薬指と口約束残暑も遠のき、時折ひやりとした風が吹き抜けるようになった秋の空。
抜けるような青空に、燃え盛る炎のように色鮮やかな木々が映えて、目映い。
澄みはじめた空気の中、一際熱を持った場所からカツン、と鉄を打つ音が禍群の里に響いて、消えた。轟々と燃える炎と、ぱたん、ぱたんと微かに聞こえる蹈鞴の音の合間に再びカツン、カツンと鉄の音が上がる。いくつか硬質な音が上がると、今度は白鉄を冷やす水の罅ぜる音。傍らでさりさりと刃物を砥石にかける音も増える。それぞれがことことぱたりと人の気配とともに忙しなく動き回っていて、小気味よく音楽を奏でているようで心地よい。
師匠に言いつけられていた鍛治鉄を仕上げて、額に滲む汗を拭う。これさえ仕上げてしまえば、明後日までは暇になるはずだった。
打ち上げたそれは豊穣祭で扱う神器のひとつで、毎年新鉄で鍛えたその年一番の小刀を捧げるらしい。湯曇の生まれであるヒバサにはいまいち馴染みのない文化だが、どこにでもそういう独特な行事はあるものだ。外の人間である自分が神聖と謂われる新鉄を扱っていいものなのかは気になったが、師匠が構わないと言うならそうなのだろう。未だ白鉄と向き合う師に借家に戻る旨を伝え、鍛冶場を後にした。
じゃりじゃりと小石の混ざった道をかき混ぜるように歩みながら、小路を抜ける秋の匂いを纏った冷風に腕をさする。そろそろ綿布団を出さなければ、風邪を引いてしまいかねない。
さむ…と呟いて、何気なく見た遠くの山が白い幕を被っているのに気がついて冬の近さを知る。この里が同じ色に染まるのもそう遠くない話だろう。そう思うと、己がこの里にいられるのも残りわずかな時間なのだと思い知らされて、しくりと胸が痛む。
ヒバサは次に芽吹きの季節を迎えたら、故郷に戻る。師からの伝授は、今日が最後と言ってもよかった。禍群の製鉄、蹈鞴、そして鍛冶。狩人見習いとして訪れたこの里の技術にどうしても自分もやってみたくなって、鍛冶の名手でもある師に頭を下げた。狩人としてもまだ未熟だというのに、竜や獣の特性、人体、鉱物、植物。ありとあらゆる知識を求められる武具鍛冶に名乗りを上げるなど、ようやく狩場に出るようになったばかりの頃のヒバサには早すぎた。
結局、ごり押しにごり押しを重ねて、更に無理を言ってどちらの指導も受けている。
これがまた己を夢中にさせた。今日打ち倒した獣の素材の特性、そこから得られる恩恵。ひとつずつ散りばめられた破片が、武具の部品としてかっちりと結びついた時の快感はひとしおだった。己の担ぐ武器を、身に纏う鎧を、己の手で造り上げられる。というのはヒバサの心を強く掴んで離さなかったのだ。
己が此処で過ごした月日はそう短いものではない。いくつもの四季を重ね、顔馴染みも増えた。修行の為とはいえ、小さな集落に外から移り住むというのは簡単な話ではない。何処の里でもそうだ。余所者は害虫と紙一重なのだ。身一つでこの里にやってきたヒバサにとっても例外ではなかったが、禍群の住人たちは温かく彼を受け容れた。お人好しが多いのか、世話焼きが多いのか、やれ飯は食っているのか、衣類は足りているかと散々もみくちゃにされた。狩人になることに反対した両親の元から家出同然に飛び出した己に、禍群の里人たちは両親が寄り添わぬ不満や新生活への不安を綯い交ぜにした心の隙間を埋めるかの如く、お節介を焼き続けた。それはもう、里の長が「構いすぎだ!」と言うくらいには。
来たばかりの頃は構ってくれるなと意固地になって、素っ気ない態度をとったりもしてしまった。嫌われては修行もままならなくなるというのに、かつての己は愚かしいばかりだ。それでも世話を焼き続けてくれた彼らは、冷え固まってきりきりと痛みを滲ませていたヒバサの心を優しく解きほぐしたのだ。あれがなければ狩人にすらなれていないし、そもそも鍛冶とは出会うことすらなかった。破落戸同然になっていたかもしれないと思うと、この里の大人たちには親よりも感謝しているかもしれない。
感傷に浸っていたせいか、つんと鼻を抜ける冷たい空気のせいか、酷く寂しい気分になる。頭を振って寂しさのことは心の片隅に追いやった。
次に考えるのは、これからの時間の事。体が自由になったとあれば、当然満たすのは三大欲求。近場の里でうまい飯と酒と女に舌鼓をうちつつ自由を謳歌するのだと考えを巡らせていると、禍群の長に呼び止められる。
目論見がばれただろうか、と探るように用向きは師匠に対するものかと問いかければ、ヒバサ本人に用があると言う。心当たりがなく首を傾げると、ヒバサと歳の近い狩人であるウツシが面倒を見ているという稚児を、彼の不在の間預かれ、という話だった。
なんでまた俺に、と喉元まで出かかって、飲み込んだ。長直々に頼むのだから、それなりに手を尽くした結果なのだろう。そうでなければ、子育ての経験もない己に話が回ってくるなどありえないだろう。
迷子程度ならともかく、子守りとして小さな子供の面倒はさすがに見た事がない。それも、彼が面倒を見ているのは乳飲み子から漸く抜けたくらいの小さな子供だったはずだ。そんなのを、子持ちでも年長の兄でもない自分が相手してやれるとは思わない。件の青年狩人のように満面の笑みを顔に貼り付けるなど、性に合わない。
