SLEEPWALKわからないことをわからないままでいる事はどこか居心地が悪いと思う。少なくとも盧笙はそう思う。
だから数学が好きだ。答えがあるから。
また知識を仕入れるのも好きだ。わからないことがわかるかもしれないから。
と、盧笙は思っている。
「あー、そういうことかぁ。」
と簓がそう独り言をボヤいた。
なんや と、その向かいで冷凍枝豆をぷちぷちと食べていた盧笙は思わず手を止め簓を見た。
400g 198円の激安冷凍枝豆を握りしめて、簓はぷちっと とりあえずさやから豆を一つ皿に出した。そして、
「△△兄さん、昨年あたりからやたら恐妻家アピールするやん、あれ、意味わかった気がする。キャラ枯れたからそういう新しい位置づけ?肩書?でやっとるだけやと思ってたんやけど。」
と一気に言い切った。
全然そんな前フリ、簓が名を出した芸人の名前など直前まで二人の間で出ていなかった。
まだ全然アルコールも回っていなかった。会話すらしていなかった。何故なら盧笙は三十分ぐらい前に帰宅したところで、部屋で簓がお帰りと待ち構えていた。そして腹減ったと簓がやかましかった。のでとりあえず冷凍庫の枝豆をチンして簓の前に出した。それから予約セットしていた洗濯物をぱぱっと干して、どっこいしょと座ろうとしたら、無くなったつぎ、と簓が言ったから、キレながら二人分の枝豆をまたチンして、置いて、お前ワガママすぎやろ、とビール一口飲んでから簓を怒って、そしたら、△△兄さんの話だ。
意味がわからない。盧笙が分かるのは簓が色んな意味で大人としてどうかしてることぐらいだ。
「物の見方がエグいねんお前は。」
「あの人のあれなー、キャラやないかもしれん」
「はぁ」
「ウン。ひょっとするとこれからの俺の芸人プランに必要なんは怖い奥さんかもしれん、なんや、多分、そう。…うん、じゃあ、アレやな、ほな、……──と、いうわけでカルティエ?よんどなんちゃら?知らんけど、シンサイバシで買うて来る、付けんでも付けてくれてもええで、あ、指のサイズもばっちり知っとるから安心してな」
「…?何の話やねん」
簓の言葉の意味を途中で見失い、盧笙は思わず手にしていた枝豆をぎゅっと握った。枝豆から液が出てじわりと指先が濡れる。
「そういえば改名って確か認められんのルールがあって、希望するお名前何年も自分名乗ってましたよ〜って証明出来たら裁判所が認めてくれて変えれるんやっけ。あーせや、確か離婚もそうやなぁ。長期間別居してた事実証明できたら離婚できるんやって。逆にそうならんかな結婚も。」
盧笙はまじまじと簓を見た。目の前の糸目が自分と同じ言語を話しているのかわからなくて少し怖くなった。まず最初の△△サンが恐妻家を吹聴する意味がわかったというところから正直盧笙はわからない。ほんと増えた最近、こういうことが。
「ごめん、ほんまにお前の言うてる意味がわからん」
「次のラジオの回で結婚発表しよ思うわ、俺」
「…は?」
俺、と言って簓は枝豆に口を付け中の豆をじゅっと吸った。そのまま何食わぬ顔で咀嚼する。簓の前にはまだビール缶が一缶のみ。簓が何時から盧笙の部屋に滞在しているのかはわからないがお帰りと言った時はシラフだったように思う。そもそも簓は酒に強い。
「盧笙と話しててな、〝あ〜盧笙とずっとおりたいなぁ欲〟がカンストすんのはようあんねんけど、これは白膠木簓個人の気持ちやねんな?」
盧笙は眉をひそめた。結局これか。そして、〝また〟これだ。
「はぁ、まずそこ知らんかったな俺」
「毎日ボッカーンやで」
「元気やな、ほどほどにしとき」
「そう、そこ、それ」
「は?何、どこ、それ」
「盧笙のそういうとこ、ぬるさらの芸人人生的にも取り入れたほうがええなぁって思ったのでやってみよ思う」
「いや分からん。何、どこ」
「大丈夫やで、俺が勝手に一般人と結婚した言うて今週の奥さんコーナー作って盧笙の話するだけやから、そしたらみんな受け入れてくれるやろ俺の変化」
「おもろいとおもてるん、ソレ」
「ギャグでやるわけちゃうよ、そんな、ツマラン。」
「じゃあなんでやるん」
