星の無い空に願う読みかけの本をパタリと閉じて、寂雷は小さくため息を落とした。一日の仕事を終え、眠りにつく前のつかの間の時間。楽しみにしていたものの読めていなかった小説を半分ほど読み終わって時計を見れば、時刻は二十二時をまわった所だった。もう少し読んでから寝るかな、と思いながら目を閉じる。けれどそんな気持ちにもなれなくて、目の前の窓を少しだけ開いた。僅かな隙間から冷たい風が窓からなだれ込んでくる。頬をなぜるそれに、少しだけ気分が落ち込むのは最近身の回りで起きた出来事のせいだろうか。全国制覇を成し遂げたのもつかの間TDDが解散し、衢は未だ目を覚ますことなくベッドの上だ。誰が何のためにこの状況を作り出したのかは解らず、ただただ悶々とした日々を送っている。
そうしてもう一つ気になっているのは、TDDで一緒だった最年少の少年の事で。オメガとして産まれた彼は、チームが解散する前に新しい命を産み落としたばかりだった。子どもの父親のアルファの事は何一つ言葉にしなかったけれど、寂雷は何も聞かなくてもその相手が誰かと言うことが解っていた。だから、余計に心配なのだ。詳しくは知らないけれど、番であるアルファと酷い別れ方をした、というのは風の噂に聞いていた。アルファに捨てられたオメガの悲惨な最期を、医者で溢れ寂雷は数多く目にしてきている。身近な存在がそんな危険と隣り合わせにいるというのが気掛かりで仕方なかった。
ふいに机の上に置いていた携帯電話が着信を告げる。ディスプレイに映し出された名前に少しだけ驚いたのは、今の今まで頭の中に思い浮かべていた人物のものだったからだ。こんな時間に珍しい。もしかして何かあったのかも知れないと急いで通話ボタンを押せば、『寂雷さん……ッ』と少し震えた声が聞こえて思わず息を飲んだ。
「どうしたんだい? 一郎くん」
『すんません、寂雷さん。蒼空が――…』
蒼空、というのは一郎の産んだ子どものことである。彼がその小さな命を産み落としたのは、今から数ヶ月ほど前の事だ。一郎は父親のことを明言しなかったけれど、寂雷の目から見ればあの頃いつも隣にいた左馬刻がそれである事は明らかだったし、てっきりアルファとオメガが愛し合って番となっているのだろうと思っていたのだ。けれどどうやら左馬刻の方は一郎の番が空却だと思っているようだったし、一郎もその誤解を解こうとはしていなかった。彼らの間に何があったか詳しい話は結局聞けないままだったけれど、そう言う事情も相まってか、今一郎は、幼い弟達と共に、男手ひとつで小さな子どもを育てている。寂雷は医師として定期的に一郎の子供(蒼空)の検診をすることで関わりを持ってはいるけれど、これまでそれ以外の事で一郎から連絡が入ったことはなかった。いつでも相談にのる、と強く言い含めてはいるけれど、出会った頃から、どうにも大人に甘えるということに対して不器用な面がある子どもだった。それでもTDD時代の終盤は頼られている、と思うことはあったけれど、チームが解散してからはまた連絡もあまりなくなっていたのである。
その一郎が、自分を頼って電話しきている。それだけでもただ事ではないのがうかがえた。
「どうしたんだい? 蒼空くんに何か?」
出かけなければならないことも想定して、椅子から立ち上がって上着を羽織る。電話の向こう側の一郎は『熱が高ぇって思ってたら……さっきから、身体固まって……、手足が震えてて……』と途切れ途切れの声でそう言った。
「一郎くん。落ち着いて」
寂雷は車のキーを手に取って、そうしてゆっくりとした口調で一郎に告げた。無闇に安心して良い、という事は出来ないけれど、一郎の説明している症状には心当たりがある。
「何分くらい、そうなっていますか?」
あえて診察の時のように問いかける。電話の向こうの一郎は、その言葉に口を噤んだ。
『時間、っすか……』
繰り返している一郎の側で、「いちにい、一分くらいです」という弟の声が聞こえる。混乱している兄にかわり、しっかりしなければと思っているのだろう。彼らも未だ、“子ども”と言って良い年齢なのに。
『……一分くらいっす』
「わかりました。まだ続いているかな?」
『痙攣は、おさまってて……すんません寂雷さん。本当は救急車呼ばなきゃなんなかったっすよね』
一郎が言うのに、寂雷は「そんなことないよ」と言い聞かせるように言った。子どもの痙攣が治まって、一郎もようやく冷静さを取り戻したのだろう。ならば良い。
「気にしなくて良いからね。それに1分で痙攣が治まっているなら、救急車を呼ぶ必要も無いよ」
『そうなんっす、か……?』
半信半疑の一郎に頷きながら、寂雷は「それはね、」と言葉を続けた。
「恐らく熱性の痙攣です。とりあえず、床に寝かせてあげて、首回りがつまっている服を着ているようならゆるくしてあげて……、あと吐いても良いように首は横を向けておいてね」
基本的な対処方法を伝えながら、寂雷は自室の電気を消した。恐らくこのくらいの子どもがよくなりがちな高熱による痙攣ではあるだろうけれど、自分の目で確かめておきたい。
「今はどんな調子かな?」
落ち着かせるようにゆっくりした口調で言う。そうすれば一郎は『今は寝てます』と小さな声で言った。電話をかけてきたときより随分落ち着いた声音に安堵する。ひとまずパニックは脱したようだった。
