死がふたりを導くまで 藍思追はその日も年老いた藍忘機の世話をしていた。藍忘機の背中は日々の鍛錬によって背筋は自然とまっすぐ伸び、いかにも藍家の雅正を表した姿そのものだ。
そんな含光君は最近、何かを仕切りに描いている。一見すると、いつもの筆を用いた仕事と変わらないように見えるが今の筆は少々速く動かされ、含光君の顔色を見ると少々焦りを感じているようにも藍思追には感じられた。
ここ最近そんな様子が続いている。ふと何があったのか気になった藍思追は後ろからゆっくり机の上に書かれた中身を見た。
「含光君は絵がお上手ですね」
何気なく藍思追がそう言うと、藍忘機はゆっくりと振り返った。その顔には秘密が知られた子供のような驚きが滲み出ている。
「思追、君は……」
「お酒を呑んだ美青年ですか。美味しそうに呑む姿が懐かしいですね」
そう言った思追を見て、藍忘機は少々諦めた様子で首を横に振って、櫃から紙を大量に取り出し複数枚の紙を持って思追に渡してきた。
藍思追はシミが付いた紙を見て、それに描かれた酒を呑んだ美青年の絵を見た。その顔はハッキリとその特徴が描かれていて、まるで本物を見たように描かれている。
それから二枚目を彼は見る。それもやはり同じ構図で描かれた酒を呑む青年の絵で、多少一枚目と顔つきは違うものの、藍思追本人も思い出すほど懐かしいあの人の顔だ。それから三枚目、四枚目と続けて彼は見ていくがやはり同じ構図の絵だ。だが紙が新しいものになる程、その顔はうっすらとぼかされている。
「含光君、あなたはそんなにも自分の道侶を大事に思われているのですね」
「思追、魏嬰の顔を年を経るごとに忘れていく」
「含光君がですか?」
「うん」
そううなずいて、含光君は一度黙り込む。だが珍しく、それからすぐにまた口を開いた。
「なぜ私は、あの時魏嬰の後を追わなかったのか」
「それは、あの方が苦しまれます。天寿をまっとうされることがあの方の願いだったでしょう」
「それでも私は、今よりもあの頃に幸せを見出す」
「そうでしょうね。ですが、含光君は少々あの方との思い出に執着している気がします。あの方が亡くなってから、彩衣鎮にも長らく行かれていないでしょう。山を一度下りて見られてはいかがですか?」
思追の提案に、藍忘機の首は横に振られ、口が開かれる。
「私は……」
「何でしょうか?」
「あのひとから、あいを、おしえて、もらった」
多少過呼吸気味になりながら藍忘機はゆっくりと言った。その顔をよく見ると、普段泣くことのない含光君が涙を流している。
藍思追は自分が阿苑として乱葬崗で拾われた頃に比べて、含光君がより頑固で、シワがいくつも刻まれ、声にもハリがなくなったのだとしみじみ考えさせられた。一言でいえば老いて本音を晒すことが増えたのだ。
「含光君……、呼吸が荒くなっていますよ。医者を呼んできますね」
「魏嬰、君を、忘れて、いく、の、……は……」
最後の言葉を言えずして、含光君は頭を思追に支えられるような形で意識を落とした。
藍忘機が目を覚ますと、そこは視界が黒で塗りつぶされたようなほどに暗く、果てが見えない。自分は冬の頃だから厚着をしているのに、寒気も感じられ、鳥肌が立つ。そしてその真っ暗で冷たい世界には誰もいない。ただ沈黙が続いているだけの世界が延々と広がっているのみだ。
夜よりも暗い世界に、藍忘機は一瞬怖気を感じた。若い頃であればこんな世界に飛ばされても若気だけで進んでいけたような気がしたが、今の彼にその勇気は無かった。
だが、足を進めていかないとこの世界がどんな所か、少しも情報が得られない。わずかに寒気に震えて、藍忘機は進んでいった。
しかし、足を進めても沈黙と暗闇と冷たさだけが支配するこの世界で、誰とも会うことはない。自分は一体どうなったのだろうか。藍忘機がそう思いながら進んでいくと、人影が平行線から見えてきた。
この世界に生きる、唯一の人間がそこにはいる。藍忘機はふと人が恋しくなって、老いで弱くなった足でそこへ走って行った。