面倒臭そうに見えたのか、はたまたヒバサの思考を読んだのか、目の前の大男は見た目に違わぬ豪快さで笑う。
「安心しろ。なにもおしめを替えろなどという話ではない」
「…はあ」
酒と女を嗜もうとしていただけに、稚児の面倒を見なければならないのは都合が悪い。
如何にして断ろうか、それとも何かいい考えはないか、いっそ、侍らせた女に面倒を見させるのはどうか、と知られたら張り倒されそうな思考が片隅に浮かぶ。
日が傾く前に禍群を出たいのだ。こんな所で道草を食っている場合ではない。
素直に謝って、これから酒を飲むつもりだからと断ることにする。
「あの、悪いんですけど、俺、」
言いかけて、ちらりと大男の影に小さな子供が見え隠れしているのに気がついた。
ふっくらとした頬は幼さの象徴とも言うべきか、もっちりと重力に沿って垂れ気味だ。その丸い稜線の中心はじゅわりと滲むような薄桃色に色付いていて、幼児ならではの可愛らしさを如実に表している。指を添えれば大福みたいにしっとりとしたやわらかさに触れるだろうことは、想像に難くない。そのまま子供を観察するように見ていたら、まだ生え変わったばかりのやわらかで頼りなげな髪の毛が風に吹かれてふわふわと揺れた。まるで蒲公英の綿毛だ。
がっちりとした元英傑の足元にひし、としがみついているその子供は、初めて会ったヒバサに人見知りしているのか不安に滲む双眸でこちらを見上げている。
「どうも、おチビちゃん」
膝を落として視線を下げて、できうる限り最高に優しい声を出す。こんな猫撫で声、女相手にもなかなか出さない。
慣れぬ挨拶に声が震えてしまったが、及第点だろう。女の扱いにはそれなりに自信があるが、どんなに愛らしくても子供、それも数えで赤子に近いような幼子は趣味じゃない。いずれ女と子を為すことはあるかもしれないが、それだってもっと遠い未来の話だろう。とにかく、ヒバサは子供の扱いには明るくない。
泣かれたら、逃げられたら、というヒバサの懸念は杞憂で、いかにも人見知りの稚児はそっと里長の影から姿を見せて、小さな声で「こんにちは」と返す。
やや舌足らずではあるものの、はっきりとした挨拶に自然と笑みが漏れた。
「大丈夫そうだな!俺は付き合いがあるからな!よろしく頼むぞ!」
付き合い、と言いながら摘んだ指を傾ける仕草をした男に、やられた。と思った。
この爺、自分が酒飲みたくて押しつけに来たのか。してやられた。素直に酒が飲みたいからと断ればよかった!と立ち去ろうとする男の背中を忌々しいとばかりに睨めつけていると、そうそう、とこちらを振り返る。
「…まだ何か」
「今宵は豊穣祭の前祭りだ。夜店も出るぞ。子守りにはうってつけだろう!」
舌打ちを寸でのところで抑え込む。口の中で舌が巻き、上顎に張り付いている。少しでも力を込めれば盛大な舌打ちが出ただろう。それをしなかったのは、眼下に不安げな顔の幼子を捉えたからだ。
此処でこの子供を放って女のところに行けるほど、鬼ではない。そう、ただ、扱いをよく知らないから面倒臭いだけなのだ。先程から随分と大人しくしているし、案外お利口に過ごしてくれるかもしれない。女も酒もなしだ。今宵のヒバサの予定は子守りである。今更覆らぬ現実に、己を鼓舞するしかなくなった。
とことこと鼓を叩く音に、笛の旋律が乗る。赤や黄色の雪洞が夜風にゆらゆらと揺れて、ぼんやりと辺りを照らしていた。こんな光景を、美しい女と歩けたら良かったのだが、今ヒバサが手を引いて連れているのは残念ながら嫋やかな女ではなくもちもちとした手の小さな子供。
あれから、少しずつ、ゆっくりと時間をかけて幼子のことを聞いた。
名前。年齢。好きなもの。苦手なもの。将来の夢。話すのが苦手なのか、たどたどしくはあるもののヒバサの問いにきちんと答えることができていて、年齢の割に酷く賢い印象を受ける。
そういえば、何故青年狩人の家で養育されているのだろうか、と気になって、うっかり両親のことを尋ねたのは失態だった。
みるみるうちにこぼれそうな双眸に水の膜が張り、その淵を揺らし始める。
慌てて悪かった。もう聞かないよ。悲しいこと聞いてごめんな。と謝って、お詫びの印に、と鼈甲色の棒付き飴を買い与えて事なきを得た。
口の中で棒がつっかえぬよう見張りながら、潤んだ目で飴を頬張る稚児の姿を見ていた時は久々に生きた心地のしない時間になった。
その前に肝を冷やしたのは熱されてぐらぐらと煮立つ溶けた鉄を床にぶちまけた時だ。あれは本当に死んだかと思った。
辛うじて、ヒバサは幼子のお眼鏡に適ったのだろう。露店で売られていた食べ物に舌鼓を打って、ヒバサも子供も充分に腹を満たした。心地よい満足感とともに、さて帰るか。と声をかける頃には、随分と懐かれていた。小さな紅葉が一生懸命ヒバサの狩猟と鍛治でごわついた手を握って着いてくるのは、ある種の感慨深さがある。いくつもの肉刺を潰し、胼ができて、火傷の痕もそこかしこにある。お世辞にも整った美しい手とはかけ離れていたが、己の重ねてきた努力の結晶のようで、悪くないと思う。
