誰の前で泣く「──それで、お腹が空きすぎてしんべヱが泣き出したら、今度はきり丸が小銭を谷底に落として大号泣。そこに大雨が降り出して、転んで泥だらけになった乱太郎まで泣き出して……。もう、それは散々な薬草摘みだったんですよ!」
その日、雑渡が医務室を訪れると、珍しく伊作が半乾きの髪を下ろしていた。どうしたのかと問うと、苦笑いを浮かべながらも事の顛末を面白可笑しく語ってくれたのだ。例の愉快な三人組に振り回されて、慌てふためく伊作がありありと思い浮かび、雑渡はつい吹き出してしまう。
「あははっ。一年は組のよい子達って、忍者に向いてないけど本当に面白い。伊作くんは泣かなかったかい?」
幼い忍たま達は、喜怒哀楽が豊かで実に素直な子供達である。きっと最上級生である彼も、同じように泣いて笑って、のびのび健やかに成長してきたのであろう。幼き日の伊作を想像しながら軽口を投げかけると、彼はわずかに口元を引き結ぶ。
「もう、雑渡さんったら。一年生じゃないんですから、僕は泣いたりしませんよ」
「ごめんごめん。冗談だよ」
「ええ、わかってます。まあ、忍者に向いてないのはあの子達と同じですしね」
ふたりは揃ってくつくつと笑い合う。こうして医務室に通うようになって、もうどれくらいになるだろうか。二十歳も年下の伊作とは不思議と馬が合って、今ではこんな風に気安く冗談を言い合える仲になっていた。
そこで、何かを思いついたかのように、目の前のつぶらな瞳に光が宿る。
「雑渡さんも泣くことってあるんですか?」
突拍子もない質問にむせ返りそうになる雑渡だったが、辛うじて踏みとどまった。しかし、澄み切った瞳で真剣に見つめられると、また笑いが込み上げてきてしまう。
「あははっ。伊作くんって、私のことをなんだと思ってるの?」
大きく肩を揺らす雑渡のことを、伊作はきょとんと見つめるばかり。こんな無邪気な呑気さもまた、伊作らしさのひとつである。
「物凄く強くて立派な、超エリート忍者だと思っています!」
雑渡を見つめる瞳は澄み切っていて、尊敬の念も見てとれた。心から発せられた賞賛なのだとよくわかる。縮めてきた距離に甘えて、雑渡はほんの少しだけ意地悪な返しをしてしまう。
「へーえ。強かったら泣かないんだ?」
「それに、百人もの忍者を率いる組頭ですから。雑渡さんは立派な大人の男性だから、泣き顔なんて想像つかないです」
「なるほどね。確かにもう何年も泣いた記憶なんてないよ。でも、この先のことは、何もわからない」
「そういうものですか?」
「ああ。だって、未来の事は、自分でもわからないだろ?特に忍なんて生業にしているとね……」
雑渡は包帯で巻かれた腕を上げて見せる。あの日から決して消えることのない、業火の幻影が目の前にちらついていた。失ったもの、手に入れたもの。どちらも山のようにあった。何が正しかったのかなんて、今でもわからない。
ひとつ確かなのは、あの日の自分にはあの選択しかなかったという事だけだった。
そこで、小さく息を呑み込んだまま黙ってしまった伊作に気づくと、雑渡は努めて明るい声を出した。
「まあ、少なくとも、部下の前で泣いたりはしないから、君の言うことは半分当たっているよ。さすがは伊作くんだ」
これでもうこの話は終わり。飄々とした軽い口調を意識したのは、そんな合図のつもりだったのだ。しかし──。
「じゃあ、雑渡さんは誰の前で泣くのですか?」
引き下がるどころか、さらに踏み込んでくるのが善法寺伊作という少年だった。
あの日から凍り付いていた胸の奥底で、何かが弾け飛んだような心地がした。
「生憎、泣き顔を見せる相手なんていなくてね……」
ぽろりと本音が漏れ出てしまって、雑渡は密かに冷や汗をかく。慌ててフォローしようと口を開きかけたところで、伊作が静かに声を上げた。
「その相手、僕じゃ駄目ですか……?」
わずかな緊張が浮かぶ真摯な眼差しに、合戦場で出逢った日の彼が重なった。
「いいね。もし泣きたくなったら、その時は伊作くんの胸を貸りるよ……」
その先に『なーんてね』と続けて、茶化して終わるつもりだった。しかし、若々しさに溢れた声が力強く響くのが先だった。
「はいっ。僕の胸なんかで良ければ、いつでもどうぞ!」
澄んだ瞳のきらめきが、雑渡を捉えて離さない。視線を逸らすことなんてできず、胸の鼓動が速くなっていく。
「ねえ、伊作くん……。自分で言ってることの意味、わかってる?」
辛うじて言葉を振り絞る雑渡に、伊作は真正面から向き直る。
「馬鹿にしないで下さい。子供じゃないんだから、ちゃんとわかってますよ」
どこか不敵に輝く真っ直ぐな眼差しに見据えられ、雑渡はしばし言葉を失ってしまう。
ふたりの間に沈黙が流れる。伊作は表情を変えることなく、静かにこちらを見つめていた。
やがて漆黒の頭巾の下で自然と口元が綻んでいく。
「……そうか。それなら、覚悟しておきなさい」
雑渡の胸の奥で膨らむ柔かな蕾に、目の前で輝く屈託ない笑顔が燦々と光を浴びせていた。