いつもの時間、いつもの駅、いつも同じ電車に乗る同級生。最近どうも真夏日が続いたり、学校のエアコンや扇風機が壊れたりしてとうとう頭もおかしくなったのか、俺は隣でベンチに腰かけている同級生に声をかけた。
「俺、今日学校行きたくないんだけど。ちょっと付き合ってくれない?」
「なんで私が付き合わなきゃいけないのよ」
即答だった。しかもド正論。俺みたいなのはどうせ止めたってきかないのだから、やりたいのなら一人で勝手になっていろということだろう。
これがもしクラスの男だったりしたのなら、悪ノリで付き合ってくれただろうか。
想像上のクラスメイトの反応はともかく、今俺の隣にいるのは真面目で頭が良くて黒髪美人、しかも家もかなり広いと噂の東さんだ。
俺は東さんと同じクラスではないから、全校集会だとか、東さんが所属している生徒会などでしか見かけたことがなかった。でも、一目見ただけで伝わってくるくらいには東さんは美人だし、いかにも堅物といったような感じだ。
太陽光がアスファルトを照らして、アスファルトが熱を発する。
そんな何もかもが嫌になってくるような空間の中で、今も東さんはただそこでじっと、律儀に参考書を読んだりなんかしていた。東さんの周りにだけ涼しげな空気が漂っているようで、傍にいると暑さが和らぐような気がしていた。
そんな東さんがこんな俺みたいなエセ不良の誘いに乗るだなんて、天地がひっくり返った所でないのだろう。
「全部俺のせいにしていいから。金ももちろん俺が全部払う」
ここまで手強いとなんだか逆にやる気が湧いてきて、どうしても東さんと学校じゃないどこかに行きたくなった。
「……」
東さんからの反応はない。これは単に俺の話を無視しているということなのか、それとも俺からの誘いに頷こうかどうか迷っているのかわからなかったが、俺は後者の、自分にとって都合のいい方に解釈して、もう一言付け加えた。
「東さんさ、海って見たことある?」
「ないけど」
「すごい綺麗なんだよ。太陽の光に照らされてさ。自分の悩みとか全部どうでもよくなってくる。海が全部吞み込んでくれる」
「それって、今日じゃなきゃだめ?」
「だめ。今日じゃなきゃだめ」
嘘だ。そこまでして今日にこだわる程の理由なんてない。強いて言えば、明日からはずっと天気が悪いらしい、ということくらいだ。それは朝のニュースでもやっていたし、東さんもわかっているだろう。
俺は恐る恐るといったように、東さんの様子を見る。ここできっぱりと断られてしまったらしばらく立ち直れないと思った。
東さんは読んでいた参考書をぱたんと音を立てて閉じて、じっと俺の方を見る。
東さんの一切の汚れも許さないような深い黒の瞳に、東さんと目が合った事で耳を赤く染めた俺の間抜けな顔がくっきりと映し出された。こんなにも惨めな自分は見ていられなかったけれど、東さんから目を逸らすのも悪い気がした。目が合っただけで照れるだなんて、俺は一体どこまで異性と接する機会がなかったのだろう。
東さんはそのいかにも真面目そうな表情を決して崩すことなく、俺に一言こう言った。
「海、連れてって」
いつもと違う電車に乗って、いつもと違うアナウンスが聞こえてくる。そんな小さな非日常が、きっと俺が何よりも求めていたものなのだろうとすぐにわかった。
東さんは俺の隣に座って、人生で一度も経験したことのない初めてのことにずっとそわそわしている様子だった。
この電車にずっと真っすぐ乗っていればここから一番近い海の最寄り駅に着くらしい。それを東さんに伝えれば、「そうなんだ!」とやけに落ち着きのない言葉が返ってきた。それに俺はぎょっとして、東さんは恥ずかしそうに口元に手を当てる。俺にとってはそんな東さんの様子が何より可愛らしくて、思わずくすっと笑ってしまった。
東さんに対して堅物というようなイメージがどうしても拭えなかったが、本来の性格はこんな風に、年頃の女の子そのもののような明るい性格なのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えているうちにやがて電車が動きだして、東さんの挙動も落ちついてきた。
俺みたいな学生が通学するような平日の時間だというのに、電車の乗客は俺と東さん以外には見当たらない。下りの列車ということでただの偶然と考えるのが妥当なのだろうか、俺は「運命」というキラキラした二文字でどこか結論づけていた。