離れるなよ。と一声かけるだけでひとつ頷いた稚児は、片時も離れることなくこうして共に横を歩いている。本当に利発な子だ。特産の串団子と卵糖を手土産に、それから家に着いてからならいいだろう、と晩酌用に猪肉の串焼きを買って、普段よりも随分とゆったりとした歩調で借家に足を向けた。
雪洞が仄かに照らす夜道を、喧騒とは逆方向に進んでいく。ざりざり、しゃりしゃりしゃり、とふたり分、重さの違う足音が祭囃子よりも大きくなり始めた頃、ふと足音がひとつ減っているのに気がついた。
とうとう迷子になったかと振り返ると、少し後ろで幼子は立ち止まっている。
ほう、と惚けたように見つめる視線の先を、引き返しつつ追えば灯りを受けて煌めく玩具の佩物たち。指輪、首飾り、簪。宝石を模した石と、色とりどりの細工は螺鈿のように見える着色だろうか。ヒバサからしてみれば子供騙しの偽物にしか見えないが、どうやら子供にはそうでないようだ。烏と子供は光り物が好きらしい。
「欲しいのか?」
「!」
努めてやわらかく声をかけたつもりだったが、余程夢中になって見つめていたのだろう。小さな肩が大袈裟に揺れて、困ったような顔でこちらを見上げる。
遠慮しているのはすぐに分かった。ふるふると小さく首を振って、それでも酷く名残惜しそうな顔でちらちらと屋台の方を見るものだから、可笑しくなって笑ってしまう。先程慰めるための鼈甲の飴細工と、玩具と同じように見つめていた卵糖を買ってやったせいもあるのだろう。「いいにおいがするねえ」と歩いた先、その匂いの元を食い入るように見て、興奮気味に「ふかふかしてる」「うれしいにおい」と繰り返してそれはもう幸せそうにくふくふと笑っているのに欲しがらないがらないのを不思議に思い、俺も食べたい、余ったら兄貴分の土産にしたらどうだ、と提案して丸め込んだはいいが、わがままだったと気負ったようで眉を下げられてしまった。
もう一度、「欲しいのか?」と聞く。要求しにくいのならば、と「いっこだけ好きなの買ってやる。ウツシのやつには内緒だぞ」と小声でひそひそ話をするように囁けば、「ほんと?」と小さな声で聞き返し、期待に輝く目がヒバサを見つめる。よく見ればほんのりと照れくさそうな笑みを浮かべていて、卵糖の時といい、今といい、利口で大人しい稚児の姿はこの子の鎧のようなものなのだと気づかされる。
何がこの子供をそうさせるのかは聞きたくもなかったが、ひとひらの子供らしさにこちらまで嬉しくなって、どれがいい?と抱き上げて商品を見せてやる。より沢山の佩物が見えるようになって、はわ…と小さな唇から声が漏れたのが聞こえた。遠慮がちに眉を下げているよりも、卵糖や玩具を見た時のような蕩けそうな顔で頬を真っ赤に上気させている方がずっといい。
ヒバサと稚児のやり取りを見守っていた露店の主も、冷やかしかと疑う目から微笑ましいものを見つめる温かなものへと変わっていて、少し気恥ずかしくなる。
たっぷり悩んで、これ、と幼子が指さしたのは橙の石がついた指輪だった。
玩具にしてはなかなかに出来がよく、灯りに透かしてみると石の中できらきらと光が反射する。
琥珀か、蛋白石か、はたまた黄水晶を模しているのか。他の安っぽい造りのものとは、どこか違っているように見えた。
「お、いいもの見つけたね。それが一番出来がいいやつだ。他は売れちまったから、そいつが最後だよ」
店主も身を乗り出して、人好きのする笑顔を浮かべている。もう買うことは決定しているのだから、逃がすまいと煽てる必要はないだろうに。
「じゃあこれにするか?」
「うん」
頷いたのを見て、じゃあこれで、と代金を渡す。
「まいどあり」と言いながら、ヒバサの腕の中の子供に指輪が渡る。それを、恩寵を賜ったかのように恭しく両手で受け取って「はわ…」と再び感嘆の声を漏らした。
一層頬を染めて、この世で一番の宝物を手に入れたかのような顔。こういうものを守るために、己は努力するのだ、と再確認させられる。
ふと、玩具の指輪に目を煌めかせる子供を見ていたら名案を思いついた。
抱いていた小さな体を地面に下ろして、片膝をつく。
ふくふくとした手を取って、先程受け取った指輪を摘んだ。
何をするのか、ときょと、と不思議そうな顔をしている幼子に驚くほど自然に笑いかけたヒバサは、その小さな小さな左薬指に指輪をはめてやった。その行為の意味を知ってか知らずか、見るまに子供の柔らかな頬は血色を帯びていく。
恥ずかしいのか嬉しいのかむずむずとする唇を噛み締めているのを見て、小さな達成感を得た。利発で随分と大人びた印象の子供だから、こうして心を大きく動かした様を見れるのは、嫌ではない。
それを見ていた露店の主にひゅう、と口笛を吹かれたのは大変に恥ずかしかったが悪くはない。「小さな子相手に随分気障だね」とからかい混じりに言われて「性分なんでな」と口角を上げた。
