ポップソング 夜八時、肉と油と軽快な声たちがひしめく店内にて──
小さな丸テーブルを囲みパチパチと肉の焼ける音に心を躍らせる三人の人間。オ・ジファ、ジフン姉弟、その真向いにはグラスを控えめに傾けるイ・ドンシクがいた。
「で、最近どうよ新しい恋人とは」
網の上の肉を転がしていたジファがやにわに口にした話題に、ドンシクは傾けていた手をぴくりと止めた。
「なんだよ急に……」
ドンシクが訝しげにそう答えるとジファの横でスマホをいじっていたジフンが徐に顔をあげる。会話に加わりたいのだろうか妙に真剣な顔になってドンシクの方に身体を向けた。
「いいでしょなんだって別に。あんた、ここ最近そういう話題無かったんだから、ある時ぐらい聞かせないよ」
「ある時つってもな、別に話すようなこともないんだが」
「は?本気でいってんの?あのハン・ジュウォンでしょ何かないほうが変でしょうが」
「ん─…」
ジファはドンシクの言葉を聞き逃さんと椅子を隣に移動させると、酒でやや上気した顔に好奇心を滲ませた。その弟ジフンもこれまた同じような顔でドンシクを見つめている。流石姉弟といったところだろうか。最早避けられない二人の視線にドンシクは空になったグラスをじっと見つめた。
オ・ジファ、ジフンは策士であった。
今回の飲み会、実はあのハン・ジュウォンとドンシクが付き合っているということが明らかになって初めて開かれるものであり、誘い文句は普段と変わらないものだったが、その中身は二人の惚気の一つや二つ聞き出してやろうと計画されたものだったのだ。酒が入ればなんとやらである。
「もったいつけてないで言いなさいよ」
「いやなぁ……」
「ん?」
「……どうせ暇つぶしだし」
「あんた…それ」とジファが言葉を続けようとしたその時、ドンシクの背後、店の入り口付近からけたたましい音がした。騒がしい店内とはいえ店中の視線が発信源と思わしき人物に集中する。ドンシクもそれに倣って振り返ると、そこには恋人ハン・ジュウォンの姿があった。
「ええ……ナニ?」
何故だか分からないが我驚愕と言わんばかりに目を見開いているその人。双眸の中に収まる黒々とした瞳にドンシクは酔いが一気に醒める心地がした。
「ちょっと、この人お借りします」
「「どうぞ」」
この会話わずか三十秒。ドンシクはジュウォンに促され「ええ?」とか「う~ん」とか言いながらしぶしぶ腰を上げる。ジュウォンはドンシクが立ち上がったのを見ると余程居心地が悪いのかジファ、ジフン姉弟に軽く頭を下げ、ドンシクを待たずして出口に向かって歩き出した。「じゃちょっと抜けるわ」上着のファスナーを閉めてドンシクはジュウォンの後を追いかけ店を出ていった。
「わあ、本当に付き合ってる」ジフンがぽつりと言った。
彼らが出ていったあとぼんやりとしていた二人だったが、暫くして「ヒョンの肉って……」ジフンが飄々とした口調で言えば、「食べましょ食べましょ、冷めたらまずくなる」とジファもよく通る声で新たに肉と酒を注文した。
普段通りの飲み会が始まった頃、ジファのスマホにメッセージが届いた。
「現金が無かったので、あとで請求をお願いします」
髪を搔き上げた手でそのまま頬杖をつき、送り主に思いを馳せる。あの面を思えば、ドンシクのことを若干気の毒に思うものの、心配の種が一つ減ったようなすっきりとした気持ちもした。返信は短く、また呼びますからその時にでも、と送った。
やんわりと綻んだ心に酒と肉がしみていく。
ドンシクが外に出ると路肩にジュウォンの車が停車していた。
なんてこった、なんだか悪い予感がする。正直素通りしてしまいたい。しぶしぶ助手席に乗りこむと車が発進する。あれれ、借りて返さないタイプだったかこの人は。突然夜のドライブとやらが始まった。
最初こそ音を立てていた暖房の音も温かくなった今では静かなもので、車内はさきほどから静まり返っている。無言って怖いな、というかこれは半ば誘拐、拉致じゃないだろうか。
横目でジュウォンの顔を見れば、乱れることを知らない普段通りの顔がそこにあった。しかしこういう時の方がこの人の場合恐ろしいのだ。内心というやつが溢れないように普段の顔を貼り付けているのだから。
「なんだか俺、拉致された気分なんですけど」
「二人には連絡したので大丈夫です」
「そういうことじゃないんだけど」
「理由、聞かないんですか?」
「話すの待ってた」
「ああ」
「……」
ハン・ジュウォンのスマホにその連絡が来たのは目的の店の前に到着した時だった。
送り主はオ・ジフンで「こんにちは、今どこですか?」という文面だった。
─店の前に駐車したところです。何かありましたか?
