煩いPeteと捕食者Vegas *
「なあ、Vegas」
Vegasを呼んだPeteの声は普段と比べると大分かすれていて、そして単調。声枯れの原因は状況を見れば一目瞭然なのだが、抑揚のないトーンの理由は定かではなかった。
白と黒を基調として設えられた二人のベッドルーム。中央には存在感のある真っ白なベッドが壁沿いに置かれている。温かみのあるクリーム色に近い白壁と大きめの黒いヘッドボードとの対比が絶妙なこの部屋を彩る家具のほとんどがVegasの趣味。Peteの要望はと言えば、チェストの上にちょこんと置かれた白くてふっくらとした多肉植物のラウィぐらい。
普段であれば綺麗に整えられているはずの寝室は現在、見る影もなく乱れていた。ベッドサイドにあるフロアスタンドの黒い傘は少し曲がっていて、本来ならばヘッドボード近くにあるであろう二つの大きな枕の片割れは落ちてしまっているのか行方知れず。
硬めのマットレスを包む光沢のある滑らかなエジプト綿のシーツはくしゃりと乱れ、その上には汗ばむ裸体を投げ出して天井を仰ぐ二人がいた。
「"Uh〜?"」
顔を僅かに傾け返事をしたVegasの視界には、真っ直ぐに上向く紅潮した艶のある目元でぼんやりと虚空を見つめるPeteの姿が映る。
ゆっくりと数回瞬く瞳と動かない唇。赤く細い痕がうっすら残る首筋。白いシーツへ向かって流れ落ちる柔らかな黒髪。胸元に散った無数の鬱血。それらをじっと眺めながら、VegasはPeteの反応を静かに待つ。
しばらく無音の間が漂ったあと喉元が小さく揺れ、顔だけを動かしたPeteとVegasの視線が交わった。
「"What’s going on?Pete…"」
Peteへ向かって身体ごと動かしたVegasは横を向く。PillowTalkにはいささか不似合いの真剣な面持ち。彼の印象は?と聞かれたら誰もが迷わず太陽のような笑顔と答えるはずだ。それが今、目の前に在る表情とは随分と印象が違い過ぎて、言い知れぬ不安がVegasの胸を騒つかせた。
「P──…」
「Vegasはさ、俺とのSEXで満足?」
Peteの口から出てきた問いにVegasは目を見開き、あまりのことに絶句している。悩みを抱えたPeteと解決を先延ばしにしたVegas。怖がりな二人はやっとの思いで互いの胸の内を相手に伝え、SEXについて合意した。
それが一月前の話。兄と義姉の一悶着はMacauに気を使わせてしまったのだろう。毎週末必ず泊まりがけで帰ってきていたMacauの帰省は明らかに減ってしまった。今週は帰らないからねと、今朝も二人あてに連絡が来ていた。
Peteの身体に負担をかけたくないVegasは兎にも角にも週末だけと決めていて、それはMacauがいてもいなくても特段変わることではなかった。彼は元々SEXに対してオープンな人間で、後ろめたさなどない。気になるのは大事なPeteの体調と気持ちだけ。
順調な蜜月を過ごしていると思っていたところにPeteからの問いである。Vegasが閉口してしまうのも無理はない。
*
「Vegasはさ、俺とのSEXで満足?」
こんなこと…聞くのは虚しい。でも気になったことは聞いておかないと。待ち望んだ幸せの中に、また小さなシミが残るのは嫌だった。
Peteの中では数日前、偶然耳にしてしまったMacauの"ある言葉"が胸の内で燻っていた。
〈兄貴は、まぁ…強かったけど──…〉
先週は久しぶりにMacauが帰ってきたというのに、珍しく会社に呼び出されてしまったVegasは朝からいなかった。帰宅した弟にそのことを伝えると少し残念そうにしながらも、一緒にゲームをしようと無邪気な笑顔で俺の肩にのし掛かってきた。
『夜は兄貴に取られちゃうから、いない間は俺のこと構ってね〜義姉さん♫』
Macauは大事な兄貴の恋人(男)である俺の存在をあっさりと受け入れてくれた。(抗争直後はいろいろあったけど、な…)今では可愛い俺の弟で大事な家族。勿論ばあちゃんも大事だし当然家族なんだけど、VegasとMacauの二人とこうして一緒に暮らすようになるまでずっと、誰といても、何処にいても、どこか" 独り "だと感じていた気がする。
『今日はVegasと買い物する予定だったから、冷蔵庫カラなんだよ。Macau一緒に行く?』
『兄貴が帰ってきてから三人で一緒に行けばよくない?』
『帰り、何時になるか分からないってさ。さっきメッセージ入ってた』
『まじか〜』
ちらりと時計を見遣ったMacau。何か用事でもあるのか?
