っこちてきた図式なんだよな。だから……まあ、長くて五百年ぐらいはここで一緒に過ごすことになるかもね」
     そんなの初耳だった。あまりのことに心が耐えきれず、骨がばらばらに砕け散りそうな気がした。嘘、と呟いて立ち上がろうとするが、足が縺れて転んでしまう。咄嗟についた掌に、鈍い痛みが走った。
    〈かあさん……〉
     母親が塗ってくれた軟膏の香りがまだ微かに残っていて、レノックスを勇気づける。泣いて落ち込んでいても仕方がない。はやく皆の元に帰るために、なんとかして出て行く道を見つけなければいけない。
     レノックスは立ち上がり、フィガロに向き合って交渉を始めた。
    「困ります。うちにはまだひとつになったばかりの弟がいて、母さんを手伝って面倒見てやりたいし、来年には俺、父さんと兄さんと一緒に山に働きに行くんです」
    「へえ、そうなんだ」
     無関心なのを隠そうともしない相づちだった。
     レノックスは必死に言い募った。
    「助けてくれて本当にありがとうございます。でも、このままここに閉じ込められるなんて、とっても困るんです。落っこちてきて中に入ったんなら、吹き飛ばしてくれれば外に出られるんじゃないですか?」
    「きみ、魔法の仕組みを知らないの?」
    「知りません。俺以外の魔法使いに会ったのは、あなたが初めてなんです」
     フィガロは長々と溜息を吐いた。
    「……仕方がない。じゃあ特別に教えてあげる」
     そう言って、彼は不思議な言葉を唱えた。
    「《ポッシデオ》」
     途端、真っ白だった洞窟が夜闇の深い藍色に鎖される。ふわっと体が持ち上げられ宙に浮くが、悪霊にされた宙吊りと違って微塵も恐怖は感じなかった。まるで満天の星空の一部となってみなを照らし、また自らも世界に包まれているみたいだった。
    〈なんだろう。こんなに気持ちがいいの、初めて……〉
     一番寒い冬の日に凍えながらも作業を終えて、父が淹れてくれたとっておきのお茶を呑んだ時、体の奥からじんと温まってくる。あのぽかぽかとした気持ちよさが、何百倍にもなって指先から髪の毛の先まで、行き渡っている感じがした。うとうととして瞼が塞がっていく。絶対に安全で自分を癒やしてくれる、柔らかくて温かいもの。それを求めて、唇が疼いた。
    「言葉で説明してもわからないだろうから、これからきみの心に直接流し込むよ。嫌なら今のうちに拒みなさい」
     レノックスはぼんやり、目を開いた。薄らと光を纏ったその人は左手に奇妙なものを構えている。聖画の神様が持つような、オーブに似ていた。
    「魔法使いの、かみさま?」
     レノックスは手を伸ばし、欲しいものを掴み取ろうとした。
    「だから違うって……」
     後はもう意識がはっきりしなかった。凄まじい勢いで夢を続けて見ているようだった。不思議な光景が次から次に頭の中に広がっていった。世界の成り立ちや精霊たちの存在、これまでふんわりとしか感じとれなかった一つ一つの要素が、くっきりとした輪郭を持ち、知識として生まれ変わっていく。
    〈あっ……〉
     雪崩れ込んでくる知恵の背後に、ちらちらと子供の姿が垣間見えた。自分と同じような年頃の、随分古めかしい服を着たその男の子はひとりぼっちで、雪原に立っている。
    〈どうしたの。さびしくはないの〉
     そう訊こうとして、世界が弾けた。
    「……上出来だ」
    「…………わあッ!」
     びっくりして立ち上がろうとしたが、力が抜けて駄目だった。母親に抱かれて乳を飲むときの弟みたいに、座り込んだフィガロの胸の中に抱かれている。それが恥ずかしいのと、知らないひとと体をこんなに近づけている戸惑いと、それが怖くもないしむしろ気持ちが良いことへの混乱がレノックスの心臓を早鐘のように打たせた。
    「はい、おしまい。今ので、魔法使いって何なのかがわかっただろ」
    「……」
     レノックスは答えられなかった。彼は生きている。自分と同じように唇や舌が言葉を紡ぎ、歯が見えて、喉が上下にうごく。間近で見る彼の顔は遠くで見るより生々しいけれど、レノックスがよく知る大人の誰とも違った感じがして、どきどきした。
    「……ほら。下りなさい」
    「ごめんなさい」
     ほうっと熱い吐息が口から漏れた。気付けば洞窟はまた白々とした濡れ岩に戻って、フィガロはまた元のように冷え切っている。
     レノックスは新たに与えられた知識を懸命に探った。
     魔法は心で使うもの。
     そうしてフィガロは、ここに魔法で自分を閉じ込めているという。それならば――
    「フィガロ様。俺に、あなたの話を聞かせてください。どうして、あなたは自分のことが嫌いになってしまったんですか?」
     立ち上がったフィガロは体から塵を払うような仕草をした。
    「いきなりだな。何?」
    「ごまかさないでください。聞こえたでしょう」
    「曲解が過ぎるから、びっくりしたんだよ。自分のことが嫌いだなんて言っちゃいないよ? なんだか全部が嫌になっちゃったなーってだけで」
    「フィガロ様がわかっていないだけで、そういうことなんです。何もかもが嫌になって、自分で自分のことを閉じ込めるなんて、あなたは自分のことが嫌いになっちゃったんですよ」
    「ふうん。鄙育ちにしちゃ、すました考え方をするんだね」
    「お願いです。俺にあなたの話を聞かせてください。それで、どうしたら自分を嫌いじゃなくなるのか一緒に考えましょう。そうしたら、こんなところに閉じこもらなくてもよくなって、魔法も解けるでしょう?」
    「あ、そう。結局は自分のためなんだ」
    「俺は家に帰りたいんです」 
    「そのために、きみは俺を曝いて血まみれにするの?」
    「……しませんよ? そんなひどいこと」
     何を言っているんだろうと思った矢先、フィガロが再び不思議な球体を取り出した。夢の教えを経たレノックスは悟った。あれは魔道具のオーブだ。金属の帯で取り巻かれるそれは、春の青い川面を閉じ込めたみたいにきらきらと輝いている。
    〈きれい……〉
     思わず見入っていると、ふいに青白い輝きが増して、フィガロが姿を消した。
     呆然とするレノックスの耳に、ひたひたと遠ざかっていく足音が届いた。
    「待って!」
     レノックスは慌てて岩の向こうへ回り込んだが、そこに彼の姿はなかった。静まりかえった洞内に、したたり落ちる雫の音がこだまする。音の連なりは、無限に広がる水紋のようだった。追いかけていこうとして、洞に差し込む光が弱まりつつあるのに気付く。もうすぐ一日の終わりがやって来るのだ。
    「……」
     光が消えれば山の夜と同じ――いや、生き物の気配がないだけ、洞内はもっと深い闇に包まれるだろう。むやみに歩き回るのは危険だ。せめて乾いた場所に横になりたいと、辺りを見回す。結局、フィガロが最初に居た場所しかなくて、レノックスはまた足を濡らしてそこへ戻った。興奮と緊張が山を越えると、後には疲労と空腹がやって来る。
    「お腹空いた……」
     襲われたときに水の革袋を落としてしまったらしく、背負い紐しか残っていない。みんな、お昼に困っただろうなとレノックスは申し訳なく思った。
    「父さん……母さん……」
