愛をと月島は、あまり好意を口にしない男だった。
明治から生き、死に、そうして現代にまた生まれ、出会い、ふたたび結ばれた今だ。
けれども男は一度死んだくせ「慕う」以上の言葉を口にしようとはせず、そうしてその「お慕いしています」のひと言ですら、熱にうんと浮かされて酔いつぶれ、眠りに落ちる直前に、やっと、鯉登の耳元で泣きそうな声をして、ようやく告げてくるくらいであった。
鯉登は元より何にあっても好意を与えることを躊躇わないたちで、道を歩き猫がこちらを見て鳴けば「むぞらしか」と言い、生前あれほど揉めた杉元何某に対しても、現代でまみえれば「まあ、悪い男ではない」と直接に言うことを厭わなかった。
そういった男であるからして、鯉登は晴れて二度目の恋仲となった月島に対してもちろん当たり前に「愛している」と夜ごと、朝ごと伝えたくあったわけである。
事実、男が傍で布団に──あるいはぴたりと肌に鯉登をくるんで寝る前にはそっと額に口付けて囁き、朝は早くからスーツに着替えた男の手を握り──ぎゅっと抱きしめて毎度のこと、簡潔ながら熱意を込めた言葉をして自身の持つあらゆる感情の何たるかを伝えていた。
それに対する月島の対応といえば、実に小難しい顔をして「行ってきます」と「おやすみなさい」を言うのみである。
これには鯉登も「なんと頑強な男だ」と思わざるを得なかった。
なぜって、絶対に月島も私のことが好きで、愛しているに決まっているのだから。でなければ鯉登は彼に抱かれようとも思わなかったし、月島自身も、上官下士官のつながりのない今世、あれほど熱烈な目をして鯉登を抱いたりはしなかっただろう。
しかし、決して見返りを求めているわけではないけれど──それでも、たまにはこの男の顔をして、あなたを愛していますとのひと言くらい聞いてみたい。そう思うのは、決して我儘なばかりの話でもないのではないだろうか。
一度くらい、男の真一文字の唇が綻んで愛を語る一瞬に期待をしてみたい。
共に暮らす部屋で週末の夜、ロングの缶ビールを次々に手渡し、今日こそは、と悪巧みをしたことの理由は、まあ、簡潔にそんなところだった。
「月島、…月島」
浴びるほど飲ませた男の、うつら、と舟を漕ぐ横顔に呼びかける。
手を握ればぽかぽかと熱くて、まるで、月島のものではないようだった。
この男はいつも冷えた、かわいた手をしていて──鯉登をすみずみまで慈しんで拓き、幸福のさなかで眠りに落ちる寸前に握ってきた手のひらが、ほんのごくたまに熱いくらいであった。
名前を重ねて呼び掛ければ、男はとろんとした目をして鯉登をじっと見返してくる。深海の底の底で凍てたような黒い目がいまはただ薄く涙膜を滲ませていて、なにか、捨てられた生き物の目を覗き込んだ気持ちになった。
月島が何もかもを棄て、手放そうとばかりしていたのは遠い前世のことであって──今はその手にあるものを誰も奪わず、誰も、この男をどこかの海へ置き去りになどしないのに。
何せ自分が傍にいるのである。
世界で誰がこの男を見捨てようとも、鯉登は月島の手を離す気もなかったのだから。
「…何ですか…」
ことん、と額が肩口に預けられ、その重みに心臓がどっと鳴った。
自分で仕向けたくせに愛らしい仕草をされれば胸がざわめき、そのままいくらでも抱きしめて、今日はもういい、と、この戯れの意味すら失するように言いたくなってしまう。
「…眠たいか」
「ねむたくは、ないです…」
単語をひとつひとつ途切れさせながら、月島は鯉登の指先を握り返してきた赤子のようだ、と感嘆を覚えながら鼻先でその頭をつんとつつくと、男は、重たい瞼を上げて見つめてくる。
「…こいとさん」
「ン」
声を上げればゆるく面差しが上がって、ごく甘い音を鳴らしながら月島が口付けてきた。
