口づけを交わした日は ぼんやりとして、目の前のことに集中できない。
自分が今どこで何をしているかという現実よりも、脳内で何度も繰り返し再生される場面の方に意識を全て持っていかれる。
新聞部。放課後。本棚。留学生。……唇。
『メフィスト、好きだよ』
「……メフィストフェレス。聞いているのか」
父の声に呼ばれ、私は慌てて顔を上げた。
「はい、父上」
若干の苛立ちをはらんだ父の声は、何度か呼びかけても反応が無かった私の態度によるものだろう。父は夕食を食べる手を止め、テーブルの斜向かいから訝しそうに私を見つめていた。
テーブルの上にはメインディッシュの魚。家族揃ってダイニングテーブルに着席している。父と兄の様子を見て、まだ幼い顔をした弟も向かい側から心配そうに私の顔色をうかがっている。
「どうした? 先程からどこか上の空だな。食事も進んでいないようだ。具合でも悪いのか?」
「いいえ、そんなことは……」
歯切れの悪い返答しか出てこない。
私はフォークを握り直し、ナイフを使って魚の身をひと口大に切り取った。
「今日も随分と帰りが遅かったようだな。最近RADはどうだ? 何でも、また人間の留学生が来ているそうじゃないか」
人間、と聞いて、ドキリとした。口に入れた魚も途端に味がしなくなった。
「確かに、ディアボロ殿下は昔から少し変わった考えをお持ちではあったが、一度ならず二度も三度も人間や天使を招き入れるなど……」
父は大きくため息を吐いて、そのまま言葉を続けた。
「いくら全権を委任されているからといって、陛下がお休みの間に少し行き過ぎた政策だとも思えんか」
父は厳格で優秀な悪魔だ。元々の力の強さに加え、魔王家とも親密な関係を維持することで、魔界での地位や名誉を築き上げてきた。そして、私もまた尊敬する父のようになるべく、その教えに従い、幼い頃からエリートとして厳しく育てられてきた。
そう、そうやって育てられてきたのだ、今まで。
「とにかく、お前もほどほどに付き合うことだ。あまり「下等な種族」に深入りするんじゃないぞ」
「……はい、父上。もちろんです」
真っ直ぐに父の目を見ることはできなかった。
フォークとナイフをテーブルに戻し、ナフキンで軽く口まわりを拭いた。
「申し訳ありません、やはり今日は少し疲れているようです。このまま失礼します」
「そうか。……顔色が悪いな、ゆっくり休むといい」
テーブルから立ち上がると、父に一礼をして、逃げるようにその場を立ち去った。
どうして、こんなことになったのか。
新聞部の片隅で、本棚の陰に隠れるようにして留学生とキスをした。
『メフィスト、好きだよ』
おずおずと背中に腕を回し、俯いた私の顔を覗き込む。
少し斜めに傾けられた留学生の顔。なぜか唇だけが鮮明に見えた。
その唇が吸い寄せられるように近づき、そっと口づけられる。
私もまた彼の体にゆっくりと腕を回し、口づけを返した。
いつもの新聞部、いつもの放課後。その「いつも」を繰り返すうちに一体何が変わってしまったというのか。
立場だとか状況だとか、頭の中で湧き上がる様々な葛藤と戦いながら、それでも、どうしても留学生をはねつけることができなかった。人間相手に何をしている、今すぐやめるべきだと警告する思考とは裏腹に、抑えきれない何かが留学生を受け入れてしまった。
腕を回されれば身体だけでなく心が締め付けられ、触れられた場所が熱を持って疼く。その甘い痛みを思い出すと、今も上手く息ができない。
(こんなことは誰にも知られてはならない)
逃げ帰ってきた自室のベッドに突っ伏して、大きく息を吐いた。
『メフィスト、好きだよ』
少し斜めに傾けた留学生の顔。唇だけが鮮明に見える。
吸い寄せられるように重ねられた唇。
止められないリフレインのように何度も脳内で繰り返す。
あの一瞬が忘れられない。苦しい。