     家族のことを思うと新しい涙が浮かんでくる。朝、普段より少し早起きをして、みんな揃ってご飯を食べたときには、こんな目に遭うなんて思いもしなかった。今頃はじいちゃんの家で、去年と同じように楽しいお祝いをしていたはずなのに。
    〈だめだ。泣いたって、何にもならない〉
     顔にぎゅっと力を入れてすすり泣きを止め、どうしてこんなことになったんだろうかと、ひとつひとつ思い返していく。
     あの山道を歩いていたこと。
     司祭様の一行と出会ったこと。そうしてゴフ――。
     フィガロは言った。
    〈人間が使う古い道具に身を隠して、力ある物の傍に近づける日を待っていた〉
     きっと、やつは行列の聖器物に紛れていたのだろう。
     石を右手にぎゅうっと握り締める。まるで内側に意思ある光が潜んでいるかのように、きらきらひかるフィガロのお守り。今更ながらにぞっとする。
    〈もし、これをじいちゃんが持ったままだったら――〉
     村にたどり着いた悪霊は、祖父を殺したに違いない。俺が持っていて良かったと、それだけが救いのようでほっとする。そうして悪霊がレノックスの名を呼んだのは、あの場での会話を聞かれていたからだろう。こうなったのは誰かのせいじゃない。フィガロだって巻き込まれただけ――そもそもは祖父たちを苦しめていたゴフの逆恨みという奴なのだ。
     レノックスは、はっとした。
     フィガロの冷たい口ぶりとここから出られないという言葉に動揺し、絶望して問い詰めてしまったけれど、あのひとからすれば、自分は厄介者に他ならない。
     なんというか、うるさい蠅を追い払おうとしたら横を飛んでいた虫まで一緒に叩き落としてしまったようなものだろう。それでも彼は、のたうつ羽虫を押し潰さずに居てくれた。目が覚めたときに傍に居てくれたし、どういうことになっているのか事情や仕組みを教えてくれた。
    〈あのひとは、俺を困らせようとしたわけじゃないんだ〉
     なのに自分は、あのひとを責める気持ちばかりをぶつけてしまった。誰にも話したくないことだって、いっぱいあるだろうに。
    〈ごめんなさいって、謝ろう〉
     明日の朝、日が出たら探しに行こうと決心し、レノックスは残照の中で注意深く水面を観察した。奇怪な岩からしたたり落ちる雫に気をとられていたが、よく見ればこれは地下から湧き出る泉のようだ。両手に掬って一口啜ると、村の水より硬質だが、冷たくて美味しかった。
     空腹を見て見ぬ振りをして、フィガロが元居た場所に横になる。日は落ちて、雲のない夜なのか星明かりが瞬いていた。
     広い洞内にひとりきりの恐怖と寂しさを紛らわそうと、大きな声で独り言を呟く。
    「何もかもが――自分のことさえ嫌になって、自分を閉じ込めるって、どういうことなのかな」
     レノックスにはその感覚はまったく理解できない。自分の心は自分の体の中に居心地良くおさまっていて、自己を好悪の対象だと捉えたこともない。彼は否定したが、フィガロの言葉と行動をまとめると、〈自分が嫌い〉だという以外に言い表しようがなかった。魔法使いは長く生きるというから、その分、自分というものを他人を見るのと同じ目つきで眺めるようになるのだろう。それで好きか嫌いかが浮かび上がってきたときに――
    「自分のことが嫌いなら、フィガロ様はずっと苦しいままなんだろうな」
     逃れられないものとずっと共に在り続けなければいけないのなら。それはもう、牢獄に繋がれているのと同じだ。
    「……そうでもないさ」
     声と共に光が差し込んだ。びくっと体が震える。泉の向こう側に、オーブを宙に浮かせてフィガロが立っている。戻ってきてくれたのだ。彼が手を振るうと、レノックスの体は宙を運ばれ、彼の隣に立たされた。
     さっきのことを詫びる間もなく、フィガロは何事もなかったかのように動き出した。
    「きみ、腹が空いてるだろう。向こうにマナ石を用意したから食べるといいよ」
    フィガロが怒っていない様子なのにもびっくりしたし、彼が自分を気遣ってくれているのにもびっくりした。けれど耳にした〈石〉の響きが強すぎて、レノックスは言葉をそっくり返してしまった。 
    「まないし?」
    「そう。魔力を持って生まれたものは死ぬと石になる。それがマナ石。魔法使いは人間のような糧を摂らなくても平気でね、マナ石を食べるだけでも生きていけるんだ。俺ぐらいの年になると、そんなに食事を必要としないんだけど、きみは本当の本当に子供だから、すぐにお腹が空くだろう」
    「石を食べるんですか?」
    「そう」
    「どうやって?」
    「うーん……感覚的な物だから説明が難しいな。まあ、挑戦してみたら? 餓えて死ぬよりましでしょ」
    「ありがとうございます……。あの、フィガロ様」
    「ん?」
    「さっきは、ごめんなさい」 
     気にしていないというように彼は首を小さくふった。オーブに照らされて、滑る地面に気をつけながら狭隘な通路ののぼりくだりを繰り返す内に、レノックスはふと足音がひとつだけなのに気付いた。ぎょっとして眺めれば、フィガロの体は小さく浮いている。彼は肉体の動きでなく、魔力の働きで進んでいるのだ。
    〈すごいなあ。魔法使いって何でも出来るんだ〉
     じっと見ていると、フィガロがふいに振り返った。
    「魔力を自分に使って、回復したりは出来るのかい」
    「いいえ?」
    「その割に、泣き言を言わないんだな」
    「お腹は空いていますけど、まだ大丈夫です」
    「体が強いんだね。いいことだよ。そういえばきみのおじいさんも逞しかったものなあ。あのひと、まだ生きてるの?」
     返事をした途端、フィガロの体がぴたりと止まった。
    「はい、どうぞ」
     指し示されたのは、上から匙を突っ込まれ、抉られたようにぽっかり開いた空間だった。隆起の少ない地面に何かがきらきらと散らばっている。レノックスは促されるまま輝きに近寄り、背筋を凍らせた。フィガロのオーブが煌々と照らすのは、くたくたと横たわるひとの抜け殻だ。村には時折、一夜の宿を求めて商人がやってくる。その彼らが好むような旅装が一式、中身を失って転がっていた。あるべき頭や手足の代わりに何色とも言いがたい欠片が砕けて、魔法の光を乱反射している様は、ぞっとする悪夢のようだった。
    「これ……人の形をしていませんか」
    「そうだね。俺が開けた穴から上手いこと落っこちてくれて、潰れて死んだから良い具合にそのままの形で残ってる」
     そう言ってフィガロは、天井に開いた穴を指さす。まるで罠に掛けた獲物を回収するような口ぶりだった。しゃがんだ彼は、小さな欠片を拾いあげた。
    「これなんか良い大きさじゃない? 召し上がれ」
    「フィガロさま……? この石……」
     先程聞かされた話が頭をがんがんと駆け巡って、続きがどうしても言えない。にっこり笑って、フィガロは言った。
    「そう。さっきまで生きていた魔法使いのなれの果てだ。マナ石は、魔力を持ったものの死骸って言ったでしょう」
     彼はつまんだそれを口に運ぶと、ざりざりとかみ砕き、喉を動かして呑み込んだ。
    「ほら、こんなにも美味しい」