ちう、と、いう口付けのやさしい音がしたそのとき、鯉登はどうやら、「ひう」などと情けない声を漏らしたようであった。
酒の味がする。
少しだけ唇を合わせた自分にもわかるくらいなのだ、酒量は簡単に推し量れた。そもそものこと月島の呑んだ缶を数えていたのは鯉登であるからして、推し量るも何もあったものではないけれど。
「ふ、…ふふ。何ですか、それ…」
はあ、おかしい。
そう、彼らしくなく呟いて、逞しい腕がぎゅっと背を抱いてくる。
これもまた自分から仕掛けたくせ、鯉登はひとつも動けずに──ただ、月島の手があまりに熱い、と、それだけを感じていた。
「──あの、あれを…何と、言うんでしたかね…」
とろけた口ぶりで言いながら、背中からうなじに上がった月島の指先が黒髪をするすると弄ぶ。片手は握られたまま、心音が伝わるのが気恥ずかしくて息を殺した。
「…あれです。…あれ、何と言うんですか、少尉殿…」
もうお前の少尉ではない、と、散々に言ったはずなのに。
月島はいつまで経っても、時折──いちばん「手のかかった」ころの名前で鯉登のことを呼んでくる。素面であれば「失礼しました」と申し訳なさそうな顔をするものだけれど、今宵のこの男に、そんな頭は一切ないようであった。
「…あれ、とは。何だ…」
たまらずそう聞けば、彼は指先をそうっとずらして鯉登の耳に手を触れ、食むような口付けで唇を噛んでくる。低い鼻先がつんと触れ、ゆるく擦られる額はあたたかい。
ああ、と、いくらでもふやけた声が漏れそうだった。言葉のひとつすら与えられなくても、こんなにも。
──こんなにも愛されていることを、どうしてたったいま、思い知ってしまうのだ、と。
「…あなたが、…猫なんかを見るときに言うことばです。…私にも、…わたしにも、時おり与えてくださる、あの、」
「…むぜか」
「──そう。それです」
上機嫌をした男の笑んだ顔をこうして遮られず眺めるのは、いつぶりだっただろうか。月島は固まる鯉登の両の指先をとり、それから、はふ、と、酒気に濡れた息を吐いた。
「…むぜ…」
鯉登を甘くとろけた目で見つめ、低い声をして大事そうに呟いた月島のひとことが、胸の奥底に鋭利な刃物のようにして突き刺さり──まるで怯えるかのごとく、反射的に目を閉じる。
どんな面差しをして月島がそれを口にしたのか、知るのがあまりに怖かった。
愛おしいと言うような顔でもされていたら。
きっと、心臓が跳ね回って壊れてしまう。
「言ってください、わたしに」
「い、今か」
「いま以外に、いつ言うんですか…?」
そっと目をあけながら瞬きをすると、男の瞼がのたりと伏せられるのが見えた。
こんな距離など比べ物にもならない程に近くへ在ったことだっていくらでもあるというのに──少しだけ、緊張をしている。目の前の男が、あまりにも無防備であったから。
息を呑む背中がぞわりと震え、鯉登は唇を結ぶ。
月島の手がきゅっと手のひらを握って体温を伝えてくるたび、やめてくれ、と叫び出さなかったことだけを褒めてほしい。
いつもと違うものが欲しくて、いつもと違う月島を引き出したというのに──いざそうした彼の姿を目の前にすると、惚れたほうが負けのようで恐ろしい。
かわいい。むぜ。言葉は喉の奥へとつかえているのに、いまそれを口にしたらこの男がどんな顔をするのかわからないのが、怖い。
それを悦びと捉えられる余裕は、ありそうになかったのである。
「…──こいとさん…」
返事がないことをいいことに、酔った男は何度も重ねて口付けてくる。時おりに舌を入れてくるたび、その水気を吸いたくて胸がざわめく。
抱かれたい、と強く思う仕方のない性を、鯉登はなけなしの理性で叱りつけた。
今日の目的はそうしたことではなくて、ただ、月島から──あなたを愛していますのほんのささやかなひと言だけを聞きたくて、それだけなのだ。
