転生晏沈 1 ネオンが煌めく繁華街。禍々しいほどに明るい大通りは、夜が更けてからも笑い声や怒声が溢れていた。路上では客引きの若い男たちが品定めをしながらターゲットを探している。客引きは禁止されているが、すでに他の店で何杯か飲み、気持ちと財布が緩んだ客が出てくる時間帯だ。いい鴨はいないかと男たちが目を光らせていたその時、大通りに黒いスーツを着た男が現れた。
一見して普通とは違う雰囲気を纏ったその男に、人々の視線が集まる。男は背が高く、手足が長い。スーツを着ていてもわかる程に鍛えられた身体、そして整った美しい容貌。艶やかな黒髪の一部は白く染まっているが、身に纏う物にも動作にも品があり、誰もが目を奪われるほどの魅力があった。
一瞬見惚れた後、客引きの男の一人が深々とお辞儀をする。それに触発されたように他の者も動き出した。頭を下げる者、そそくさと別の通りへ移動する者、反応は様々だ。しかし彼が来たことで、明らかに通り全体の空気が変わった。
しかし当の本人は周りの反応など何も気にしていない様子だった。その歩幅は狭く、ゆったりと構えている。その三歩ほど後ろを、若い男がついて来る。二人の足取りは早くも遅くもないが、彼らの前は自然と人が除け、道が開けた。
この周りの視線を一身に集めている男の名は、晏無師と言った。いくつもの高級クラブを経営し、裏の顔もあると噂の、界隈では有名な人物だ。美しく着飾った女達が晏無師に媚びを含んだ視線を送る。しかし晏無師は全く無関心でその前を通り過ぎる。
「私が不在にしている間、何か大事は起きたか?」
晏無師が後ろにいる若い男、玉生煙に問いかけた。
「特に変わりはありません。ホストクラブ『Albizia』では相変わらず際どい営業をしている桑景行がナンバーワンですし、『Mirror』では広陵散の生演奏が人気を博しているようです」
「我々『moonset』の調子は?」
「悪くありません。しかし我々は他の店と比べて少数精鋭です。辺沿梅兄さんの人気だけではなかなか……」
「ふん……そろそろ新しいホストを入れる時期かもしれないな」
二人はビルの裏口から店に入ろうと、人気のない細い路地に足を踏み入れる。しかし数歩進んだところで、入口を塞ぐように人が倒れていることに気が付いた。路地は明かりの数も少なく、はっきりとした様子はわからないが、背格好からして男性のようだ。晏無師が何か言う前に玉生煙が前に出る。
「なんだ、酔っぱらいか……?」
玉生煙が近寄り、男の肩を揺り動かすと、入口の人感センサーが反応しライトが点いた。晏無師は光が当たった男の顔を見て軽く眉を上げる。倒れていた男は目を閉じているが、その顔は息を飲むほどに美しかったからだ。揺すられる度に額をサラリと流れる髪、長い睫毛、整った鼻筋。意識を失っているせいでうっすらと開いた唇の形も良く、思わず触れてみたくなる。職業柄美しい男も女も見慣れているが、それでもなかなか目にできない類の美形だ。……同業者だろうか。
「他店のホストでしょうか……でもホストにしては随分と……」
玉生煙も同じことを考えていたらしく、判断に迷った顔で呟いた。男は美しいがその美しさは随分と自然で、何の飾り気もなかったからだ。パリッとした無地の白いシャツに、薄手のコート、細身のパンツというシンプルな服装。酒の匂いもしなければ装飾品の一つも身に付けていない。さらに周りを見てもまともな荷物も持っていない。およそ歓楽街には似つかわしくない姿で、全体的に禁欲的で洗練された雰囲気だ。玉生煙は念のため男のポケットを探ってみたが、武器になるような物はおろか財布すら持っていなかった。
どうやら危険がある人物ではなさそうだ。しかし害がないからと言って、別に助ける義理もない。玉生煙が「よし、捨てておこう」と判断して立ち上がると、それまで静観していた晏無師が口を開いた。
「とりあえず店の中に入れて水でも飲ませてやれ」
その言葉に、玉生煙が驚いた顔をする。
「こいつを助けるんですか?」
「助けるべきではないと?」
晏無師が聞き返す。
「だって……何者かわかりませんよ? オーナーを狙う他店のスパイかもしれません。『Albizia』の奴らがうちの店の情報を探っているようですし」