ばいばい、と店主の男に小さく手を振っている幼子をよそに、ヒバサは稚児を再び抱き上げて帰路を歩む。雪洞の光も届かない民家付近の道は暗い。転んで怪我などさせられない。それに、歩調は合わせたといっても、散々歩かせてしまったのだ。小さく狭い歩幅でこれだけ歩いたのだから、だいぶ疲れただろうと思っての事だった。
これが、すぐに疲れただのあれが欲しいだのなんだのと駄々をこねるありふれた子供だったなら、自発的に子供を抱き上げるなんてこともしなかっただろう。そもそもこの子守り自体投げ出していたかもしれない。わがままを言うこともなく素直にヒバサの言うことを聞く。こちらから提案しなければ何かを欲しがる様も、上気した頬も見ることがなかったのかもしれないと思うと、あまりにもいじらしくて健気な姿につい構いたくなってしまった。
漸く心を少し開いてくれたところで、この時間もそろそろ終わりだ。ウツシの不在は明日まで。早ければ今夜遅くにでも迎えに来るだろう。過保護なあの男のことだから、下手をすればもう既に家の前にいるのかもしれない。
正直なところ、ヒバサはウツシのことが苦手だ。
貼り付けた満面の笑みが何を考えているかよく分からないところとか、十も離れていない歳なのに既に第一線の、それも上位狩人として君臨しているところとか。要はただの嫉妬なのだが、底抜けに明るい振る舞いとどこか天然気味なところも相まって、何となく、敬遠している。知っているのは、歳が割と近いこと、腕の中の幼子の面倒を見ていることと、天才的な狩人であること。相性が悪いとか、そういったことは恐らくは、ない。ただなんとなく誰にでも距離なしで近寄ってくるくせに、こちらには一線を引いているようなところも、ヒバサが抱くウツシに対する苦手意識の一端を担っているのかもしれない。
居たらどうしようか。なんて言って子供を渡す?お利口にできてたぞ、とかか?俺は乳母じゃない。
互いに修行に狩猟にと忙しくて、世間話をするような間柄でもない。これが女だったら潤滑にいくのに、とため息をついて、視界の先に借家を捉える。幸か不幸か、たどり着いた家の前には人影はなかった。既に寝ぼけ眼の幼子を抱え直して、じゃり、と砂を踏んだ。
「もうすぐ俺ん家着くからな」
「んぁ…はい」
「無理すんなよ。おチビちゃんはとっくに寝てる時間だからな」
「んん…」
まだ眠りたくない、とむずがるようなところは、普通の子供たちと大差ない。
抱えた素肌に触れた部分が、じんわりと汗をかくほど熱を帯びている。もうほとんど寝ていると言っても過言ではない。
小さな手で瞼をこすってみたり、ヒバサの肩口に顔を埋めて、ぐりぐりと額をこすりつけたり。眠気に抗っている様がわかる。顎の下でふわふわと揺れる和毛が擽ったくて、思わず笑い声が漏れてしまった。
「ウツシが帰ってきたら一応起こしてやるから、寝てろって」
「んんん〜んん……」
空いた手でまだ柔らかい腰のあたりをぽんぽん、と優しく叩くと、むにゃむにゃと口の中で何かを言っている声が聞こえる。ウツシを待ちたい、なのか、眠くない、なのかはヒバサの耳には届いてこなかったが、何度かそうしていると小さな寝息が聞こえてきた。
いい夢見ろよ、と呟いて、借家の戸に手をかけた。
翌朝。外が白み始めてすぐのこと。しん、と静まり返った居住区に、急いでいるような足音が響く。周りの住人を起こさぬように気を使っているようだが、時折じゃり、と砂を擦るような音がして、ヒバサは眠りから覚めた。
横には、昨日面倒を見るよう頼まれた小さな子供が一人。
あれから数回起きては「ウツシにぃには?」と問いかけてきて、未だ帰還せぬ青年を恨みながら何とか寝かしつけたのだ。
外からじゃりじゃりと聞こえてくる足音に幼子が起きたらどうする、と思ったところで戸を叩く音がした。漸くお戻りのようだ。
横でくうくうと寝息を立てている小さな生き物との別れを目前にして、後ろ髪を引かれるような思いがしたが見ない振りをして布団から抜け出した。
己の体が抜けたことで肌蹴た布団を、子供の体を冷やさぬようにしっかりとかけ直して、音の主を出迎える。素足に床材のひやりとした冷たさが刺さって、つま先を浮かせるような歩き方になった。
引き戸を極力音を立てぬようにそろそろと開けると、想像通り、松葉の髪色をした美形の姿。心なしか疲れているようには見えるが、いつも通りの飄々とした彼に見える。
「よぉ。遅いお帰りだったな」
「これでも早い方だよ。手間をかけさせたね。里長がきみに預けたと言うから、驚いちゃったよ」
「あの爺さん、豊穣祭の集まりで酒飲むためにあいつを俺に預けたんだ」
「それは…なんだかごめんね」
「別に。引き受けたのは俺だ」
起こすか?と聞くと、起きなかったら抱いて帰るからそのままでもいいと言う。
ただ、昨日稚児に言ってしまった「帰ってきたら起こしてやる」の約束を思い出して、「起きろ、お前の兄貴分が帰ってきたぞ」と声をかける。
二回目あたりまではもぞもぞとむずがっていたが、三回目でぱちりと目が開いた。 そのまま数回ふわふわの薄いまぶたが瞬いて、「にぃにいる?」と聞いてくる。まだ少し寝ぼけているのか、滑舌があやふやなのが微笑ましい。
「おう、もう出入口のとこにいんぞ」