「俺の人生に必要やと思うから」
「…ファンの子悲しむからやめや、ガチ恋、多いやろ、お前」
盧笙がそう言うと、簓はジっと盧笙を見た。
その顔を見てさぁ何を判断しとるんや俺の何を、と盧笙は思った。
盧笙はこういう時の簓が割と苦手だ。そういう顔をする時、何か策略があってそういう表情をしているのだろうとは推測できるが、なんのためにしているのかはわからないから。そもそもの話、盧笙は簓が何を自分に求めているのかいまいちわからないのだ。ちっとも。実は。こう見えて。
「じゃあ、やめるわ」
そう言って簓は目を閉じた。そして口角を上げて笑った。何か簓の中でジャッジが下ったらしい。じゃあ、と言うが、俺の意見なんて届いてへんのやろな、と盧笙は思う。ああ、枝豆、しおあじ。
「あ、そういえば、今日な、」
ジャッジ結果はもちろん共有ナシ。
そして簓は盧笙にも分かる、いや誰が聞いてもにぎやかでツッコみやすい話をはじめた。
◆◆◆
びーびーびー、と、音が鳴ってチカチカとランプが光る。
「…。」
「…。」
思わず零と盧笙は黙って警告を知らせる機械をジッと見つめるのだった。
三日前の話。
その日、盧笙が帰宅すれば簓と零が酒盛りしていた。通常運転。タテマエで定例文化した雷を二人に落とした盧笙は、さっさといつものルーティンを終わらせ卓に混ざった。
テレビは〝警察24時〟を流していて、その内容に合わせて倫理観ゼロな話が盧笙の前でぽんぽんと飛び交っていく。
ツッコミどころしか無い。でも自分のツッコミが二人の話にぴったりと嵌る快感が気持ち良いから結局聞いてしまって困る。
で、その日は、その日も、盧笙個人としては『今日もコイツらアカンわ』で終わった話だったのだが、零はどうやら違ったらしい。
本日土曜日、盧笙が家で読書をしていたら17時。よう、と零が現れた。
盧笙にも簓にも事前連絡済。零はこれでいて、盧笙の家に上がる際は緊急時以外は簓の許可が出ないと来ないと決めているらしい。ここは誰の家なんだか。当の簓はあと1時間で来るとの事。
「そういえばちょっと気になったことがあって」
零はそう言うと派手な鞄からこれまたイカツイ機械を取り出した。
「な…、なんやそれ」
「んー…簓、アイツ一昨日テレビ見てた時に、」
「一昨日、なんの」
「警察24時、」
と言って零は機械のツマミをガッと一気に回した。
ビー、とその機械から電子音が鳴った。
「……な、」
「………うーん…、」
そのまま零はその機械を片手でぽんぽんと弄びながら盧笙の部屋という部屋をウロウロ、そして電源タップ、延長コード、ボールペンを部屋中から持って来、最後にリビングの室内灯をジッと見上げた。
「うーん…」
「…それってまさか」
零はツマミを回し、機械の電源をオフにした。鳴り響いてた電子音が止まる。
「なんか妙に喋るな、とは思ったんだがな…」
「それってアレか…」
零は持ってきたボールペンをパキ、っと折った。するとメカメカしい中身が現れた。
見た目はどこにでもあるボールペンだ。盧笙がいつ買ったかも覚えがないぐらい特徴というものがない、どこにでもあるボールペンだ。
「いやでも」
「いや、そうやろ」
「しかしあいつがこう易易ボロ出すよ、」
「あいつ言うてもうてるやん」
盧笙は零が持ってきた電源タップを手に取った。白いシンプルなこれまたどこにでもあるようなものだった。確かホームセンターの中に入っている百均で買った覚えが盧笙の中にはあるのだが。
それに向かって盧笙は
「別れんぞ、カス」
と言った。
「いやいやリアルタイムで聞か」
──ティロリロリロリ、ティロリロリロリ、
盧笙が傍らのスマホを取るとディスプレイに『簓』の文字。
「…掛かってきたけど」
スマホのディスプレイを盧笙は零に見せた。
盧笙はなんとなく、なんとなくだが、自分がその行動をすることで零は『あちゃー』というような、呆れるような表情・仕草を浮かべると想定した。
が、
実際、現実の零は、考える仕草、集まった電源タップ達を見、唇に人差し指を当てながら
「何企んでやがんだ…?」