晏無師は冷ややかに笑う。
「騙そうとしているなら騙されたふりをして、逆にそいつを利用して情報を引き出してやればいい。そいつは見目がいいし、何かの役に立ちそうだとは思わないか?」
そう言うと、もう興味を失ったかのように先に店へ入っていく。玉生煙は倒れていた男を背負うと、慌ててその後を追った。
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「ん……」
控室のソファの上に寝かせられていた男の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと持ち上げられていく。現状を把握しようと瞬きを繰り返す度、長い睫毛が羽根のように揺れる。身動ぎする音を聞いて、同じ部屋の中にいた玉生煙が男の側に寄った。
「起きたか」
「ここは……?」
「ここはホストクラブ『moonset』だ」
玉生煙がそう答えると男は上半身を起こし、ソファの上で姿勢を正す。正面から見上げてくる男に、玉生煙は思わず見惚れてしまった。目を閉じていた時は人形のような冷たい美しさだったが、目を開ければ控えめながら優美で花のような艶やかさがある。
「中に運んで下さったんですね。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる男に、玉生煙は自然と好感を抱いた。ペットボトルを開けてコップに水を注ぎ、手渡してやれば男は両手でコップを受け取る。そこへ話し声を聞きつけたのか、晏無師が現れた。その瞬間、男の表情は蕾が急にパッと花開いたかのように輝いた。
「晏宗主……! 私です、沈嶠です。ようやく会えましたね……!」
沈嶠と名乗った男は立ち上がり、真っ直ぐに晏無師を見つめ眩しいほどの笑顔で微笑んだ。その横で、宗主とは何だ? と玉生煙は首を傾げる。沈嶠は興奮したように話を続けた。
「記憶が戻ってからずっと、必死であなたを探していたんです。私の方が先に逝ってしまったから年齢差も変わってしまったかもしれない、この世界にあなたはいないのかも、いや、もしかしてまだ生まれていないんじゃ……、と不安になっていたんですが、昨日ついにネットであなたのホストクラブを見つけて……! 居ても立ってもいられず着のみ着のままで飛んで来ました。でも店には入れてもらえなくて、あなたが来るまで待っていようと思ったらいつの間にか疲れて眠ってしまったみたいで」
そこまで話すと、沈嶠は懐かしむような、愛おしむような目で晏無師を見つめた。その瞳は潤み、照明が当たり輝いている。
「約束を守れなくてすみませんでした。前世では十分に生きましたが、あなたを置いて逝ったことだけが心残りで。今度こそ約束通りちゃんと私が貴方を看取りますから。今世はそのためだけに生きます」
前世とは何だ? 約束とは? こいつは何を言っているんだ? と玉生煙は更に首を傾げる。真剣な顔で話す沈嶠に対し、晏無師は不快そうに眉を顰めた。
「なぜ私が初めて会ったお前に看取られなければならんのだ」
その冷たい声を聞き、沈嶠は幾分かがっかりした様子を見せる。
「ああ、やっぱりあなたはまだ思い出していないんですね……」
「お前なんぞ知らん」
沈嶠は小さくため息を吐く。
「……あんなに『愛している』と言っていたのに。生まれ変わっても絶対にお前を追いかけるから覚悟しておけと……」
「はっ……! 私が愛だと? 人を愛したことなど一度もない」
鼻を鳴らして言い捨てた晏無師を、沈嶠は少し悲し気に見つめる。二人の間の空気を察し、玉生煙が困ったように口を開いた。
「オーナー、こいつは頭を打って記憶がおかしくなったのかもしれません……それかまだ寝ぼけているのかも」
玉生煙のその言葉に沈嶠は首を振る。
「いえ、大丈夫です。今回は頭は打っていませんし、ちゃんと記憶もありますよ。でも、確かに前回の出会いと似通った状況ですね」
そう言って口元に手を当てふふふっと笑う沈嶠を見て玉生煙は眉を顰める。今回は、とはどういう意味だ? そして前回とは……? いやいや、考える必要はない。こいつはやっぱり頭がおかしいのだろう。玉生煙は小さく首を振って沈嶠のことを見つめ、心の中で憐れんだ。顔はいいのに気の毒だ。