     破砕鎚を頭に叩き付けられたようだった。悪霊に襲われたときよりも酷い苦痛に襲われて、レノックスの気は遠のこうとした。
     あははとフィガロは笑って、レノックスを片腕に抱いた。
    「だめだよ。きみのために獲ったんだから、せめてひとくちは食べてくれないと……命を食べるときは感謝するんだろ? それがないと悪霊と同じの〈ひとごろし〉だってきみ、思っていたんじゃないのかい」
     安心してよ、と彼は囁く。
    「これもゴフと同じようなものさ。このあたりを根城にしてる山賊の一味だ。他者の命を奪う生業だから、自分が殺されたって文句は言えない。俺のまじないに引っ掛かったのが運の尽きだね。まずはこれぐらいあれば、きみの魔力なら……まあ、十年は持つんじゃないの?」
     ぐいぐいと石が唇に押し付けられる。レノックスは絶叫した。
    「いやだ……いやです! 食べられません!」
     叫んだ弾みで切片で唇が切り裂かれ、血が滴った。
    「……頑固だね」
     レノックスの血で指を汚したフィガロは横を向き、いかにも不味そうに何かを吐き捨てた。
     見たくなくても視線がそちらに流れてしまう。かみ砕かれた石の輝きは失われ、灰のように白くなっていた。
    「まあいいや。気が向いたら食べると良いよ。口に含みさえすれば、どうにでもなるからさ」
    「……」
     レノックスは痛いほど目を瞠り、はあはあと荒い息をついだ。ぽうっと淡い緑の光が触れて、唇の傷が癒やされていく。
     言葉が出てこない。このひとの気持ちがわからない。
     親切にしてくれて、同時に、酷く傷付けようとしてくる。
    「お節介を言うよ。早く、人間の枠から離れなさい。魔法使いは人間とは違う〈いきもの〉だ。人間から生まれてきて、外見はまるで同じだけれど、いきる仕組みが全く違う。魔法使いとしてこの世に生まれ出る命に法則性はない。不条理な運命、はずれのくじみたいなもんだ。きみの魔力は蟻のようにちっぽけだけど……それでも、いつまでも人間のつもりで居たら辛くなるのはきみの方だよ」
     それからね、と彼は腕の力を強くした。いつのまにか彼の片手には、あの首飾りが握られていた。
    「戦うこと、敵を打ち倒すことにもさっさと慣れるんだな。きみは、いい家族のもとに生まれた。だからこんなにも健やかで前向きだ。でも敵はどこにでも居る。村を守るフィガロの首飾りはもう消えた。きみが、今のような自分で居続けたければ〈魔法使いの自分〉を受け入れて、魔法の腕を磨くしかない。ひとごろしにならなければ、この世で生きてはいけないよ? 今の人間の国はどこもかしこもぐちゃぐちゃで、俺が知る限りじゃ一番最悪な世の中だ」
    〈だって、俺と一緒にこの世を統べるはずだった王様が、最後に全部を放り出しちゃったからね〉
     付け足しのように、そう聞こえたのは気のせいだったろうか。
     額に冷たい口付けが降る。心臓をきりきりと縛る痛みがふうっと消えて、レノックスはその場に倒れた。ふわっと、重たいものが被さる。色褪せたマントを寄越し、フィガロは歩き去った。
    「じゃあね。いつかまた、俺と話したくなったら名前を呼ぶといい。気が向いたら来てあげる」
     今度は、かつかつと硬い足音がした。
     レノックスはしばらくそのまま仰向けに転がっていた。月に雲がかかって、あたりが真っ暗闇になる。天井は高い。滲み出る水に濡れて岩盤は滑りやすく、よじ登るための足がかりもない。挑戦は出来るが、その先には死しか待っていない。掛けて貰ったマントは温かい。でも、このままでは、自分は餓えて死ぬだろう。
     今はマントよりも石よりも、人間と同じ食べ物が欲しいのに。
     フィガロはわざと、レノックスが欲しいものとあべこべのものを置いていったのだ。そう言葉にしなくても、明確に意図を伝える術をあのひとは持っていた。
     レノックスはマントの縁をぎゅっと握り締めた。
     全く新しい感情に全身が打ちのめされていた。
     あのひとのことが、わからない。
     いいひとなのか悪いひとなのか、優しいのか意地悪なのか。どちらでもあるようで、どちらでもない。風の強い日の湖面みたいに、目に映る姿はちっとも一つに落ち着かない。無意識で開けたり開いたりを繰り返していた拳を、きつく握り締める。この体にある魔力を、フィガロは〈蟻のようにちっぽけ〉だと言った。たったそれだけの力のために悩み、こうして家族と離れて地下の洞穴に転がっている自分は何なのだろう。
    〈俺が死んでもマナ石になれるんだろうか〉
     そうしたらあのひとはどうするか。口に含んで、さっきみたいに食えた物じゃないと吐き捨てるのか。嗤って石を蹴飛ばすのか、それとも何か言葉を掛けて、最後まで呑み込んでくれるだろうか。
     腹が絞られるように鳴り、甘い感傷を吹き飛ばした。
    〈とにかく、生きなきゃ〉
     まばらな星明かりの下、レノックスはひたすらに考えた。フィガロが最初に居た場所もそうだが洞窟内に開いた穴は文字通り、外と繋がっている。自分が引きよせられたことと墜落させられた魔法使いの例を見るに――〈出られない〉というのはフィガロが行使する〈出て行かせない〉というまじないの制限のためで、外から内へは入ってこられるのだ。
    〈それなら、試してみよう〉
     いつのまにか眠ってしまい、長い夜が終わった。
     マントを肩からずり下げたレノックスは壁に手を突いて起き上がり、じっと空を見上げた。かすかだが、鳥のさえずりが聞こえる。ゴフに襲われたときのことを考えると、吹き飛ばされた山道から遠く離れたとは考えにくかった。この洞窟はきっと見知った山谷の中にある。
    〈今の時間、空にいるのは何だろう〉
     心を整えて集中する。フィガロがもたらしてくれた夢の教えに従って、ひとつの願いを練り上げる。
     鳥。この洞窟の真上を飛び、やって来る群れ。それを、食べる。
    「落ちろ!」
     明確な殺意を空へ放つ。しばらくの空白の後、はらはら、ひらひらと命を奪われた小鳥たちが落ちてくる。レノックスはフィガロのマントを広げて掲げ、仕留めた四羽のツグミを受け止めた。
    「……ごめんね」
     詫びて、今度は石になった男の衣服を手に取り、拾い集めたマナ石を包む。自分のために殺されてしまった男の命。それを食べることが出来ないから、食べ慣れた鳥を新しく殺し、食べ慣れない形――自分と同じひとのかたちをしていた魔法使いのなれの果ては、見よう見まねの埋葬で丁重に弔おうとする。岩盤は固くて掘れないから、せめてもと岩陰に隠し置く。
    「あなたがどんなひとだったのか、俺は名前も知らない」
     心の中で何度も詫びて、古びたベルトに吊り下げられていたナイフを包みの上に置き、墓標代わりにする。
    〈本当に人殺しなら行き着く先は地獄だろうけど――せめて、真実を知る神様の元へいけますように〉
     お祈りをして、レノックスは立ち上がった。
     脇によけていたツグミ包みのマントを抱えて、フィガロの名を呼んだ。
    「フィガロ様、どこにおいでですか」
     しいんと静まりかえった洞窟の中でしばらく待つ。
    「フィガロ様!」
     答えがないから何度も読んだ。
    「……何?」
     気怠げな声を纏わり付かせて、ふわふわとオーブが飛んでくる。理屈はわからないけれど、それを通して会話が出来るのだとレノックスは直感で悟った。