と盧笙の耳に届くか届かないかぐらいの小さな声で、そう独り言をボヤいた。
それを見た盧笙は、
もういやや。
と、思った。
ら、
自分が何をどうしていいのかわからなくなった。
「……盧笙?」
硬直した盧笙と鳴り続ける着信音に零は訝しげに顔を上げた。
「あ、」
あ。
零は盧笙が手にしていたスマホを無造作に奪った。
「あ。俺、あ?ん、あはー、残念だったな、渾身の泣き落とし芸」
声色はとても楽しそうに飄々と、しかし浮かべる表情は穏やかに、零はじっと盧笙を見つめ『座れ』とジェスチャーをした。
盧笙はその意味すらもよくわからなく立ち続けていると、零が盧笙の肩に手を置いた。力強い手だったので、あ、座ればいいのか、座る場面かととりあえず腰を下ろした。
「簓お前白州25飲みたい言ってたよな?おう、うん、ツテが出来たんだわ、うん、今ドコだよ、うん、お、丁度いいな、そのままチャヤマチ居ろ、店近いから。あ?ボトルで持って来てるわけねえだろ、あ?もちろん、盧笙も今から連れてく」
「…。」
盧笙はぼうっと零を見上げる。零は盧笙の方を見ず天井を見つめている。
どっかに出かければええんか?で簓に会えばええんか?で、何をしたらえんやろ、と盧笙はボンヤリ思う。急に世界にモヤが掛かったような気分だ。そら見ろと誰かに指さされてる気分だ。世界から弾かれた気分だ。それはどんな気分だ。わからない、わからない、わからない、わからない、居心地が悪い。………さみしい。
「おー、んじゃまたな」
零がそう言って電話を切った。そして盧笙のスマホをゴトンとテーブルに置く。
そして代わりに見つけ出してきた電源タップ達を一つ残らずひょいひょいと派手な鞄に突っ込んだ。
「じゃ、俺行くわ、簓の馬鹿はこっちで止めとくから」
「え」
「じゃあ、またな〜」
と言って零は依然として穏やかな表情を浮かべたまま盧笙の顔を見、ひらひらと手を振って出ていった。
バタン、と閉まるドアを見て盧笙はいよいよ本当にどうしたらいいかわからなくなった。
悩みを建設的に解決したい時は真っ白なノートに思いつくまま思った言葉を書いていって考えを可視化して自分自身を見つめ直す、…その効力はもう十分盧笙は実感していて、日常的によくする。だからきっと、今もそうするべきなのだと思うのだが、結局盧笙はペンも持たずにただただベットの上に転がった。なにかをしようと思う気力が一切沸かなかったし、紙とペンで何かを書いたところで解決できる気もしなかった。
簓について。
あるいは恋愛というものについて。
…わからない。
わかるのは、わからないということだけ。
やはりハリボテでは駄目だということ、何回、何十回目の答え。
愛したいのに、愛し方がわからない。
盧笙は恋愛感情がわからない。
一目惚れなんてもってのほか。まずそもそも盧笙は正直な話、人の顔の善し悪しがわからないところがある。
人前では穏やかで優しそうな美しい人も、人目が無いと鬼のような顔も絶対零度のような顔も浮かべる。そんな毎日で、人を見た目で好きになるというのが分からなかった。生まれ持った体のパーツが綺麗だとて表情と声と仕草で。結局人間なんて眉と目と耳が2個あって鼻と口が1個ある生き物だ。母親、が、立派であればあるほどそれは、そう。
では、内面で惹かれる、…という気持ちもいまいちわからない。自分以外の人間はみな素敵で立派に見える、そんな日々が過去に在ってまだそれはどこか続いている。その中で、でも誰でもいいから自分を認めてほしいという気持ちが今よりずっと強く在った頃、17、『好きなの』と相手に誘われるまま他人の肌に触れてみたものの、感じた思いは『さみしい』だった。『さみしいんやね、ツツジモリ君も、』と相手のその子がそう言った。それが童貞喪失の記憶も相まって強烈に残っているからかもしれない。
それが呪いの言葉だったのか、結局、恋=さみしいというものが盧笙の中に中に息づいている。
『どうしても、』と言われたら、『自分でよかったら』となってしまう。こんな自分で良ければ。しかし、半年も持たずに彼女らは言う。『思ったのと違った』『私だけをずっと見てて』『さみしい』。
