初日の出を待つフロストリーフと、仕事を抜け出したドクターの話 ヘリポートに繋がる通用口を抜けると、空にはまだそれなりの数の星が瞬いていた。
時刻は深夜と早朝の境。日の出を目前に控えた空は地平線に近い場所から徐々に白み始めている。適当に座れる場所でもあればと辺りを見回したが、ヘリポートにそんな余計なものが飛び出しているはずもなく、代わりに視界の端に引っかかったのは小さな人影だった。
「フロストリーフ……か?」
「ん、ドクターか」
徐々に明るくなり始めているとはいえ、いまいち判然としない視界の中で直感的に『そう』思っただけだったのだが。小さく跳ねるように揺れた尻尾と声は間違いなく彼女のものだった。普段なら距離を取られてしまうぐらいまで近寄ってようやくはっきりと見えるようになった彼女は、いつも通りのすまし顔でこちらに視線を向けていた。ただひとつ、鼻先が赤くなっていることを除けば、だが。
「上着いる?」
「……そんな震え声で聞かれてもな」
「見栄っぱりな上司の顔を立てるのも秘書の仕事ってことでひとつよろしく頼むむよよよ」
必死に体の震えを抑えてみたのだが、なぜかその振動が口先に集まってしまったようだ。語尾が謎のバイブレーションを起こしている。口先の震えを抑え込むと身体が、身体の震えを抑えると今度は肘から先と膝がガタガタと震え始めて終わりが見えない。その様子を眺めていたフロストリーフはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「上司ならオペレーターの特性ぐらいは把握しておくことだな。この程度の寒さ、私にとってはどうと言うことはない」
「鼻先が真っ赤だけど」
「……生理現象だからな」
「コタツの申請出してきたの君が最速だったけど」
「見ろドクター、かなり明るくなってきた。もうすぐ初日の出だ」
露骨に話を逸らされたことはさておき、彼女の口から『初日の出』という単語が出てきたことが意外で、それ以上の追求はやめておくことにした。どのみちつついたところで頑なに無視されてただろうとは思うが。
彼女の言う通り、私がここにきた時より幾分か空は明るくなっている。大地との境界線から空に向かう朱の割合が目に見えて広がり、多少距離が離れてもお互いの顔がはっきりと見えるようになっていた。
「君は傭兵として飛び回っていた期間が長いんだったね」
「それはそうだが……ずいぶんいきなりだな」
「いや、『初日の出を拝む』なんて極東周辺の風習、クルビア出身の君が知っていたのが少し意外でさ。ここに来てから誰かに教わったのか、それよりも前にどこかで聞くことがあったのかと思っただけだよ」
彼女はあまり自分の過去について語ることをしない。こちらが積極的に聞き出そうとしていないのもその一因ではあるのだろうが、データベースに記録されている情報以上のものを彼女自身の口から聞いたのはごく僅か。たまに尋ねたところで聞き流されるか適当な話で誤魔化されるのが関の山だった。今回もそのどちらかになるのだろうとは思いながらも、僅かな期待を胸に彼女の言葉を待つ。その間にも空はみるみる明るさを増し、夜の気配は追い立てられていく。
「どこまで記録を見たかは知らないが……確かに私は傭兵として各地を渡り歩いていた。様々な土地を転々とする生活を始めて間もない頃、私を一方的に友人認定する変わった奴がいたんだ。極東出身の彼女からは色んな物をもらったよ。故郷の風習に関する知識やら、工芸品の変わったガラス玉とかな」
彼女の声には昔を懐かしむような響きがあった。しかしその端々には後悔や未練が混ざり込んでいる。
「私は――いや、私だけじゃないな。ここにいる連中は皆地獄のような惨状を見てきた。そんな中で神に祈った友人を知っている。それに応えてくれた神がほとんどいないことも」
地平線から溢れ出した光が、薄明かりに慣れていた目を突くように飛び込んできた。かろうじて残っていたまばらな星が、ゆっくりと東雲色に飲み込まれていく。目を細めた彼女は相変わらずのすまし顔でそれを眺めていたが、その横顔には先ほどまでとは違う憂いが滲んでいた。