     彼はオーブの向こうで機嫌を悪くして、それよりももっと驚いている。彼の言葉でずたずたに切り裂かれてしまい、動けなくなっている姿を想像していたのだろうと、レノックスは考えた。
     もちろん刺さった棘は痛い。呪いのような言葉だって重たくのしかかっている。けれど、痛みにうずくまって餓えて死ぬより、思いついたことを全部試して――石にされる方がましだった。
     レノックスは力を振り絞り、大きな声を出した。
    「おはようございます。教えてください。魔法で火を起こすには、どうしたらいいんですか?」
    「火? 寒くはないはずだろ。俺のマント、どうしたの」
    「使わせて貰っています。だけど、ツグミを仕留めたので腐らないうちに焼いておきたいんです」
    「……そっちに行く。待ってて」
     言われた通りに待っていると、昨日歩み去った方向から、フィガロがよろめき歩いてきた。高くあがった日が、彼から影を奪って、硬質な顔の白さを照らし出していた。
    「何やってるの」
    「狩りをしました。やっぱり……石を食べることは出来ません。ごめんなさい」
     そう言って、マントを広げて獲物を見せる。指す前から、フィガロは男の〈墓〉を見つけていた。灰色と緑の目が、きゅっと細くなる。マントに乗ったツグミの死骸と墓を代わる代わる見て、彼は、小さく吹きだした。
    「きみ、頑固だなあ。オズの小さい頃にそっくりだよ。もっと楽にやっていける方法はいっぱいあるのに、絶対に自分のやりたいことを曲げなくて――自分が正しいと思うことをやり抜くんだ」
     笑い声は次第に大きくなった。レノックスはどきどきとした。〈オズ〉というのは、祖父から聞かされたあのオズのことで――そうしてフィガロがオズを語るときの声は、兄が、自分との間にあったことを夕飯後の暖炉の前で父や母に語って聞かせる調子と同じなのだ。
     声は嬉しさと喜び――好意と愛に塗れている。
    〈オズのことが、フィガロ様は好きなんだ〉
     不思議さと、こんな顔でこのひとは笑うんだと言う驚きで胸が一杯になる。このままずっと、この顔のままで居て欲しいと思うがフィガロは〈あーあ〉とあくびのような声を上げて、目尻を拭った。
    「面白かった。こんなに大きな声で笑ったのは久しぶりだ。さて……火の魔法だったね。レノックス、呪文は何にしたの」
     どうやら怒りは解けたらしい。レノックスは端的に答えた。
    「ないです」
    「なら、この鳥はどうやって仕留めたの」
    「教えていただいたように心を集中させて、石をぶつける感じでやりました」
    「へえ。動きに魔力を乗せたのか。……変わってるな」
     言いながら、屈んだ彼は後ろから抱き込んでくる。レノックスの両腕は、温もりのない細長い手に掴まれた。
    「じゃあ、特別に俺の呪文に触れさせてあげようかな。きみは体の動きで魔法を制御するのが得意そうだ。力の流れがわかれば、呪文がなくても火の精霊を使役出来るはずだよ」
     彼が耳元で囁く。抱きしめられて夢を授かったのは昨日のことなのに、短い一夜と朝の内に色々な面を知ったためか初めてみたいに鼓動が跳ねた。
    「《ポッシデオ》」
     上腕から指先に熱気が伝わり、空中に炎が巻き起こって、濡れた地面を乾かしていく。
    「きみの考える焚き火って、どんなものだい」
     指示されるがまま、レノックスは火を守る工夫を思い出していった。燃やす薪もないのに、石積みに囲まれた不思議な焚き火ができあがる。見届けて、フィガロはさっと体を離した。
    「良い出来だ。精霊の働きだけを再現してる炎だから、空気の通りがある限り燃え尽きる心配はしなくていい。火の精霊たちは水と相性が悪い。火を消したいときはまた俺に頼みなさい」
     咄嗟にレノックスは、彼の腕を掴んだ。
    「フィガロ様! 一緒に食べませんか」
    「……その鳥を?」
    「はい。ツグミの丸焼き、美味しいですよ。ええと……」
     頼む前に、まるで心を読まれたように、切っ先の鋭い焼き串が石積みの周りに並んだ。
    「ありがとうございます」
    「どういたしまして。せっかくだから、ご馳走になっちゃおうかな」
     レノックスは急いで羽根をむしり、串で身を裂いて内臓を取り出した。炎の勢いが良いせいか、肉の焼ける良い匂いがするまで、あっという間だった。改めて食べ物を前にすると、空腹が強烈に意識されてくらくらする。
     祈りを早口で済ませ、レノックスは獲物に齧り付いた。脂と香ばしい肉の味が口の中いっぱいに広がる。おいしい、おいしいとそればっかりになって味わっていると、食べ慣れないのか、フィガロは端の方ばかりに齧り付いていた。
    「骨がうまく外れる場所があるんです。こうやって先に手の部分を外して……両端を持てば、ぱきっと折れて肉が剥がれやすくなります」
    「はは、ありがとう。丸かじりなんて初めてだから助かるよ」
    「いつもはどうやって召し上がるんですか?」
    「うーん……俺の世話をするひとたちが下ごしらえしてくれてたんだと思うけど、骨から肉が外されていて、細かく切ってあったかな」
     びっくりしてレノックスは手を止めた。
    「フィガロ様は、王様か貴族のお生まれですか?」
    「そういうんじゃないさ。ただ、何も知らない人たちに、神様みたいに扱われてただけだよ」
     不器用ながら教えたとおりに骨を外した彼は、小さく肉を噛み切った。
    「うん。弾力があって……複雑な滋味だ。この手のものは久しぶりだけど、案外いけるもんだね」
     レノックスが二羽食べ終えても、フィガロはまだ最初の一羽を味わっていた。
    「きみの獲物だ。きみが食べなさい」
    「……はい」
     がつがつしすぎていたかと恥ずかしくなって、レノックスはフィガロの真似をして、ゆっくり時間を掛けて食べた。
     やっと一羽を食べ終えた彼は、また大きく笑った。
    「思い出した。オズは幾ら言っても我慢が出来なくて生焼けの肉をよく食べてたっけ。こんな風に焼いた小鳥をあいつは頭から口に入れて、さっきのきみみたいに勢いよくバリバリ食べるんだよ。一度なんか、まだ小鳥の中に残ってた血がだらだらあいつの口から溢れてきて……びっくりして咄嗟に排除の魔法を掛けたら、鳥が動き出して余計酷いことになったなあ」
     水の塊が目の前に飛んでくる。これで汚れを落とせと言うことなんだろうと、レノックスはありがたく使わせて貰った。今までで一番、彼が自分に向き合ってくれている気がして、レノックスは思い切って踏み込んだ。
    「オズ……オズ様は」と、言い直した。あんな風に語られるのなら、きっと二人は誰よりも近い家族なんだと思った。
    「フィガロ様と兄弟なんですか」
     フィガロは首をかすかに振った。
    「……ちょっと違う。魔法の師匠が同じなんだ。俺の師匠はスノウ様とホワイト様っていう双子のじいさんでね。兄弟子が俺で、弟弟子がオズだよ。一時はみんな仲良くひとつところで暮らしてたから、まあ年の離れた兄弟みたいなものかもしれないね」
    「オズ様はどこに行っちゃったんですか? 俺のじいちゃんが、オズが世界を治める王様になっていたら、悪いことにはならなかったって言っていました。でも俺の生まれる前……今から十年ぐらい前に、突然いなくなったって」
