過保護 「はぁ……」
立香はベッドの中で溜息をついた。
朝起きた瞬間に激しい頭痛と悪寒に襲われ、喉に違和感を感じた。症状的にもほぼ確実にそうだろうなと思いつつ体温計を脇に挟むと、画面に出た数字は発熱していることを示していた。
思い当たりはある。昨日、土砂降りの雨の中、傘も差さずに帰ったことだろう。家に着く頃はびしょ濡れで、出迎えた母にすぐさま風呂場へ押し込まれた。
「……なんかあったの、アンタ。アルトリアちゃんとオベロンくんがさっき来たわよ。『立香、一人で帰ってきてないか』って」
スマホの電源は切っていた。
電源を入れた途端、通知欄が幼馴染たちの名前で埋め尽くされるんだろうな、と安易に予想がついた。
小学校の頃からずっと通学は三人一緒で、が暗黙の了解だった。
それは中学校に進学して立香が女子バレー部に入部したり、アルトリアとオベロンが生徒会役員になっても変わらなかった。どうしても、という時は連絡をする。ずっとそうしてきた。
「『無事に帰ってきたならそれでいいです。今日のところはこれで』って言って帰っていったけど……明日絶対質問攻めされるわよ」
はいはいわかってます。そんな返答をする気力も湧かず、自室へ戻る。ベッドに思いっきり突っ伏すと、そのままどこまでも沈んでいくような感覚がした。
——藤丸ってさ、なんであの二人といつも一緒なわけ。
——ずるいなーって思わない? 自分で。
こういうことを言われるのは初めてではない。保育園、小学校、中学校、高校と、それぞれ一回ずつぐらいはあった気がする。
彼ら彼女らの言いたいことが理解できないわけではない。
ふたりそろって容姿端麗、文武両道。まるでおとぎ話に出てくる王子と姫のよう。
それに比べて、何をやっても平均、平々凡々な自分。幼馴染でもなければ、きっとここまで一緒にはいなかったと思う。今の今まで一緒にいられるのは、たまたまなんだ。
一緒にいない"もしも"だって、十分ありえるんだ。
——そんなこと、わたしだって分かってるよ。
言われる度に落ち込んだって仕方がない。落ち込んだところでどうにもできない。自分が彼ら彼女らにできることはなにもない。ただ、言われておしまい。耐えればいい。嫌な気持ちをするのは自分だけでいい。ふたりに心配をかけたくはない。
こころをとうめいに。
平々凡々な自分が、やたら勘のいいふたりを誤魔化すには、これくらいしかできることはない。
今回だっていつものようにそうした。
いつも通りうまくいく、そのはずなのに。
何度やってもだめ。透明にはなりきらなかった。心のどこかに、不純物のような、もやもやとした何かが残ってしまう。
どうしてうまくいかないんだろう。
それは立香にもよく分からなかった。とにかく、部活でも調子が悪く、顧問に「今日は帰りなさい」と言われる始末。
ロッカールームでのそのそ着替えていると、そのうち雨が窓を叩く音がし始めた。
着替え終わり、体育館の出入口まで来る頃には土砂降りの雨になっていた。
(傘、教室だ)
そこからはすべて衝動に任せたことだった。
立香は鞄からスマホを取り出し、電源を切って、そして。
——雨の中を思いっきり走り出した。
と、立香はここまでの経緯を振り返ってさっきぶりのため息をついた。
こころをとうめいに。
うまくいかないどころか、熱まで出して。
今日が学校じゃなかったのが幸いだ。授業の進み具合とか、昨日言ってきた人たちのこととか、登下校のこととか。色々と考えなくて済む。
食欲も無いし、とりあえずもう一眠りしよう。
そう思い瞼を閉じかけた時、コンコン、とドアを叩く音がした。
母が様子を見に来たのだと思い、掠れた声で「はーい」と返事をする。
しかし、開かれたドアの先にいたのは、
「りつか〜! 熱を出してるって聞いて飛んできました! 大丈夫ですか?」
「あれれ〜? バカは風邪ひかないって嘘だったのかぁ〜」
「な、んで……」
今一番(色々な意味で)顔を合わせたくない、幼馴染たちだった。
「はぁ? きみ、見て分からないの? 土砂降りの中傘を忘れたからってびしょ濡れで帰った挙句、熱を出して寝込んでる誰かさんのお見舞いに来てやったんだよ」
「食べやすそうなもの、たくさん買ってきました! 立香のだいすきなみかんゼリーもありますよ! さ、中にしつれいまー」
品物でぱんぱんになったエコバッグを持ったオベロンと、母に頼まれたであろう、食事の乗ったトレイを持ったアルトリアが部屋に入ろうとするのを、彼女はとにかく全力で止めようとした。
「う、うつしちゃうから!」
「大丈夫です! おばさんからマスクと消毒液もらいました!」
「そういうことじゃ」
「ああだのこうだの煩いな。病人なんだから少しは静かにしてたら? 入るよ」
防衛失敗。マスクを装備したふたりが立香のそばまでやってきた。
オベロンはエコバッグを床の上に、アルトリアはトレイをテーブルの上にそれぞれ置いた。
トレイの上に並ぶ食事を見てつい、くぅ、とお腹を鳴らしてしまう。
「おなか……すいた」