電車は二駅、三駅となんの変哲もなく進んでいく。電車にとってみれば、これが当たり前なのだろう。
俺は東さんのことを何も知らない。好きな食べ物も嫌いな食べ物も知らない。だから会話なんてできなかったけど、その静寂すらも愛おしく思えた。
この非日常、非現実を、俺と東さんだけが知っている。それが何より心地よかった。
東さんはやはり昨日も遅くまで勉強していたのか、それともただ単に電車内が快適だったからなのか、次第に瞼がとろんとしてきた。
きっと東さんは寝顔も美人で可愛いんだろうなーなどと不埒な事を考え、東さんにとっとと寝て色んなイベントリが発生してほしいとか野暮な事を念じつつも、当の本人は眠気と必死に戦っているようだった。
やがてトンネルを抜けた辺りで、東さんははっとしたように目を覚ました。
「海だ……」
東さんは目を輝かせて窓の向こうを見る。東さんに釣られて、俺も窓の向こうを覗いた。
際限なく広がる青。それに圧倒されて、思わず息を呑んだ。
ふとスマホの待ち受け画面を開くと、母さんからおびただしい量の不在着信が溜まっている事に気がつく。脊髄反射で「うわ……」と声を漏らした。
俺の様子を心配してくれたのか、駅の近くにあるコンビニで飲み物を買ってきた東さんが「どうかした?」と声をかけてくれた。ただ、東さんにわざわざ伝えるほどのものでもないと思ったため、「なんでもない」と返して、俺はスマホを電源ごと落とした。
「コーラでよかった?」
「うん。ありがとう」
目の前に海が見える。どこから来たのかもわからないような涼しい風が頬を撫でた。
コンビニの前の申し訳程度の日陰の中、プシッという炭酸独特の音が響いて、どこというわけでもなく吸い込まれていく。
「砂浜の方、行ってみる?」
コーラを一口飲んだあたりで、東さんが声をかけてきた。
俺は「うん」と返し、東さんの先を歩いた。
「熱いんだね。思ったより」
東さんは日光に照らされた砂に手を当ててそう言った。
平日ということがあるのか、周りに大して人はいない。
「ここを走ったりするとすごく楽しいんだよ。でも、砂があらゆる所に入ってくるから裸足で走らないといけない」
俺が言うと同時に東さんは既に砂浜を裸足で走りはじめて、ただ同じ学校にいただけじゃ一生見ることはなかったであろうその行動力に茫然としていた。
俺も靴を脱いで、東さんの背中を追いかける。自重で足が地面に少し埋まったりして走りにくいし、砂が足の爪の間に入ってきたりして、お世辞にも楽しいとは思えなかった。
けれど、誰よりも楽しそうに砂の上を駆けていく彼女の姿を、目に焼き付けておきたかった。もう二度とこんな笑顔を見ることはないと思ったから。
このまま時間が進まないでほしかった。彼女の笑顔を見るだけで生きることができたらどんなによかったか。
なんだか、わけもわからず涙が溢れてきそうになった。
時間にして数分くらい、俺はひたすら東さんの背中を追いかけ続けた。海の波が押し寄せる辺り、黄土色の砂の色が変わる場所、そこに東さんは立っていた。
肩で息をしながら、ずっと遠くの方を見て目を輝かせる東さんの姿に、俺は自分自身の存在すら忘れてしまうくらいに、ただ見惚れていた。
東さんはふとこちらを見て口角を上げて、海のずっと奥の方を指さしながら言った。
「本当、綺麗ね。全部辻くんが言っていた通り。全部どうでもよくなってくる」
東さんの笑顔があまりにも綺麗だったから、俺はその言葉に何かを返すのに随分時間を要してしまった。
「うん。本当、この世の何よりも綺麗だと思う」
「そんなに!?」と言って笑う東さんの声さえまともに聞こえないくらいに、俺はただ、目の前の彼女の笑顔に夢中になって、取り憑かれていた。
「帰ろっか」
俺は帰ったら母さんに死ぬほど説教されて、東さんは全ての罪を俺に被せる。
俺は東さんと同じクラスでもなんでもないから、恐らく今後学校内で接点ができるということはないだろう。
でも、それでもいいと思う。それがいい。
例えもう二度と言葉を交わすことはないとしても、今日という日が消えるわけではない。俺はこのまま、東という人物の綺麗な面しか見ることがないままこの関係を終わらせてしまいたいと思う。
「寄り道してく?」
「まさか東さんからそんな言葉を聞ける日が来るとは思わなかったな」
けれど今日だけは、少しくらい欲張ったっていいだろうか。
胸の奥に確かに宿る熱を殺したふりをして、俺は軽い足取りでその場を離れた。