     フィガロはじっとこちらを向いている。その顔が、優しく見えて堪らなかった。立派だけど、ぼろぼろで色褪せてとっくの昔に役割を終えた服。今はもう、レノックスの目には彼が神様だとは見えなくなっていた。ただ、フィガロというひとが屍衣みたいな姿でいるだけだ。もっと似合う物が幾らでもあるのに。このひとはどうして、こんな似合わない物を着て、ここに独りぼっちで居るんだろう。
     ごくん、と息を呑み込んで、レノックスは一番言いたいことを言った。
    「どうして、オズ様はあなたの傍に居てくれないんでしょう。オズ様が傍に居たら、フィガロ様は何もかもが嫌にならなかったし、こんなところに居なくてもよかったんじゃないですか」
     フィガロの両目――額縁みたいに睫毛が目立って、元々柔和な形に開いている眼窩に嵌まった二つの瞳に、ずたずたな心が浮かびあがった。笑顔の形の唇で彼は言った。
    「話しても良いけど。子供ぽいって、笑われるかも」
     レノックスはむっとした。子供の自分に向けてそんなことを言うのは、からかっているからだとわかった。
    「笑いません」
    「じゃあ……特別に教えてあげる」
     しばらくの沈黙の後、フィガロは静かに語った。
    「簡単だよ。オズには、俺より大事なひとたちがいたからだ。俺にとっての一番はあいつだったけど、あいつにとってはそうじゃなかった。それだけの話だ」
     レノックスが何も言えずに居る内に〈家族の話をしようか〉と彼は唐突に言った。
    「きみには、両親と兄と弟が居るんだよな」
    「はい」
    「たとえばだよ。きみたち兄弟が遊びで家を出ているときに、きみの父さんが、きみの母さんを襲い――反撃に遭って殺されたとしたらどうする。きみはだれを一番憎む? 殺し合いなんて愚かなことを仕掛けた父さんの方? 加減が出来ず、殺すなんて最悪なことを仕出かした母さんの方? それとも、二人の傍におらず殺し合いを止められなかった自分たち兄弟かな?」
    「……」
     レノックスは黙った。問いの答えは、己には求められていない。フィガロは、殺した獲物から内臓を引きずり出すみたいに言葉を続けた。
    「俺は、殺し合った二人ともが悪いと思う。だけど、オズは〈その場におらず、止められなかった自分が一番悪い〉って思っちゃったのさ。俺は――今のたとえは、十年前に俺の師匠の双子のじいさんたちが殺し合ったときの話なんだけどね。生き残ったスノウ様も、スノウ様を殺そうとして逆に殺されて幽霊になったホワイト様も、俺からしたらどっちも大事なひとたちで、だからどっちも俺から大切なひとを奪った憎い相手で、二人ともが悪いって思ってるし、なんでそんな馬鹿なことをやったんだって哀しむ前に呆然として、怒りの方が強くなっちゃった。だけど、じいさんたちは自分たちだけで完結した悲しみに沈んでいるし、オズは自分が悪いと沈んでいるし……俺一人だけかっかして怒ってるのも馬鹿らしくなって、全部がどうでもよくなった」
     酷い話だよ、と彼は微笑した。
    「よりにもよって、戴冠式の日にじいさんたちは殺し合いをしたんだ。オズはオズでまあ……問題の多いやつだけど、やり抜く力はあるからね。世界の半分を手に入れた景気づけに、戴冠式ごっこでもやろうって俺が提案してさ。それなりの格好して、いざってときに、オズがホワイト様の死に気付いちゃったんだよなあ」
     それから、この服が脱げなくなったんだと彼は言った。
    「なくなっちゃった王国、ふられた日の格好……未練がましくて恥ずかしいよね? でも、もっと恥ずかしいのは、そのためか、眠ってる内に海に飛び込む癖が付いたことでさ。そのくせ溺れる最中で俺は正気に戻るんだ。このままじゃ石になる! って必死で陸に戻って、その繰り返し。嫌になるよ。普通に毎日楽しく生きてる自分の裏側に、命を終わりにしたがっている自分がいて、どんな魔法でも呪術でもまったく制御出来ないなんてね。じいさんたちの喧嘩が乗り移ったみたいで嫌になるし……それで、しばらくここに閉じこもることにしたんだ」
    「……海が見えないから?」
    「そう。地底の奥深く。縁もゆかりもない山の底から、大丈夫かと思って」
     あれ、と彼は苦笑いした。
    「長々喋ってわかったけど、きみのいうことも外れてはいないのかもね。こんなことで死にたがる自分自身には本当にぞっとする。今更命を終わらせたくなるのなら、あのときに石になっておけば良かったのにって、思うよ」
     あのとき、とはいつだろう。
     わからないけれど、彼には以前もこんなことがあったのだ。
     話している間中、フィガロは頑なに自分の膝を掴んでいた。その細長い手を、レノックスは是非も聞かずに握った。
    「さっきの質問に、俺も答えていいですか」
    「……どうぞ」
    「俺は、気持ちを最初に全部言います。それでいつかは、二人の話を聞かせて欲しくなると思う。そうして、許すと思います」
    「許す?」
    「気にしなくするって感じです。俺の気持ちがどんなにぐちゃぐちゃになったって、起きたことはどうにも出来ない。だからそこにだけ目を向けたくなるのをやめます。それを抱えて、じゃあこれからどうしようかって。みんなでそういう話が出来たらいいなって、思います」
    「へえ。大人だね。そんなの考えもしなかったよ」
     揶揄うような口調でも彼は手を引き抜かなかった。
     わからないものが、隣に居るとレノックスは思った。
     今のはとっても哀しい話だけれど、祖父は〈オズが何も決めずに放り出したおかげで、前より何もかもがぐちゃぐちゃだ〉と嘆いていた。哀しみとぐちゃぐちゃは両立する。このひとが無意識のうちに海に沈み、必死で陸に這い上がってくる夜、ぐちゃぐちゃな世の中では苦しんで死んでいる人間が、きっと大勢いるだろう。
     そういうことを、このひとは考えない。
     考えることに疲れてやめたのか、元から考えていないのかは知らない。魔法使いは、人間とは別のいきものだという。それなら、鷹に向かって蟻の気持ちを考えてくれと願う方がおかしいのかもしれない。
     けれどレノックスは、人間の気持ちを忘れたくないと思った。そこで線を引いてしまったら、自分が大事に思う物すべて――家族に唾を掛けることになる。
     今はまだ、両腕の中に抱え込めるものしか対処できないけれど、大人になった自分は祖父が言うような〈ぐちゃぐちゃな世の中〉について考え出すだろう。
     そうしたらきっと、フィガロとは喧嘩になる。話し合ってわかり合えなくて、わかり合えないことが何よりも辛くて、最後は殺し合いに――いや、喧嘩は成り立たずに一方的に殺されるかも知れない。
    〈でも……〉
     迷いの末、レノックスはやっと言った。
    「フィガロ様。俺は出て行きません。あなたと一緒に居ます」
    「どうして? 家に帰りたくなくなった?」
     いいえ、とレノックスは頭を振った。
    「あなたと俺は、まったく違っています」
    「まあ……そうだね」
    「だから一緒に居ます。色々なことを話してみたら、さっきみたいに全然違う考えが生まれて、あなたは海に沈まなくなるかもしれません。そうなってから、俺は家に帰ります」