「にぃに!」
喜色満面。がばり、と起き上がって、出口に向かって小さな足音が駆け寄る。
現金な奴め。とごちて、後ろから卵糖をいくつかくるんだ包みを持つと再び冷気の根源に向かう。
「ついでにこれ。豊穣祭で買って余ったやつだけど食えよ」
「わ、卵糖だね、いただくよ」
子供と、豊穣祭の土産。それらをウツシに引き渡せば、ヒバサの仕事は終わりだ。
「わがまま言わなかったかい?」
「全然。利口すぎてびっくりしたぜ」
「だよねぇ、偉かったね」
ぴったりとウツシの腰にまとわりついている小さな頭を撫でて、愛しげな目を向ける。
何を考えているか分からないと思っていたが、こんな顔もするのか、と意外な気持ちになった。くしゃくしゃと和毛をかき混ぜて笑うその姿は、自分や周りの同年代と何ら変わらない。篭手を外している手で幼子のそれを握ってやって、「かえろうね」と声をかけている。眠いとか帰りたくないとかいうことでさえも、眼下の子供は駄々をこねない。
そんな姿を見ていると、いやというほど甘やかしてやりたい、という父性のような何かがヒバサの内に芽生えつつある。べったりになるウツシの気持ちも分からなくはないような気がして、らしくもない。と心中で吐き出す。
「じゃあ、本当にありがとう。このお礼はまたいずれ」
「それならうまい酒でも奢ってくれ…冗談だよ。別になんもいらねえ。じゃあな、おチビちゃん」
じゃあなとおざなりに手を振ってやると、ウツシの腰にぎゅうとしがみついていた稚児から、「ヒバサにぃ、ばいばい…」と小さな声が聞こえてきた。小さな紅葉がひらひらと左右に動いていて、昨夜の努力が一気に報われたような気がする。
にっこり、とまではいかないが、やんわりとその口元は笑みを形どっていて、それを己がそうさせたのだと思うと満ち足りた気分になる。
山際から朝日が昇って、辺りを明るく照らしはじめると、鳥の囀りも賑やかになってくる。穏やかな朝の訪れに、目を細めた。冬の入口に出会った幼子と過ごした時間は、ヒバサの心をまたひとつ、大人にしたのだった。
狩人の青年と幼子が連れ立って背を向けたのを見送って、ヒバサも寒い中にいつまでもいる必要はないと背を向けかけた。その時だ。
「ヒバサにぃ!」
振り返れば、ウツシの手を離した幼子が、こちらに駆け寄ってくる。
忘れ物をしたのかと思って、屈みながら「何か忘れもんでもしたのか?」と聞いてやると、冷えからか、それとも別の何かからか、頬を林檎色に染めてもじもじと何か言いたげにしているではないか。その様子に、思わず「小便か?」と聞きかけたが、せっかく懐いてきてくれたのにわざわざ嫌われそうなことを言うべきではないと言葉を飲み込んだ。
「どうした?」
「あのね、えっとね、」
もじもじと、言葉を探しているように何度も口をはくはくとさせている子供の次の言葉を、じっくりと待ってやる。わざわざ戻ってきてまで言いたいことなのだから、さぞこの幼子にとっては大事なことなのだろう。焦らずに、言いたいことを言わせてやりたかった。
緊張して少し力の入ったまろい肩に本気で小便か?と焦りがちらつきはじめたところで子供の口から次の言葉が出た。
「おっきくなったらにぃにのおよめさんにしてね」
「…は?」
驚いた。そんなことを言うような子供には見えていなかったし、言ったとしてもそれは己にではなくウツシに対して言うものだとばかり思っていた。ヒバサには子供を娶る趣味などはないが、子供の戯言だと、どうせ稚児が適齢になる頃には忘れ去っていることだろうとわかっていても、突然求婚されれば驚きもする。
ここで、ひとつの心当たりを思い出す。
昨夜、祭りからの帰り際。雪洞が途切れ始めたころに見つけた玩具の佩物屋で買ったもの。食い入るように見ていたものだから、ひとつだけなら、と許した。
それは、黄金に光を反射する模造の指輪。ヒバサとしてはただの玩具であれに他意はない。
むしろ欲しがっているものを買い与えたのだから、まさか婚約の証に見立てられるとは、思いもしていなかった。
いや、そのきっかけを与えたのは自分だ。喜ぶ顔が見たいと思う一心で、あんなことをしたのだ。何も知らぬ子供がその儀式を模したおふざけなのだと見破れるのかと言われれば自信がない。余計なことをした。と後悔しても、後の祭りである。
目の前の子供の目は昨晩のように、期待に煌めいている。「約束な」と返ってくるのを期待しているのだろうか。その様は大変に可愛らしいが、約束を果たせるようになる頃にはきっと子供は大人になっていてこの話を忘れているし、己もだいぶいい歳になっているだろう。最悪の場合、己自身がそれを忘れて祝言をあげてしまう可能性だってある。
本気にしているわけではない。それでも、安易に不誠実な約束を取り付けてしまうのは躊躇われた。脳内から色んな言い逃れ、はぐらかし、話題のすり替えを引きずり出す。
幼子の気持ちを踏みにじらず、なるべくなら嘘にもならず、忘れてくれることを前提とした、何かいい文句は…そうだ。
「ああ、そのうちな」
