ともがき いつまでも、ゆめにみる。
彼のうつくしい瞳がおれを見ていた。まだふたつに分かたれていた時にはなかった色、彼らしいまばゆい色だった。そのなかに含まれていた感情に、おれは、そのことばを賜るまでまるで気がつきやしなかったのだ。
「もうきみは、とっくに僕の──……」
その瞳に偽りはなかった。心の底から紡がれた言葉だった。それを巧みに操る彼のうたがここちよく、同じく言葉を扱うものとして尊んでいた。だというのに、だからこそ。その瞳に、声に、言葉に詰め込まれたそれが、どうしても。
***
そのひとに初めて会ったのは、塵歌壺のなかだった。
まだ俺とパイモンしか入れないはずのちいさな箱庭、必要最低限のものしか置いていない広い館の一室で、空中に文字を書きつけている姿はいっそこちらを感動させた。指先から白緑の光が伸びていくさまが幻想的だったのもあるが、なによりも少しを声をかけたくらい、武器を向けたくらいでは気づかないのである。耳の遠い人に声をかけるくらいの音量でやっと俺たちを目に移した彼は、きょとんとした顔で言った。
「ありゃ、なんだ空き家じゃねえのか。生活感がねえもんで勘違いしてたよ」
わるかったな、借りてるぞ。おおよそ不審者でしかなかった。しかし俺たちは受け入れた。なぜかって、そのあとこちらが何を言っても彼は微動だにしなかったから。
パイモンはカンカンに怒っていた。まあ当然ともいえる。やっと雨風や魔物に侵されない安心安全の家ができたのに、突如として不審者が現れたのである。マルに聞けば、気配がこの箱庭と同化しているせいか気付かなかった上に追い出せもしないらしい。まあ悪さをすればわかるらしいので、パイモンを宥めつついつもどおり外へ出ることにした。彼はこっそり侵入野郎のあだ名をたまわった。
洞天に帰って来られたのはそれから数日後である。
璃月で休む間もなくいろんなひとの使いっ走りをし、くたくたに疲れていた。腹は減っているのに食べる気になれない。シャワーを浴びたいのにその体力がない。とりあえず寝たい。這々の体で塵歌壺を持ち出し、その中に入ったときに、ふと俺たちは思い出した。そういえば不審者がいるんだった。
ここで私物が荒らされていたら最悪だ、いやマルがいるからそれはないのでは。そんな話をしながらぼやっとした視界で館を見上げた時、玄関がゆっくり開いた。件の彼だった。
「おかえり。遅かったな」
外の時刻は日付を超えたばかりだった。まるで家人のような口ぶりにかちんときたのは一瞬、まなじりを釣り上げたパイモンが何か言うまえに彼がこちらに手を差し出した。
「飯できてんぞ」
めし????
ぽかんとする俺たちを、彼はなにやらつぶやいてから家の中に引っ張っていった。玄関をくぐった瞬間にほんのりえびのかおりがした。何もなかったはずのエントランスには大きなテーブルがあって、そのうえには鶏豆花と、水晶蝦、それからピリ辛蒸し饅頭が並んでいた。じわりと唾液が口の中にたまる。
「な、なんだこれ? 侵入野郎がつくったのか?!」
「そりゃアおれのことか? まあいい。そのまえに風呂だわな。湯は張ってあるから泥落としてきな。ほれ、あっちだ」
彼はさっと指を振って料理に白緑色の膜を張り、すぐさまどこからか吹いた風によって俺たちを風呂場へ追い立てた。シャワーしかなかったはずのそこは、彼の言った通り浴槽があって、湯気とともに程よい温度の湯がなみなみと揺蕩っていた。
眠ってしまいそうになりながらもなんとか風呂を出て、すこし疲れが取れたような心地でご飯を食べた。これがまた美味しいのである。薄めの味付けは疲れた体にじんわりと沁みて、食欲がないなんて思ったのが嘘のようにするする口の中に入っていった。パイモンなんか細かな食リポをしているくせに手が止まっていないくらいだ。おかわりが欲しい、と彼を見たところで、何も食べずに俺たちを眺めていた彼は空になった皿と交換で湯呑みを出した。
「足りねえって顔だな? また明日だ。それ飲んだら寝るこった」
「もっと食べたい〜! 侵入野郎!」
「やらん。八分目でやめときな」
湯呑みの中は蜂蜜の入った生姜湯だった。不貞腐れるパイモンと一緒にちまちまそれを飲んでいると、風呂の中にいたような心地がまた戻ってきて──……気がついたらベッドの中で陽光を浴びていた。
あさ、エントランスで約束通りたっぷりの料理を堪能してひといき。疲れが取れてすっかりまともに働く様になった思考で、昨日からの流れはどういうことだと相棒と詰め寄ったところ、彼の答えはこうだ。
「あン? 気にしなさんな。それよかいいのか? 今日も忙しいんだろ」