『そんなに買わないから、とりあえず俺ひとりで行ってくるな。何か食べたいものある?』
『片手で食えるものがいい!』
片手で食べられるもの?何でだろう…ああ、ゲームしながら食べれるものってことか?
『もう直ぐバトルイベの開始時間でさ──』
明日なら付き合えるから!と申し訳なさそうに笑うMacauに見送られて家を出た。一時間後、買い物を終えて帰宅すると聞こえてきたMacauの声。
『ん〜どうなのかな。俺はそうでもないほうだと思うけど』
誰かと話してる…Vegasじゃなさそうだけど、電話か?
『うん、う〜ん。Kinnの弟だし、本性隠してるだけじゃないのか?ん〜それ聞かれても回答に困るな。俺もあんまり接点ないし…そもそも昔から家族と関わらない奴だし』
Kinnさんの弟…Kimさんの話か?電話の相手はPorchayかな。あの二人はいつの間にか仲良くなってた。
『いや、だから!Porchay、俺は違うって。兄貴は、まぁ…強かったけど』
やっぱり電話の相手はPorchayのようだ。強かった?喧嘩の話??
『俺との買い物中に平気でコンドーム買うような兄貴だぞ。相手がいなかった時期なんてないし、毎晩──』
あーあ。聞かなきゃよかったやつ。毎晩ね。そう毎晩…やってただろうな。アイツなら。強いって、性欲の話かよッ!!!
それ以上は聞きたくなくて、わざとらしく音を立ててMacauの名を呼んだ。
『Chay、わるい。Pete帰ってきたみたいだから、今度聞く。また夜のCoreTimeで!』
『えーっ!?Macau!切らないで、まだ終わってな──…』
MacauとPorchayの会話なんて聞いてないよ。俺は何も聞いてない…そう自分に言い聞かせ、ゲーム画面から振り向いて、おかえりと迎えてくれたMacauに笑い掛けた。
一週間モヤモヤしながらも隠し通した。でもやっぱり不安になった。ましてこの一年、いや正確には一年以上。400と21日もVegasとSEXしなかった。数えちゃった俺、気持ちわるッ。
聞く人によれば、もうそれやってるのと変わらなくない?と言われるような半年間のバニラセックスを経て、挿入なしのレス生活は一月前、ようやく終わりを告げた。
週末にはこうして身体を繋げてKissをする。毎日やりたいとかは思ってない。体力には自信があるけど、それとこれとは別問題。声は枯れてガラガラになるし、翌朝ケツは痛くて腰は重いの二重苦を味わう。
慣れなのか隠れ家での事後の痛みに比べたら随分と楽だけど、今だって本当は目を開けてるのもつらい。直ぐにでも寝れそう。
「Pete?」
俺の名を呼ぶVegasの声に胸の奥がギュッと軋む。…──嘘、ついた。あ、寝れそうなのは本当。でもVegasとのSEXは好き。本当に絶対に無理だけど、出来ることなら毎日やりたいぐらい。俺はね。
現実的には無理だから言わない。言わないけど本気で、めちゃくちゃ…いい。…好すぎるんだよ。優しかったり、酷くしてくれたり、して欲しいこと全部見透かされてる。Vegasに翻弄される心地良さを知ってしまったら、もう戻れない。
Peteは重だるい腕を持ち上げて、恋人の髪を掬い遊ぶように、はらはらと落としては目を細める。されるがまま瞬がずに見つめてくる男の彫刻のような頬を指の背で辿ると手を掴まれ、指先が優しく絡む。
「質問の意図が分からない。足りないのか?」
Vegasの口元へと運ばれた手の甲に押し当てられる唇の感触と射抜くような眼差しが、微かな火照りを助長させる。
「………Vegasってさ、たまに斜め上いくところあるよね…この状態見て足りないとか、さ」
言うわけなくない?天然…いや、わざとか。
「俺の話じゃなくて。Vegasが満足してるかどうかを聞きたいんだよ、俺は」
「なら聞くが、お前は俺が満足してないように見えるのか?」
「見、、、」
見えなくもない?でも欲求不満そうにも見えない。正直どっちと聞かれても今は回答に困る。Macauの会話を聞いてしまったPeteには"性欲強めなVegas"の先入観がある。
「ん?」
「………わかんねぇ」
小さくつぶやかれたPeteの一言にVegasは細く息を吐く。
「同感だな」
「な、んて…?」
「同感だ、と言ったんだ。俺は今、この上なく満ち足りてる」
「…………」
「そう思うのに、お前がそんな顔をするから直ぐに足りなくなる」
そんな顔ってなんだよ。俺、今どんな顔してる?