人が座る椅子に近づくと、藍忘機はふいにその顔を見つめる。そしてその顔は虚ろな瞳で、藍忘機の顔を見上げた。
「魏嬰……」
なぜここにいる。そう、その顔の持ち主は、二十二歳で夷陵老祖として一度目の人生に幕を下ろした魏無羨その人であった。
彼は藍忘機の顔をじっと見つめ、うっすらと笑みを浮かべると何も言わずに、藍忘機のきれいな形をした右手を手に取って、ゆっくりと自身の頬に当てて愛撫し始めた。
恭しく、愛おしいものに触れるように自身の頬を彼の手に撫でさせ、瞳をつぶって、やがて藍忘機の指を舐め始める。
魏無羨の頬にも、口内にも感じられない熱にふと藍忘機は悟った。ここは死後の世界であると。
彼は若い頃、座学で魂は一度地獄に堕ちた後、孟婆の作る汁物を食べさせられてから輪廻転生すると教わっていた。だがそれは修行した身であれど、所詮は人間が作り上げた理論のうちの一つに過ぎない。
乱葬崗という怨念渦巻く場所で、彼の道侶は人間を辞めざるを得なかったのだろう。そして魔王としてこの魔の世界を司る王となった。
唾液が魏嬰の口内で糸を作るたび、藍忘機は彼が莫玄羽の体に魂が宿る形で戻ってきた後のことを、艱難辛苦を経てあの観音廟でお互いの気持ちを確認しあった後、旅をしたり雲深不知処で道侶として毎日行ってきたまぐわいを思い出す。
体は本人のものではないと言えど、人間の体が作る熱を互いに感じ合って、肉と肉が重なり合うその瞬間瞬間に欲を感じて無数の言えないことを行なってきた。
魔王の魏無羨は、その熱に浮かされる夜に人間である自分と行う行為に感じる人間としての熱や体液に、肌の打ちつけ合う音に人間としてのかつての自分を重ねていたのではないかとふと藍忘機は思った。
そんな思いに浸っていると、ふと指に痛みを感じる。魏無羨が指を噛んだのだろう。その途端、藍忘機の世界は変わっていく。
舞台は夜の雲深不知処に変わり、隣では莫玄羽の姿をした魏無羨が、寝台に座りながら天子笑を呑んでいる。彼は美味しそうに酒を呑み、ほんのりとした朱色の頬が藍忘機の劣情を誘う。
そんな藍忘機は、筆を走らせながら仕事をしていた。その文字を読んでいくと、どうやら傘を持った女の鬼に関する話のようだった。
「なぁ藍湛」
「なんだ?」
「あの女の鬼さ、可哀想だったよな」
「なぜ?」
何気ない会話のなかでも魏嬰は笑みを浮かべることを忘れず、いや、正しくは笑みを浮かべるのが彼の自然体なのだが。
「旦那が描いた傘を持った自分の絵が売れても貧しいままでよぉ、流行り病で死んだ後も旦那は傘の絵を描き続けたって話がさ。雲夢にも似た話があるんだ」
藍湛は文字を書き続けた手を止め、雲夢での話をしたくてウズウズしている魏嬰の輝く双眸を見つめた。すると魏嬰は嬉しそうに笑って、そのまま声をあげて笑った。
「あははははっ! なあ藍湛、俺はお前のその癖が好きなんだ」
『その癖』というものを藍湛本人も薄々感じ取った。いつも魏嬰はこんな感じで話をしたがると目を輝かせて、自分の道侶が筆を止めて自分の瞳を見つめるのを待つ。そして藍湛はその希望に応じるように自然と目を合わせる。
「俺さ、むかしはいわゆる『ツーカーの関係』ってやつに憧れていたんだ。それが含光君、お前が相手になるなんて思わなかったぜ……」
そう言いながら大声をあげて笑う魏嬰の姿がふと懐かしくなって、藍湛はうなずいた。
「うん」
「それでこそ俺の道侶だ! で、雲夢での話なんだけどさ、妻を亡くした後、絵師の男は世間の要望に応えるまま傘を持った女の絵を描き続けたんだ。でも描くたびに妻の顔を少しずつ忘れて行ってな? ある日ふと首を吊っちまったんだよ。最初は墓も建てられて、その絵が好きだった奴らが参拝したもんだったけど、やがて忘れ去られて墓にも苔ができちまって……。雨風に晒され続けた墓には刻まれた絵師の名前も薄れて行って本当に忘れ去られた……」
体を乗っ取られたように、感情的になりながら話をする魏嬰の姿に愛しさを感じながら、藍湛は聞いた。
「つまり?」