    「なるほど。妙案だ」
     じゃあよろしくねと彼は繋いだ手を揺さぶった。
     それから、二人で過ごすくらしが始まった。昼間フィガロはレノックスの魔法の筋を見てくれた。残念ながら魔力は〈人間が多少ましになった〉ぐらいしかないけれど、持ち前の心の強さと体の強さを伸ばせば、相手に石にされないぐらいのはったりはきくだろうと彼は言った。
    「きみって手足が大きいからきっと背も高くなるよ」
    「それ、犬の見立てじゃないですか」
     そんなたわいもない話をするうちに夜になる。
     最初は別々の場所で眠っていたけれど、レノックスはやがて彼の隣で眠るようになった。この洞窟は広すぎて、自分一人だけの温度ではとても眠られなかった。
     石を食べろと、フィガロは二度と言わなかった。その代わりに、彼はあの穴から魔法の手を伸ばして、レノックスのために多くの食べ物を獲ってくれた。着ている服や靴がボロボロになると、フィガロは魔法で新しい服を作ってくれた。彼自身からもいつしか、なしえなかった国の仰々しい服は消え去り、さっぱりした衣服に変わっていった。
     日に晒されなくなったレノックスの皮膚はフィガロと似たような白さになり、暗闇に親しむ目は段々とぼやけて見えなくなっていった。その中でもフィガロの不思議な緑の瞳孔は、ぴかぴかと輝いてよく映った。
     謎だらけだったフィガロのわからないことが、段々わかってくるにつれて、家に帰るという目的は色褪せ、レノックスは家族のことを忘れていった。どうしてここにいるのか、そもそもの始まりが頭から失せていき、自分の居場所は彼の隣に定められていて、地上でのことは夢だったのだと思うようになった。

     何十、何百もの昼と夜の後。
     地上に開けた穴から、大量の煤や煙が流れ込んでくるようになった。フィガロは見回りの回数を増やし、ある朝突然に言った。
    「中央と西とで、大きな戦争が始まったようだ」
    「……せんそう?」
    「うん。戦争には沢山の鋼と、それを鍛える炭が要る。きみの故郷はますます厳しく締め付けられるだろう。戻るなら今しかないね」
    「戻る?」
     何を言われているんだろうと首を傾げたレノックスの顔に、フィガロは不思議な器具を掛けてきた。
    「精霊たちが噂を運んできたんだ。最近流行の〈眼鏡〉っていう便利な発明品なんだって。俺に付き合わせて目を悪くさえたお詫びに受け取ってくれるかい」
     両目にガラスを被せるなんて妙な気分だが、確かに掛けるとよく見えた。フィガロは緑の石の首飾りを手に笑っていた。
    「ありがとう、レノ。楽しかったよ」
     緑の石の中に沢山の輝きがきらめいている。揺れる加減でちかちかまたたく光を見ている内に、レノックスはすべてを思い出し、悟った。自分を親しげに〈レノ〉と呼んでくれるようになったこのひとと過ごす時間は終わったのだ。
    「やっと家に帰れるのに。どうして泣くの?」
    「すみません……」
    「これは特別なエメラルドでね、思い出を溜め込んでこんな風にきらきら光るんだ。きみとの記憶がここには一杯詰まってる。これを持っていれば、俺は大丈夫な気がするよ。あんな小さな子供に哀れまれる大人でいいのかって戒めになるし、きみみたいな弱い魔法使いが、俺に物怖じしないで向かってきた思い出を肴に、これからは美味しい酒が飲めそうだ」
     フィガロの細くて長い首が、不思議なエメラルドで飾られる。彼はちょっと試したいと言い、レノックスを両腕の中に包み込んだ。
    「ずいぶん背が伸びたな。最初は俺の腕の中にすっぽりおさまる子羊みたいだったのに、今だとほら……ここまで来てる」
     とんとんと、彼が心臓の上を叩く。流れる時間の中で、少しずつ距離の近くなっていた彼の顔が、今はもう目の前にある。眼鏡のおかげでレノックスは咄嗟に背伸びをして口付けをしようとしたが、それは優雅で何気ないような身ごなしでかわされた。
    「《ポッシデオ》」
     聞き慣れた呪文と共にオーブが日に輝いた。
    「そういえば、一番初めにきみは俺を神様って呼んだっけね。今はもうそんな気にはならないだろう」
     いたずらが上手くいった子供みたいな顔で彼が笑う。レノックスは思い切って言ってみた。
    「はい。フィガロ様はフィガロ様です。でも」
    「でも?」
    「俺がもっと大人になったら、何もつけずにお名前だけであなたを呼んでみたいです」
    「えー! それは嫌だ。礼儀正しいきみに呼び捨てにされると見放されたっていうか、俺はそこまで駄目な男に堕ちたんだって落ち込みそうだよ」
    「そういうんじゃないです! 手を繋ぐのと同じです。一度、ただの名前だけで呼び合って、心でも繋がってみたいんです。俺はあなたが好きだから、だめですか?」
    「考えておく。きみが俺好みの男に育ってたら、許すかも知れないな」
     彼の両目が笑いよりももっと細くなる。気押されたレノックスは無意識で後じさろうとして、体が動かないのに気付いた。
    「フィガロ様……?」
    「動かないで。これから、きみの中から俺の記憶を消すよ」
     宣言と同時にレノックスから言葉は奪われた。
     彼の冷たい手が頬に触れる。魔法使いは、残酷なさよならの挨拶を耳元で優しく囁いた。
    「きみは俺を好きになってきてる。俺の傍に居ることがきみの幸せだと考えるようになってる。だけどそれは間違いなんだよ。きみの正しい居場所は、まだ家族の傍なんだ。そこで育ちきったら、俺たち魔法使いの道に外れてくる筈だったのに、俺と関わったせいできみは道に迷ってしまった。都合の良いように受け止めてくれるきみの幼さが心地よかったから長々と甘えちゃったけど、こんなのは終わりにしなきゃいけない。きみのおかげで、自分のことが好きになってきたのに、きみをどこにもやらずに独り占めしたら、また後悔の種が増えてしまう。だからきみの記憶を奪うよ」
     レノックスは動かせない喉の奥で、必死で言葉を紡ごうとした。
    〈やめてください。俺の幸せは俺が決めるものです。勝手に決めつけて、俺からあなたを奪わないでください〉
    「……はは」
     フィガロは力なく笑い、風の泣き声のようにうたった。
    「今のは、格好つけの建前ってやつだ。きみはオズと似てる。だから俺にはわかるんだ。きみの幸せって、結局は俺の傍にはないんだよ」
    「俺はまた、棄てられるのは嫌だ」
    「きみの一番になれないのはいやだ」
    「だからこれは俺のわがままだ。どうせ忘れられているんだからと言い訳をしたい、俺のわがままをきいてくれ」
    彼の細い声に押し被せるようにエメラルドの光が増す。何色のようにも見えて何色でもない光は一点に収束し、ぱあっと弾けて、レノックスの心を無数の刃で貫いた。