それでもきっと、いつかは。
なんて思っていたのに、思っていたのに。
芸人を目指したのは、クラスメイトの誰かが教室で騒いでた言葉のフレーズがなんとなく耳に残って、それをふと夜中に思い出した時、ふ、と笑っていた自分に気づいたから。
そういうことは度々あって、それは例えば小学生の時計算ドリルに載っていた4コママンガの最後のコマを見た時とか、祖父の家に帰省した時に従兄弟にこっそり漫画を読ませてもらった時とか、なんで自分がそれらで笑ったのかが分からなかった。眉を動かして、口角を上げて、…そうすればみんなが喜ぶ〝笑い〟と、自分が浮かべたソレは全く違ったものだから、それがなぜなのか知りたかった。だから家を飛び出した。周囲が求める笑顔だけでなく、喜怒哀楽全部できなくなりそうな自分にも気づいていたから。ただ飛び出した夜の果てにもどこにも自分の欲しい答えは無く、結局回り回って、1から学べば長年の答えが分かるかとたどり着いた先に、出会った人間が
結局あの時は〝答え〟にはたどり着けなかった。それどころではなかった。…お互いに。
そう、お互いに。
今は日々、毎日、生徒たちの相談に乗ったり教育書をはじめとした様々な本を読んだり学校が勧めるカリキュラムに参加したり偉い人の講演を聞いたりと様々な見聞を広めたから分かる。
簓も欠けてる。
『芸人目指す理由なんてみんなに笑って欲しいから以外あります?』と、いつか簓が真横で言った時、眩しいな、と盧笙は思ったことがある。20そこらのいつか。その簓の発言に共演者の女の子が『闇しかない』と笑っていて、当時はなんちゅうことを言うんやと内心憤ったものだが、今ならその女の子の言っていた事が分かる。簓は本音なんてちっとも見せずに、誰でも楽しく気持ちよくなれるようにと上手いフックを作ってみせて差し出し、道化を演じて周りを、それは、その行為は教員免許を取る時に学んだカリキュラムの中に出、
──…だからといって別に盧笙は簓が可哀相だと思っていない。決して同情心で一緒にいるわけではない。
何故なら通天閣、夜、あの日、なにか、変わったから。変わって、ほんのちょっとだけわかった気がしたから。
そこから更に過ごして、全部はわからないなりに、わからないながら、わかろうと、居ても、…わからない。
わかりたいからキスも受けた。セックスもした。
一緒に飯も食べるし、同じベットでダラダラ喋りながら寝落ちもする。
ほぼ同棲みたいになってるのも嫌じゃない、結局楽しい。
簓は自分を見て『誰よりもオモロい』と言う。そんな馬鹿な、知っとったよ、最後の方、お前ばっかにオファー来とって、でもお前が頑なに受けなかったことも、色とりどりの名前の通知で常に携帯が震えとったことも、…それが、今、見事に花開き、なのに、なんで、今も俺の横やねん。
なんであんなこと言うねん。
なんであんなことするねん。
俺なんかに。
こんな勉強しかできんかったポンコツに愛を注がれたところで愛なんて感情はよう返せへんのに。
そんなこと、お前が一番気づいとる癖に。
盧笙は乱暴に掛けていた眼鏡を取ってその辺りに放り投げた。
なんの涙かも、自分がどうしたいのかも、やはり盧笙は分からなかった。
頬が痛くて盧笙は目を覚ました。
目を開けると簓が居て、同じベットに入って、そして盧笙の両頬をぎゅっと掴んでいた。
「さ、ささあ」
盧笙がなんとか名前を呼ぶと簓はぱっ、と盧笙の頬から手を離した。
「零から今日絶対来たアカン言われたんやけど、」
「…いま…何時」
「22時ぐらい、零と飲んで全部聞き流して、わざわざスマホ家に置いてからここ来たわ」
「ふぅん…」
ぼんやりした頭で盧笙は簓の顔を眺めた。周囲は真っ暗だ。暗い中で相手の肌の色だけが白い。頬触ってたってことは泣いたことバレてんのかな、と盧笙は思った。そしてバレてんやろな、とすぐ盧笙は思い直した。
