「笑顔」 雑伊+保「……え!?」
その日、保健委員委員長、善法寺伊作を迎えたのは、下級生たちの戸惑いの叫びだった。
「いや……集中してたら足元がおろそかになって」
照れたように笑う伊作に五対の幼い瞳がじっと注がれている。みな声を出すのも忘れて驚いているのだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!」
最初に我に返ったのは、二年の川西佐近だ。
「先輩の運の悪さは承知しております。けど――」
伊作の運の悪さは折り紙付きだ。保健委員である以上、その事実は自分たちにもつきまとっている。伊作の惨状は、ちょっと山へ入って少なくなっている生薬の種を見つけてこようとして落とし穴に落ちたか、罠にかかったかしたに違いない。そんなことは説明されなくてもわかっている。
小さな体を少しでも大きく見せるためか、精一杯つま先を立てて伊作に向かって大声をあげた。
「みんなが困ってるのわかってるよ……僕だってこんなことになるとは思いもしなかったからね」
「……」
「これ、いったいどういうことです!?」
「僕が落ちたときに、ちょうど雑渡さんがいらっしゃって助けてくださったんだけど。そのとき足をくじいているのがわかって」
それ以上は言われずともわかる。伊作ほどではないが、同じような目に一度はあっている保健委員たちはいちように肩を落とした。
「運が悪いにもほどがあります!」
佐近の甲高い声が医務室へこだました。
善法寺伊作は人に担がれたまま医務室へ運び込まれていた。それがたとえば、伊作と同室で最近とみにその運の悪さが目立ってきた食満留三郎だったり、ほかの六年であれば問題はないのだ。
その人が――保健委員であれば見知った――タソガレドキ忍軍百人を束ねる忍び組頭の雑渡昆奈門であれば話は変わってくる。
慌てている保健委員たちの戸惑いもどこ吹く風か、雑渡は無言で伊作を背負って部屋に突っ立ったままだ。
「あああ、先輩が汚い!外で土を払ってくるか、装束を脱いでください……草履もそのままじゃないですか~!」
「ああっ、ごめんね」
次に声を上げたのは三年の三反田数馬だ。土と草でべっとりと汚れ、所々すり切れてほつれている装束から道中で乾いた泥がぽろぽろと落ちていくのを見とがめたのだ。
「雑渡さん、すみませんが先輩をそのまま縁側のところへ持ってってください」
先ほどまで戸惑っていたことも忘れ、数馬が雑渡を部屋から追い立てた。またも無言でそれに従い、音もなく移動する雑渡の動きをなんとはなしにじっと見つめるのは一年生の猪名寺乱太郎と、鶴町伏木蔵だ。
「あ、雑渡さんのお背中が」
最初に気がついたのは乱太郎だ。
雑渡は縁側で伊作を下ろし、その装束の汚れた部分の手の届かない場所を払ってやっている。しかし、その雑渡の背中がちょうど伊作の形に泥で汚れているのがはっきり見えた。乱太郎と伏木蔵は顔を見合わせてぱちぱちと大きく目を瞬かせた。
「乱太郎と伏木蔵は水を汲んできて。できればあまりこぼさないようにね」
「はい!」
「佐近はお茶を入れてきて――くせ者だけど、伊作先輩を送り届けて頂いた方をただ追い出すわけにはいかないだろ?」
「……はい」
数馬の矢継ぎ早の指示に、にわかに医務室は慌ただしく動き出した。
乱太郎と伏木蔵は井戸に向かうために、伊作と雑渡の脇を通り抜けた。下級生の間に狂騒を持ち込んだはずの二人は、のんきにお互いの背中を見せ合ってははしゃいでいるふうにも見える。
「なんだか伊作先輩は楽しそう」
「落とし穴に落ちたのに?」
「だって――あれ見てみなよ」
乱太郎は振りかえって縁側の二人を見た。伏木蔵もそれに習うように足を止め、振りかえっている。
「伊作先輩だけじゃないみたい」
「うん」
「雑渡さんも、すごく楽しそう……」
「だねぇ――それって、すごいスリル~!」
乱太郎と伏木蔵がたっている場所から見えるのは、伊作の背中と向かい合っている雑渡の正面だ。お互いに汚れた場所をはたき合っているのか、ぱたぱたと手を動かしてはゲラゲラと笑い合っている。
表情なんてわからないはずなのに、なにが面白いのか伊作が涙とよだれと鼻水まで垂らしながら笑っているのが分かるし、包帯に覆われて片目しか見えていない雑渡がその目だけで本当に楽しそうに笑んでいるのが乱太郎の眼鏡越しにもはっきりと見えた。
「雑渡さんって、あんなに笑う方だったんだね」
乱太郎のしみじみした声に伏木蔵がこくこくうなずいた。保健委員の中では伊作の次くらいに、雑渡をよく知る伏木蔵が反論してこない。相当に珍しいことなのだろう。雑渡の持つ、落ち着いた大人の忍びの威厳がどこかにいってしまったようだ。
「なんだか二人ともぼくたちより年下の子どもみたい」
「だねー。楽しそうだからしばらくほっとこうか」
「うん!」
「ゆっくり水を汲みに行こう」
「こぼさないようにね」
雑渡と伊作の笑顔が移ったみたいに、乱太郎と伏木蔵はにこにこ笑い合った。
縁側には雑渡と伊作の笑い声が響いて、その場を離れてもなかなか途切れることはなかった。