納得できねえなら置いてくれてる恩だとでも思っとくれ。ひらひらと振った手で頬杖を着いた彼は、そのまま整った顔立ちにおだやかな笑みを浮かべてみせた。
「いってらっしゃい。気ィつけてな」
それからずっと、彼は俺たちの洞天に居座ったまま、態度や行動もそのままだった。俺たちは偶然、旅人でありながらあたたかい食事とベッドの待つ家を持ってしまったのだ。
いうまでもなくパイモンの機嫌は爆上がり、比例して彼への好感度も上がっている。なにせかれのご飯があまりにもおいしい。初めて食べた料理が薄味だったから好みなのかと思いきや、拉麺や獣肉シチューが出てきたり、そもそも璃月だけじゃなく他の国の料理も網羅しているようだった。あれは疲れて帰ってきた俺たちへの労りらしい。彼はどうしてか俺たちの帰ってくる日時や疲れ具合を把握していて、それにあわせて全てを用意してくれるのだ。事情を訊ねても気にするなの一点張りでより不審さは増すばかりだが、かといって胃袋と生活を掴まれた俺たちはいまさらそれらを手放すこともできなかった。これが作戦ならば恐ろしい。
彼がいることで落ち着いたのは食事や睡眠だけではない。必要最低限のものしかなかった館はいまや立派に家として機能していた。外に出ていた簡易鍋と水場は中に持ち込まれてキッチンに、友人たちからもらった品々は自室の棚に、そして手に入れた本や資料が積まれるだけだった部屋は書斎になった。当然彼の部屋だって作ってある。遠慮されたのを押し切って机やらベッドやらを運び込むと、かれは観念したようにわらった。
「ありがとよ。おれにゃもったいねえくらいにいい部屋だ」
外にはマルの力を借りて木々や畑をつくり、猫や犬のような動物も放し飼いにすることにした。シャワールームは彼が勝手にいじったらしいが、ありがたいのでそのままにしておいた。バスタブに浸かる心地よさからは離れられそうにない。
こんなにも早く洞天をいじる余裕ができたのは彼がおおよその家事を引き受けてくれているからである。おおよそというのは、初対面の時の様に部屋にこもっている日があるためだ。空中や紙にずっと文字を書き付けている横顔を見ると、彼へ対する疑問が浮かんでは消える。どうやって洞天に入ってきたのか。なにをしているひとなのか。そもそも俺たちは彼の名前すら知らない。訊ねたところで答えが返ってくるとは思えず、けれどこの奇妙な共同生活はもうすっかり馴染んでしまっていて、関係性に心地よさすら感じているせいで崩す気にもなれなかった。いつか知れる日がくるだろう。そんなふうに呑気に構えていたおかげか、その日はわりとすぐに訪れた。
朝から冒険者協会の依頼をこなし、ヒルチャールやアビスの魔術師たちを蹴散らして昼頃。璃月港に帰ってきたら講談師の真前、いつもの席に座る鍾離先生と──……同席している彼を見つけた。
「し、侵入野郎?!」
驚いた。パイモンが上げた声が聞こえたのだろう、彼がゆるりとこちらへ視線を移してうすらに笑う。
「おう。奇遇だな」
「おまえ、外に出られたのか?!」
「ちび、お前さんたびたびおれのこと馬鹿にしてくるな?」
ひでえやつだ。喉を揺らして笑うさまに、おいで、と言われているような気がして身を寄せれば、きょとんと少しだけ目を見開いた鍾離先生が言った。
「旅人、彼を知っているのか?」
「知り合いというか」
「いまはこいつらんところに間借りしてる」
「……また勝手に住み着いてるのか」
仕方ないやつだ。ふう、と小さくため息をついた先生は、俺たちに席を勧めた。また、とは。首を傾げたが、店員が注文を聞きにくるのに思考は中断された。ふたりでそれぞれ頼み終えてから気がついた。テーブルの上には美味しそうな料理がいくつかのっているが、全て鍾離先生に寄っている。彼の前にはない。
「もう食べたの?」
「いや。おれぁひとが食べてるの見るのが好きでね。食べねえが、同席だけする」
今日もそれさ。会話に応えるように麻婆豆腐を口に運んだ鍾離先生を、頬杖をついたまま眺める姿には既視感があった。そういえば、彼はいつも俺たちが食べる姿を見るだけだ。時間がまちまちなので先に済ませているのかと思ったけれど、そもそも食べていないらしい。パイモンがぎょっとして彼を見る。
「ほんとか?! 腹は減らないのか? 何を楽しみに生きてるんだ……」
「パイモン……」
ご飯とお宝が大好きなパイモンからすれば信じられないのだろうけど。じっと非常食を見つめれば、なんだよぉ……と弱々しい声が返ってきた。
「」
