3マス進んで2マス戻るような話。4 遠慮のようなものを見せる五条が入ってくるように、ドアを開けたまま五条に背を向けた。これから五条が眠る気があるのかは知らないが、適当にコーヒーでいいかと欠伸を一つこぼす。
ひとまず湯を沸かそうと適当にケトルのスイッチを入れた。伏黒はコーヒーを好んでよく飲むものの、そこまでこだわりがある方ではない。市販のインスタントコーヒーをスプーンで掬い上げて、自分用のマグと来客用のそれに掬った。寮に来る前は、確か来客用のものが五条専用のものと化していた気がする。荷物に入れた覚えはないから、一体あれはどうなったのだったか。
つらつらと伏黒が考えていると、ばたんと背後でドアの閉まる音がした。お邪魔しまーす、と時間を憚らない声量を黙殺しながら、必要だろうなとコーヒーシュガーを取り出しておく。
「めーぐーみー、疲れた~!」
後ろを振り向くと、大手を広げた五条が一歩こちらに踏み込んで、動きを止めた。
まるで無限に阻まれているようだと思ったのは、そういう人間を多く見てきたからだろう。五条の風貌は良くも悪くも人目を引く。色素の抜けた髪、大仰なアイマスク、外していれば尚更だ。そんな風だから道端で呼び止められることが多々あった。五条が応じることは少ないけれど、そういう相手ほど無遠慮に手を伸ばしてくる。だが大抵それは、五条には届かない。年月を経て、それを見つめる伏黒の視線の高さは変わったが、伏黒にとっては半ば不変のようなものだった。
「五条先生?」
けれど勿論、伏黒の周りに無限などない。五条を阻むようなものもない。訝しんだ伏黒が声をかけると、五条の腕が重力に従ってだらりと落ちる。
「ん、どうしたの?」
どうしたはこちらの台詞だ。観察するように五条を見るが、本人は首を傾げるばかりである。
「お湯、まだ沸かないんで適当に座ってて下さい」
伏黒がそう言うと、おずおずと五条はそれに従って床に腰を下ろした。その後を追って、五条の隣に伏黒も腰を落ち着ける。テーブルの上にはさっき置いたのだろう土産と思しき、何かの菓子の紙袋が鎮座していた。
「ねー、饅頭食べてもいい?」
それを指差して、野放図に五条が言う。結局自分で食べるんじゃねえかという文句は置いておいて、伏黒は五条との間に手をついてぐっと距離を詰めた。五条の問いには答えないまま、その胸に飛び込むように抱きしめる。びくっ、といっそわざとらしいくらいに五条の体が跳ねた。
「だ、抱きしめ返してもいいやつ?」
恐る恐るといった声が耳元に転がる。
「いいですよ、俺からこうしたんですから」
素直に返してやると、するすると長い腕が体に巻きついた。僅かにあった隙間すら埋まって、互いの心音すら共有している錯覚を起こす。いやに静かだ。五条の頭がぐらりと傾いて、肩に重みが加わる。うう、と五条が小さく呻いた。
「……あー、駄目だこれ。恵、これ駄目かも」
ぐりぐりと五条が顔を押し付けるものだから、毛先が伏黒の顔を掠めてくすぐったい。ちょっと、と文句を言いながら首を逸らすと、五条がぴたりと動きを止める。
「こんな薄っぺらくって恵はまだまだまーーーーだ、弱っちいのにさ」
馬鹿にするような間延びした声に、伏黒は眉を吊り上げた。
「は、喧嘩売ってるんですか?」
険のある声で返すと、ううんと否定を寄越される。
「違うよ、でも駄目になりそう」
五条がゆらゆらと顔を上げた。巻きついていた腕が緩んで、アイマスク越しに五条が伏黒を見つめている。
「恵とこうしてると、すごい安心するんだよね」
滑り落ちるような言葉に、心臓が鼓動を早めた。胸がくっついた距離から離れてよかったと、伏黒は内心安堵する。心臓の音なんて、隠そうと思ったって隠せやしないのだから。
「僕の方が強いのに」
ふふっと五条の口元が綻んだ。揶揄う意図は感じられなくて、ただ事実として口にしたのだろう。それであれば伏黒も否定する気はない。これからのことは別としても、強くなれと繰り返す五条に肩を並べる強さを、そのビジョンを、伏黒は未だ描けずにいる。その端をようやく掴み始めたばかりだ。
ふいに違和感の正体が、すとんと胸に落ちる。五条の背に回していた腕を引っ込めて、アイマスクに伸ばした。黒い布を指に引っ掛けて、軽く下に引き下げる。鼻まで下ろすと、後はすとんと自重でそれは落ちた。然したる抵抗もしなかった五条の、青い瞳が伏黒を射抜く。瞬きの度に密に生えた睫毛が揺れる、そのたびどこか音が鳴るような錯覚を伏黒は覚えていた。
家入ほどではないが、青い瞳の下に陰が差すように皮膚が少し黒ずんでいる。親指で、軽くそれを撫でた。寝ていないわけではないだろうが、ショートスリーパーにも限度がある。
「あんたって、思ってるより面倒ですよね」
「はあ?」
くしゃりと顔を歪めた五条の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。子供の頃は、この目が苦手だったように思う。何でも見通して、何でも知っているように感じていた。けれど、五条が見透かせるのは呪術について、術式についてくらいである。確かに知っていること、気付くことは人より多いからだろうが、それはこの目によってではない。
「気にしてたんですか、俺がべたべたすんなって言ったこと」