…そのあとはもしかしたら、一緒にシーツへと縺れてしまうことも考えていなくはなかったけれど──とにかく、順番を違えるわけにはいかなかったのである。
でも。今この男に抱かれたら。
何度もその目で、指で。
もしかしたら──言葉で。
からだを揺さぶられながら、愛情を伝えられでもしたら。
考えるだけで頭の奥がずんと鈍重に気持ちよくて、鯉登は吐息を熱くした。
「…頬が熱い…」
「──う、…くうっ…」
囁きながら頬をすり寄せられれば、お前のせいだと声を上げることも叶わずに、喉を撫でられた猫のような息が漏れてしまう。
顎髭のくすぐったさが堪らなくて、鯉登は自分から男の唇をちゅっと吸った。嬉しそうにふわふわと笑って、月島は指を絡めたまま再び口付けてくる。
こいとさん、と甘い声で名を呼ばれながら舌を絡めることの、なんて気持ちのいいことだろうか。体の芯からくちゃくちゃに蕩けた心地で必死に舌へと吸い付くたび、指の先までするりと辿られて感覚がばかになる。
「…こいとさん、…こいとさん、かわいいです、…かわいい…」
あふれるようにそんなことを言われれば、腹の奥が、しずかにきゅうんと熱くなった。
かわいい。かわいいと言った。
月島が、私のことをかわいいと言った。
耳の裏でどくどくと脈打つ音が聞こえ、もうひとつ言葉が欲しくて我儘になる。やわらかい口付けを預けてくる男の下唇を微かに吸うと、鯉登は月島の口の中を少しだけ舐めた。
「…ないで、そう思うと…」
そんな理由、鯉登にすら明らかであったけれど──あと一押しできっと、欲しかった言葉が手に入る。うるさいくらいの心音を呼吸のうちにとどめながら指先でそっと男の手を撫でると、彼は、ん、と、心地よさそうに声を漏らした。
「──何で…?あなた、ずっと、かわいいから」
「お前の前でだけだ」
「いつか、はじめて顔をあわせたときから、そうでした」
「それは。…それは、お前が…──私を、…」
その先を自分で言うことはできなくて、鯉登は微かに呻いて眉を寄せる。どこか気の抜けたようにその言葉を聞いた月島は、そのまま鯉登の胸へもぐるようぐっと頭を押し付けてきた。
「──すみません、…言わせようとして…」
「…私は、…わたしは、お前の口から、聞きたいのに」
体を寄せてくる男を抱きしめながら、鯉登はもの寂しさにくすんと鼻を鳴らす。
月島は少しだけ考え込み、それから、ぺたん、と鯉登の頬に両手を触れてきた。
「──言っても、…失くなりませんか。…遠くへいったり、だれかに、とられたり」
「せん、せん、そんなこと」
「…──私を、おれを。しぬまで、死んでも…嫌いになったり、しませんか」
子どものような口振りをして言った男の真っ暗な目には、瞬きをする自分の姿が映っている。酒に呼び起こされた幼さに胸をつんと痛めて、鯉登はその背へと腕を回した。
「…そんなこと、…言わんでも…わかっじゃろう」
「わかりません、…──私はまだ、愛情というもののことを、信じられなくて、それで」
「…私のこともか」
「──だって。…あなたはいつか、ひとりで行ってしまうでしょう」
ばらばらと落ちてくる涙滴に、鯉登は思わず月島の体を引き寄せる。逞しい身を所在なく腕に抱かせた男は、ただ自分が口にした言葉に狼狽えて「すみません」と言った。
「…私が。私が言わせた」
「いえ、…ちがう。ちがうんです。…私はいつもあなたに愛されたいばかりで」
「いい、…っ…それでよか、…私が、…いくらでもお前に言う。お前が口にできない分まで、私が言うから」
「ッ、…鯉登さん」
指先が鯉登の手をとって、切実なまでに強く握る。手の甲へ静かに唇を落とし、月島は潤んだ目を瞬きもせず向けてきた。
「…──好きです…」
それは、ずっと、ずっと欲しかった言葉だった。それはこんなにも、胸の奥が痛くなるはずではなくて、ただ、あんまりに嬉しくて呼吸が揺れた。
