たべごろについてレッスンが始まるまでの時間を確認したら、着替えや準備を始めるまでにあと15分ほどあった。そういえば今日のログボとデイリーを回収してなかったな、とアプリを立ち上げようとスマホの画面を覗き込んだ時、後ろから軽い歓声が聞こえてきたので振り返る。
先ほど事務所に到着した鋭心をもふもふえんの子たちやHigh×Jokerのメンバーが囲み、彼が提げてきた紙袋の中身をのぞき込んでいる。それはこれまでにも何度か目にしたことのある光景だ。
(鋭心先輩、差し入れの果物を持ってきたんだ)
控えめに開いた窓から吹きぬけていく風にはほんの少し甘いにおいが混ざっていて、ソファに座る秀のところにも届いた。果物の香りなのはわかるけど、これ、なんだろう。そう考えていると隣に人が立つ気配があった。
「洋梨だ」
まるでこちらの考えを見透かしてかのような言葉が頭上から降ってくる。見上げると目と目が合った。いつものことながら、目に力のある人だと思う。
「おはようございます、鋭心先輩」
「おはよう」
視線は合わせたまま少し横にずれてスペースを開けると、鋭心が隣に腰掛けてくる。正面からでは気づきにくいが、こうして横に並ぶと切長の目を縁取る睫毛の長さがよくわかる。
「山村さんが剥いておいてくれるそうだから、レッスンが終わったら食べるといい」
目が笑みの形に細められ、口元はほんの少し柔らかい曲線を描いている。こういう、ごく仲間内で見せてくれる微笑みは、雑誌やメディア用に撮影された写真に映る笑顔とは何かが違っている。違っていることだけはわかるのに、具体的に何が違うのかはいまだに解明できていない。黙ったままの様子を不思議に思った鋭心に名前を呼ばれて、慌てて返事をした。
それから数分もしない内に百々人も事務所にやってきて、レッスンの支度をしようと立ち上がりかけた時に気がついた。よく見ると、鋭心の制服の肩のあたりに何かがついている。丸いシールに並んでいる文字は「食べごろです」と読めた。どうやら先ほどの果物に貼られていたシールを、誰かがふざけて彼に貼ったらしい。
肩という位置的に、犯人はきっと高校生たちのうちの誰かなのだろう。何だか少し意外だ。同じユニットの自分達の他にもこの人へ何か仕掛けてみようと考えるような人間がいるということになる。でも、これまでにユニットを超えたメンバーで仕事をする機会も何度かあったから、自分の知らないところで交流を深めている相手もいるのだろう。
どうやら犯人は名乗りを上げるタイミングを掴み損ねたとみえて、鋭心はそのまま事務所のドアをくぐっていってしまった。わかる。こういうのはタイミングを間違えるとその場に流れる空気が妙に気まずいものになるだけで終わってしまう。
いつか先輩が寝癖をつけて事務所にやってきたときのように、なるべくそっと指摘してシールのことはなかったことにしておいてやろう、と秀は思った。
廊下に出たところで偶然プロデューサーと鉢合わせて、百々人が嬉しそうにそちらへ駆け寄っていく。ちょうどいい。秀は楽しげに談笑している二人に「俺たち、先に着替えてますから」と声をかけロッカールームに移動した。49人分のロッカーが並んでいるそこそこ広い空間にぽつんと二人きり並んで、いつも通り着替え始めようとする彼にそっと教えてやった。
「鋭心先輩、制服の肩になにかついてますよ」
いつも冷静なその人は、突然こんなことを告げられても特に慌てたり驚いたりすることなく自分の肩を振り返る。そうやっても見えない位置だろうと察しはつくので、秀は手を伸ばしてシールを剥がしてやった。
「さっきからずっとついてました」
「そうか、ありがとう。助かった」
予想の通り、ごく当たり前にお礼を言われてしまった。心の中でこのシールを貼った犯人に「残念でした」とつぶやく。この人に一体どんなリアクションを期待していたのだろう。自分だって、できることならばいつだって自分のペースを崩さないこの先輩が隙を突かれたときにどんな表情をするのか見てみたいと思っているのにできた試しがない。指の腹に乗ったままのシールは丸めて捨ててしまうこともできたけれど、何となく自分のロッカーの扉の内側に貼られている好きなアーティストのステッカーの隣に貼っておく。
ふいに、以前学年のことでからかわれたことが思い出された。お前は数ヶ月前までは中学生だっただろう、と言われたのだ。それで、今年18歳になって一応成人の仲間入りをした先輩のことをほんの少しからかい返してやろうという気持ちが湧いた。
「鋭心先輩、食べごろなんですか」
(あれ、)
口元に浮かべた勝ち気な笑いとはうらはらに、秀の中に違和感が走る。ただシールに書いてあった文字を読み上げただけなのに、実際に自分の口から発された音を自分の耳で聞くとなんだか印象が違った。食べごろなんて言葉、人に対して投げかけたことは今までなかった。
あれ。何だか、妙になまなましい。俺、なにか間違えたかも。
いつの間にかシャツの前を開けた状態になっていた先輩は、そうだな、と少し考えるような仕草で一瞬手を止める。そのまま何も言わずにシャツを脱いで、ロッカーの中のハンガーに手を伸ばす。薄手の黒いアンダーシャツ一枚越しの肩には、制服の生地の下で見えなかった肩甲骨の凹凸が浮かんでいた。シールが貼られていたのはちょうどあの辺りだったと気がついて慌てて視線を下げると、意外と細い腰が目に入る。腕を上げた瞬間にスラックスにたくし込まれたアンダーの裾がひっぱられて、ほんの少し脇腹が見えた。白い肌だった。とっさに目に毒だ、と思った。でもそこから目を離すことができなかった。
(俺、どうしたんだろう)
うるさいくらいの自分の心音を耳の奥で聴きながら秀は戸惑う。同室で着替える機会なんて今まで何度もあったのに、今さら意識するなんておかしい。
ユニットの最年長で、1人だけ成人年齢を迎えていて、頼りになる先輩で、確かにとても綺麗な人で、でも男で、その人に対して自分は今、ひどく低俗なことを考えている。
それから一呼吸ほど考えるような間を置いてから、鋭心は視線だけで秀を見て言った。
「それが人として成熟しているかどうかということなら、俺はまだまだ未熟者だと思うが」
「……鋭心先輩らしいですね」
いつも通りのまっすぐな眼差しと言葉にどこか救われたような心地になりながら、赤くなっているはずの頬や耳を隠したくてロッカーの扉の影になるようしゃがみ込み、秀は鞄の中の探し物をするふりをした。