─そのまま車内で待機してもらってもいいです?
─何かあったんですか?
─うるうるとした瞳でお願いのポーズをするクマのスタンプ
待機すること五分
─今から電話かけますけど、声は出さないでくださいね。
は?と思った時には電話がかかってきて、言われた通り声は出さず画面に耳を近づける。
雑音と金属同士があたる音、どうやら店内からかけているらしい。そのまま聞き耳を立てていると、音の中に聞き覚えのある声がして、それがジフンの姉ジファのものであるということが分かった。
『なんだよ急に……』
ドンシクさんの声だ。なるほどこの電話、どうやら盗聴らしい。ことに気づいたジュウォンは、スマホの画面を下にしてダッシュボードの上に置いた。少しの興味、好奇心というやつが燻って終了ボタンを押す手が止まり、いけないとは思っても恋人の心の内が聞ける機会に欲が出た。再びスマホを手に取って耳にあてた。
『もったいつけてないで言いなさいよ』
『いやなぁ……』
『ん?』
『……どうせ暇つぶしだし』
そこからは早かった。車から飛び出し、車にドンシクさんを連れ込む、以上。驚くべき行動力だと自分でも思った。
運転中何から切り出すべきかひたすらに考えたが思考が上手く纏まらない。
【暇つぶし】
暇つぶしってなんだ。暇をつぶす。暇……ひま、ひま。僕は暇なのか。そんなことを考えていたら「なんだか俺、拉致された気分なんですけど」と、隣から一声。拉致とは随分な言い草だと思うものの、確かに突然店に入って来て現在この状況であれば確かに拉致されたというのが一番しっくりくる表現かもしれない。また暫く沈黙が続いた。
「理由、聞かないんですか?」痺れをきらして口にした言葉は拉致した側が言うには相手の出方を窺うような弱弱しいものだった。
「話すの待ってた」
「ああ」
そういやこの人はこういう人だった。ジュウォンは変に要約せずそのままを伝えることにした。
「なるほど、盗聴に拉致……警察官ともあろうものが」
「あの……そんないじめないでくれますか。大体盗聴は僕が計画したことじゃないですから」
「ふーん」
まずいな。完全に相手のペースになってしまっている。思い出すんだ!この人のとんでも発言を。あのとき自分が感じた感情を思い出せ。
【暇つぶし】
くそっ!なんだよ暇つぶしって、そんな風に思われていたなんて……。感情を思い出してきたらなんだか泣けてきた。泣きながら運転などしたら、ドンシクさんから今度は情緒不安定だと心配されてしまう。
どうして僕たちの関係を暇つぶしなんていったのだろう。
いや待て、そもそもこの言葉の主語はどっちだ?
あの言葉聞いた時、ジュウォンは自分が主語側だと思っていた。ドンシクさんは日頃から「よくもまあこんなおじさん捕まえてよく言うね」や「若い故に時間が沢山あるからね冒険してみるのもいいんじゃない」とか、そんなことをよく言っていたし、言葉の端々にどこか一歩引いたところがあったので、ドンシクさんとの交際を暇つぶしに行っている己、という構図はさも彼が考えていそうなことではあった。
とんでもない構図だ。
しかしもし、主語がドンシクさんだったとしたら?