璃月でばたばたしていたのがひと段落つき、久しぶりにモンド城へ帰ってきた。風は璃月よりも冷たく爽やかで、そう長く離れてもいないのに懐かしさすら感じる。ばったり会ったアンバーと鹿狩りで昼食を済ませ、名誉騎士として近くのヒルチャールを倒していく。終わったころにはすっかり日が傾いて、真っ赤な夕日が俺たちの髪と肌を赤く染めていた。
「今日はありがとう! とっても助かったよ」
「オイラたちにかかればこんなもんだ!」
「またいつでも呼んで」
騎士団の前でアンバーと別れ、足の赴くままに訪れたのは大聖堂前の広場だった。一足は段々と遠のいて、絶えず吹き抜けてくる風が、食事の匂いを運んでくる。
「腹減った〜! 今日のごはんはなにかな。な、空、魚が食べたくないか?」
「もっと早くに言わないとだめなんじゃない? 昨日のうちから魚肉を渡しておくとか」
「あいつならなんとか汲み取ってくれそうだろ〜? 今日は魚! モンド風焼き魚!」
勝手なことを言うものである。今作ってやっても相棒が夕飯を食べられないなんて事態は起こらないだろうけれど、彼のご飯はおいしくたべたい。というか俺が彼の味付けで食べたかった。近くのベンチに腰掛けて、お祈りでもしとくかと空を仰ぐ。夕日に照らされた風神像、その伸ばされた指先に人影を見た。
「あっ吟遊野郎!」
お〜い! 手を振るパイモンに、その人影はこちらを向いた。手を振りかえしつつ風に乗ってふわりとこちらに降りてくる。
「やあ、奇遇だね。璃月に行ったと思っていたけど」
「ちょっとこっちに顔出そうと思って。今日はモンドの気分?」
「まあね。特等席はいいものさ」
友人は健やかそうにちいさく笑んで見せた。あれから不調はないらしい。最近の出来事を聞こうとして、ふと思い立った。そうだ。もう洞天に人を呼べるのだった。
「ウェンティはこれから空いてる? 一緒に夕食にしよう」
「もちろんいいけど、今日はお酒が飲みたい気分でね」
「おまえはいつもそうだろ!」
「失礼だなあ。ひさしぶりに友人と出会ったのなら、美味しいお酒は必須でしょ?」
「どれだけ飲んでも咎められないとっておきの場所があるよ。俺の家」
「家? ……ふうん、たくさん聞けることがありそうだ」
ぜひ招待してよ。謳うように言った彼の手を取って、塵歌壺を持ち出した。突然の客にはなるが、今日も土産(彼はなにもいわないと置いてある食材を使わないから調達したら渡す習慣がついた)は用意したし、普段からいっぱい用意してくれている。きっと大丈夫だろう。
「驚くなよ? うちにはすっごい料理人がいるんだ!」
「人を雇っているのかい?」
「いや、そういうわけじゃなくて。いつのまにか洞天のなかにいたんだけど」
「……僕はきみのこと、賢いと思っていたのになぁ。お人好しもすぎれば毒なんだよ?」
「おい! 侵入野郎を悪く言うな! あいつのご飯はすっっごく美味しいんだぞ?! たしかに不法侵入者だけど……名前も知らないけど!」
「不審者じゃないか。パイモンはまあしかたないとしても、あれだけ勇敢なきみなのに。弱みでも握られたの? それか見えない友達?」
「どういう意味だそれ?!」
「まあ……握られたのは握られたかな……?」
胃袋と生活を。そんな呟きを最後に、塵歌壺の中に吸い込まれた。視界が明点し、次に目を開ければ見慣れた箱庭の中である。玄関前に浮かぶマルが、柔らかそうな体を揺らしながらこちらをむいた。
「おかえりなさい。お客様ですね? ようこそ洞天へ」
「ありがとう。この子じゃないみたいだね?」
「うん、マルって言ってここの精霊なんだ。あの人はなかにいるよ」
そう答えたとき、玄関扉がゆっくりひらいた。彼がいつもしてくれるお出迎えである。
「おかえり。今日は早かった──……」
ふいに声が途切れた。彼は小さく口を開けたまま、目を見開いて棒立ちになっていた。首をかしげる。彼の言葉が途切れることなんて、これまで一度もなかったのに。うつくしい見た目にそぐわないあらっぽい話し方をする彼は、代わりを用意することはあれど言葉を取り消したりはしないひとだった。
そこまで驚くようなことがあっただろうか。突然客人を連れてきたのはまずかったか。パイモンと視線を交わし、ついでウェンティを見て、驚いた。彼もまた同じように目を見開いている。まるで、もう会えないはずの知己に出会ったかのような、そんな顔だった。
ウェンティが言った。
「きみは、」
それよりも小さな声だったはずなのに、彼の声が、はっきりと耳に残る。
これまでの生活で聞いたことのないそれ。知らない場所で迷子になってしまったとき、自分ではどうしようもない状況が目の前に現れたときに出てくるような、よわよわしい声だった。
「かみさま」
かみさま?
