ひがんにて貴方を想う『もしかすっと、おいのことを恨んでいるかもしれない』
──少年は、目を伏せて翳りのある笑みを浮かべた。
「君、大丈夫か?立てるか?」
巡回途中、甲板の隅で蹲っている少年を見つけて声を掛けた。船酔いをして気分が悪いのだろうか。船員として乗客の身を案じての行動だった。船酔いをする人というのは珍しくないもので、長時間の船旅となるとその確率もぐんと上がる。
少年は徐に顔を上げて此方を見た。目が合った瞬間に、音にならない掠れた声を出して口元を歪ませた。安心させるように微笑むと途端に少年は大粒の涙をぼろぼろと流してしゃくり上げる。予想していた反応と違うことに戸惑いつつ、背中を撫で上げる。泣きじゃくるほど心細かったのかもしれない。
暫くすると少年は段々と落ち着いてきて船揺れで一瞬蹌踉めいたものの自分の足で立ち上がった。目元は赤く頬に涙の跡が残っていたが悲痛な面持ちはもうしていなかった。
「すみもはん……もう大丈夫、です」
「謝らなくて良いよ。それより親御さんは?君のことを心配してるんじゃないかな」
そう言ってラウンジへ視線を向けるが少年は首を横に振った。少年曰く大学受験の為に一人で北海道行きの船に乗っているらしい。そして鹿児島から来たというのだから更に驚いた。
「ということは、まだ高校生か。こんな遠い所の大学を選ぶなんて、何か夢があるのかい?」
「…夢、というか、会いたい人がいて」
二人で海を眺めながら自然と言葉を交わす。太陽の光が水に反射して眩しさに目を細めた。
兄弟か友人か、はたまた恋人か。どんな関係にせよ少年の横顔からは深い愛情が読み取れた。旅行ではなく移住することを選んだのは相手のことを想ってのことだろうか。事によっては周囲から反対されそうなものだが覚悟あってのものだろう。赤の他人が推し量れるものではないか、と思いながら隣で相槌を打つ。
「そうか、相手はさぞかし嬉しいだろうなぁ」
「……そげんこっなか」
震えた小さな声に思わず振り向いた。烏の濡れ羽衣のような髪が風に靡いている。泣いているのかと無意識に手を伸ばそうとしたがそれは叶わなかった。振り向いた少年の目に涙は無かった。
「私はあいつを置いていってしまった。あいつを、月島を、最後まで見届けると言ったのに」
恨んでいるかもしれない、と寂しそうに笑う少年に何と言えば良いのか分からなかった。ただ少年にとって月島という人間はその身を焦がすほどに大切な存在であることは明らかだった。
「その人は君のことを恨んではいないと思うよ」
「ないごて、そんなこと……」
俯いてしまった少年の頬に手を添えて、目の縁で揺れている雫を優しく指先で拭う。我慢するくらいならいっそ泣き喚いて欲しい。静かに涙を溢す少年の姿を見たことが無かったから胸が締めつけられるように痛かった。
「君がそれほど大事に想っている人が、君のことを恨んだりする筈ないよ。君が想うその人を信じていて欲しい」
自分でも陳腐な言葉だとは思う。それでも伝わって欲しかった。少年は見開いた目から、はらはらと涙が溢れた。頬に触れている手の甲に少年の掌が重なる。あまり大きさが変わらない、自分よりも少しだけ小さな手は温かかった。
そして間もなく到着の放送が船内に流れる。船内の客は荷物を持って移動を始めている。少年も船を降りなければならない。少年は名残惜しそうに手を離して、じっと此方を見つめる。別れの言葉は頭に無かった。言いたくない、というのが正しいのかもしれない。故に「また会おう」と少年の頭をそっと撫でた。
「あいがとっ、兄さあ」
幼さが残ったあどけない笑顔を見て自然と口元が緩んだ。再び流れた放送を聞いて少年は慌てて背を向けて走り出した。その背中を見送っていると視界が滲んでゆらゆらと揺れた。風が吹いて被っていた帽子が宙を舞う。
「音之進、」
あぁ、そうか。あの子は、いつの間にかこんなに大きくなったんだなぁ。
あの小さかった弟は、もう居ない。それでも、無邪気に笑う顔も、優しさも、掌の温かさも変わっていなかった。
心から弟の幸せな未来を願っていた。成長した姿をこの目で見たかった。
澄みきった青空の下で、雨粒のような涙が頬を伝う。
大きさの合わない軍帽を被って兄のようになりたいと笑っていたあの子が頭を過った。
彼岸…向こう岸。対岸。
悲願…成し遂げたいと思う悲壮な願い