殿下と執事のこと 魔王の息子が成年を迎えるに当たり、魔王城では王子の新しい執事を召し抱えることが決まった。
そして、その執事に選ばれたのがバルバトスだった。
彼の年齢や経歴から考えると誰が見ても異例の抜擢で、当のバルバトス自身もなぜ自分が選ばれたのか、そのはっきりとした理由は分からなかった。
初出勤の前日、明日からの勤務に向け、先輩の執事から仕事内容の引き継ぎや魔王城の案内、そこに住む人々や取引先についての留意点などの説明をみっちりと叩き込まれた。怒涛の情報が洪水のように一気に流し込まれたが、要領の良いバルバトスは、言われた内容はどれもすぐに理解できたので、その日の昼過ぎには解放となった。
先輩執事にお礼を言い、仕事場を後にしたバルバトスは、帰宅の前に、しばし魔王城を散策することにした。
「明日はここ魔王城での初仕事……ディアボロ殿下とはどういう人物なのだろう」
元々、城の使用人でも貴族でもないバルバトスにはディアボロのことが全く分からなかった。先程の先輩執事も城のことは大変詳しく教えてくれたが、肝心のディアボロのこととなると、なぜか途端に歯切れが悪くなった。
(噂では、絶大な魔力を持ち、少しでも気に触ると下級悪魔程度なら指のひと振りで塵にされるとか……)
魔王城に関わる悪魔以外は、たとえ同じ魔界の住人であっても直接ディアボロに会う機会はほとんどない。どこからか伝え聞いた話ばかりが先行し、巷には本当か嘘かも分からないディアボロの恐ろしい噂が溢れている。バルバトスもまた、今日までディアボロの姿を見たことはなかった。
(上手くやっていけるだろうか)
自身の執事としての能力には自信があったが、結局のところ、最善を尽くしても気に入ってもらえるかどうかは相手次第だ。
バルバトスが身の引き締まる思いで歩いていると、ちょうど通りがかった書庫の中から誰かの呼び声が聞こえた。
「おーい! 誰かいないか? 助けてくれ!」
どうやら誰かが助けを呼んでいるようだ。バルバトスは少しだけ開いていた書庫の扉の隙間から、恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。すると、奥の本棚に不自然な体勢で張り付いている大柄な男が目に入った。
「やぁ! 君がバルバトスかい? 明日から一緒に働いてくれる執事だよね? ……すまない、早速だがちょっとこっちへ来て手伝ってくれないか⁉︎ 情けない話なんだが、本棚から出られなくなってしまったんだ」
男は限界まで首を捻って入り口のバルバトスの方を振り返り、言った。
(えっ⁉︎)
わざわざ自己紹介などしなくともオーラですぐに分かった。ディアボロだ。世間の噂通り、ディアボロの魔力は絶大だった。入り口から本棚までは結構な距離があったが、それでもその力の強さがピリピリと肌を通して伝わってくる。
「何をしている、ほら、早くこっちに来てこれをなんとかしてくれよ」
驚いてあっけに取られたまま、入り口で立ち尽くしていたバルバトスはディアボロの二度目の呼びかけで我にかえり、大急ぎでディアボロのもとへと向かった。
近くで見ると、ディアボロの右半身の大部分と左手が、本棚の内側に引きずり込まれるように同化しており、身動きが取れなくなっていた。
「よし、来たな。書庫で探し物をしていたら、うっかり呪われた禁書に触ってしまったようで、こんなことに。私としたことが、とんだ不覚だ」
恥ずかしそうに笑いながら、ディアボロは吸い込まれた左手をわざとらしくバタバタと動かしてみせた。先程まで感じさせていたピリピリとした刺すような魔力はもう感じられず、ディアボロの笑顔や喋り方は、どこにでもいる親しみやすい好青年そのものだった。
「左手だけでも少し外に出せたら解呪できそうなんだが、できるか?」
「はい、やってみましょう」
バルバトスは自分の両手をディアボロの左手に重ね、呪文を唱えた。そして、左手を覆う魔力の流れを作り出し、少しずつ本棚に埋もれていたディアボロの手を引っ張り出した。
「おぉ! さすがだな」
最後はディアボロの力も加わり、左手はすぽっと勢いよく抜けた。
「これでやっと抜け出せる」
そのあとはもう一瞬の出来事だった。ディアボロがスッと左手の人差し指を弾いただけで本棚はぐにゃりと歪み、喉に詰まった異物を吐き出すかのようにディアボロの体を外に弾き出した。
ディアボロは衣類についた埃を払いながら楽しそうに笑った。
「ありがとう、バルバトス! もう一時間もあの状態だったんだ。誰も通りがからなかったら飢え死にするところだったよ」
ニコニコと嬉しそうなディアボロを見て、バルバトスも思わずクスッと小さな笑いが漏れた。
(噂とは少し話が違うようですね。よかった、というか、なんというか……)
「んっ! 今、私のことを笑ったな⁉︎」
「いえ、決してそのようなことはございません。……申し遅れました、私、明日からディアボロ殿下の執事を務めさせていただきます、バルバトスと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
ディアボロは既にバルバトスの名前を知っているようだったが、このまま名乗らずにいるのも失礼だと思い。今更ながら深々と再敬礼のお辞儀をし、挨拶をした。
「バルバトス、君の話はよく聞いているよ。その……特殊な能力のこともね」
「心に留めていただき光栄です、殿下」
「……堅苦しいものだな」
わざとらしいほどに恭しいバルバトスの態度にディアボロが苦笑いを浮かべた。
これがディアボロとバルバトスの出会いだった。