悪魔の心臓『俺のことをどうか忘れてください』
机の上には、そう書かれた手紙と一枚の写真がある。メフィストフェレスを斜め後ろから撮影した写真だ。RAD新聞部の部室でデスクに向かって椅子に腰掛けているメフィストフェレス。そのほかには特に何も写っていない。
自室の整理をしている時にたまたま見つけた写真だった。学生時代のものをまとめて保管している箱の中に入っていた。クローゼットの奥から引っ張り出した箱の、そのさらに下の方に入っていた封筒の中身だ。
この写真がどのタイミングで撮られたものなのか、なぜこんな手紙と一緒にここにあるのか。思い出そうとしても、その出来事はもう完全にメフィストフェレスの記憶からは忘れ去られていた。
(新聞部。もう随分と昔の話だ)
卒業後は数えるほどしか顔を出していない新聞部のことを思い出し、メフィストフェレスはしみじみとした気持ちで過去の時代に思いを馳せた。
—— カシャッ。
静かな部室にカメラのシャッター音が響き、メフィストフェレスは反射的に後ろを振り向いた。
「またお前か」
カメラを構えた留学生とレンズ越しに目が合うと、彼は口元を少し吊り上げて笑ってみせた。部室の片隅を自分の居場所と決めている留学生は壁に背中を預けて床に腰を下ろしている。
「そんな写真ばかり撮ってどうする」
近頃の留学生はメフィストフェレスの後ろ姿ばかりを撮影していた。いつからそうしていたのかは定かではないが、メフィストフェレスが気づいた時には既に何度も撮られた後だった。
新聞部の取材に同行した帰り道、RAD中庭のベンチ、そして、部室でデスクに向かっている時。肩の力が抜けた何でもない瞬間をいつもカメラに収められていた。黙って撮られるのはあまり気分の良いものではないが、盗撮だ制裁だと本気で激怒する間柄でもない。
「別にどうするってこともないけど。……あえて言うなら、メフィストが俺のことを忘れないように、かな」
「おかしな話だな。忘れられないようにだったら自分の写真を残した方が良いんじゃないか?」
メフィストフェレスは至極当然に湧き上がった疑問を問いかける。
「いいや、それじゃだめなんだよ」
留学生は不満そうに唇を尖らせた。そして、よいしょ、と、気だるそうに立ち上がると、デスクに向かうメフィストフェレスのところまでのそのそと歩み寄った。
「ほら、見てよコレ。なかなかよく撮れてると思わない?」
留学生にカメラの液晶モニターを差し出される。興味はなかったが、見るように促されたので、仕方なく液晶を覗くと、デスクに向かって椅子に腰掛けるメフィストフェレスの後ろ姿が写っていた。まさに今撮られたばかりの写真だった。
「これが、いつも俺の見てる景色。外で撮ったやつもいいけど、やっぱりこの姿が一番メフィストらしくて好きだな」
留学生は満足そうに頷いた。そして続けて言った。
「俺の痕跡はできる限り残したくないんだ。写真で見る姿じゃなくて、メフィストの記憶の中だけで思い出して欲しいから。いつも後ろからついてきてた迷惑なやつがいたなって」
液晶モニターの中のメフィストフェレスは、後ろから見ている人間のことなどは一切お構いなしにピンと背筋を伸ばして前を向いている。そのうなじの辺りを愛おしそうに撫でながら、留学生は続けた。
「ずっと長い時間が過ぎて、俺のことを思い出すたびに少しずつ忘れていって、顔も声も曖昧になって……そして、もう思い出せなくなったら忘れて欲しい。忘れたことにも気がつかないくらい、完全に」
悪魔の寿命は人間に比べてずっと長い。人間の寿命が尽きた後も、何千年何万年と悠久の時を生きていく。袖が触れ合うほどの時間しか共有できない人間のことなど、普通なら一瞬で忘れてしまうだろう。それでも、今こんなにも忌々しいほどいつも側にいる人間のことを、そう簡単に忘れるだろうか。
