紺碧と紅藤①「先に手を出したのはそっちだからね」
殴られ、赤くなった頬に指先で触れて、顔をしかめつつ紺碧は相手を睨め付けた。
峡谷「裏」レースのゴール地点。
とうとう始まった野良との喧嘩を隣で眺めながら、紅藤は内心ため息をつく。
きっかけはレース中に起こった些細な出来事だったが、激昂した相手が紺碧を殴ったのだ。
しかし紅藤は知っている。
わざと相手を怒らせて先に手を出させ、それを理由に過剰な仕返しをするやり方を。
避けようと思えばいくらでも避けられた拳をわざと受けた。
ほとんどダメージがないくらいに、きちんと調節して。
紅藤が止めに入らないのは、面倒だから、それだけだ。
他人のふりでもしていようか。
冷めた目で野良とのやり取りを聞き流しつつ、峡谷の風呂でも行こうかと思いつく。
紺碧が杖をくるりと片手で回転させ、両手で握りしめた瞬間、野良の顎が割れた。
杖の輪の部分で殴ったのだ。
振り抜くように躊躇(ちゅうちょ)のない動きだった。
「もういいだろ、さっさと行くぞ」
騒ぎが大きくなる前にこの場を去りたい紅藤は紺碧に声をかけ、はっとした。
白目を剥いて昏倒している相手に、杖の先端、金属で補強してある方を向け、振り下ろそうとしている。
その腕を、寸前で掴んで止めた紅藤は怒鳴り飛ばした。
「やり過ぎだって何度も言わせんな!てめぇの頭はニワトリ以下か!」
止められた紺碧は面白くなさそうに眉間に皺を寄せ、小さく舌打ちする。
「不快なんだよ。大して速くもないくせにごちゃごちゃ文句ばっかり。こんなヤツ居なくたっていいでしょ」
そう言う彼の目の奥に、仄暗い憎悪の炎が見え隠れしているのを、紅藤は何度も見ている。
人当たりの良い微笑みを顔に貼り付けたこの男が周囲を騙し、いいように利用していくのを、何度も見ている。
そして今回のように、憎悪を発散させるかのような行動に出るところも。
歪んでいる、と思う。
しばしお互い無言で睨み合い、紺碧の手から完全に力が抜けたので、紅藤は掴んだ手を離した。
その瞬間にとんできた平手打ち。
紅藤の頬から、小気味のいい音があがる。
別段、速い動作というわけではないのに避けられなかったのは、全く攻撃してくる気配がなかったからだ。
無意識に手を動かすほどの感覚で繰り出された平手。
人に危害を加えることに慣れすぎた、なんの躊躇も感情の動きもないただの動作だった。
耳を狙ったのに、と紺碧の笑いを含んだ声が聞こえて、紅藤の頭にカッと血がのぼった。
ほとんど反射的に平手をお見舞いし...紅藤の一撃の方がはるかに重いのだが...痛そうに、それでもヘラヘラ笑っている紺碧に怒りが振り切れそうだ。
なんでこんな奴の相手をしなくてはいけないのか。
これも全て組織の命令だ。
そうでなければ、一生関わりたくない相手だった。
紅藤が所属する組織では不正組織の調査、闇に関する調査などを請け負っている。
今回はリサイズドリンクの偽物を製造するグループを追っていたのだが、そこから抜けた人物が居ることが分かり、接触をはかった。
それが紺碧だ。
長身の男で、銀髪に碧眼。
ボブの髪には、襟足に青い髪の束が所々混じっている変な毛色の奴だ。
男女問わず虜にするような容姿の持ち主だが、その性根は腐り切っている。
紺碧は所属していたグループでトラブルがあり抜けたようだが、この人格ではいかにも起こり得そうなことである。
彼に接触し、紅藤の組織へ引き入れることが目的なのだが、こんな狂犬みたいな奴を入れて大丈夫だろうか。
いまここで粛清してしまった方が世のためなのでは?
「おい」
なんとか殺意を押し殺し、さっさと立ち去ろうとしていた紺碧の背に声をかける。
「なに」
踵(きびす)を返して振り返ると、幾つもあけられた耳のピアスが揺れた。
「お前、恨まれてるぞ。下手したら殺される」
先ほどの野良とのトラブルを見ても分かるように、紺碧は様々なところから恨みをかっている。
過去に因縁をつけた相手が復讐を目論(もくろ)んでいるらしいことを、紅藤は掴んでいた。
紅藤としては紺碧が死のうが構わないのだが、組織としては死んでもらっては困るのだ。
「は!望むところだよ。つまらなくて死にそうなんだ。キミに今殺されたっていい」
吐き捨てるように笑って、靴音も高く、紺碧は大股でその場を立ち去っていった。
ーー後日、雨林でぼろきれのように捨てられた紺碧を、紅藤は発見する。