Travers le Voile 如月シオンが亡くなった直後のノヴァの様子を、私はほとんど覚えていない。正確には、覚えていないわけではない。私の中に強く強く焼き付いて、フラッシュを焚きすぎた写真のように、真白く飛んでしまっている。
ノヴァの涙や慟哭、そしてそれらを隠そうとする姿勢、結局隠し切れない端々の言動。それを薄いヴェール越しに受けて、私はどうするべきなのだろうと、一歩引いた場所に立ち竦んでいた。
“普段通り”が何を指すのか――普段通りではない状況にあるとき、私は常にその問いに取り憑かれている。普段通りの私の振る舞い。それが普段の状況に即したものであるならば、その私が普段通りでない状況に置かれたとき、果たしてどんな風に振る舞うのが正解であろう。ヴェールを挟んだ私の世界。感情を露わにするノヴァの姿が、その時私を、強く強く揺さぶった。ヴェールが剥がれそうになる。私はそこから顔を背ける。
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「ヴィク~、いやぁ、色々迷惑かけちゃってごめんねぇ~」
忌引き休暇を経たノヴァは、あまりにも普段通りの様相だった。ドカリと二人掛けソファの真ん中に腰を下ろす。
「……今日から復帰でしたか」
「そうそう。まさか半月も休めるなんて思ってなくてさぁ、絶対仕事溜まっちゃってヤバいよねぇ!?」
「貴方の分の仕事は既に他の人員に割り当てられています。個人的なことは知りませんが、仕事に関してはむしろ、貴方のすることは今特にありませんよ」
「えぇっ、そうなの!? そっかぁ、それなら俺は、シオンの研究の続きでも引き継がせてもらおうかな」
うんしょ、と体勢を変えるノヴァを、思わず振り返った。ノヴァはソファに伸びたまま、ノートパソコンを膝に広げている。
「さ~てと、何だ、進捗報告から見れるんだっけな?」
「ノヴァ」
「ありゃ、そうか、これ個人の研究データの始末とか、部長権限でやんなきゃなんないのか~」
「ノヴァ」
「うわ~っ、どうしたらいいんだ~? 父さんの時は正式におれが継ぐ形だったから特に躊躇いもなかったけど、一研究者のデータを勝手に見て勝手に判断するなんて……ゴメン、シオン! 開けさせてもらうよ!」
「……ノヴァ」
立ち上がると、ノヴァはようやくこちらを向いた。
「ヴィク。……ヴィクまで、そんな態度はやめてくれよ」
「……」
「ここに来るまで皆、腫れ物に触るかのようにおれを扱うんだ。そりゃ、そうなるのもしょうがないけどさ。でもなんか疲れちゃって、ヴィクなら普段通りにしてくれるかなぁって、ここに来たんだ」
ノヴァはノートパソコンを閉じて小脇に抱え、腰を上げる。白衣には珍しく糊が効いていて、左手の薬指には指輪が嵌っていた。
「仕事中のところにごめんよ。じゃ、また何かあったら来るから~」
へらりと笑って、ラボを後にする。音を立てて自動ドアが閉まった。ノヴァの鼻歌が追いかけてくる。
私は再び椅子に腰掛けて、中途半端なところで止まっているプログラムを一旦終了させた。
何故か涙が出そうだった。
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あれからノヴァは、前にも増して私のラボへと足を運ぶようになった。ニューイヤーが一段落した今こそヒーローたちの休暇取得期間であり、皮肉なことに研究部も常にないほど安寧の日々を送っている。きっと、忙殺された方が有難いだろうに、冬の低い日差しに当たってぼんやりと過ごす時間が、有り余るほどに多かった。
「シオンはさ~、この時期が一番好きだって言ってたんだ。ほどよく仕事してほどよく遊べるって。確かに一番暇が多い時期だから、それでこの時期に入籍しようとしてたんだよね」
芳しい香りが立ち上ってきて、私はカップを温める湯を零した。ゆっくりと飲めるように、このところはエスプレッソではなくドリップコーヒーを淹れる機会が多い。頂き物の質の高いブレンドも、ノヴァの菓子に合わせられるのはやぶさかでないだろう。トレーに乗せて運べば、持参したクッキーを摘まんでいたノヴァは、嬉々としてカップに手をつけた。
「やっぱり、ヴィクの淹れるコーヒーは格別だねぇ」
「淹れたのは私ではなく機械です。それに、買ったそのままの機能では足りないと、貴方が改造してくれたじゃありませんか」
「あぁ、そうだったそうだった。ポップコーンパーティーの人数分一度に淹れられるようにしたり、濃さを変えられるようにしたりね」
いつからか、ポップコーンパーティーの人数が一人増えた。私は居たり居なかったりであったが、ノヴァは必ず声を掛けた。参加すれば喜んだし、参加しなければ悲しんだ。