そのうち、なんて大人からしたら随分不誠実な返事だ。実際、好みじゃない女に言い寄られて逢瀬を求められたから、「そのうちな」と同じように返したらある時痺れを切らした女から「そのうち、っていつよ!」と詰められて面倒なことになった。
聡明な子供の口から、いつ?と返ってきてしまうのを恐れはしたが、「うん…」とありのままにはにかむ表情を見てしまったらそれ以上は何も言えず、ずしりとした罪悪感が腹の底に沈んだ。
忘れてくれるまでの時限爆弾みたいなものだと己に言い訳をして、それまでいい子にしてろよ?と頭を撫ぜる。ただでさえ林檎のようだった頬が、更に血の気を帯びてじゅわりと染まったのがわかって、今の幼子にとっては一世一代本気の大告白だったことが窺える。
その事になお重たい罪悪感が横たわっていく。情けないが、頼むから忘れてくれ。と願わずにはいられなかった。
結局、その後ウツシが連れた幼子に会う機会は一度もなく、芽吹きを迎える時期にヒバサは故郷へと戻ったのだった。
「また随分古くせえ夢だったな…」
十年ではきかないほど前の記憶だった。
あの頃青年風情でとんがっていた自分も、歳を重ねて随分丸くなった。
女遊びも酒遊びもあの頃よりは随分大人しくしている。面倒事はごめんだった。
と、いうのは半分嘘で、あの子供の顔がちらついてしまって、自分が結んだ不誠実な約束を忘れていることを確認できないまま女遊びに興じるほど神経が太くなかったのだ。
自分でもどうかしていると思った。あの子供に惚れた腫れたしているわけではないものの、あの日腹の底に鎮座した罪悪感たちが未だに横たわり続けているのだ。
己のことも忘れていてくれて構わなかった。あの約束を本気にしてずっと待っている、ということさえなければ、それでいい。
ごろり、と寝返りをうってそこが自分の故郷でも、妹分のあてどもない旅先でもないことを思い出した。
禍群の里。かつてヒバサが狩人として、職人として研鑽を積んだ懐かしくも忌まわしい第二の故郷。
己が里を出て、故郷に戻り、目の離せない妹分の武者修行に付き合うようになってから。
知らぬ間に強大な番の古龍によって里は壊滅の危機に瀕していた。その憂き目を振り払ったのは、『猛き炎』と称される歳若い狩人らしい。
百竜夜行で見せた勇姿、怨虎竜の討伐、そして、番の古龍の撃退。その勇猛果敢、獅子奮迅の大活躍はかつて苦手としていた美形の狩人を思い起こさせるようで、口の中になんとも言えない味が広がった。
「久しぶりだね!また会えて俺は嬉しいよ!あ、こっちは俺の愛弟子。多分きみも一度会ってるはずだ」
十云年ぶりに聞いたウツシの声はやはり大きい気がする。
お互い随分おじさんになっちゃったねえ。などと呑気な言い回しはかつての彼とあまり変わらない。それでも、幾らか角が取れたような印象を受けるのは歳を食ったせいだろうか。
彼の愛弟子、弟子を呼び付ける時でさえ「愛弟子!」と呼びかけるのはどうかと思うが、その若き狩人こそが、稀代の英雄、『猛き炎』本人だという。
『猛き炎』の正体を知って、まだ成人になって間もないであろう若者に、本気か?と思う自分と、やっぱりな、と思う自分がいた。
どう見ても、と言うには成長しすぎていて自信が持てなかったが、あの時面倒を見た幼子が『愛弟子』つまり『猛き炎』で間違いないだろう。微かに髪色だとか、吸い込まれそうな双眸だとかに面影があるような、気がした。
天才狩人と称されたウツシが現役を退いて、後進の育成に携わっていると風の噂で聞いたのは数年前のこと。天才の弟子は天才なのか、彼の弟子だという子供も異様なほど技量に長けていて、その実力は同年の平均を遥かに越えているとも言われていた。
その時はそんな化け物のような餓鬼がいてたまるか、と歯牙にもかけなかったが、天才が天才を育てたのならば、合点はいく。
縁あって、妹分のモンジュと共に、この地に舞戻ることになったのはなんの因果だろうか。
叔父貴に挨拶に行く!というモンジュと、任務の報告に行く、というウツシは連れ立って禍群の長のもとに行っている。
残されたのは、どことなく気まずい自分とそわそわとしている若い狩人だけ。
ちら、と視線だけでその姿を見れば、絶世の、とまではいかずとも均一のとれた目鼻立ちに、柔らかそうな細い髪と小さな口。本当に稀代の英雄なのか、どころか狩人かどうかですら疑ってしまうような造詣だ。
もちろん里の娘たちのように嫋やかで頼りなげな肢体でも、少年の人形じみた細枝のような肢体でもない。ただ、狩人としてはやけに細身で、小柄な印象は受ける。
その唇が、うっすらと開いて「あの」と声をかけられた時、ヒバサは己の心の臓が大袈裟に跳ねたような気がした。「そのうちっていつですか?」と言われるのも、「覚えていない」と言われるのも酷く恐ろしく思えて、この先を聞きたくない。
「な、なんだ?」
「…いえ、こちらを見ていたので、なにか御用かと…」
「悪い。見すぎたか。別になんでもねえよ」
そうですか…と少し沈んだような声で言われて、咄嗟にごめん、と言いそうになる。隣にいるのは靭やかに成長した狩人で、あのころの小さな稚児ではないのだから、言葉尻を捉えて泣きわめくようなこともないだろう。と思い直す。