「なぁ、ドクター。これは一年の幸福を、息災を神に祈るためのものなんだろう?なら神に見放された私達は、神に見放されたこの大地で、一体何に祈ればいいんだろうな」
それは尋ねるというよりも無意識に溢れ出してしまった言葉に聞こえた。私の答えを期待しているわけではないのだろう。細めた瞳は登り始めた太陽すら通り越して、ここではない遥か彼方へと向けられている。
「エクシア達に聞かれたらえらいことになりそうな話しだね」
「ふふ、それは……まぁそうかもしれないな」
思いもかけず珍しい声を聞いた。それは時折聞くような自嘲じみた笑いとは違う、軽くて楽しげな笑い声だった。年相応、と言うにはやはり少しませた笑い方ではあったが、それは彼女らしさと言うことなのだろう。それがただ嬉しかっただけなのだが。
「お、初笑い」
「……ドクター、そういうのは若い子から嫌われるからやめたほうがいい」
「マジか」
「残念ながら『マジ』だ」
どうやらそれをいちいち指摘するのは悪手だったらしい。そう言う当の彼女は相変わらず楽しげではあったが。
軽口を叩く間にも空は明るさを増して、夜の気配はすっかり遠くへと追いやられていた。早朝の澄んだ空気は、日が昇り始めたとは言えしっかりと冷え切っていて、吹きつける風はどこまでも鋭い。震えながら地平線を眺める私達の目の前には「神に見放された世界」にしてはやけに美しい朝焼けが広がっていた。
「祈らなくてもいいよ」
そんな景色を前にしたからかもしれない。先程の彼女と同じように、それは口から零れ落ちていた。
「そのために私達がいるんだ。応えてくれるかもわからない神様より、ケルシーやアーミヤ、ついでに私をただ信じてくれればいい。無線も祈りも届かなくたって、君達が窮地にいるならきっと助けにいくよ」
「……たかが傭兵のために重役が出てきてしまっては本末転倒もいいところだな」
「残念ながらね、うちの代表は仲間のピンチに自ら死地に飛び込むタイプの困ったうさぎさんなんだよ。君は一度経験しているからよく知っているだろう?」
「あぁ……あったな、そんなことも」
思い返すとずいぶん昔のことのように思えた。あの日廃墟で出会った、冬を宿した美しい白ウサギとの全ては、それまでと同じように私たちの中に浅からぬ傷跡を残していた。軽すぎる体を、その指先の温もりを、私はまだ覚えている。「彼」のマスクを手に取るアーミヤの背中を、最期まで盾であり続けた古老の咆哮を、ただ、覚えている。
「そう言うことなら祈るのはやめておこうか」
「……うん。それがいいよ」
私は、私が救えなかった彼等のことを覚えている。だからこれは何処までも無責任な願いでしかないと、理解してしまっている。それはきっと隣で笑う彼女も同じだろう。目覚めてから僅かな時間しか経っていない私ですらこれだけのものを見せつけられたのだ。遥かに長い期間戦いの中に身を置いてきたフロストリーフという少女は、それだけ取りこぼしてきたものも多いはずだった。
現実を知らない愚か者が嘯く大言壮語。それを信じてくれると言うのなら、私達は可能な限りそれに応えるべきなのだろう。
「すっかり日が昇ったな」
「そうだねぇ……あ、忘れてた」
昇り切った太陽に目を細める彼女は、相変わらず退屈そうな表情を浮かべている。いつもと変わらないそれに、先程の憂いはもう見当たらない。
「あけましておめでとう、フロストリーフ。今年もよろしくね」
「あぁ、こちらこそよろしく頼む。……ところでドクター、初日の出の見物に来れたと言うことは、朝までかかると言っていた仕事は早めに片付いたんだな。案外やるじゃないか」
「……君最近ケルシーに似てきたって言われない?」
片付いていない仕事はデスクに山積みになっている。束の間の休憩を終えたら、私達はまた終わりの見えない仕事に取り掛からなければならない。手を取り合う仲間達と、置き去りにした彼等のために。