     行方知れずになった子供が二年越しにふらりと家に戻った――その知らせは山脈一帯の村をおおいに騒がせた。眼鏡という不思議で高価な器具を身につけて村に戻った子供は、家を出た後のことを何も覚えていないという。青白くはあってもすくすく育った体と清潔な身なりとで、二年の間彼が大事に育てられていたことは誰の目にも一目でわかった。きっと、山の神様がこの子供を気に入ってしばらく預かっていたのだと誰かが言い出し、レノックスは神隠しにあったのだということになった。この奇事はしばらくのあいだは村で一番の話題だったが、間近に迫った戦争の影と、いよいよ激しくなった支配者の横暴が家族の喜びを押し流した。隣村からは祖父の死が伝えられた。レノックスが姿を消してしばらくの後、祖父は病に倒れ、おじたちの暮らしは益々苦しくなって、最後は薬も買えずじまいだったという。父と兄とを追って鉱山で働き始めたレノックスは怯えず魔法を使うようになり、影ながら皆を支え、助けた。やがて燃え広がる暴動の気運によって、鉱夫たちは蜂起し、機をとらえて支配者を打ち倒した。多くの血が流れ、その中にレノックスの父の死もあった。
    〈敵と戦う〉ことを当然としたレノックスは、故郷での勝利に酔う間もなく鉱夫仲間とともに山を下りた。罪のない人々を苦しめる、より大きな悪と戦うために噂で聞いた革命軍に加わった。
     諸国は乱れ、民は餓えていた。世界の半分を掌握しておきながら、ふいにきまぐれで手放してしまった魔王オズが残した傷は大きく、各地では人間と魔法使いの溝が深まる一方だった。
    「だからって、魔法使いたちの命がないがしろにされていい訳がない」
    「同じ力を持ってるからって、一緒くたにされて見知らぬやつの罪まで背負わされるのはおかしいじゃないか」
     ひとと魔法使いの融和を唱える革命軍を率いるのは若者ふたりだった。戦いの意義を熱く説くのは人間のアレク・グランヴェルで、彼の理想を現実にしようと計略を立てるのは魔法使いのファウスト・ラウィーニアだった。
     レノックスはファウストに心酔した。人間と魔法使いの橋渡しを口で語るだけでなく、体現するひとをみるのは初めてだった。このひとのために命を捧げたいと懸命に働く内に信用を勝ち取り、レノックスはファウストの従者の地位を得た。
     頑強な体に宿る魔力は微力たりとはいえ便利で、何かと無理が利いた。
    〈ファウスト様のために命を尽くしたい。ぐちゃぐちゃな世の中で苦しんで死ぬ魔法使いと人間が、ひとりでもいなくなるように〉
     無茶を重ねた行軍で、一日の内に二度レノックスの心臓が止まった晩のこと。レノックスが気がつくと、傍で見守っていたファウストは一つの宣言をした。
    「レノ。僕はしばらく軍を離れるつもりだ。今まで自己流で治癒魔法を使ってきたが、今のままだと犠牲の方が大きくなる。まだ余力がある内に、治癒者フィガロに教えを乞うよ」
     ぎょっとしてレノックスは訊ねた。
    「……フィガロ? あの、オズの片割れだったと言われているフィガロのことですか」
     自分たちが生まれる前の時代――魔王オズの治世下では一体何が起きていたのかと、革命軍は各地に兵を派遣し真実を追い求めた。その中で浮上したのが、オズの元で辣腕を振るっていた兄弟子フィガロの名である。オズの名ばかりが取り沙汰されるが実際に各地で侵略の指揮を振るっていたのはフィガロだったと、唱える一派もいた。
     だがその一方で、現在フィガロの名は隠者として唄われることの方が多かった。北と中央の端境――どことも知れない谷間に彼は住まいを構えて、迷える魔法使いや人間たちに唯一無二の治癒魔法で救いを授けているのだという。
     レノックスの鼓動は激しく鳴った。
    「危険です。他に、何か――」
     ファウストは黙って首を振った。
    「確かに、オズとフィガロは真実どういう関係だったのかわからない。そんなやつのもとへ行くなと反対するやつも多いが、アレクには向いていないことをやるのが僕の役目なんだ。古代の魔法使いフィガロが今の世で一番優れた治癒の見識を持っているのなら、それを学び、我が物にするには今しかないんだ」
     主人の安全に関することなら普段のレノックスは絶対に我を曲げないが、ファウストはもっと高い視野で物事を見ているのだとわかった。説得を諦める代わりに、旅の護衛を申し出たレノックスはファウストと旅立った。まずはフィガロの魔法の師匠だという最古の魔法使いスノウとホワイト――ホワイトは幽霊だと言うが信じられなかった――への目通りが叶い、可愛らしい双子に教えて貰ったとおりにフィガロの住まいへ足を運んだ。
     たどり着いたフィガロの住処は、案外こぢんまりとしていた。かつては権勢を振るった男の住処とは見えないぐらいに平凡な二階屋で、しいていえば田舎の地主のような緑豊かな庭が目に付くぐらいだった。
     礼を尽くして参禅すると、姿を現したフィガロはいきいきとファウストに呼びかけた。
    「きみのこと噂で聞いたよ。魔法使いの救い主であり若き英雄のファウストが、一体俺に何の用?」
     レノックスは黙って主の背後で跪き頭を垂れ、〈偉大な古代の魔法使い〉と主の会話を見守った。牙をどこかに隠しているのか、フィガロは終始気さくな男のように振る舞い、あっという間にファウストの弟子入りを許した。その間、フィガロはレノックスに一瞥もくれなかったが〈修行に入る前に身を清めろ〉と弟子に言いつけ、ファウストが禊ぎに向かい、庭で二人きりになると、無遠慮にじろじろと見回してきた。
     彼我の力の差は甚だしく――まして、主人の師になった魔法使いに無礼は働けない。レノックスはひたすらに片膝を突き頭を垂れて、服従の姿勢をとり続けた。フィガロは何か薬草でも探しているのか、ぶらぶらと庭を歩き続けている。ふいに緑の爽やかな匂いがレノックスの鼻先を擽った。
    「そう畏まらないでいいよ。顔を上げて」
    「しかし、フィガロ様は……」
    「だから、そういうのなしだって」
     ぽんぽんと、野草の束で肩を叩かれる。仕方なしにレノックスは顔を上げた。しぼんでしまった青紫の花――チコリーを片手に束ね持ち、フィガロはにっこりと笑っていた。
     レノックスは妙な気になった。初対面の筈なのに、フィガロの目つきはまるで、離れている間に子犬が成犬になったのを驚きながらも愛でる旅人のようなのだ。
     レノックスが戸惑いから覚めやらない内に、彼は唐突に言った。
    「きみ、背が高いな。並んでみていい?」
    「はい」
     うきうきと横に並び立ってくる。彼も長身だが、小指一本ほどは自分の方が背丈が大きかった。
    「これぐらいの身長差って、キスのときいいよね。そんなに背伸びしなくて良いし、無理に屈まなくて良いし」
    「はあ……」
     何を言うのかと驚愕するが、噂が本当ならば彼は千五百才は確実に年上なので、年長者に敬意を払うレノックスはひたすらに押し黙った。その間も、彼のおしゃべりは続いた。
    「大事なご主人様とは一年は離れて貰うよ。寂しいだろう?」
    「ファウスト様が信念を貫き通されることこそが俺の喜びです。従者の俺が、主人の行いに〈寂しい〉などと言う差し出がましい感情を持ちたくありません」
    「へえ。あの子はきみとの間に上下関係というより……もっと親密な関係を築きたがってるように見えるよ。レノ、ひたむきなのも良いけどね。ちょっとは譲歩してあげたらどうなの?」
     レノックスは驚きのあまり、口走ってしまった。
    「どうして俺の名をご存じなんですか」
     フィガロはあっさり言った。
    「俺が偉大な魔法使いのフィガロ様だから」
    「……」
    「冗談だって。そんな怖い顔しないで。双子のお師匠様から前もって知らせがあったんだ。ファウストとレノックスっていう苦労性の可愛い若者二人が俺の元を訪れるから、よく面倒見てあげなさいってさ」