「はぁ……。なんだよ、お前って奴はさ。何でこういう時に限って鈍感なんだよ?」
ガッカリした表情をして、魏嬰はまた天子笑を一口呑む。
「妻の顔を忘れた自分に絵師としての価値を見出せなくなったんだ。その絵師にとって、妻の顔がわからないまま思い出のある題材で描き続けるのは苦痛だったんだろうよ」
「そうか」
「そうだよ!」
すると藍湛は櫃から新しい紙を取り出し、仕事用の紙を他の場所に置くとそのまま魏嬰を見ながら何かを描き始めた。
「何を描いてるんだ?」
不思議そうな目をする魏嬰は、藍湛に近づこうと寝台から離れようとする。だが藍湛は「動くな」とだけ言って、天子笑を呑み続ける魏嬰を見ては筆を動かし、筆を止めては魏嬰をじっと見つめ、また筆を動かす。
その行為に気づいたであろう魏嬰の言葉が大きく静室中に響き渡った。
「なぁ藍湛! 絵師の真似か?」
「うん」
特に否定する必要もない藍湛は静かに頷いた。それから続けてこう言った。
「好きな人を描いている」
「うっわお前、昔に比べて正直になったなあ!」
魏嬰が驚きの声を上げると同時に、また笑い声をあげて自身の要望を伝えた。
「じゃあ俺をしっかり描けよ。俺が死んでも、お前がこの夜をいつでも思い出せるようにな」
「君が死んだら私はすぐ後を追う」
その言葉を聞いた途端、魏嬰はどこか悲しそうな顔をして、声音も同じようにどこか切なさを感じさせるものだった。
「そんなこと言わないでくれよ含光君。お前はそのまま天寿を全うしてくれればいいんだ」
「では生き続けよう」
「ああ! それでこそ含光君だ! 俺の含光君は俺の言うことを聞いてくれるし、お前の魏嬰もお前の言うことを聞いてやるよ。だからさ、この姿をしっかり残しておくんだ。いいか?」
「うん」
藍湛は魏嬰の放った『俺の含光君』と『お前の魏嬰』という言葉を気に入って、自分でも使ってみることにした。
「私の魏嬰、君の含光君は絵を描き終えた。どうだ?」
完成した絵を魏嬰に見せるために、寝台に座る魏嬰の隣に藍湛も座る。ゆっくりと服にシワを作らないように居住まいを正してから座る含光君は、魏嬰の目を見てその絵を渡した。
「……」
藍湛の魏嬰はそのまま渡された絵をじっくり見続け、近くにあった鏡を手に取り寄せてじっくり観察、吟味し続ける。その時間はとても長く、わずかな時間が何時辰にも藍湛には感じられた。
すると絵と自分を比べ終えたのか、魏嬰はほんのりとした朱色の頬をさらに赤くさせ、藍湛をじっと見つめると大声で笑った。
「あはははははははははははっ! 俺の眉毛までしっかり描きやがって! ここまで俺に似た絵を描けるのは、お前の観察眼がいいってことだ!」
そう言い放って、ふと黙り込む魏嬰。彼は含光君の淡い目を見つめて、その頬を手に取って言った。
「藍湛……。もっと俺をよく見て?」
誘うように藍湛に言葉を告げる魏嬰は、初恋を愉しむ若い娘のように歯の浮く言葉を続けて言う。
「絵の俺より、現実の俺の方が愛しいよな?」
細めた暗い色の瞳、朱色をさらに赤くしたような頬、血の気が感じられるほどに熱い手、誘う言葉のひとつひとつ。全てが藍湛の愛情と執着と劣情を誘う。藍湛はその全てに気を奪われて、気がつけば魏嬰を押し倒して抵抗できないように後ろ手にまとめて抹額で魏嬰の手を縛り、下衣を引き裂いていた。
あらわになった魏嬰の白い肩に噛みつき、自分のものだと、『私を忘れないで』と思いながらできる限りの力を使って魏嬰の肩にその跡を残す。
最初は大声をあげて泣いていた魏嬰も、藍湛が最初の噛み跡を残して彼を見ると涙を浮かべた目をして、また藍湛を誘った。
「そうだよ。俺は藍湛のものだ。いいよ、もっと噛んで。いっぱい噛んで、一生消えない跡を残してくれ」
それからは藍湛は覚えていない。
気がつくと世界は暗闇に戻っていて、静かに笑みを浮かべる魏嬰が腕を伸ばして藍湛を待っていた。魏嬰は死んでから、ずっとこの暗くて、冷たくて、寂しい地獄よりも辛い場所で自分を待っていたのだ。その人が求める抱擁を誰が断れようか?