「良かった。近くに救急病院はあるかな? 当番医が解れば良いのだけれど」
言えば一郎は『近くにあります』と言う。もしかしたら隣にいる弟達が調べたのかもしれない。ほんの少しだけ一郎の周りが静かになったから、寝ている蒼空を起こしてはいけないからと場所を変えたのかもしれなかった。
「私も今から向かうけれど、少し時間がかかるからね。看て貰えるようなら、そちらの救急にかかって貰って」
寂雷の言葉を一郎は「はい」とひたすら頷きながら聞いている。声音から焦りが消えたから、少し自分を取り戻したのかもしれないなと思った。
『すんません、ほんと……。たぶん、こんな焦るようなことじゃないんっすよね』
一郎が自分を責めるような口調で言うのが分かったから、寂雷は「そうじゃないよ」と緩やかに首を振った。そうじゃない、自分を責めるようなことではないのだ。
「誰だって最初は驚くんだよ。救急車を呼ぶ親御さんだって多いんだから、一郎くんが私に電話してきたのは正しい判断です」
言い聞かせるように言う。そうすれば電話越しの一郎が『っす』と小さく頷いた。そして。
『寂雷さん、俺……情けないんっすけど――』
一郎の顔は目の前には見えない。けれど、苦みを持った声音に、辛そうな顔で絞り出すように言っているのが想像出来た。
『一瞬、アイツ(番)の顔浮かんじまったんだ。俺一人じゃどうにもなんねぇって時』
一人で育てるって決めたのに、情けないっすよね、と一郎が自嘲気味に笑う。恐らく寂雷が一郎の番が左馬刻だと知っていると解っているのだろう。それを直接言葉にしたことはなかったけれど、聡い一郎の事だ。寂雷の言葉の節々にそれを感じ取っていたに違いない。
「情けなくなんて無いよ……それに君は弟くん達と一緒に乗り越えたじゃないか」
きっと心細かっただろう。己の産み落とした小さな命が、いきなり意識を失って手足を痙攣させて。抱きしめたときの高熱に、恐怖したことだろう。弟達が近くに居ても、救急車ではなく寂雷に電話をかけてくるほどには混乱していたのだ。
そんなとき、頭に思い浮かべるのが番(左馬刻)の存在だというのは、何らおかしいことじゃない。だって、TDD時代の二人はあれほどまでに距離が近くて、一郎に何か困ったことがあれば、左馬刻がすぐに手を差しのばしていた。端から見れば、あの二人は確かに“愛し合っている番”に見えていたのだ。急に別れを突きつけられたところで、簡単に忘れられるものではないだろう。
『――っす、ありがとうございます』
「とりあえず、すぐに蒼空くんを当番医のところに連れて行ってあげてください。私もすぐに向かうからね」
言い聞かせるように言葉を伝えて、電話をきる。駐車場に止めてある車のキーを開けて、急いで乗り込んだ。
どうして、こんな風にすれ違ってしまったのだろう。そんな事、今となってはもう解らない。けれど、一生懸命肩肘を張って子どもを育てている一郎(子ども)が、少しでも頼ってくれる存在でありたい。もう解散してしまったけれど、大事なチームメイトであったことに変わりは無いのだ。寂雷はアクセルを踏み込んでイケブクロに向かう。星のない真っ暗な夜に、月明かりだけが輝いていた。
「寂雷さんも言ってやってくださいよ。過保護すぎだって」
目の前の一郎はコークハイを片手に、そう言いながら笑う。隣の左馬刻が不機嫌そうな顔をして、「でもよぉ先生」と寂雷に顔を近づけながら言った。
「確かに蒼空の熱高かったんだぜ? 39度って大人なら倒れてンだろ?」
「そりゃ熱たけぇけど、深夜に病院いくって騒ぐからさぁ。座薬入れて様子見とくべきだつったら喧嘩になって」
ケラケラと上機嫌で笑う一郎を見て、寂雷はニッコリと笑った。
あれから月日は流れ、中王区の高い壁は無くなった。衢も目を覚まして、リハビリをこなしながら元気に過ごしている。そんな中、今日は元TDDが集まっての飲み会だった。乱数は締め切りに追われているとやらで到着が遅れているから、とりあえず3人ではじめたのだけれど、すでに左馬刻も一郎も良い具合にアルコールがまわっている。
一郎がオーバードーズによって倒れたことをきっかけに左馬刻と番である事を明らかにして、二人はようやくあるべき所に戻った。今は左馬刻がイケブクロの家に引っ越して、一郎と蒼空と家族三人が一緒に暮らしている。寂雷は定期的に診断しているから一郎と蒼空の様子はよく目にしているけれど、左馬刻と一郎のセットは久しぶりだった。どうやら今日、蒼空は合歓の家でお泊まりしているらしい。先ほど、ふわふわのパジャマを着せられた蒼空の写真が送られてきたのを見せられたばかりだった。
「子どもなら39度くらいでるんだって。俺だって心配してねぇわけじゃねぇけど――って寂雷さん、何かおかしいっすか?」
一郎に顔をのぞき込まれて、寂雷は己が無意識に笑っていたことに気がついた。あの時、一人で心細いと電話越しに声を震わせていた一郎(子ども)は、こんなにも頼もしく、そして、幸せそうにしている。
――それが、なんだかとても。
「いや、良かったなぁ、と思ったんだよ」
言ってやれば一郎は同じ日の事を思い出したのか、照れくさそうに頬をかく。左馬刻が不思議そうな顔をしているのに寂雷は「それでは少しばかり、昔話をしましょうか」とニッコリと笑ったのだった。