私は、ノヴァと彼女の仲がどのように深まっていったのか、詳しくは何も知らない。オズワルドの研究を引き継ぎ、それに没頭してからは、感情の起伏を避けられないことには出来る限り関わらないよう努めてきた。ノヴァと彼女が恋愛関係であると聞いた時にも、婚約をしたと聞いた時にも、驚かなかったと言ったら嘘になる。だが、驚いて、そして何かしら別の感情を抱いたということを認めないように、私はヴェール越しに、努めて普段通りの受け答えを行った。
「ねぇ、俺さぁ、ちょっと太ったと思わない?」
「……そうでしょうか? どちらかと言えば、憔悴した分瘦せたかと思いましたが」
「あ、そう? ならプラマイゼロってことかぁ。いやね、こうしてお菓子作りをしてても、シオンの分まで作るのに慣れちゃっててさ。マリオンやジャックたちにも食べさせてるけど、結局俺が二人分食べてるから、太ったかなぁと思ってさ」
分かっているなら、一人分減らせば済むことでしょう。そう言おうとして、だが言っていいものか分からずに、私はコーヒーを啜った。その間に巡らせた思考は明確な一つの答えを導き出すことはなく、結局私は口を開いた。
「分かっているなら、一人分減らせば済むことでしょう」
「分かってるんだよぉ~……でも今日はもう作っちゃったからさ、ほらヴィクも、食べて食べて」
ノヴァは嬉しそうにクッキーを押し付けてくる。どうやら正解だったらしい。私はそっとため息をついて、几帳面に厚みの揃ったクッキーを口に入れた。
⁂
その日持ち込まれた良質かつ強大な力を秘めたサブスタンスの検証には、想定以上に時間を要し、ようやく保存できる状態になった時には既に夜明けが近かった。
「あ~っ、やっっと終わったぁ……!」
「お疲れ様です。手間はかかりましたが、良い収穫がありましたね」
夜更けにノヴァに泣きつかれてから数時間。二人で随分と没頭していたため、そんなに経過しているとは思いもよらなかった。事実を確認しただけで急に身体が重さを覚える。ノヴァは普段通り、ごろりと床に寝そべった。
「ほら、ベッドに行ってください。ここしばらくはきちんと睡眠を摂っていたんでしょう? 習慣づけたほうが貴方の為です」
「この達成感と床の冷たさのハーモニーがいいんだよ。あ~あぁ」
だらしない声を上げて床を転がる、ノヴァは何も変わっていない。私はコーヒーを淹れようと、ノヴァに背を向けてコンロへ向かおうとした。
「あぁ……おれも一緒に死んじゃえばよかった……」
耳が拾ったその音列。あまりにも普段通りの声音だというのに、聞き過ごせやしないその言葉。勢いよく振り返ると、ノヴァは仰向けに寝転がり、その目元を両手で覆っていた。
「ノヴァ」
「別に、本気でそう思ってるわけじゃないよ。でも、ふとした瞬間に考えるんだ。おれは、シオンのいない現実を、普段通りに生きようとしている。でもふとした瞬間、シオンがいないと気付いたときに、俺はやっぱり……」
手の隙間から瞳が覗く。涙は浮いていないが、ひどく曇り、光のない瞳だった。
急に私は、ノヴァの姿がよく見えるようになった気がした。ヴェールを脱いで、視界がクリアになったような気がした。
そんなノヴァに、私は直接言葉を投げる。ごく自然に、そうすることが普通だと思った。
「忘れましょう」
「忘れられないよ」
「忘れずに生きてはいけないんでしょう?」
ただ純粋に、心の底からそう思った。オズワルドなら、感情なく考えるならと、その前提は今はない。ただ純粋に、私自身が、そう思っていた。
「忘れずに生きていきたい。でもそれが、できないかもしれない」
「では忘れる方が先でしょう。何故死ぬ方を選ぶのです」
「ヴィクも、本当に大切な人が死んだら分かるよ」
そう言われて、口を噤んだ。立て続けに交わされていた言葉が途絶えて、ノヴァははっとしたように上体を起こした。
「っごめ……、ごめん、今のは、」
「いえ……」
ノヴァは起き上がっだけで何も言わず、結局また顔を覆った。
「……私の大切な人は皆既に亡くなっています。父も母も、オズワルドも……。いずれも、悲しくもありませんでしたし、涙も出ませんでしたし、忘れるくらいなら死のうと思ったこともありませんよ」
私はノヴァの隣に立って、心無い、慰めのような形をしたものを投げ掛けた。ぼんやりとその姿を見下す。肩を震わせるノヴァの姿が、一枚の布と薄いガラスを越して、遠く遠くにあるように思える。
ノヴァの露な感情や言葉が、私のヴェールを靡かせる。
だが、ノヴァが感じていることの本質は、きっと理解しようとしてもできないものであろう。
私がそれを理解できるときが来るとすれば、それはノヴァが死んだときであるかもしれないと、私は思った。
Travers le Voile fin.