晩酌準備は軽やかに せっかく賢者さんにもらったしな。というのはこじつけで、そもそも今宵は一緒に晩酌しようと示し合わせていたのだ。
ふたりでの晩酌の始まりは偶然だった。
しばらくして、言葉での問いかけになった。「今晩どう?」とか「いい酒が手に入ったんだ」とかそういう誘いの言葉。
それから、段々と言葉がへっていった。なんとなく目線を合わせたり。例えば顎で中庭をさしたり、酒のボトルを持ち上げてみたり、グラスをもって飲むジェスチャーをしてみたり。
いいよ、という言葉だったり、小さくうなずくだけだったり、いつもかぶっている帽子のつばを少し上げるだけだったりと、表現は様々だけれど、不思議と言いたいことは伝わってくる。
ネロのほうといえば、いいね、という言葉だったり、同じく小さくうなずくだけだったり、人差し指と親指で丸をつくってみたりするが、言いたいことは伝わっていると思っていた。
断られる日もあるし、断る日もあるが、そのことに多少の寂しさは抱けど、大きく傷つくことはない。ふたりで飲みかわす晩酌というものが、彼と自分の日常の中にあって、次があることを知っているから。
というのはもしかしたらネロだけの願望なのかもしれないと、思ったりもする。そうやって己の認識と相手の認識が異なったときに大きく傷つかないための予防線を張っておくのはもはや思考癖にほかならないので、ドツボにはまるまえに、まあいいさ、と端に置いておくことにしていた。
白黒つけなければならないことではない。曖昧ななにかのままでだって、認識が異なっていたとしたって、彼との晩酌の時間がなくなるわけではないのだから。
そんなわけで、昼過ぎにひょっこりキッチンに顔を出した彼が、中庭を指したので、それに対して頷いた今夜も今夜で夕食の片付けの後、晩酌の準備に取り掛かっていた。
つまみは何にしようか、もちろん一品は賢者からもらったチョコレート。色と香りからしてダークかミルクだと思われるそれを、一口味見してみることもできるのだけれど、なんとなく格好がつかない気がしてしまう。自分が作るものを味見するのはかまわないのに、綺麗に収められたものを欠けさせるのは気が引けて、皿に盛ってしまえばわからないだろうに、けれどもやはり、もらったものをそのままだしたい。賢者さんがくれたやつ、と彼と話をしたかった。そのくらい、賢者がくれたこのチョコレートが、そこに込められた想いが嬉しかったから。
酒は向こうが持ってきて、肴はネロが用意する。晩酌を重ねるうちに何となく出来上がった役割分担は、ときには入れ替わる時もあるけれど、酒へのこだわりは彼の方が強いから、基本はそうだ。ネロが作るささやかな料理を、当たり前とは思わずにいて、けれど小さな期待は抱かれているのがわかるから、喜んでくれるものを作っていきたい。
それに、酒が進んでボトルが空いた時にすぐに取り出せるようにストックから目星をつけておきたいし、相手持参の酒に合う肴を先読みして用意したい。自分が何気なく出した肴が、彼が何気なく持ってきた酒に合ったとき、少し驚いたように見開いたあとに、まじまじと肴を見て、それからネロに向けられる、菫色。口の中にあるものをしっかり味わって飲み込んで、それから言葉を放つから、まずものをいうその目と表情が好きだった。
そういう小さな好ましいことが重なって、誰にも見せない胸の奥、つまみを作る指先に熱を帯びるものがある。考え方や在り方はぜんぜん違うといっていいのに、むしろ、あういう向こう見ずなまっすぐさにはついていけないと思っていたのに。
結局惹かれるのはそういひとなのか。逃げた壁はまた目の前にやってくるのか。逃げだしたそのものが目の前に現れてはいるけれど、それはそれとして。思考のドツボにはまろうとしているのを感じとって、ネロは自分のそれをまた端に置いた。そんなことを考えているよりもっと、考えるべきことがあった。
今夜はおそらく気候や気分や入手したから、とかそういう理由ではなく、彼ももらっているであろうチョコレートに合いそうなものを選んでくるだろう。匂いを嗅いで、もしかしたらちょっと味見してみているかもしれない。真剣に酒のことを考えている姿を想像すると、口元が緩んだ。無難なのは赤ワインかな。酒と肴のおいしい方程式にあてはまる、甘いものはあるからしょっぱい系は何がいいだろう。
キッチンで残り物を見やってから、自室に保管しているものを思い浮かべる。いくつか候補をあげてから、気候や夕食、ここ最近作ったものと照らし合わせた。そうだ、外側が溶けにくいチーズのアヒージョなんてどうだろうか。バケットもつけて、まえにつくったパテが自室にまだ残っていたはずだから、少し手を加えたら。小さな口がバケットに残す齧り跡を思い出して、ネロはまた、小さく笑った。
夕食の片付けを終え、明日の朝食の下ごしらえも済んでいる。このあと待っている晩酌について想いを馳せながら、最後にシンクを磨き上げ、使用した布巾を洗って干した。
肴にさせてもらう食材を少しばかりいただいて、ネロは自室へと脚を向ける。
その足取りは、浮足立つ心と同じく軽やかだった。