あー。こいつはなんで俺が泣いたんか分かるんかな、分からへんちゃうかな、アレかな、ひょっとして盗聴器に怯えて泣いたとでも思ってんのかな、そうやないんやけど、じゃあなんて説明したらええんかな、俺はどうしたいんかな、答えはどこにあるんかな、数式みたいに魔法みたいな方程式があってそれに当てはめてぽんと答えが出たらええんやけどな、感情って形にもならへんし、解もコロコロ変わるからやっかいやな、こんな事例、どんな本にもネットにも載ってへんかったな、零なら分かるんかな、簓の意味不明な言動よう分かってるもんな、賢い賢くないやなくて脳の構造・考え方の発想が違うんやろうな、おかしいな、おんなじ人間なのにな、
盧笙がぼうっとしていたら、簓の顔が近づいてきて唇がくっついた。
「…意中の人に、チュウ」
「…つまんな」
簓はふに、と盧笙の左頬をつまんだ。
「んなことあらへんよ」
「…つまんな」
はぁ、と盧笙は息を一つ吐いた。簓を目の前にしてもう呼吸すら少し億劫になってきていた。考えるのがほとほと嫌になった。分かった分かった。もうええわ、お前が演技するならとことんどこまで演技できるか試してやろうやないか、そして俺をさっさと、他の女みたいに『思ってたのと違った』ってお前も俺を嫌えばええねん。もう疲れた。もお、疲れた。俺はお前に相応しないよ。頑張ったけど、やっぱ、どうも、わからんわ、恋愛とか。そういうのは。俺の人生を変えた運命の人、だから…、なんて、ちょっと、思ったりもしたのになぁ。お前の歪さもわかってやりたかったのになぁ。結局露見したのはどうしようもない自分自身。
「俺な」
「うん」
「恋愛感情分からへんねん」
盧笙がそう口にすると同時に涙がまた出た。息苦しい。ぐす、と自分の鼻が鳴るのを他人事のように聞きながら、盧笙はじっと目の前の簓を見た。
さぁ、失望してまえ、もう無理やから。
「……ン?知っとるけど?」
「…は?」
「いや、うん、知っとる…」
「えっ」
ごほ、と思わず盧笙の喉から咳が出た。咳が出たことに更に驚いてむせた。
「ろ、盧笙、大丈夫か!?」
簓の体が盧笙の体にぎゅ、っとくっついて、そのまま背中を擦られる。どーどーどー、と穏やかな簓の声が盧笙の鼓膜を揺さぶる。それに合わせてすー、とはー、を繰り返し、咳がおさまり、改めて盧笙は簓を見た。
「…は…?」
「いや見てるし考えたらわかる」
「わかんの…?」
「うん。え…てか、なんで、そうなんの」
「そう、って」
「ストーカーぬるさらにキャー、で泣いてたんちゃうの…?」
「え…それは別に」
「それは別に、で、済む話ちゃうと思うで、流石に」
「…そうなん?」
盧笙がそう言うや否や簓の体がまたがっしりと盧笙に抱きついた。
「何があっても起きても嫌われても憎まれても一生側居る、一生つきまとうって言いに来てん、ここには今日。」
「……え、あ」
「ごめんな、お前の気持ちももういらん次元におるねん。」
「次元…?」
「側におる、隣おる、もう次お前失ったら終わる俺、」
「…話が、見えへん。いっつも、それ、お前」
ポツリと盧笙がそう呟けばまた頬を掴まれた。額が重ねられた。夜目の中瞳の色がよく見えない。白色。
「俺も愛が分からへんって話」
「いや、分かるやろ…お前は」
「盧笙に解散切り出されてから全部何もかもわからんくなった、で、また出会ったらもうどうでもよくなった、」
「いや、お前、俺のどこ」
「ンー…盗聴器仕掛けられて怯えずに何故かネガるとことか?」
「いや、それは」
「男とヤるどころかキスすらしたことないのに、分かった言うてまんまと手出される危ういとことか」
「それも、」
「俺なんかを色々キレイな生きもんかなんかと勘違いしとるとことか」
「…」
「でも?メッキ剥がれた俺の歪さ?も、救おうとか?思てるとことか」
「……あれか、思い上がりよって、って批判したいんか」
「はーやっぱ、歪も歪やな、俺ら。幼少期の愛情、やっけ?それは大事やなぁ、でも生きてくしかないから生きてくんやで」
「…それは、ちょっと、分かる」
「でも全部は分からんからネガったん?」
「おん…」
「じゃあ俺に聞けばええやん。俺の話やねんから。〝相互理解を目指して、そう!ご理解?〟」