再び顔に視線を送るのは憚られて、所在なさげにもじもじとしている手指を視界に入れた。ふっくらとしていた紅葉の手は細いながらも節くれだったものに変わっている。
ヒバサよりもふた回り、とまではいかなくともひと回り以上小さいそれも、よく見れば傷痕や胼、豆の痕跡で溢れている。紛れもない、歴戦の狩人の手だ。
顔に似合わぬ様相に、つきん、と胸が傷んだ。あの稚い子供ですら、血を吐くような努力を積んで今ここに英雄として存在しているのだ、と思うと急に守れなかった、という思いが湧く。
「あの」ともう一度小さな声が届く。
絞り出すようにした今度の返事は、震えたりはしなかった。
モンジュの長話が続いているのか、二人は戻ってくる気配がない。
彼女は喋りたがりだから、下手をすれば夕暮れまで戻ってこないかもしれない。
それを待っていては、自分たちは風邪を引いてしまうだろう。
こちらから夕餉の誘いでもできればよかったが、ひと回りも離れた若者と何を話せばいいかすぐには思いつかなくて、握った手を開いたり閉じたりする。
女を口説くのとは違う。もっと薄氷を渡るような慎重さが求められる場面だ。
どう切り出すか、気持ちの悪い親父だと引かれないようにするのは、何が正解なのか。百戦錬磨のくせに肝心なところで日和る自分が情けない。そもそも口説いているわけではないのだから、もっと堂々とすればいいのだ。
「なあ、」と若者を呼ぼうとしたところで、被さるように若者の二言目が出る。
「ここではなんですから、うちに来ますか?」
「えっ」
思わぬ誘いに、今度は声がひっくり返った。格好が悪すぎる。
動揺している間に若者は「せっかくですから夕餉もご一緒させてください」と畳み掛けてきて逃げ場も無下にする理由もなくなってしまった。かつて婚約の儀式の真似事でからかってしまった子供への罪悪感は残っているものの、相手がそれを切り出さないのならばそっとしておきたい。それとは別に中堅の狩人として、成人になったかならないかの天才の話は興味があった。
すみません、散らかってて、と通された若者の家は冗談はよしてくれ、と言いたくなるほど物がない。ただ、部屋の隅や文机に幾らかの調合や書類をしたためた形跡があるくらいだ。まさかそれを指して散らかっている、と言っているのだろうか。
自分の部屋の惨状を思い出して、ぞっとした。
世話係だという狩猫に、いくつかの言伝をして戻ってきた若者の持つ盆には、ふたり分の食事が並んでいる。それを向かい合わせになって食べ始めると、微妙な静寂が部屋を支配する。
何かを話すべきか、そもそも過去のことを考えると、あまり話すのが得意でないのは変わっていないようだったし、無闇に話題を振るのもなんだか酷な気がして、掻き込むように飯を平らげてしまった。
飯を食ってしまえば、もうやることは風呂に入るか寝るかだ。
結局大した会話もできず、例の約束を忘れてくれているかの確認もできず、冷えた空気と同じくらい、しん、と部屋は静まり返っている。
時折水桶から水滴が垂れる音や、風に揺られた木々のさわさわとした音がするが随分と静かな夜だった。
茶までご相伴に預かって、温まった息を吐き出した。
煙管でも取り出したい気分だが、生憎と所持していないし、そもそもここは他人の家だ。家主に断りなく取出すわけにもいかないだろう。
突然「帰る」と切り出すのも若者が勇気を振り絞って夕餉に誘ってくれたのかもしれないと一抹の懸念が過っただけで腰を上げることができないでいた。
どうすることもできないまま視線を彷徨わせると、行燈の灯りに照らされた若者の横顔が見えた。当たり前ながらあの頃よりもぐっと大人になっていて、美しいとさえ思う。子供相手に何を、と咎める自分と餓鬼だろうがなんだろうが今は成人しているというのだから、合法だ。綺麗だと思うくらいいいだろう。と開き直る自分が胸中で殴り合いの喧嘩をしている。
ヒバサの心情を知ってか知らずか、不意に、顔を上げた若者と視線がぶつかった。
行燈の橙の光の中でも吸い込まれそうな瞳とばっちりかち合って、再び心臓が跳ねる。
一度、二度、ゆっくりと瞬いた双眸から目が離せない。
「…あの、ヒバサ、さん」
再会してから初めて、名前を呼ばれた。誰でも彼でもにぃにだのねぇねだの呼ぶ歳でないことは分かっていても、ずっと他人行儀になった呼び方に胸焼けのように気持ちが悪くなる。ウツシのことは、今はどう呼んでいるのだろう。と考えが浮かんで、慌てて揉み消す。こんな歳になってまで歳近の天才に嫉妬など、いくらなんでも醜すぎる。
緊張した面持ちの若者に釣られるようにして体の変なところに力が入る。一呼吸おいて、返事を返すも、酒を飲んでいるわけでもないのに掠れきった声が出て情けなくなる。
この子供の一言一言が、歳を食って弱くなったヒバサの心に小刀を突き立てる可能性があるのだ。もはや何を言われるかと考えるのも嫌になる。こんなに自分は情けなかったのか…修行が足りんな…と喉の奥で唸って頭を抱えそうになっていると、若者がひとつの箱を持っていることに気がついた。
