乗るか逸るか大問題鳴るはずのない呼び鈴に藤丸は首を傾げた。
見慣れた自室の、聞き慣れた呼び鈴だが、それが響く異質に身を強張らせる。
返事をするべきか迷い、押し黙っていると続いてノックの音が聞こえてくる。
「おーい。マスター、お呼びかい?」
いつもの呼び方とはちがうけれど、その声はよく聞いているそれで。
こちらへの呼びかけに応えないでいると、くぐもって聞こえはしないが会話をしているような音がうっすらと届いた。
どうやら、扉の前には彼のほかにも誰かがいるらしい。
それならばマスターと呼びかけてくることも理解できるが、だからといってその声を信じてしまっていいものか、藤丸は判断できずにいた。
よくある怪談など、知人であろうとも呼びかけに応じてはいけないというのは鉄板なのだから。
扉を凝視していると、なんの前触れもなくそれは静かに開いてしまった。
部屋の主である藤丸が応じない限り、開くことはないはずなのに。
ベッドに座り、枕元、なるべく壁際へ身を寄せてじっとしていた藤丸は、目を丸くしながらもわずかに腰を浮かせた。
「お? あれ、立香ちゃん? 僕のこと呼んでるって……」
「呼んでない! 入っちゃダメ!」
藤丸のただならぬ様子に身じろぎせず周囲を警戒する斎藤だったが、不意につんのめるとこちら側、部屋の内側へと足を踏み入れてしまった。
「いてっ……誰だぁ? 押したの……」
「あーあ……」
藤丸の嘆きを聞きながら、瞬時に閉まる扉。
斎藤が内側から開けようと試みるも、それは一切の操作を受け入れようとしなかった。
「一ちゃん、もうそれ開かないやつだから。とりあえずこっち来て座りなよ……」
ため息まじりに手招きする藤丸の様子から、喫緊の問題はないようだ。
だがそのうんざりといった様子に、斎藤は疑問符を浮かべながら、言われた通り藤丸へと近寄っていった。
「……なにこの状況」
藤丸の隣、ベッドへと腰かけると同時に、藤丸は扉を指さした。
より正確に言うのならばその指先はわずかに上向いており、扉ではなく、その上部に掲げられた謎の額縁を示していたのだけれど。
部屋へと入らなければ見えないそれには、『相手にドキッ☆としないと出られない部屋』とでかでかと書いてある。
筆で星マークなんて書きづらいだろうな、とどうでもいいことが真っ先に浮かんでしまったが、それは飲みこんで、至極真っ当な疑問だけを口にした。
「なん、なんだろうねぇ……」
再びおおきなため息を吐きだしながら、藤丸は膝に肘をついて頬杖の姿勢をとった。
諦め、投げやり、呆れ、とそんな感情がいくつかないまぜになったような状態は物事の深刻さとはどうにもちぐはぐだ。
「……なんかね、こういうお題が出る系の部屋のトラップがあるんだって。ミッションをクリアすれば無事に出られるってやつ。多分、そういうののなかでは簡単な方のお題だよ。よくあるのはセ……」
「せ?」
「……ううん、なんでもない」
遠い目をしながらつらつらと説明していく藤丸だったが、急に口ごもってしまった。
「やけに詳しいけど、前にもこんな目に遭ったこと、あるの?」
「ううん、俺はないよ! ないけど、刑部姫に聞いたことがあって!」
「ふぅん?」
ごめんおっきー、と藤丸は心のなかで刑部姫に謝った。
ここを出たあとに、万が一斎藤が彼女につめよるようなことがあれば全力で割って入るからと誓いを立てるも、はたして己の全力がどれほど意味をなすかはわからなかった。
ところで、と藤丸は無理矢理ではあるが目先を変えようとあらためて口を開く。
「俺、本当に一ちゃんのこと呼んでないけど、誰に言われてきたの?」
「ん? 誰って、スタッフに……あれ?」
「顔、思い出せない感じ……?」
言葉につまる斎藤に水を向けると、こくこくと首肯しながら絶句している。
制服を着ていたからスタッフだと思ったが、もう顔どころか性別すらも思い出せないらしい。
部屋の前まで話しながら歩いてきたにも関わらず。
「さっき扉のところで押されたのも、そのなんかよくわからないやつがやったってことか……」
「よっぽどここに一ちゃん連れてきたかったんだね……」
「うっわこわっ!」
わけのわからないトラップが一気に怪談めいて思わず自分を抱きしめるようなポーズをとった斎藤を、藤丸は苦笑しながらみつめている。
ほんとなんなんだろうね、と口にはしているが、妙に落ち着いてはいないだろうか。
「でもこれでお題クリアできそうじゃない? ひとりじゃどうしようもないなって思ってたからさぁ」
「いやまぁそうだけどもよ」
笑いながらそう言う余裕すらみせる藤丸に、斎藤は表情には出さなかったが眉をひそめた。
(結構長い間、閉じこめられていたっぽいなぁ……)
この部屋のなかと、外の間で時間の流れが一緒なのかどうかはわからないが、とっくにあらゆる脱出の可能性を試し終えた上で、ひとりでここに座っていたのだろう。