メフィストフェレスは思い出す。初めて留学生の姿を見た日のこと、部室の扉を開ける時のめんどくさそうな挨拶、取材用のカメラを買ってやった時の驚いた顔、兄弟たちといる時に見せる無邪気な表情、疲れて眠る子どものような寝顔も知っている。脳裏に鮮明に焼き付いてしまった鬱陶しいそれらの記憶も、もう何千年も経てば思い出すことすらできなくなってしまうのだろうか。
「ねぇ、メフィスト」
いつの間にか、重なり合うほどの距離で留学生に見下ろされている。
「人間はさ……」
紡ぐように言葉を発しながら、留学生はメフィストフェレスの顎に手を添え、顔を上に向けさせた。見下ろす視線は憂いを帯びていて、メフィストフェレスはどこか他人事のようにぼんやりとそれを見つめたまま、ゆっくりと降りてきた留学生の唇を受け止めた。
—— トクン。
きっちりと正しく着込んだ制服の下で、メフィストフェレスの心臓が脈打つ音が響いた。
留学生は唇を離すと、その音を確かに聞いたという印のように、右手の人差し指でメフィストフェレスの左胸をトンと小さくノックした。
「人間はさ、心臓の細胞は死ぬまでに半分も入れ替わらないんだって。皮膚とか他の組織とかの細胞は数年も経てばほとんど入れ替わるんだけど」
つかみどころのない留学生の態度に、もどかしさを感じたメフィストフェレスが眉を顰める。
「悪魔はどうなんだろうね。メフィストの記憶の中の俺はいつか消えてしまうけど、メフィストの心臓だけは、俺のことを忘れられないかもしれないね」
人間界へ帰る予定が近づき、感傷的にでもなっているのだろうか。ふいにしおらしい態度を取ったかと思えば、今度は急に突拍子もないことを言い始める。人間というものはつくづく面倒臭いと、メフィストフェレスは胸の前で腕組みをした。
「しかし、それを言うなら、心臓より脳の方が細胞は長生きだが? 脳細胞の寿命は人間本体の寿命よりも長いそうじゃないか」
留学生の態度に苛立ちながらも、メフィストフェレスは咄嗟に思い出した情報で意地悪く切り返した。すると、留学生はやれやれといった感じで肩をすくめ小さくため息をついた。
「メフィストセンパイの、そーゆーとこ」
「ん? 何だ、別に何も間違ってはいないだろう」
やっと余裕を取り戻したメフィストフェレスが勝ち誇ったような笑顔を見せる。
「うん、そう、間違ってない。間違ってないよ、全然ね」
さっきは気を悪くしたように見えた留学生だったが、今はくすくすと目を細めて笑っている。ころころと表情を変える留学生の様子は、やはりどこか情緒不安定に見えて、メフィストフェレスはつい世話を焼いてしまう。
「最後に旅行にでも行くか? お前が向こうに帰る前に」
昔のことを随分と思い出してみたが、結局この写真を撮ったのは誰なのか思い出せなかった。添えられた手紙に「忘れてください」と書いてあるとおり、きれいに忘れてしまっていた。
(誰だか知らないが、お前の望み通り忘れてやったぞ)
心の中で悪態をつく。思い出せないままなのはスッキリしないが、いつまでもこの写真に時間を取られているわけにもいかない。メフィストフェレスは写真を封筒に戻そうと、指先で摘み上げた。
—— トクン。
写真に触れた瞬間、それに反応するように心臓が小さく音を立てた。
(⁉︎)
その鼓動は、なぜかとても懐かしく、ざわざわと胸中をかき乱す。心が揺さぶられるような切ない感情が込み上げ、メフィストフェレスは左胸に手を当てた。間違いない。この感覚は覚えている。何千年経っても、記憶から抜け落ちてしまっても、それは少しも変わらない。
(鬱陶しいな)
何も思い出せないメフィストフェレスは天を仰いで目頭を押さえた。