彼ははっとして口を押さえた。それから眉間に皺を寄せ頬を揉むと、眉を下げて笑みを作る。
「ぼけっとしてわりぃな。お客人かい? そういうのは前もっていって欲しいもんだが」
「……ああ、うん。ごめん」
「まあ構わんよ。ちびの取り分が減るだけさ」
「えっ?! 今日も腹一杯たべるつもりだったのに〜!」
「はは。冗談だ、たっぷり用意してある。当然酒もな」
ちょうど蒲公英酒を買ってきたところだ。すっかりいつもの調子で館に入る彼にパイモンが文句を言いながらついていく。そのあとを追いながら、じっと扉の方を見つめるウェンティにこっそり問いかけた。
「……もしかして、知り合いだった?」
「ああ、うん」
俺と視線を合わせたウェンティは笑った。普段と同じ微笑、そこには微かな哀愁が含まれているように見えた。
「ふるい、友達だよ」
「俺ぁ部屋にいるよ。友人同士で楽しんでくんな」
彼が明らかな動揺を見せたのはあの一瞬のみだった。淀みのない手際でテーブルに料理を並べたあと、彼はそう言って、ウェンティにも声をかけて二階へ上がった。そのすがたはいつもの彼と変わりなく、きっと別の人を連れてきたとしてもこういう対応をしただろうと想像できる態度だった。だから引き止めようもなくて、彼が階段をのぼる後ろ姿をみつめるばかりだ。
扉が閉まる音がした。きっと、彼は部屋でひとり空中になにかを描きつけているのだろう。ウェンティは、慣れた仕草で蒲公英酒の蓋を開けるとコップになみなみと注いだ。
「まさか不審者が彼だとはね。さしもの僕も思わなかった」
でも彼なら安心だ。察しがいいのも相変わらずみたいだし。口をつけた酒をどこかうっとり眺めながら穏やかに言う。パイモンが待望のモンド風焼き魚(たしかに察しの良すぎる彼が用意した夕食は、全てモンドの料理だった)にかぶりつきながら首を傾げた。
「やっぱり知り合いなのか? なんか様子が変だったけど」
「そうだね。喧嘩別れ……じゃないけど。随分昔に離れたからじゃないかな? ほんとうに長い間会ってなかったんだ。会うこともないだろう……ってね。元気そうにしていてよかったけどさ」
「侵入野郎と喧嘩ぁ? あいつを怒らせるなんて相当だな……何したんだ?」
「だから喧嘩じゃないってば、もう」
ウェンティは不貞腐れたような顔を見せたけれど、それ以上の弁明をしなかった。話したくないのだろう。なおも掘り下げようとする相棒にあたらしい焼き魚を突っ込んで話題を変える。
「そういえば聞けることがたくさんありそう、って言ってたけど。何から聞きたい?」
「それはもちろん璃月への道行から。きみたちの旅は唄にしがいがあるからね」
「なにそれ」
「オイラたちはおまえの娯楽じゃないんだぞ!」
「褒めているのさ。実に自由な旅だってね」
どんなことがあったの? ウェンティがたずねたのを皮切りに、俺たちは変わるがわるこれまでのことを話した。見てきたこと、出会ったひと、それから出来事。彼はおもいのほかいい聞き手で、俺たちよりもたくさんテイワットを旅しているから景色の共有なんかもできて、美味しい料理もあって酒が進んだ。ウェンティは見るからに心地よく酔っているようだった。誘ってよかったと、そう思う。……あのひとにとってはどうか、わからないけれど。
満腹になったパイモンがソファで眠り始めて、ウェンティが机に懐くようになった。何本もあった蒲公英酒はもうひと瓶だけ、料理もからだ。さすがの酒豪も満足したろう。酒ですこしゆるむ視界のままテーブルの上をのろのろ片付けながら、ウェンティに声をかけた。
「今日は泊まっていったら? 客間があるよ」
「そうする〜」
ふふ、と意味なく笑う姿は完全な酔っ払いである。楽しそうで何よりだ。起き上がった彼がライアーを呼び出し、たわむれに爪弾き始める。