「あなたを、だれにも、どこにもやりたくない…」
そのまま腕ごと引き寄せられ胸に抱かれると、おそろしいほどに幸せだった。これが月島の恐れているものなのかもしれない、と、何とはなしにそう思う。いつかこの腕を失うことになるとしたら、…きっと、信じるのが怖くなるだろうから。
「…どけも行かん。…安心してよかじゃ」
「…来世も、そのつぎもですか」
「──やる。…お前も寄越せ、月島」
「…──っ…」
目を細めてほんのごく微かに頷いた男が、甘えるように唇を合わせてくる。
堰を切ったように「すきです」と呟く声音が心のやわらかいところをいっぱいに甘やかしてきて、目の前がくらくらと熱く揺れた。酒のせいかもしれない、それでも、その身にどんな情熱を隠していたんだと思うほど、月島は口付けのあいだじゅうずっと、鯉登の指を離さなかった。
そして、どれくらいキスをしていただろうか。
不意に唇と指先を離した男は、鯉登の肩口へと顔を埋めて抱きついてくる。
あれほど熱烈な口付けを交わした後の静けさをどうしたものかと思い坊主の頭をゆるりと撫でてやれば、月島はそろりと臆病に頭を上げた。
「月島…?」
そうして、未だとろけた──けれど、いくらかの理性を有する眼差しをして、鯉登に視線をくれてくる。後悔と絶望を一瞬にしてその虹彩へと含んだ男が、濡れたままの短い睫毛を瞬かせた。
「──酒に」
わななく唇は、言葉を吐き出すのを戸惑う。先を促すように頬をするりと撫でてやれば月島は唇を結び、そして、少しだけ、泣きそうな声を出した。
「…酒に、頼りました」
聞けば、感情の起伏が可愛くて──ふ、と口元を緩めてしまう。そんな理由ならこんなにも早く、理性を取り戻したりしなくても構わないのに。
「…本音だろうが」
「──本音です」
心の底から吐き出された言葉に、思わず「うふふ」と笑う声が溢れた。そのまま縋るように腕の力を強めて抱きしめられると、胸がいっぱいで堪らなかった。
「ふふ、…月島、…顔が赤くなっちょっ…」
「…言わんでください、そんなこと…」
笑みを恥じらって頬をほの赤く染める男の愛らしさが胸にすとんと矢を刺して、今夜は寝かせてやらん、と、そんなことを思う。
夜通し抱かれて眠れないのはいつも自分のほうだというのに、今夜、この男をずっといとおしく思う気持ちばかりは本当だった。
たとえ今宵にああして好きだと聞かされていても、いなくても。それは、変わらなかっただろうけれど。
「…月島ぁ」
男のあたたかな手指を背から解いて拾い、それを両の手のひらでそうっとくるむ。じっと正面から見詰めると、たじろいだ月島は目を逸らそうともした。それをやさしく目を細めて見守れば、彼は観念したように潤む視線を交わしてくる。
「──かわいい男だ、お前は。私の、いっとう可愛い男だぞ」
「…そうですか」
軍帽のひさしのない眦が戸惑って、けれど平静ぶった口調が相槌を打つ。
今日はそのまま逃してやる気もせずに、鯉登は額を寄せて軽く唇を合わせた。
「嬉しいか」
「…──聞いて、どうするんです…」
指を握った男がぼそぼそと呟き、頬を目いっぱい擦り寄せて頭を撫でてやる。
「もっと好きになる」
そう、はっきりと告げてやれば、一拍の間を置いて──ぐう、っと息を詰めた男が、首筋に唇を埋めてきた。
鎖骨を噛む甘えた痛みに男の差し出した独占欲を思い出し、床に背を落としながら息を吐く。飢えた獣が探るように肌を愛しんできて、からだの内側がじくじくと熱い。
──来世も、その次も。
それは、鯉登が思うよりずっと、強く、縛るような言葉だった。
剥がんばかりにシャツが抜かれ、乱雑に脱がせ返して肌をぴたりと合わせる。
酒の匂いの口付けに、自分までどうしてか酩酊を覚え──熱い男の体へ、甘えるそぶりの長い手脚を、しどけなく絡ませた。