斎藤が来たことによって安心している節すら見受けられる。
そう感じられるようになったのだと思えばそれはいいことではあるのだが、と到底納得できないまま、斎藤はぎゅっと拳を握った。
もっとも、マスターの身に害をなすつもりであればそれはとっくに達成されているはずで、この状況を気づけもしなかった自分がなにを言えることもないのだけれど。
「ドキッと……なにかあるかなぁ」
そんな斎藤の内省など知る由もない藤丸は、のんきな声でそう問いかけた。
命の危険はなさそうだと判断した以上、目下の悩みはどうお題をクリアすればいいかということだけだ。
刑部姫が言っていたような即物的なお題でなくてよかったけれど、これはこれで判断基準はどうなっているのか。
「えー、なんか暴露大会でもしてみる……? でも俺、絶対たいしたこと言えない……一ちゃん?」
藤丸があれこれと話すのを笑って見守っていた斎藤は、そのへらへら笑顔を貼りつけたまま、片手で藤丸の手首を、もう片方で肩を掴むとなにも言わぬまま押し倒した。
突然のことにわっと声をあげた藤丸だが、勢いほどの衝撃は訪れず、表情を消した斎藤を見上げる余裕すらあった。
「もうちょっと危機感、じゃねぇけど、自分を大事にしてほしいんだよね。目ェ離すとすーぐこんなことに巻きこまれてさぁ、たまったもんじゃないわけ。いっそ俺の手元で四六時中見張ってた方がよっぽどマシだと思うんだわ」
手首を掴む手に力が込められるが、多少痛むだけ。
本気を出せばこんなものではすまないとわかっているからこそ、藤丸はぱちぱちと数度まばたきをするのみで、無言を返す。
しばし見つめ合い、沈黙が流れるも、先に口元をゆるめたのは斎藤だった。
「……あー。ドキッとしない、かぁ」
「え? うん。あ、びっくりはしたよ。でも今じゃなくても、一ちゃん、そういうことよく考えてるでしょ」
「えぇ……いや、うーん……?」
降参、と口にこそしなかったが、両手を挙げた斎藤は笑っている藤丸にこれ以上なにを言うこともできなかった。
非情になりきれないところが斎藤のやさしさだろうとは、藤丸も口にはしなかった。
「ま、なんにせよここから出なきゃならんわけだけど、どうしたもんかねぇ」
有無を言わさず押し倒したのと同じくらいの力加減で、今度は起きあがらせようとしてくれる。
藤丸から視線を外し扉の上の額へと目を向ける斎藤の、その視界の端をするりと動くものがあった。
首にまわされた腕はぐんと斎藤を引き寄せ、先ほどまで投げ出されていたはずの藤丸の足は腰に絡み、体はぐっと密着する。
太腿の裏を撫でるようにすりあわせられる足に、肌が粟立つような感覚を与えられる。
「外で、ずっと一緒にいるのは難しいけどさ。ここなら誰にも邪魔されないんだし、どうせなら、好きにしてくれていいのに」
鼻先が触れあうような距離で覗きこむ、藤丸の弧を描く瞳に吸いこまれてしまいそうだった。
さらに引き寄せられると、唇は頬をかすめ、耳朶に吐息たっぷりに、
「……期待、してるのは俺だけ?」
そう吹きこまれてしまえば、斎藤ののどがごくりと鳴った。
「――り、」
立香ちゃん、と名を呼ぶより先に、ぴんぽーん、とまぬけな音がどこからか聞こえてくる。
と同時に、風景こそ変わらずマイルームのままなのだが、先ほどまでとはちがう、本来の空間に戻ってきたのだとはっきりとわかった。
どうやら、お題はクリアできたらしい。
「あ、戻ったね」
ぱっと両手を開いて斎藤を解放すると、藤丸はきょろきょろとあたりを見回した。
やがて放心する斎藤に視線を戻すと、にやりと笑って。
「……ドキッとしたんだ?」
「いやそりゃするでしょうよ!」
おおきなため息とともに藤丸の隣へ寝転ぶ斎藤は両手で顔を覆っている。
わずかに見える頬がうっすら赤くなっているのは、見間違いではないだろう。
「はは、そっかぁ。でも残念、開いちゃった。外の様子見に行かなきゃ」
そう言い、ベッドから降りようとするも、藤丸の腕は後ろからのびてきた手に捕らえられた。
「煽ったのはそっちだからな。覚えてろよ」
「んー、楽しみにしてる」
精一杯の笑顔に満面の笑みでそう返され、斎藤は観念したように藤丸から手を離した。
「まったく、どこで覚えてきたんだか……」
「嘘偽りない本音なんだけどなぁ」
「よりたちが悪いっての」
あはは、と笑う藤丸は立ちあがると、おおきく伸びをした。
おそらくもう危険はないだろうが、とはいえマスターを無警戒に放置するわけにはいかない。
誰も気がついてはいないかも知れないが、首脳陣への報告はしなければならないだろう。
藤丸の腕を掴んでいたてのひらをぐっと握りこんで、開いて。
もう一度触れられるのはいつになるだろうかと考えつつ、部屋のなかを検めはじめた藤丸に続くように、斎藤もベッドを降りた。