わたしのかわいいひと「鯉登さん、どうして駄目なんですか」
鯉登音之進には秘密にしていることがある。誰にだって他人に言いたくない事の一つや二つあるだろう。それは、たとえ恋人に詰め寄られても明かしたくないもの。寧ろ恋人だからこそ隠しておきたいものだった。
「すまん月島、また今度にしてくれんか。あー、実家から荷物がたくさん届いてな、散らかっちょっど……」
「……そうですか、分かりました。仕方ありませんね」
見え透いた嘘に月島は穏やかに微笑んで納得してくれた。しかし、それは聞き分けの良い大人を演じているだけだと鯉登には分かっている。その証拠に月島の目の奥底は冷たく無理やり上げた口角はひくりと震えている。怒っている、と直感したがそれでも鯉登は口を閉ざした。
「それでは気をつけて帰ってくださいね。おやすみなさい」
「…うん、おやすみ」
月島の背中を見送ってから一人夜空の下を歩く。楽しいデートが終わった後の帰り道だというのに気分は重たかった。台無しにしてしまったのは誰かというのは明白で、鯉登は深く溜め息を吐き出した。
鯉登が住んでいるのは最寄り駅から徒歩五分にある高層マンションだ。月島のアパートに行くよりも近場にあるが月島を自身の部屋に招いたことは一度も無かった。何かと理由をつけて拒み続けて早数ヶ月。月島が疑念の眼差しを向けるようになるのも当然のことだった。
「はぁ……どけんしたやよかど……」
ベッドの上で身体を丸めて傍らにあるものをぎゅっと抱きしめる。それは長年愛用しているため少し草臥れているが円らな瞳が可愛いアザラシの抱き枕だった。柔らかい布地に頬を寄せて頭を悩ませる。
そう、部屋の中は愛らしいぬいぐるみで溢れていた。犬や猫は勿論、トナカイや狼といったご当地限定の物まである。鯉登は昔から動物に目がなかった。それに加えて金銭に糸目をつけなかった。その結果、随分と可愛らしい部屋がうまれてしまった。実家に住んでいた頃は我慢していたのに、一人暮らしだからと羽目を外してしまった。此れはいけないと捨てることを試みるものの、愛らしい見目に覚悟は呆気なく崩れ落ちてしまう。
鯉登が月島に隠していること。それは鯉登が大の動物好きで、あまつさえ数えきれない程のぬいぐるみを所持していることである。
***
「しかし、このままだと月島に愛想を尽かされるかもしれん」
「ふーん」
「真面目に聞け、杉元ぉ!」
目の前で視線も合わせずに携帯を触っている旧友は興味が無さそうに返事をする。人が真剣に悩んでいるというのにこの態度。二度と奴の相談には乗ってやらんぞ、と固く心に誓う。眉間に皺を寄せている鯉登とは違って杉元は涼しい顔をして串に刺した焼き鳥を口に運んだ。
杉元は大学時代からの友人である。口喧嘩は少なくないし本気で腹が立つ場面も多いが、今でもこうやって交流があるのは所詮仲が良いということなのだろう。鯉登は杉元を密かに認めていた。そして杉元は鯉登の秘密を握っている唯一の存在でもあった。どちらが決めた訳ではないが二人は月に一度は居酒屋で近況を話し合うことになっている。
「もういい加減月島さんに言っちゃえば良いじゃん。はい、解決」
「貴様、他人事だと思って適当なことを……あ、おい待て」
呑気にビールを飲んでから追加で注文をしようと手を伸ばした杉元を止めると奴は不満そうに唇を尖らせた。頬が徐々に赤みを増していることに杉元は気付いていない。前後不覚になるまで酔って起きた悲劇を忘れてやしないか、と問えば気まずそうに視線を逸らしてそれを否定した。鯉登も過去の出来事を蒸し返す気持ちは毛頭無く、黙ってテーブルの上にあるレモンを絞った唐揚げを箸で掴んで一口食べた。数日前に見た月島の顔がふと頭に浮かんで心の奥底にある靄がじわじわと胸に広がる。
「……真実を知っても私を嫌いになることはなかち思う。だが月島の私を見る目が変わるのは嫌だ」
「まぁ、気持ちは分かるけどよ」
大丈夫だろ、と言ってから通知音が鳴っている携帯を開いてうっすらと笑う。その柔らかな表情に杉元が誰を思い浮かべているのかすぐに察した。画面に指を滑らせて何事かを送ってから一欠片だけ残っていただし巻き卵を頬張って咀嚼した後で胸の前で両手を合わせる。
「アシリパさんが待ってるし、もう帰るわ。奢ってくれてありがとな」
「構わん。此方も付き合わせてすまなかったな」
「月島さんとちゃんと話し合えよな。じゃあな」
会計を済ませて店から出ると、冷たい風が頬を掠める。スーツを着た男達が談笑しながら通りを横切る。会社帰りに何処かで呑んだのか些か足元が覚束無い。月島も仕事を終えて帰宅したところだろうか。なんとはなしに携帯を開いて『月島基』の文字をじっと見下ろした。
──電車の通過する音が遠くに聞こえる。暗がりを歩いていると遠目からマンションの出入り口で佇んでいる人影が見えた。此処の住人かもしくは誰かの関係者だろうと踏んで通り過ぎようと思っていたが、距離が近付くと自ずと姿がはっきりと見えてくる。見覚えのある風貌に立ち止まって声を上げた。