「ふうん。食欲はちゃんとあるみたいじゃないか」
「じゃじゃーん! わたしとオベロン特製の、たまごがゆです。愛情たっくさんこめて作りました!」
「え、二人が作ってくれたの?」
「おばさんから、こういう時、立香はたまごがゆだったらいくらでも食べられるって聞いたので……はい、あーん」
アルトリアから差し向けられるレンゲ。どうすればいいか分からない、ということはない。ただ、これはちょっと。あまりにも恥ずかしすぎるのではないか。
「どうしたんですか、立香? 食欲、やっぱりありませんか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあさっさと食べなよ。冷めるだろ」
「で、でもこれは……」
「これ?……ああ、なるほど。立香は病人なんですから、たまには甘えてください。ね?」
「あ、うん。嬉しいんだけど……」
「あーっもう面倒臭い!」
業を煮やしたオベロンが、アルトリアからレンゲを取ってその先を立香の口に突っ込んだ。
「ん、むぐぅ!」
「オーベーローン! ずるいです! それはわたしの役目だったのに! 横取りなんて!」
「きみだといつまでもさっきみたいなやり取りが続く羽目になるだろ」
「そう言って、実は自分が立香に食べさせたかっただけじゃないんですかぁ〜?」
ふたりの言い合いを横に、立香の口内にはたまごのまろやかさと、少しの塩味のやさしいハーモニーが広がっていた。
「……うん。おいしい。ありがとね、ふたりとも」
「本当!? よかったあ〜、がんばったかいがありました! たくさん食べて、早く元気になってください。……立香がいないと、やっぱりさみしいです」
そこまで口にすると、アルトリアは立香の腹部に顔をうずめ、腰にぎゅっと抱きついた。いつものハグより少し強めに感じた。
「何年一緒だと思ってるわけ? きみがいないと調子狂うんだよね。アルトリアもうるさいし」
「……そっか、そっかあ。ふふ」
さみしい。調子が狂う。
本当は、自分もおなじだった。
ちょっと一緒にいる時間が減っただけで、さみしかった。
このふたりと一緒にいない、"もしも"を考えただけで、調子が狂った。
ふたりも自分とおなじなんだと、そう思ってくれてるのだと、嬉しくなってしまった。
「……で? きみはどうして何にも言わずにひとりで帰ったのかなぁ? ご丁寧にスマホの電源まで切っていたみたいじゃないか」
「わたしたち、傘持ってたんですよ。つまり、立香が一緒に帰ってくれたら風邪もひいてなかったんです」
「そ、それは、え、えーと……」
抱く力を強めつつ、顔を上げたアルトリアの表情はさっきと打って変わって"無"だった。美人ほど怒った時が怖い、とはよく言ったもので。立香はいま、彼女に対して底知れぬ恐怖を感じていた。
「わたし、通りがけに見ました。立香が昼休みに、別のクラスの人たちにどこかに連れて行かれたの。声かけたんですけど、立香気づかなくて……どこに行ってたんですか? 何されたんですか?」
「どうせ俺たちと一緒にいるのがどーだこーだって話だろ、まったく面倒なヤツらだ。で、いつも通り隠し通そうとしたけど上手く行きませんでしたーって? はっ、滑稽だな」
オベロンはオベロンで笑顔なのに怖い。目が笑っていない、というやつだ。
(しかも今までのバレてるってさらっと言わなかった?!)
「さっきも言っただろ、きみと何年一緒にいると思ってるわけ?……隠そうとか無駄なこと考えるな」
「そうです! 立香が嫌な思いしてるの黙って見てろなんて、酷すぎます! わたしたち、立香にはいつだって笑顔でいてほしいんです。わたしたちは、立香の笑顔がすきですから」
それはふたりの切実な思いだった。
立香が自分の知らないところで傷ついてるのは嫌だったし、それを分かっているのに隠されるのも、何もできないのも嫌だった。
「……うん、ごめん、ごめんね。……ありがとう」
「……」
「……立香」
「もう隠さないから……あのね。その、まあ、いつものことなんだけどさ……ふたりと一緒にいるのがずるいって、そう言われて。確かに、わからなくもないし、ほんと今ふたりといられるのは偶然なんだって思って、ふたりのいない"もしも"を想像して、それで……」
「ず、ずるい? なにをー! ていうか立香も偶然ってなんですかー! わたし、どんな世界でも立香とぜったいどこかで会える気がします! 立香のいない世界とか想像できません!」
「ほんっと、クズの考えることやることって意味わかんないなぁ……あ、いいよ。生徒会権限で名前は割り出せるし。そうだろ、アルトリア?」
「はい! なにしろ、わたしがこの目でばっちり見ましたから」
「え、なにするの」
「もちろん、それ相応のお返しはしなくちゃ、だろう?」
……会話の内容的に、ふたりとも満面の笑みなのに、今日一番怖く感じる。自分のことを大切な幼馴染と思ってくれているのは分かるが、少し過保護過ぎやしないだろうか。
と、そんなことを思っている立香は、ふたりがここまで怒りに燃えている理由をまだ知らない。