「暇つぶしって──」
「え?」
ドンシクは少し驚いた後に「ああそのことね」と落ち着いた声で言った。声が遠くなったので、恐らく下を向いたか窓の方を向いたのだろう。
「ドンシクさんは僕と暇つぶしで付き合っていたんですか?」
思わず声が震える。ああどうしよう。正直暇つぶしで付き合ってもらっただけでも嬉しいことには嬉しかった。それぐらいに僕は彼のことが好きだったから。
「はは。酔っ払いの戯言ってのらくらしようと思ったけど無理かぁ。いやでも戯言には変わりないか……めんどくさ」
敢えて言葉を挟まずジュウォンはドンシクを持った。
「自分でも──」
分からないんだ。あなたと一緒にいること、喋って飯を食べること、恋人ってやつであることはいいなと思う。心地がいい。手を振れば絶対振り返してくれる人ができた感じって言えばいいか。あなたは俺じゃないし、俺はあなたになりえないことを理解してくれて、それでも等しく共にあれる。
けどさ、幸せだなと思うと何処かで別の穴が開く。もはや趣味かもしれない。そう考えるのが当たり前になってしまってる。あなたが万力で俺の心を矯正してもそれは治らないと思うし、それがなんだか申し訳ないとも思ったりする。あなたでは変われないんだって。そういう場所まで自分が来てしまったんだって思ってね。そして今日、まんまと酒に酔ってあの発言ですよ。めんどくさいにも程がある。空いた穴を偽りのあなたで説明しようとした。きっと暇つぶしだから、幸せの中にこんな気持ちになるのも仕方がないってね。ははは。
「怒った?」
ドンシクは窓を開けて夜風を吸い込んだ。街頭だって全てを照らせるわけじゃない、そんなこと分かっている。
「ドンシクさん、ちょっと車止めます」
ジュウォンの声にはっと顔をあげる。ゆるゆると速度を落とした車は、小さな公園の駐車場で停まった。ドンシクは自分から動くわけにもいかず相手の意図を探るようにジュウォンの方を窺い見た。するとジュウォンも同じくこちらを見ており、暫くぶりに視線がかち合う。黒い瞳は相変わらずキラキラとしていて死ぬほど気まずかった。
「ちょっと外に出ましょう」
ジュウォンがそう言った。
ああああああああああああ。悲しい。心が痛い。分かっていたはずだった。ドンシクさん、僕はあなたが諦めるとか飽きるとかそんなことを楽観的に考えていたんでしょうか?阿呆!
車を停めたのはなにも計画あってのことじゃない。情緒が大変な時に運転はやめたほうがいい、安全第一というだけある。泣きながら運転する人の隣には誰も乗りたくないだろう。
外に出ると冷たい夜風が肌を撫でて、危なかった涙腺がキュッと閉まった。助手席に回ってドンシクさんが出てくるのを待ち、彼が上半身を車外に出したところ、両手で素早く彼を包み込んだ。行動を起こさなければ何も為しえない。ジュウォンにとって自身の悲しみを埋めるのは、能動的な行動の積み重ねただそれだけだった。
「えッちょ……」半ばジュウォンに引き上げられるようにして車外に出たドンシクは動揺を露わにしたまま腕の中におさまっている。
「……」
「えと、あ~……あったかくていいね」ドンシクはジュウォンの頭を撫でさすった。
「心配しないで怒ってないですよ」
ジュウォンがようやく反応した。ドンシクの怒った?に対する返事であろう。
「そっか」
「でも、きずつきました」
「ごめん」
「こんなの僕にとっちゃ暇つぶし」
「……ごめん」
「傷ついたし悲しいけど、あなた由来なら耐えられます」
「そっか」
「暇つぶしじゃないですから」
「うんうん」
「あなたもですよね?」
首にまわした腕を外して、ジュウォンがドンシクを見つめる。ドンシクは心が揺さぶられる心地がした。ああ恐ろしい、恐ろしい人だ。
「そうだね。暇つぶしには贅沢すぎる」
ドンシクはジュウォンの頬に手を当てながらそう言った。
「ああ本当に」
ジュウォンが笑った。ささやかな笑い声と瞳から落ちた宝石らしい一滴はドンシクの渇いた心と指先に滲んで消える。
とある夜の出来事であった。
完