「つ、月島……!?」
「遅かったですね」
「ないごて……いや、それよりも何時から此処に」
思わず月島の悴んだ指先を握ると少し驚いたような顔をしてからすんなりと時刻を答えた。問い質したいことは多々あったが、鯉登にとっては暖を取らせることが何よりも先決だった。寒空の下で待っていた恋人を帰らせる選択肢など鯉登の中には存在していない。暗証番号を入力して、一緒に入るよう促すと月島は黙って従った。
「珈琲で良いか?暫く其処で待っていてくれ」
「はい」
靴を脱いだ後、玄関で待つように伝えて月島もそれに頷いた。しかし月島はぴったり後ろについてくる。リビングの扉の前で振り返って無言の抗議をしても月島は知らん振りをしている。態とらしく溜め息を吐き出して月島と向き合った。
「月島ぁ……?私は待っていろと言ったんだが」
「私は珈琲の有無に答えただけです」
しれっと答える月島に小腹が立った。これ程までに聞き分けのない大人だっただろうか。あまり自分の心の内を言わない月島が声に出すのは喜ばしいことではあるが、それは今じゃない。中に入ろうとしない鯉登に焦れたのか月島は距離を詰めてくる。
「また散らかってるって言いたいんですか。私は構いませんよ」
「だめ、駄目だ」
「……まさか誰か連れ込んでるんですか」
「そんな訳なかっ、」
「そうですよね、あなたに限ってそれは無い。じゃあ、何を隠しているんですか。杉元には言えて俺には言えないことですか」
途端に壁に身体を押さえ付けられて身動きが取れなくなる。身長の差があるにも関わらず、手首を拘束する力は月島の方が強かった。振りほどこうと力を込めてもびくともしない。据わった目をして答えを待っている月島を直視できずに月島の斜め後ろにある寝室の扉に目線だけ動かした。
リビングには、さほど愛らしいぬいぐるみ達を置いていない。いざとなれば貰い物だと誤魔化すことも出来るかもしれない。しかし、寝室だけは隠さなければならない。というか何故、月島から杉元の名前が?
「…あの部屋に何かあるんですか」
「なっ、何もなかっ」
「それなら開けても問題ないですよね」
鯉登は狼狽えていて目の前にいる月島が見えていなかった。視線の先に気付いた月島は、ぱっと手を離して身を翻す。ほんの数秒間立ち竦んでしまい、慌てて月島の腕を掴んだときにはもう遅かった。棚の上に綺麗に並んだぬいぐるみの数々とそれを眺める月島。忽ちじわりと視界が滲んで唇をぎゅっと噛み締める。
「あぁ、此処は寝室なんですね……って、どうして泣いてるんですか」
「……泣いちょらん」
「泣きそうな顔してるじゃないですか、ほら座って」
「おいの部屋なんじゃが」
「鯉登さんも勝手に私の部屋の布団に寝転がったりするでしょう」
振り返った月島は驚いたような顔をして優しく目の縁をなぞる。そして迷子の手を引くように歩いてベッドに腰掛けると隣に座るように促した。居心地が悪くて少しだけ隙間をあけて座ったが目敏い月島は身体を寄せて掌を重ねる。
「すみません。手首、痛かったですか」
「ちご……!……月島はこの部屋を見て何も思わんのか」
「特に何も。あ、私の寝室より広いですね、当たり前ですが」
「え、?あぁ……いや、そうじゃなくてだな……。はっ!さては、予め杉元から聞いていたのか!だからこのぬいぐるみ達を前にしてそんな冷静でいられるのだな、月島ぁ!」
「それは違います。分かりやすいんですよね、貴方」
合点がいったと声を張り上げれば否定されて首を傾げる。はて心当りが無いぞと頭を捻っていると月島はふっと笑ってこれまでを思い出すように話し始める。
「街中を歩いていれば散歩中の犬をじっと見つめたり、野良猫を追いかけたり、動物のドキュメント番組で涙を流したり、動物園に行った時だって兎を抱きしめて……」
「ま、待て待て、もう良い」
「私は鯉登さんと違ってそこまでの愛着はないんですが…」
必死で隠していたことが筒抜けであった事実に打ちのめされて抱き枕のアザラシに顔を埋めて寝転がる。これ以上は聞きたくないと身体を小さくして端に移動した。ベッドのスプリングが音を立てる。すぐ傍に月島の気配がして少しだけ顔を上げる。視界を妨げていた前髪を指で横に流されて自然と目が合った。
「俺はそんなあなたがとても可愛らしくて好きですよ」
柔らかな眼差しとその笑顔に鯉登は何も返すことが出来ずに、だんだんと顔が熱くなるのを感じていた。月島は何やら満足そうに、にっこりと笑って抱き枕を片手で掴んで取り上げた。突然のことに驚いて、身体を起こそうとすれば組み敷しかれて更に動悸が速くなる。
「つ、月島ぁ!?」
「私を抱きしめてはくれないんですか」
表情に出さないように努めているが、月島が拗ねているのは鯉登から見て明らかだった。つい肩を震わせてくすくすと笑えば月島は面白くなさそうに顔を逸らした。
「ふふっ、月島は可愛いなぁ」
「やめてください」
そっぽを向いている月島に手を伸ばして、両頬を包み込むように触れる。つきしま、ともう一度呼んで首の後ろに手をまわせばもう言葉は要らなかった。