さきほどまで絶えずに話していたのが嘘のように静かな時間だった。メロディーのないただの音と、パイモンの寝息があるだけ。それもまた心地よかった。キッチンへ食器を運んで、客間を覗いてから帰ってくると、ふいにウェンティが言った。
「ねえ、旅人。彼はどうやってここにきたの?」
ひときわ穏やかな声だった。あえて避けた話だった。俺たちの道行には当然彼との出会いも含まれていたけれど、言及しなかった意味に気づかないようなひとではない。酔いがじわじわと覚めていく。
「わからない。壺をもらってそう日が経ってない頃にいつのまにか空き部屋にいたんだ」
「普段はなにをしてるの?」
「俺たちがいない間は、たぶん、ずっと文字を書いてる。あとはご飯を作ったり、お風呂の用意をしてくれたり。家のこと」
「ふふ。変わらないね、世話焼きなんだから」
ぽろろ、と柔らかに弦が鳴った。ウェンティの笑い声も同じような響きを持っていた。彼は緩慢に瞼を閉じ、それから小さくつぶやいた。酒が入っているとは思えないほど、落ち着いた横顔だった。
「元気にしているなら、それでいい。それでいいんだ」
影のある表情は一瞬で、彼はよいしょ、と明るい声をあげて立ち上がった。もう寝るのだろう。客間へ案内すると、彼は扉をくぐりながらへらっとわらった。
「仲良くしてあげてよ。とってもいいひとだからさ。ま、言うまでもないか」
「うん、むしろこっちが世話になってるし」
「気にしない気にしなーい。あれはもう彼の習性なんだよ」
世話を焼かせるだけ焼かしとくのがいいのさ。そんなことを言いながら、千鳥足でベッドに飛び込む様を見届ける。彼は酒に強いから、あのまま心地よく眠るのだろう。おやすみ、と声をかけて扉を閉める間際に呼び止められた。
「ねえたびびと。……これは独り言なんだけどさ」
「うん」
少し間があった。めずらしく、ほんとうに珍しいことだけれど、おそらく言うのを戸惑っていた。それでも彼は口にした。弱々しくはない、しかし芯のない声だった。
「僕はね。……きっと、彼の自由をうばってしまったことがある」
だからね。
「きみは、僕やほかのひとたちにしているように、きみらしく彼と向き合ってほしいな、なんてね」
おやすみ。小さなささやきを最後に、扉を閉めた。
館の屋根の上にいた。月は少し傾いて、どこからか吹く風が彼の淡い色彩をもった髪を撫でていく。涼しい夜だった。やや冷たくもあった。この箱庭に、四季や不快な温度なんて存在しないけれど、それでも、冷たいようで凛とした夜は彼によく似合っていた。
彼が部屋にいるものと思い込んでいたわけではなかった。ただここに来るべきだと思った。彼との関係はきっと変化を迎えるだろうけれど、崩れはしない。そういう根拠のない確信だけがあった。
邪魔をしないように、音を立てずにきたつもりだったが、彼にはすっかりお見通しのようだ。喉を震わせる音がして、彼が言った。
「ああ。お前さんは賢すぎていけねえ。言われたことあんだろ?」
「あるよ」
ちょうど、客間で眠りについているだろう友人に。そこまでは言わず、代わりにとなりに腰掛けた。食事中に言えなかったことを伝える。
「今日のご飯も美味しかったよ、ありがとう」
「そうかい。そりゃよかった」
「ウェンティも、喜んでた」
「……そうかい」
彼はそっと目を細めた。苦しんでいる様子ではなかった。長い睫毛が細かく震えるのに、彼の瞳からはなにもでてきやしない。少し長い前髪がまなじりをくすぐるだけだ。
「話したことはなかったが」彼が言う。「おれァ旅人なのさ。そこらを歩いちゃ、この目ん玉に見たものをこねくり回して書き写すのをずっとしてる」
「ずっと部屋でしてるやつ?」
「おぉ。どこでもふらっと立ち寄れるのがおれの強みでね、昔っからそうしていろんなとこを渡ってたのさ。それがあるときつかまっちまってね」
大昔の話さ。