藍湛は魏嬰の体に触れ、涙を流しながら言葉にならない言葉を吐いた。
『ただいま魏嬰』
藍湛が抱く魏嬰の体温が今は熱い。まるで人間のようだ。鼓動が高鳴ることはないが、それでも静かに暖かみのある道侶の体温も、ずっとこの世界で待っていた事実も、今は全てが愛おしい。
その暗闇は、暖かな牢屋だった。ふたりはずっと、これからもこの暖かな廊で幸せを享受し続けるものだと藍湛は理性が消えかけた脳でうっすら考えていた。
含光君が目を覚ましたのは、藍思追が目を覚ましたのと同じ頃だった。
「金持ちにいちゃん……、おほん、失礼しました。含光君、お体の調子はいかがですか?」
『金持ちにいちゃん』という言葉に反応したのか、体をゆっくり起こした藍忘機は聞いた。
「阿苑、君もあの夢を見たのか?」
「申し訳ございません。どうしても含光君が心配で、術を使ってしまいました」
藍思追は咎めを受ける覚悟をしていた。だが含光君はあっさりとそれを許し、ただこの言葉を言った。
「それは別に良い。それよりも思追、避塵を持ってきなさい」
あの夢を見た藍思追は、年老いた藍忘機が夷陵老祖の姿をした若い『羨にいちゃん』と再会を果たしたのを目撃していた。避塵を持ってこいと言う指示もそういう意味があると薄々勘づいてはいたが、含光君は若い頃よりさらに頑固になっている。それに、ずっと道侶に会いたがっていたのだ。
その意味を知れば、もう説得する気も失せてしまう。
「かしこまりました」
避塵を倉庫から取り出し持ってくると、藍思追はそのまま藍忘機に渡した。藍忘機が道侶を亡くして閉関してから、いつ含光君が道侶の後を追わないかという不安から、避塵はずっと藍家の倉庫に仕舞われていた。
長い間仕舞われていた避塵は定期的に手入れされていたからか、輝きを失うことは全くなく、むしろ最後の出番をずっと待ち続けていたようにも、藍思追には感じられた。
「阿苑」
そう小さく口にした含光君の声を聞くと、彼の首から赤黒い血が噴き出して、藍忘機はそのまま寝台に倒れた。
「金持ちにいちゃん」
そう返した藍思追は、藍忘機の眠ったように穏やかな死に顔を拭くと、藍家の人々を呼び出した。
それからはあっという間だった。自殺という外聞の悪い含光君の死に様は病死として世間や仙門百家に発表され、藍思追も若い頃の含光君と同じように二回の戒鞭を受けた。一回は含光君の自殺を手助けしたこと、もうひとつは本来魏無羨が受けるはずだった罰の分だ。
だがそれでも彼は藍家を破門されることなく、含光君のささやかな葬儀も任されて、魏無羨が眠る隣に藍忘機の亡骸を葬った。
戒鞭の傷が癒えて歩けるようになった頃、藍家の人々が眠る墓地の外れにある忘羨ふたりの墓地に、蓮の花を添えた藍思追は、金如蘭と話していた。
「なぜ含光君の自殺を手助けしたんだ?」
大人になって蘭陵金家の宗主として辣腕を振るうようになった彼は、背も伸びて彼の父のような立派な体と、母のようにどこか穏やかな部分も備わっている。
「それを話すのはふたりに申し訳ありませんから」
「そうか」
「ところで金宗主、あなたは雲夢の傘を持った女にまつわる話をご存知ですか?」
「ああ知ってるよ」
「江宗主がお話ししてくださったのですか?」
その答えを今度は金宗主がごまかす。
「そういえば何で知ってるんだろう。分からないな」
「そうですか」
「義伯父は……、魏無羨は最期の最期まで仙門を引っ掻き回したな」
「私はそうは思いません」
「愛というものはかくもおそろしいやつだ」
「だからこそ尊いものでもあるでしょう」
「そうだな」
金如蘭と共にお参りをする中で、藍思追は心の中でふたりに伝える。
「いつまでもお幸せに」
そのお参りから年月が経て、藍思追も金如蘭もこの世を去っていくと、忘羨ふたりの墓はあの絵師の墓と同じように長い年月雨風に晒され、刻まれた名前も消え、苔が生えてただの石となった。
だがあの暗闇の中で、ふたりは世間から忘れ去られようと永遠に暮らしていく。それだけは変わらない事実として残った。
今までも、今も、これからも、暗闇の中でふたりの奏でた曲は続いていくのだ。そしてそれは、ふたりにとって一番の安寧であり幸福だろう。