「や、…お前、隠すやろ、し、」
「し?」
「俺、変なこと言って、お前に」
「それが恋やろ。」
「は。」
簓が体を起こして、そして、ぱん、と手を叩いた。
「俺は盧笙に一生付きまとう筋金入りのストーカーやから別に盧笙が何言ったとこで嫌いにならんし、疑問点抱いたらどんとどうぞなんでも聞いておくんなまし!もうストーカー!と申す、10…や。十月十日どころかの話ちゃうけど。何年お前を見てると思てんねん、嫌いになるかアホンダラ」
「…」
盧笙はぱちくり、とまばたきをした。
そしてつられて体を起こす。
何このアップテンポ、さっきの空気どこ行ったん。
サァサァ何を聞きたいん?、と耳に手を当ててぬるさらの演技をした簓が華やかに笑う。
…さぁ、言われても言葉が大渋滞して困る、んー?と笑う。困る。
「え…えっと…じゃあ…なんで…盗聴器仕掛けたん…」
聞きたいことはたくさんあるのに出てきた言葉がそれだった。
「あ、そこ聞く?うん、それはな〜、もう仕事仕事の毎日で体内時計めちゃくちゃで、ある時からキッツイ眠錠も効かんようなってたんやけど、盧笙の生活音聞いてたらひょっとしたら寝れるんちゃうかな?って思って試してみたら、ほんまに寝れたから仕掛けとる。ちなみに零が見っけたやつはワザと用意したダミーやで。偽モンいっぱい見つかるともうこれで全部やろ〜って思うやろ?そこ狙ってやったんやけど、なんや盗聴器、盧笙的にオッケーみたいやし、ゲロるわここは。もう俺な、盧笙の家の生活音聞かな全く寝れへんレベルになっとるから本チャンは絶対教えんけど気にせんでな?流石にまだ倒れたない。」
「…い……」
「い?」
「い、いやお前それ早急に病院行ったほうがええやろ!?アホンダラッ!家で夜中まで酒飲み明かしとる場合か!ボケッ!」
「そういうとこ…」
「ア…?」
「やっぱ俺の人生にお前はいる。結婚してくれ、俺と」
「………なんで?」
左手の薬指をさっきからガブガブと噛まれて痛い。
ぼやっとした気だるい体で盧笙は簓を見上げた。
行為もすべて終わったというのに執拗に左手薬指を噛まれている。
どう考えても結婚するしかない、らしい。
『数学が大好きな盧笙にわかるようにいうと、人間二人あわせて200パーなら、盧笙が30パーやとして、俺が170パー以上持ってるからそれでええって話』
『まずその数値どっから来てん、そもそもなにが200パーやねん』
『逆に俺の50パーなとこ、盧笙150パーあるから、それも合わせて200』
『俺30なのにお前50なんか』
『やっぱそこ気になるんや、数学教師やん…』
『数学教師や』
『俺国語以外の授業ロクに受けてこうへんかったからそのへんは考慮の上お頼み申し上げますわティーチャー』
『あ?』
『国語しか分からへんから相互理解ちゅうもんは会話するしか術がないってのは分かる?』
『…分かる』
『じゃあ、どうぞ。わからんことなんでも聞いて、答えるから。』
どうぞ。と言われても。
お前、いいんか俺で、いいもなにも盧笙以外ぜんぶ気持ち悪いからなあ俺。
いや、お前の欲しいもん?多分何もあげられへんと思うぞ俺、じゅーぶん貰っとるしこれからも勝手に貰ってく予定やからお気にせず。
は、何を。生活。
生活、せいかつ。
…生活か、うん、生活。日常。今後も…、あ、結婚やねやっぱ。
結婚なん?結婚。
痛覚を伝え続ける左指の感触を感じながら盧笙は次第に眠くなってきた。
わからないことだらけだ。
簓と話したところとて、わからないことばかりだ。
わからないから、居心地が悪い、嫌、果ては、怖いのに、ひょっとしたら、この問題は、例えば恋というものは、一人でなんとかするものではないんじゃないかと、盧笙はだんだん思ってきていた。
そして、自分が求め抱いていた、ピッタリと正しい正解なんてどこにもないんじゃないかとすら思い始めていた。
こっちも変ならあっちも変だ。だったらもう、正しい答えなんか。
「お前、」
「んー?」
「一生ほんまに俺につきまとう気か」
「んー」
「あっそ、もう好きにせえ、で勝手に飽きでもなんでもせえ」
「うん。」