どこにしまっていたのか、若狩人が持つにしては可憐な箱だ。
螺鈿のような、鉱石を散りばめたのか、それとも美しい竜の鱗か、ぼんやりとした灯りの中でも様々な色を散らしている。
繊細な細工のその箱は、さながら宝箱だ。ヒバサのものよりも細い指が箱の縁にかかって、かぽり、と蓋が開く音がする。何を見せられているのかいまいち察することができていないが、若者が大事にしているものを見せてくれようとしているのだけはわかる。
蓋が浮き、指に摘まれたまま上に引っ張られる。 すう、と空気が擦れたような音の後に、完全に中身が見えるようになる。中身に傷がつかないようにか、ふかふかの綿に鎮座していたのは、橙の石が嵌め込まれた、模造の指輪だった。
どくり、と三回目の大きな鼓動を感じた。
「も、もし、覚えがないなら、聞かなかったことに、してください」
「あ、ああ」
若者の声はさらに震えている。かわいそうなくらい緊張してしまっていて、唇が戦慄く様すら見える。
ごくり、と飲み込んだ唾の音がやけに大きく鳴った気がして冷静を保つことができない。
背中を冷たい汗が伝うが、体自体は熱病のように熱い。さっきから鼓動が煩いのだ。どくどくと耳元に心臓があるのではないかと思うほど高鳴っていて、形作られ始めた感情を見て見ぬ振りすることができない。
そんな馬鹿なことがあるのだろうか。相手はひと回りも下の子供で、自分は子供を娶る趣味などない。そもそもヒバサの好みはもっと色気のある艶かしい美人なのだ。純情めいた少女のような外見は、子供相手のようであまり食指が動かないはずだ。だが。今は?
「こ、この指輪、くれた時のこと、おぼえて、いますか?」
「…忘れたことなんて、一度もねえよ…クソ、忘れてなかったのか…っ」
震えて、泣き出しそうに潤む双眸に手を添えてやりたい。零れる前に拭ってやりたいが、ぐっと堪える。まだ己の順番ではない。あの頃の稚児と、今の若者の姿が重なって見える。
きゅ、とあの頃より強ばった印象の肩に力が入っていて、子供の頃からの癖になっているようだ。
「じゃ、じゃあ、約束は?」
「そのうちな、って俺が返したやつか」
「…お嫁さんにして、ってお願いしたやつ」
完全に覚えている。天を仰ぎたくなる。涙を拭ってやりたいなんて思った段階で、こんな子供に真剣になっている自分に気がついて、呆れ返ってしまう。三回も大きな音を立てて臟が跳ねたのだ。認めざるを得ない。
当時は本気にされても困ると思っていたし、自分は完全に冗談のつもりだった。それは今でも間違いないと言いきれる。
なのに、目の前の子供は随分と綺麗になっていた。その上であの頃のことをずっと本気にして待っていたのだと知ってしまえば、一度気が付いてしまった愛おしさに歯止めがきかなくなる。若者は妹分よりも、さらに歳若い。未来も自分たちよりずっと拓けている。
子供の戯言と吐き捨てるのは簡単だったが、会えるかどうかも分からないのにずっと己のことを思い続けてくれた真っ直ぐな心根には完敗だ。負けた。そこにぐっときてしまった自分にも、完全敗北だ。
「覚えてるよ。お前こそ、覚えてたんだな…」
「ずっと待ってたんです。あの、それで、」
揺れる目がこちらを真っ直ぐに見る。いまだしっとりと水気を保ったまま、水面は揺らめき続けていて、模造の宝石よりも美しく煌めいて見える。
続くであろう言葉は読めている。それでも、きちんと言葉が紡がれるのを待ってやりたい。
うん、と相槌を打って、ちゃんと待ってるぞ、と伝えてやる。自分でも引くほど声が甘くなって、耳のあたりが熱くなった。
若狩人の、狩人にしては小さな掌がヒバサの手の甲に触れる。
震えた声が、晩秋の夜に溶けた。
「そのうち、って、いつ…ですか……?」
重なる掌はしっとりと熱を帯びていて、これがあの時一世一代の大告白をした幼子の今の一世一代なのだと思い知らされる。その熱には、応えるほかない。
上に乗った手を退けて、不安そうに眉を下げた若者を安心させるように「離さない」と呟く。
これまた自然と甘さを含んでいて、本当にこの子供に真剣になってしまっているのだと突きつけられているようで、恥ずかしい。
己の手の甲から退けた掌を今度は己の掌で優しく掬いあげる。
先程は自分から触れてきたくせに、こちらから触れるとびくりと体が跳ねた。
なんだお前可愛いな。と思わず言葉と笑みが零れ落ちて、今度こそ若者は硬直する。その様も開き直った己には愛おしく見えて、掬いあげた薬指に見せつけるように口付けた。
ひゅ、と息を呑む音がする。触れた唇を少しずらして、わざと水音を立てて離す。
初心のはずの相手に良くも悪くも経験豊富な大人が本気で口説き落とそうと躍起になる様は、傍から見れば相当滑稽で大人気ない姿なのだろうが幸い今ここには落とす大人と落とされる子供しかいない。
先程まで唇で触れていた薬指を、今度は指でなぞる。優しくくるりと指の周りを一周して、「ここ、本物やるからあけとけよ。いいな?」と喉から絞るような声を出せば、かわいそうなほど赤面した若者はかくかくと頭を縦に振った。