「その顔だ。俺が欲しいと強請るような顔をしてる」
してない…ッ!とは言えなかった。
色気と雄み溢れる顔面に居た堪れなくなり、ベッドから落ちかけの上掛けを右手で探って手繰り寄せ、Vegasに背を向け顔を隠す。スプリングが軋み背後に近づく気配がしたと思った時には、丸め込んだ上掛けごと抱え込まれて甘い香りに包まれていた。
「知ってるだろうが、こんなのは…お前が初めてなんだ」
こんなの?頻度?プレイ内容?なに…?知ってるって何のこと?
「こんな風に自分以外の人間を気にかけるような関係自体、初めてで…俺も手探りなんだ。お前が望むなら、もっとしてやりたいのは山々なんだが、身体が心──」
あれ?なんかズレてる。そう思った瞬間、丸めた体を性急に反らしたPeteは意図せず頭突きを繰り出すことになり、無防備な顎に衝撃的な一撃を喰らったVegasは顔を顰める。
「P…Pete…?急に動くな…」
「あ、ごめん…Vegas」
顎を摩るVegasに向き直り、向かい合って一緒に顎を触って確かめていると、頭は大丈夫かと心配する眼差しと声が降ってくる。
「俺は大丈夫。石頭なの知ってるだろ」
"Yeah…That's right."と返ってくる声色は優しく表情はどこか懐かしげ。思い当たる節は幾つもある。Vegasへの頭突きは一度や二度じゃないからな。
っと、今は昔を懐かしんでる場合じゃない。相変わらず俺たちは噛み合ってない気がするなと思いはじめる。どうやらVegasはセーブはしてるみたいだけど、不満足じゃないらしい?
「Vegas、俺はあえて聞く。そして…あえて、言うからな、疑うなよ。あと笑うな」
「笑う?何をだ」
「俺はじゅ〜うぶん満足してるから、これ以上頑張らなくていい。あと、さっきから初めて初めてって、お前…なんの話をしてるんだ?」
「?」
不可解だ。Vegasの瞳がそう言っている。
「ペットから恋人に昇格したのは俺が初めてってことか?」
自分で言ってて虚しくなる。そう思っていたらVegasの眉間には困惑の溝が刻まれた。
「違う。恋人を持つことが初めて、だ」
「んっ?んんん??」
「なんなら、恋愛自体が初体験だが」
「嘘だ!!!」
今日イチ大きな声が出た。掠れていたはずの喉は急速回復したようだ。そして、Vegasの口から"恋愛"という言葉を聞くのは何だか、むず痒い。
「嘘?お前に嘘はつかない」
いやいや、それこそが嘘だろう。何度Vegasの口車と笑顔に騙されたことかと顔が歪む。
「信じないのか」
同情心を誘う憂い顔に思わず心が痛む。まだペットだった頃、Vegasに対する想いが好意なのかもと悩み始めた当初の俺は初恋とか過去に気になった子を思い浮かべて、気持ちを比べたりしていた。
結局は答えが出せなくて逃げ出したけど、付き合うのはVegasが初めてだし、告白すらしなかった淡い初恋は恋愛の内にも入らないだろう。なら経験は俺にもないと言えるが──…
「好きな子ぐらい…いただろ?初恋の子とか。そ、それに恋人だっていたろ!?わざわざ俺にコンドーム見せびらかしてさ」
「コンドーム?…──あぁ、あれはそんなんじゃない。Kinnと同じ。ただ吐口にしてただけの関係で恋人なんかじゃない」
恋人じゃない…その一言で胸臆の小さなシミは大分薄れて消え去りそうになる。
(あれ…?もしかして俺、、、やきもち焼いてたの?)