「オーナー、こいつをどうしましょう……捨ててきましょうか」
玉生煙がそう言うと沈嶠は少し慌てた素振りを見せる。
「それは困ります、やっと会えたんですから! 何でもするので、あなたの側にいさせてください。今度こそ約束を守りたいんです」
沈嶠の顔はいたって真剣で、嘘や演技とは思えない。しかしいきなり前世などと突拍子もないことを言われても信じられる訳もない。黙って見ている晏無師と沈嶠の間で玉生煙は視線を彷徨わせていた。
「沈嶠、と言ったな」
「はい! 以前は阿嶠と呼ばれていました」
名を呼ばれてうれしそうな沈嶠を無視してソファに近づくと、晏無師は問いかけた。
「正直に答えろ。お前の目的は何だ? 私に取り入るつもりで待ち伏せしていたようだが、目当てはこの店か?」
沈嶠は首を振る。
「違います」
「じゃあ金か?」
晏無師は脅すように沈嶠の顎をグイと持ち上げる。
「違います」
「じゃあ何だ」
「あなたです」
沈嶠は顎を捉えられたまま真っ直ぐに晏無師を見つめた。晏無師はニヤリと笑う。
「……ほう、私の身体が目当てか?」
晏無師の言葉は直接的だ。沈嶠はまた反論しようと口を開きかけたが、少し考えてから何も言わずに視線を逸らした。耳の縁ががほんのりと赤く染まっていく。晏無師は声を上げて笑う。
「なんだ、私に抱かれたくて待っていたのか? 確かに私は男も抱く。ふうん……欲など持ち合わせていなさそうな顔をして、お前は随分と淫らな男好きのようだな。相手が誰でもいいと言うなら紹介してやらんこともないぞ」
はははは、と高らかに笑い続ける晏無師を沈嶠は真っ赤な顔で睨みつけた。
「違います! 誰でもいいわけじゃない!! 前だって、あなただったから……私は……私は……!」
晏無師は鼻を鳴らし、憤慨している沈嶠を嘲るように見下した。晏無師は誰のことも信用していないし、信じるに値する人間などいないと思っている。所詮この男も他の奴らと同じだ。人間は自分の利益のためには平気で他者を騙し、踏みにじる。そして生きるために強者に取り入り、媚びへつらって自分の身さえ差し出す。
しかし睨みつける視線の強さ、怒りに震える長い睫毛、それに反して脆そうな細い身体……この意思の強そうな整った顔が自分の下で悶え泣きじゃくる所を見てみたいような気もする。晏無師は自分の唇を軽く舐め、顎を捉えていた親指を動かし、沈嶠の唇の感触を確かめた。
「……まあ、この見た目なら……一度だけなら抱いてやってもいいがな」
晏無師がそう言うと沈嶠は急に手を払いのけ、眉を寄せムッとした顔をする。
「一度だけだなんて……私がいつも言っていた台詞です。一度でやめてといっても一晩中しつこく求めてきたのはあなたの方なのに!」
晏無師は眉を上げる。
「ほう、何か勘違いしているようだな。確かにお前はまあまあ見目がいいが、美しい男も女もここには掃いて捨てるほどいる。相手に困る事などない私が、なぜお前をしつこく求める必要がある?」
沈嶠は好戦的に笑った。
「今の言葉を忘れないで下さいよ。大丈夫、必ず思い出させます。以前はあなたが私を追いかけていたように、今度は私があなたを追いかけます。必ずまた『愛している』と言わせてみせる」
二人の間にバチバチと視線の火花が散るのを見て、機嫌を損ねてはまずいと思ったのか、玉生煙がおそるおそる申し出る。
「……オーナー、つまみ出しましょうか?」
晏無師は腕を組み、顎を上げて沈嶠を見下ろした。
「まあ、いい。さっき私の側にいるためなら何でもすると言ったな? じゃあうちの店で働いてもらおうか。そして、私を惚れさせてみろ。ただし、期限は一か月だ。いいな?」
「望むところです!」
沈嶠の返事を聞き、そのまま控室から出て行こうとする晏無師を玉生煙が追いかけ、小声で話しかける。
「オーナー、いいんですか? どこの店の手先かもわからないのに」
「だからだ。騙されたふりをしてあいつを惚れさせ、うちの手駒にする。幸い見目は悪くない。先に身体から落としてもいいしな。使えなそうなら捨てるだけだ」
「なるほど……」
「玉生煙、お前が面倒をみてやれ。明日からあいつも店に出すぞ」
「承知いたしました」
玉生煙が深々とお辞儀するのを振り返りもせず、晏無師はドアを閉めた。
~続く~