     ところで、と彼は声を潜めた。
    「きみも魔法使いの端くれみたいだけど。ファウストに師事しているのかい?」
    「はい。軍の仲間にも教えて貰って居ますが……俺は、あの方こそが俺を教え導いてくださる、唯一の魔法使いだと考えています」
    「ふうん。じゃあ俺は、これからきみの師匠のそのまた上の師匠ってことになる。師匠の師匠だからお願い聞いてよ」
    「……はい。フィガロ様、何なりと」
     畏まったレノックスの耳に、フィガロは背伸びをして口をつけて囁いた。
    「フィガロって……名前をよんで」
    「……そんな無礼な真似は出来かねます」
    「いいじゃない。減る物じゃなし」
     子供みたいにフィガロは眉を下げてみせる。あまりに哀しそうな顔を前に、レノックスの中に譲歩の気持ちが湧いた。
    「なぜ、そんなことを仰るのです」
    「きみの顔が好きだから。むかし、ちょっとした縁で傍に置いていた子供が居てね。どういう大人になるのか想像してたんだけど、きみは〈まさに!〉って感じなんだ」
     あのやたら親密な眼差しはそういうことだったのかと合点がいったが、魂がすり減りそうだった。
    「ほら。場面としては口付けの前がいいな。俺をきみの好きな人だと思ってやってみてよ」
     フィガロは口付けを待つ恋人のような、芝居がかった夢見る顔で両目を瞑った。わざとらしく小首まで傾げられてはもう逃げ場がなかった。
     レノックスは先程の言葉を思い出して、フィガロの顎を掴んで仰のけると、口付けの代わりに名を呼んだ。
    「フィガロ……」
     フィガロの肌にばっと紅潮が広がったかと思いきや、彼は軽やかな笑いを爆発させた。
    「ありがとう。よく出来ました」
     噂に聞くオーブを宙に泳がせ、彼はどこかへ姿を消した。 しばらくののち、戻ってきたファウストは茶器の乗った銀のトレイを両手に捧げ持っていた。
    「レノ。フィガロ様が〈せっかくだからお茶でも飲んでいって〉と仰っていた。ご馳走になろう」
     目線で示された庭の隅にあるテーブルをレノックスは片付け、てきぱきと給仕した。出された茶の色合いは綺麗だったが、ひどく苦かった。悪戯かと思ったが、喉を通れば疲れがとれてすっきりとする。まだ動揺が続くあまり、レノックスは自分から主人に話しかけていた。
    「……あの方、ずいぶん変わった方ですね」
    「そうかもしれないな。しかし、治癒魔法の腕は確かだ。このあたりの村人には神様と呼ばれているらしい。きっと魔法の腕だけでなく、人間の暮らしを支える知識も確かなんだろう」
    「神様……」
     反芻の中でふと、言葉が零れ出た。
    「でもフィガロ様は、そう呼ばれるのはお嫌いでしょうね」
    「そうなのか?」
     レノックスは慌てて言いつくろった。
    「あ、いやなんとなくです。フィガロ様は道理の通らない無茶は言わないと思いますが、なんというか……」
     あの場のことは、なぜか主人には明かせない気がして、レノックスは精一杯適切な言葉を探した。
    「……わがままを仰りそうなので、どうかお気を付けて」
    「レノがそんなに他人を気にするなんて珍しいな。案外、気が合うんじゃないか」
    「そんなわけがないです。あんな偉大な方と」
    「怒らないでくれ。冗談だよ」

     ――しばしの別れの前のひとときを仲睦まじく話す若い魔法使いたちの気配が風に乗って流れてくる。
     自室で横になったフィガロはまだ赤い頬のまま、掌に載せたエメラルドを眺めていた。ちかっと、新しい光が点った。
    「あのとき、わがままを言っておいて良かった」
     独り言が零れる。
    「神様はね。見捨てるくせに、見捨てられるのは嫌いなんだよ」
     石をきつく掴んだフィガロはまだ知らなかった。
     これから一年と少しの後に、緑の石に留まった美しい光は全て消え去り、石が凡庸なガラス同然になることを。
     そうしてそれから更に四百年ののちに、以前のように激しくも強烈でもないけれど、優しく強い新たな光が石に宿ることを――今はまだ知るよしもないフィガロは恋の傷を抱えたまま、近付く夜闇にぼんやりと染まっていった。

    【終】
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    karrruko

    PAST2022年2月発行のオズフィガ本〈おまえの名と力にかけて〉より、フィガロが見ていた夢としてのパラロイ部、オズフィガがいちゃついている部分の再録です。

    ・二人は「北の国」の孤児院で育った幼馴染みで、色々あって義兄弟になり、シティに引きとられた設定です。

    ・オズにとってフィガロの夢を叶えることが第一義で、そのためにまずはハッカーとして金を稼ぎ、それを元手にして武器商人になろうとしています。
    「おまえの名と力にかけて」より一部再録 日曜日の早朝、午前五時十五分。
     オズは滲む涙と共に目を開けた。
     視界には夢がなまなまと鮮やかで、我知らず手を差し伸べる。救いたいのは砕けた欠片、ひとりの男の残骸だ。
     ありし日そのままの微細なきらめき。きめ細やかな乳白色とくすんだ青、血の色の赤、冬の海の灰色と大地の緑。正気ではうまく知覚できない奥底に、それら破片たちは荒れすさびぶつかりあって、大きな渦を巻いている。互いに身を砕き、磨り潰しあって、少しでも早くこの世から消滅しきってしまおうとしている。
     だが、そんな凄絶さと裏腹に、あたりには何の響きも聞こえてこない。一切の介入は静寂により拒絶されている。
     無音の内に滅していくのは、望みか意地か絶望か。
    14231

    karrruko

    DONE①7/24無配をベースに、11000文字追加したものです。
    ②フィガロがモブの男娼を買い、彼に抱かれて満足している描写があります。
    ③フィガロがオズの前で酒の印象を伝えようとし、遠回しな性行為の隠喩を行う描写があります。
    ④スノホワ様のキスシーンがあります。
    ふいうち

     燃えるような朝焼けに目を細め、フィガロは森を飛翔した。こんな時間に野外をうろつくなど人間に傅かれて暮らしていた幼い頃以来だったが、ある意味で状況は当時より悪化していた。何せ師匠二人から〈オズの成人祝いを渡す〉という無茶な仕事を命じられているのだ。一度は石にするべきだとも思った弟弟子が、今どこでどうやって暮らしているのか、己は全く知らないと言うのに。

     この厄介な話は、昨晩唐突に降ってわいたものだった。

     高弟としての自覚というか二人から躾られた義理というかで、スノウとホワイトの館から出でて暮らして五年が過ぎても、フィガロは月に一度は彼らの前に顔を出すようにしている。昨晩もその習慣に従ったのだが、食堂に足を踏み入れた途端に嫌な予感に襲われた。テーブルには極上のマナ石と黒みがかったケーキが給仕されている。石はともかく、素朴な見た目のケーキが大いに問題だった。
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