鎧も解かぬままフェリクスの部屋を訪れたシルヴァンは、血の匂いをぷんぷんさせながらベッドにどっかと腰掛けた。ベッドの下で様子を窺いながら、フェリクスは身を縮こまらせる。数日ぶりの来訪だった。最後に抱かれた時、大人しく留守番していろと言い含められたが、湧き上がる怒りややるせなさに任せてサイドテーブルを破壊した。まるでネズミのようにテーブルの足をかじって尖らせ、ベッドの下で隠し持っている。だが鎧を着られていてはこんなチャチな武器でシルヴァンに傷をつけることなどできはすまい。フェリクスはがっかりしながら、シルヴァンの泥だらけの脚を睨み付けていた。心臓は無理だ。首も隠されている。だとすれば、
「あー、疲れた疲れた……フェリクス、ただいま」
「…………」
息を殺し、チャンスを待つ。もしもシルヴァンがベッドの下を覗き込んで来たら。そうしたら、目を突くことができるかもしれない。
「ベルナデッタに会ったぜ」
「!!」
知った名前を出されて、フェリクスはギクッと表情を凍りつかせた。
「フェリクスさんの仇です、ってさ。ブルブル震えながら弓引きしぼって。懐かしかったなあ……士官学校でも、いつもあんな感じだったよな」
「…………」
「だからつい、さ。教えてやっちまったよ。フェリクスはまだ生きてる、って」
フェリクスは息が止まりそうだった。捕まっていることが仲間に知れただと?先生は自分の解放のために交換条件を出してくるだろうか。エーデルガルトが了承するとは思えないが、とうとう交渉材料に使われる日が来るのかも知れない。それは、不名誉で、味方に不利益をもたらすだろう。しかし自由が、戻ってくるかも知れない。
待て、自由が戻ったところでどうだ。この足ではもう動けない。満足に戦えやしない。文字通りの足手まとい、お荷物のフェリクス。やめてくれ、先生。自分に価値なんてない。死んだものと思われていたなら、それでよかったのに。木片を握る手が震えた。心がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるようだった。真っ黒いガントレットがベッドの下に伸びてきて、フェリクスの服を掴まえたのは、その時だった。
「うっあっ……!!」
咄嗟に攻撃しようとして、フェリクスは自分が思いの外狼狽しきっていたことに驚いた。心臓がバクバクと暴れて、息がうまく出来ない。あんなに待ち望んだ解放の時が来るかも知れないというのに、喜べない。ベッドの下から引きずり出され、フェリクスは易々とシルヴァンの腕に捕らえられた。甲冑相手に生身では太刀打ちできない。せっかく作った武器も、手首を強く握られるとすぐに取り落としてしまった。返り血を受けたままのシルヴァンは、どろっと濁った目でフェリクスを見つめる。そうしてベッドに押しつけて、重い体でのし掛かった。
「チィッ……!どけっ!離せ!!」
「お前、ベルナデッタと何かあったのか?」
「……ッ!なにを、馬鹿なことを……!」
「……ま、いいけどさ。あの子、お前が無事だって言ったら、」
「……!」
「笑って死んでったぜ」
ゾッ、と、体が冷たくなるようだった。友人の死がそこにあることなぞ、分かり切っていたことなのに。自分だって誰かの家族を殺し、誰かの恋人を殺し、生きてきたはずなのに。
なのに、シルヴァンはまるで、フェリクスのために人を殺したような言い方をした。それが自分のためであり、フェリクスのためでもあるかのように。人の体を好き勝手に掻き抱きながら、愛していると熱っぽく耳に吹き込むときのような調子で、シルヴァンは。
「よくも、貴様……!!」
フェリクスの怒りを、おそらくシルヴァンは正しく理解していなかっただろう。フェリクスの歪んだ顔をベッドに押しつけて、彼はにっこりと笑った。
「あのサイドテーブル、俺が贔屓にしてる職人の作品だったのに。まったく悪い子だな〜お前は……」
あとできっちりお仕置きしてやるから、待ってろよ。シルヴァンはフェリクスの背に膝を乗せて押さえ込むと、シーツを細く裂き、もがく両腕を後ろ手に縛り上げてしまった。なおも逃げようとする体をベッドの真ん中に放り投げ、足首同士も手早く拘束する。ついでに余ったシーツでグルグル巻きにされ、芋虫のようになったフェリクスは必死にもがいた。
「そうそう、残念だけど助けは来ないぜ。お前が生きてることは、もう誰も知らないからな」
部屋を出ていく刹那、振り返ったシルヴァンの顔は見たことがないほどに鋭い目をしていた。血の匂いが扉の外へと消えてゆき、フェリクスは怒りに震えながらがむしゃらに体を動かす。やがて疲れ果ててぐったりとした頃、フェリクスの目にじわりと涙が浮かんだ。
「先生、……」
一瞬でも、あの翡翠の青年が自分を案じる姿を想像したことが、フェリクスの心を再びズタズタに引き裂いていた。目の裏に浮かんだ少女の顔も、もう、うまく思い出せない。
なによりも、助かるかも知れないという可能性に怯えた自分が、腹立たしかった。