ふと浮かんだ恥ずかしい思考を小さく頭を振ってかき消す。過去が気になるんじゃなくて、今のVegasが満足してるのかどうか、が気になるだけ。そう思うPeteを余所にVegasは話し続ける。
「納得は出来ないってことか」
自分の心やましい考えを打ち消すのに必死だったPeteには聞こえていなかったが、Vegasの安心したか?の問い掛けと、先ほどPeteが頭を振ったタイミングが被ってしまっていた。
「なら、あと気になるのは初恋の話か?」
「え、いやッ違…」
「あ〜…いたかもな」
Peteの静止は間に合わず、また胸がちくりと痛むような答えが返ってきてしまう。
「たしか俺が9歳ぐらいだったか。22、3の若い日本人の男が分家に身を寄せていて、そいつが──」
「いいッ!言わなくていい…」
右手の手掌でVegasの口を塞いで話を遮る。塞いだ手の甲から目線を上にずらすと、ふわりと緩む目元に見下ろされ、手の内側にある唇が動くと同時、圧迫感に手首が囚われる。
掴まれた手はゆっくりと引き剥がされてしまい優しく肌を擦り上げてくるVegasは、ふっと笑うと最後まで聞けと囁く。
「そいつは情報を探るためにYakuzaが送り込んできた工作員だった。よくある話だろ。バレたあとは盛大に痛めつけられて最後には俺の目の前で頭を撃ち抜かれた」
「Vega…s…いい…話さなくていいから…」
初恋の男はかなりの年上で、しかも死んでるなんて。Vegasの心情を思うと声が震えた。
「それからしばらくの間、俺はそいつの断末魔が忘れられなくて何度も反芻した。まるで取り憑かれたようだったな」
ん?断末魔が忘れられない?反芻した?
「Vegas…その人の顔、憶えてるか?」
「顔?」
黒の虹彩が左へ上向き、Ah〜と短い唸り声の、あとに戻ってきた目線が交わり、聞こえてきた答えは"I don’t remember anything."だった。
「初恋だったんだよな」
「強いて言えば、そうだろ?奴が殴られている場面はしばらく俺の頭から離れなかった」
「なんかそれ…違くない?」
「それなら、初恋も恋愛も俺にはなかったってことだ。違うか?」
真っ直ぐなVegasの瞳にまた言いくるめられそうになって、肯定の言葉を飲み込む。
「で?Pete、結局お前は何に気を揉んでいるんだ」
「………ッ…!」
ずばり聞かれて言い淀んでしまったが、怯むなPete!気になるとこは聞くって決めただろ。
「だからさ、、、お前が満足…出来てないんじゃないかって不安だったんだよ!」
「"Why do you think so?"」
「MacauとPorchayの会話でたまたま聞いたんだよ、お前の…」
「Porchay?MacauとPorchayが俺の話をしてたのか」
「そ、そうだよ。でも多分PorchayがKimさんとのことを相談してたんだと思う。その流れでVegasの…せ………」
「俺の?何だ、Pete。はっきり言ってくれ」
「だから!お前、昔は毎日やってたんだろ?」
「毎日…What?」
「Macauが言ってたんだっ!朝から晩まで毎日SEX三昧の性欲魔人で相手が途切れたこともないって。だから」
あ─…そこまでは言ってなかったかも?と思ったが、時すでに遅し。Vegasの顔はすっと表情を無くして無我の境地に入っていた。
「そうして欲しいのか?Pete」
へ?Vegasの顔が怖すぎて声が出ない。死ぬ。そう直感した体は考えるより先に逃れようと身を翻す動作をしたものの、捕食者よろしく獲物に狙いを定めたVegasが何枚も上手だった。
寝そべった腰骨にやんわり添えられていたはずのVegasの左手はいつの間にか背中に回っていて身動きを封じ、右手は両手首を掴んで胸に抑え込むような形でホールド状態。
(あれれ?俺これでもトップBGだったんだけどな…)
現実逃避な考えが頭をよぎる。Peteは覚悟を決めて瞳を閉じ、安らかに…と胸の中で自分に両手を合わせたあと、ゆっくりとVegasを見上げた。